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日本人

2020.06.20 13:17

https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20200324-00169390/?fbclid=IwAR2v53YoyG-EQUXJtxtIrJLEMA2-hGmquXzO5qogGjyfFC2BbvF5noJ_fm4

【この国の気持ち悪さの正体-潔癖社会と日本人(前)-倉田真由美(漫画家)×古谷経衡(文筆家/評論家)】

潔癖社会―人間の過ちを許さず、人間や社会の姿に完璧を求める風潮。不道徳への過度な糾弾。身体的健康への過度な信仰と礼賛…。本来指弾されるべき社会的不正義は置き去りにされ、”どうでもよい””些末な”事象だけがクローズアップされ、石礫を投げられる社会。不倫へのバッシング、自己責任の大合唱、愚行権への干渉…。いつから日本と日本人はこんなに気持ち悪くなったのか。時代を斬る対談1万5000文字(前編)。倉田真由美(くらた まゆみ)

1971年福岡県生まれ。一橋大学商学部卒。代表作に『だめんず・うぉ~か~』(扶桑社)、『もんぺ町ヨメトメうぉ~ず』(小学館)、『婚活迷宮の女たち』(ダイヤモンド社)など多数。

古谷経衡(ふるや つねひら)

1982年北海道生まれ。立命館大学文学部卒。代表作に『愛国商売』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)など多数。

倉田氏と筆者

・不道徳を恣意的に叩く社会

古谷:芸能人の不倫がワイドショーを騒がせ、その芸能人の人生を根こそぎ奪う。視聴者はそれを見て喝采を上げ、留飲を下げる。攻撃の対象はまた次の人物へ…。ハッキリ言って今の日本の状況は異常だと思いますが、この状況をどうご覧になっていますか。

倉田:そもそも不倫を叩くというのは大変下品なことだと思います。不倫って民事案件じゃないですか。犯罪ではない。少なくとも刑事事件じゃない事案が起こった時に、まるで水に落ちた犬を喜んで叩くみたいな風潮があります。

古谷:ありますね。

倉田:しかも、テレビ的に叩きやすい人と叩きにくい人がいる訳です。要するに攻撃基準に恣意性があるわけです。Aさんは周りからも結構人望があったり、そして視聴者も「あの人は好きだった」みたいな人が多いと、叩かれない。「愛嬌がある」みたく笑い話になってしまう。一方でBさんは同じ不倫をしていても何となくイメージが悪いから徹底的に叩かれる。CMも全部降板。関係企業のHPからも一斉に写影が削除される。そして「私は絶対に許さない」みたいなことをコメンテーターが代弁する。この差は何なんだという話。

古谷:確かに。

倉田:最終的にはみんな何で叩いているかを忘れていない?というところにまで行きつく。でも、それぐらい叩きやすい、叩きにくい、という恣意性はある。最近話題になった大物女優と夫側の不倫事例なんて、夫側をめちゃくちゃ叩きやすい事案なわけですね。それをバンバン叩く世の中というのは好きか嫌いかで言うと、好きではない。

古谷:私も大嫌いですね。

倉田:はっきり言って恋愛なんて、超フリーダムでいいと思っているから。

古谷:というか、それが近代社会における自由恋愛と言うんじゃないんですか。

倉田:ですよね。みんなこういった息苦しい風潮を気持ちが悪いと思っている。確かにそう思っている人はいっぱいいるけれども、世間がこういっているよ…、という。その潮流を読むとなかなか「でもさ…」みたいな反論を言いづらい世の中ですよね。「でもさ…」というのを私は認められるというか、そういう人たちも戦うことができる世の中だったらいいと思います。

古谷:いわゆるハリウッドとかのセレブで「不倫をしていました」という事実で芸能界から抹殺の憂き目にあうという件は寡聞にして聞きませんからね。日本特有の現象でしょうかね。

倉田:そこまでの話は(海外では)なかなかないでしょうね。

古谷:O・J・シンプソンみたいな、元奥さんを殺害しましたと。それは大スキャンダルになってカーチェイスになって全米が大騒ぎになるのは仕方ないです。でもそれはO・Jが元奥さんらを射殺したという犯罪があったからで、不倫がどうのこうのという話では無かった(*O・J・シンプソン事件1994年=元アメフト選手で俳優でもあったO・Jは元妻とその知人男性を射殺した容疑で逮捕・起訴されたが、刑事事件では無罪。民事では殺人を認定された)。

倉田:例えばアンジェリーナ・ジョリーだって略奪婚(*ジェニファー・アニストンからブラッド・ピットを略奪)ですしね。

古谷:世界的に有名な話ですよね。アンジーはハリウッドを追放になるどころか、有力映画に出続けてUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の親善大使までやっている。犯罪ではない民事の分野で不倫をしたからと言って、それは国際基準では私的(プライベート)な範囲のもの。作品や出演CMや広告が削除されるという事態になることは無い。

