〈寺院紹介〉勝念寺
鹿児島市星ヶ峯2丁目38-21
当寺開基の椎原哲則は、明治40年3月30日、川辺郡勝目村中山田の椎原国義の四男として生まれた。哲則は、はじめ大谷派の僧として出家得度したが、昭和12年5月に興正派に転派し、別院をはじめ頴娃の青戸説教所、川辺の田部田説教所を経て、昭和16年から川辺の高田説教所に駐在教師として勤めていた。哲則はかねてから生まれ故郷の勝目に寺院建立を願っており、高田説教所の法務を勤めるかたわら、その準備を着々と進めていた。
一方、教区内に於いては、寺号公称の申請の寺が相次ぐ中であり、たとえ寺は建立されていなくとも、じきに建立の予定であるなら、一緒に寺号公称の申請をするよう、時の教区総務であった吹上町中之里の厳浄寺住職山崎良信のすすめもあり、昭和22年7月22日上山し、28日「勝念寺」の寺号公称がなったのである。勝念寺の大キンはその上山の折り、哲則が購入したものであり、その喜びが如何に大きかったかが想像される。
その後も寺院建立の準備は進み、いよいよ地開きの日取りも決まったのである。ところが翌日の昭和22年12月20日、突然にして病に倒れたのである。そして2日後の12月22日、勝念寺の建立を診ることなく42歳をもって急逝したのである。
哲則の逝去により折角の地開きも取りやめとなった。しかし、坊守の椎原タエは、夫の念願であった寺院建立を引き継き、ときの総代の椎原喜東彌・椎原哲彦の協力を得て、昭和23年2月本堂を起工した。一方タエは総務の山崎良信の引率のもと後住予定の椎原義勝と共に上山し、共に得度したのである。そして哲則の百ヶ日をすませた後、落成した勝念寺に入った。
昭和24年4月10日、高田の信行寺に本山御使僧として来寺された高岡正顕をはじめ、時の鹿児島別院の田宮宗朝輪番の他、厳浄寺山崎良信・興隆寺の早川隆雄・信行寺の伊沢順猛・光明寺の香西圓量の法中をお迎えして御本尊(絵像)の入仏式法要を盛大に厳修した。