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真宗興正派鹿児島教区

〈寺院紹介〉広昌寺

2020.06.19 08:27

宮崎県都城市蔵原町10街区30号

℡ 0986-22-3576


 <開基住職・幡 智吼>

 明治43年に幡智吼は、鹿児島へ35歳の若さで本山使僧を拝命、布教師として在鹿。

 その後、ひとたび本山に帰るや、本常上人に宮崎県下に興正派が一ケ寺もない、是非開教をと上請。すでに霊山別院にあった専正学寮の監督兼教師として宗意安心を講じていた幡智吼の開教にかける情熱に、本常上人は、鹿児島開教に生命をかけた父・本寂上人の分骨と、輪袈裟を与えて「タノムゾ!」の力強い一言をそえて送り出したのであった。

 初め、川辺郡高田を根拠として布教に専念。以後明治44年に曽於郡恒吉村の興正寺説教所に常勤し、この間、宮崎の西岳に出来た同行10人を手がかりとして西岳村に開教着手、大正3年宮崎県に興正派一ケ寺もない為、宮崎県開教主任となり、同年5月、都城町牟田町に興正寺派仮説教所を設立するまでに至った。

 これと同時に、西岳説教所を開設し、開教に努む。都城には、数千の門徒を有する東西の末寺があり、辛苦筆舌に絶するものありたるも、大正5年9月、真宗興正派寺院公設後援会の発足を見るに至る。会員は鹿児島県川辺の出身者なり。

 

 <本堂竣工・入仏>

 大正6年1月、大谷派願蔵寺移転の跡を買収し、大正6年8月、先ず本堂竣工、翌7年4月本尊(人柱と一緒に埋葬した松の芯を彫刻した本尊)一躯、天牌一基を本山より拝受。

 同7年12月庫裡古家を買い取り改築する。根をおろした東西の末寺に挟まっての開教は、豆腐も買えず、オカラを以て飢えを凌いだという。

 一方、幡智吼は、この苦労の中、聖教を繙く手はゆるめることなく、辺地での独学の苦をなめつつも研鑽を積み上げ、得業・助教・輔教と、ついには昭和2年に司教の最高学階が授与されるに至ったのである。

 昭和3年には、本山安居に於いて、本寂上人の『破邪顕正』のご消息を講じ、後に『破邪顕正御消息奉載録』を出版し、自らは「本典の再研究」に生涯をかけたのでありその功績は長く宗上に特筆すべきものである。

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