大林宣彦 監督『転校生』
オレのおっぱい
アタシのおちんちん
189時限目◎映画
堀間ロクなな
こうした映画はもう二度とつくれないのではないか? 今年(2020年)4月に長い闘病生活を経て世を去った大林宣彦監督が、生まれ故郷の広島県尾道市へのノスタルジアを込めて制作した青春ドラマ『転校生』(1982年)だ。もぎたての果実のよう、とはいかにも月並みな表現だけれど、ついそんな形容をしたくなるほどスクリーンに横溢するみずみずしさは、現在見返しても少しも色褪せることがない。
もっとも、わたしが再現の不可能性を言うのはそのへんが理由ではない。先日テレビを見ていたらいきなり、日本では10人に1人がLGBTであるとのナレーションが流れて虚を突かれた。レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーなどの性的少数者の割合が10%とは! これは日本の総人口に対して東京都の人口が占める割合に匹敵するわけで、昨今さかんに性的多様性の社会的な受容が主張されてムーヴメントとなっているのも、なるほど、これだけのヴォリュームが背景にあってのことなのだといまさらながら蒙を啓かれる思いがした。
そうした認識に立つと、この『転校生』はいまや危険思想の代物と見なせるかもしれない。だって、思春期の男の子と女の子を主役として、男の子は男の子であり、女の子は女の子である、という大前提に立ってドラマが組み立てられているのだから。
尾道市の中学校に通う斉藤一夫(尾美としのり)のクラスへ、ある日、幼馴染みの斉藤一美(小林聡美)が転校生としてやってくる。名前からして「双生児」のイメージがあるふたりは、放課後の帰宅途中、ひょんな弾みでもつれあって神社の石段を転げ落ち、それがきっかけで中身が入れ替わってしまい、やむなく一夫は一美のからだで、一美は一夫のからだで新たな生活をはじめる羽目になる。もちろんのこと、おたがい最初に関心を向けるのは未知なる異性の性器であり、一夫はブラジャーの下のおっぱいをつかんで悲鳴をあげ、一美はトイレでおちんちんに触れて形が変わったのにおののく。かくして、ふたりはいつまでも相手のからだを受け入れることができない。
……といった具合に話が運んでいくのだから、性的多様性の受容を推進する立場からは真逆のベクトルと言わざるをえないだろう。それだけに、この映画には見落とすわけにはいかない重大な問題提起がなされていると思う。
哺乳類のひとりとしてわたしなりに理解するところでは、だれだっておのれのなかに男と女の双方の性を持っているにもかかわらず、一方には生殖を行うためのセックスの面から、もう一方には(NHK『紅白歌合戦』に象徴されるように)社会を秩序化するためのジェンダーの面から、なかば強引に肉体と見合う性のほうに引き寄せているというのが実情ではないか。したがって、たとえLGBT以外の90%の人々にしたところで、必ずしもみずからのセクシュアリティに安住しているわけではなく、大なり小なり、男が男を演じること、女が女を演じることの重圧を負っているはずだ。
ひっきょう、この映画が一夫と一美を実験台として提示してみせたのは、そうした当たり前の性が決して当たり前ではなく、とくに思春期の世代にとっては、それをわがものにするのがどれほど困難かという主題だった。ふたりはひと夏のあいだ入れ替わったままで過ごし、さんざん家庭や学校でドタバタ劇を演じたのち、ふたたび神社の石段を転げ落ちて双方が自分のからだを取り戻したとたん、もとの男の子であり、女の子であることに歓喜する。ラストシーンでは、一夫の一家が東京へと引っ越す日、ふたりは手を振りあってそれぞれに口にする。
「さよなら、アタシ」
「さよなら、オレ」
それは自分が一時所有していた肉体とともに、思春期への訣別の辞でもあったろう。かれらはこれからいっそう性の重圧を負っていかなければならないのだから。
むしろ、とわたしは夢想してみる。少子高齢化の現代では、たとえば老人ホームを舞台として、そうした性の重圧から解放され、もはやおっぱいもおちんちんもすっかり落ち着いた世代の男と女の中身が入れ替わるといった設定のほうが、アクチュアルな映画をつくれるような気がするのだが、どうだろう?