倉田:そんな民事のもめごとは当事者同士で決めるものです。

・不倫は女性側が叩かれる

古谷:こういった過剰な、宗教的とも思える不倫叩きで思い出しましたのは、インドネシア共和国・スマトラ島の一番北に存在するアチェ州(アチェ特別州、以下アチェ)の事例です。インドネシアは世界最大の世俗的イスラーム国家ですが、アチェだけはジャカルタの中央政府から一定の距離があり、ここだけ厳格なイスラム法の施行が許されている、いわばインドネシアの治外法権みたいな立ち位置なんですね。で、当然厳格なイスラム法を施行しているので、男女が不倫をした場合、女の人が不倫の罰としてむち打ちされる例があるのです。これが流石に人権問題という事で、(インドネシアの)ジョコ大統領が「やめろ」と一応言っているのですが、強い自治権があるから中央政府もコントロールに苦しんでいる(*インドネシアは16Cからジャワを中心としてオランダ海上帝国の植民地下にあったが、各地に王国が存在し、実際には20世紀初頭までオランダの完全支配が生き渡らなかった。アチェのイスラーム化は、このようにオランダの完全な支配下の間隙の中で近代にいたるまでに定着した)。

倉田:やめないようですね。アチェの事例では、むち打たれているのは女性側だけですか?

古谷:男性の場合もあるし、カップルに対して行う場合もあるようですが、報道によると女性側が比較的目立ちます。(参考記事)

倉田:そういうことがまだあるのですね。

古谷:少なくとも東アジアではアチェだけだと思いますが、まだあるんですよね。しかし私たち日本人も、これを他岸の火事であるとか、言っていられない状況になってきているのではないか。実のところ極めて日本社会も、このアチェに似ているんじゃないんですかと思うのですが。

倉田:確かにむち打ちほどではないにしろ、事実上そうですね。不倫については、男女がW不倫をした場合は、たいてい女側のほうが罪が重くなっていると思います。先に述べた大物女優と夫側の不倫はW不倫ではないものの、夫側はCM降板などの影響はあれどドラマには出続けていた。しかし、相手側のKさんという若い女優は、完全に芸能界から抹殺されるような状況になって、不倫騒動が勃発してからすぐ自身のインスタグラムも何もかも削除されてしまった。

古谷:これは要するに、ある種イスラム法における男尊女卑に近いんじゃないでしょうかね。しかしイスラム法の中では、これは男尊女卑じゃなくて「女性の保護だ」と言っているのですが、一般的な西側から見たら女性の側ばかりにムチ打ちするのは男尊女卑じゃないですか。でも、日本もこれと構造的には似ているのではないですか?目を南アジアや中東に転じますと、旧タリバン支配地(アフガニスタン)や旧ISIS支配地(シリア等)でも(彼らいわく)「厳格なイスラム法」が施行され、占領中に女性に対して同じようなことが起こったと聞いています。でもそれって今の日本の状態と同じではないけれども相似形じゃないか。よく韓国の民度がどうの、と言えるなと。

倉田:ほんと、そう思います。特に私はやっぱり女だからすごくそう思います。自民党の杉田水脈代議士による、ジャーナリストの伊藤詩織さんに対する侮辱的な発言とか。女性側から女性の人権を蹂躙する動きが起こっています。

古谷:あれは侮辱以外何ものでもないですね。

・「名誉男性」とは何か

イメージ(フォトAC)

倉田:右派には昔から「短いスカートを穿いて痴漢をされたら、その女の人もちょっと落ち度がある」みたいな言説があったわけです。そういうことを言うのは実は右派のゴリゴリおじさんではなくて、女の中にも結構いたのです。「名誉男性」みたいになりたがる女性です。「名誉男性」というのは、性別は女性なんだけど、男権に媚びて右派のおっさんと同じことを言って、男性に認められようとする女性の事です。

古谷:それは右翼にいっぱいいますね。右派・保守の爺に媚びて、忠誠を誓って、いつのまにか右のおっさんよりも過激な男尊女卑論をぶつようになる。まさにおっしゃる通り「名誉男性」ですね。「過剰同化」の典型です。男性権力者に認められたいので過剰に男性側の論調に同化する。ただし単に同化しただけでは目立たないから、より強い男尊女卑論を女性の方から唱えるようになる。

倉田:女は女らしく、男は男らしくみたいな。

古谷:そうです(笑)。そういう人たちが一番不倫をやっているのですけどね。

倉田:彼らにしたら、たぶんそういう不倫はオッケーなんですよね。

古谷:そう。自分は「純真潔白な大和撫子でござい」とか言っているけれども、自分自身が不倫している。堂々と不倫しています。

倉田:しかし、それは彼らだけの問題で、第三者が勝手に忖度して、妻の側の気持ちとか夫側の気持ちとかを代弁するのはおかしい。

古谷:全くそうです。

倉田:実は、配偶者の不倫に関して何にも思わない人もいるわけですよ、世の中には。それなのに不倫をされた側を勝手に「かわいそう」認定するのも実はおこがましいしのです。

古谷:気持ちが悪い固定観念ですね。

倉田:そういうのこそ本当に大きなお世話ではないですか。

古谷:大きなお世話なのですけど、テレビでは不倫被害者を取材もなしに勝手に代弁して「かわいそう」「こんなのは許せない」とやっているんですが滑稽でなりません。で、叩きやすい方、特に女性の方なんかを徹底的に悪く言って抹殺するのですよね。21世紀の現在、一応日本は民主主義体制を護持した先進国となっていますが、実際には市井の人々の意識の中に、イスラム法下のアチェみたいなものが底流にあって、人々はそういった「野蛮な」自意識について、疑問に思わないのかなと思って仕方がないのです。

倉田:疑問に思っている人はいっぱいいるでしょう。だから例えば男女別姓にしても、今やっと少し議論が進むかな、ぐらいにはなってきましたよね。

古谷:確かに。

・男性医師すらも「男尊女卑」

倉田:本当にそういった封建的な男尊女卑みたいなものを変えていくのであれば、変わっていかなければいけないことはたくさんある。ただ、今日も実は現役のお医者さんに会ったんですよ。そこで少し時事についてお話をしたんです。東京医大で女子受験者に最初からマイナス得点を付けていた事実が明るみになり、大きな問題になりましたよね。聖マリアンナ医大に至っては、女子受験者だけ180点満点でマイナス80点していた。180点満点だよ。ただ「女だ」というだけで、マイナス80点スタート。

古谷:とんでもないですね。

倉田:とんでもないでしょ。この問題は最初、2015年ぐらいはマイナス18点だったのが、それでも女が入りすぎるから、もう少し増やしましょうとマイナス20ぐらいに調整した。しかしまだ女が入りすぎるからマイナス60にする。それでもまだ女が多いからマイナス80になったのです、2018年に。

古谷:…(絶句)。

倉田:この問題について、私は現場の男性医師にこのことの是非を何回か聞いているのです。会えるチャンスがあればですが。この問題についてどう思いますかと。今のところ、医師はみんな肯定的なのです。確かにあのマイナス得点というやり方はまずいという認識はある。しかし、まずいんだけれども、でも、現場に女の人が増えすぎることはやっぱり問題だ、という風に男性医師はいうのです。

古谷:いったい何が悪いのですか。

倉田:彼らは、医療現場では女が増えると大変である…もっといろんな大変なことが起こってしまうということを言うのです。今まで私が聞いた人はみんな言うのです。例えばね、出産とか子育てとかで女の人はあまり長く病院にいられないとか。夜中の緊急外来とかで乳幼児持ちの女医を呼びにくいというか、現実的には呼べないと。そういうこともあって男の医師のほうが使えると。みんなそう言うわけです。現場にいる男性医師がです。彼らはすごく頭もいいはずだし、いろいろ民主的な物事の構造を分かっているはずなのに、でも何の疑いもなく、「男のほうが使えるんですよね」みたいなことを言ってのける。

古谷:端的に危険な発想ですね。

倉田:危険です。「夜中の救急外来で女医が呼びにくい問題」にしても、本当は個人差の問題だし、子どもがいくらちっちゃくたって、生まれたその日とかでなければ、実は駆けつけることはできるわけですよね。

古谷:物理的に可能ですよね。それをいったら、男だって本当はいろいろな個人差で呼びにくいやつ、使いにくいやつはいるはずでしょうが、そこはブラインドスポットになっていますよね。

倉田:夜勤は男の人でないと、とか緊急外来は男の人でないと、とか。それはちょっと今までの固い頭がそのままなのかなという、そのあたりからからほぐしていかないと。

古谷:日本人の民主的な自意識が非常に低い状況に当惑しています。例えばマクロン大統領に対する苛烈なデモがフランスでありましたが、マクロン政権はどちらかと言うとリベラルですよね。

倉田:そうですよね。

古谷:社会福祉を充実させようという方針を貫徹するために、増税をやりましたでしょ。そうしたら、市民から火炎瓶を投げつけられた、と。それが全部良いとは言わないけれども、普通の民主主義国であれば、そういったリベラルの言う大きな政府論の名のもとに実行された増税(再分配)であっても、少しでも不平等だと感じたら火炎瓶を投げつけられるわけです。民主的自意識の根源は不平等への怒りです。それで言えば、聖マリアンナ大学のマイナス80点問題とか、火炎瓶どころか装甲車両突入でもおかしくはない。大学自体が即廃校になってもおかしくはないケース。

倉田:くだんの大学に、例えば何回かチャレンジして落ちて医者になることをあきらめた女性たちがいっぱいいるわけですよね。彼女たちは人生を狂わされているわけよですよね。もう、そんなものは大暴動が起きてもおかしくはない。

古谷:大暴動、大弁護団を結成して大訴訟ですよ。

倉田:報道によると、受験料プラス少しのお金を返しますとか、その程度の女子受験者への補償しか発表していなかったと思います。

古谷:ほかの大学を併願して受かってしまったから「もういいや」と思っている受験生もいるでしょうけれどもね。

倉田:いるでしょうけどね。

古谷:でも、そんなことでは全く免責にはならない。

倉田:そういうことじゃない。

古谷:過酷な不平等の前には黙りこくり、抵抗一つせず、犯罪ではない不倫事案を叩いて大はしゃぎしている日本社会がそろそろ恐ろしくなってきました。

倉田:人を叩いているときの自分がどんな顔をしているか、考えてほしいものです。(後編に続く)

https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20200325-00169396/

【この国の気持ち悪さの正体-潔癖社会と日本人(後)-倉田真由美(漫画家)×古谷経衡(文筆家/評論家)】

民主的自意識も比例して零落するニッポン

古谷:私は子どもの頃、―90年代中盤ぐらいまでですが、日本はアジアで一番進んでいる大国だと思っていました。実際統計上そうだったじゃないですか。GNP(当時)にしても一人当たりGNPにしても。

倉田:そうでした。

古谷:一人頭GNPで言えば、アジアでは日本が約3万ドル。次がシンガポールの2万ドルぐらい。あとは全部比較にもならないほど貧乏。経済力もアメリカの次点だった訳ですよね。実際「経済大国」とか自画自賛してGNPで世界2位だったわけですから。それが2000年代になってみるみると落ちていきました。まず一人頭GDPでシンガポールと香港に抜かれる。次いで北欧と豪州に抜かれる。最終的には米英独仏に抜かれる。いま、G7で日本より下なのはかろうじてイタリアくらい。あっという間にジャパンアズナンバーワンから6/7位ですよ。しかも問題なのは経済力の後退だけではない。人権意識も比例して停滞しているような気がするのですがいかがでしょうか。

倉田:人権意識。確かにそうですね。

古谷:去年(*2019年、蔡英文政権下)アジアで初めて同性婚法案ができたのは台湾じゃないですか。私は日本でできると思っていたんです。なぜなら繰り返すように、私は子供のころ、日本がアジアで最も進んだ大国だと思っていたからです。日本が経済で一番進んでいるということは、人権意識も比例して進んでいるのである、と。だからLGBTの分野でも日本がアジアで最も先駆けて寛容な社会になるに違いないと。そうなるはずだと思っていたら、あっという間に台湾のほうが進んでいます。

倉田:残念ながらそうですね。

古谷:日本ではアイヌ民族は居ない、アイヌはそもそも先住民族ではない、などという歴史修正主義やトンデモ論がまかり通っていて、政府がアイヌ政策に対してパブリックコメントを募集したら、ネット右翼から大量に「アイヌは存在しない」「アイヌは先住民族ではない」という差別抗議が来たという事で問題になりました。台湾の蔡英文政権は高砂族などの先住民族に対して、先住性を認め、更に台湾総統として過去に蔑視政策が存在したことをも認め、公式に謝罪をしています。あと、蔡英文も支持母体の民進党もハッキリと「脱原発」を掲げ、「台湾では原発やめます」と言っているわけです。ところが日本の右翼とか保守派が勘違いして蔡英文再選(2020年)で勝手連的に応援に行って台北で大はしゃぎしたわけですが、蔡英文と民進党は日本の右翼とは政策が180度違うリベラルなんですね。間違っても「LGBTに生産性はない」とか言う人たちではない。なんかもう、この20年で日本国家の経済も人心も後退して幼稚化して堕落してしまった感じ。その代わり前編でも述べましたように、妙な感じの、いわゆるイスラム法みたいな男尊女卑的道徳意識(当のイスラム法は女性の保護を謳っている)が跋扈している。要するに道徳的潔癖ですよ。叩きやすい不道徳や汚物を徹底的に叩く、というふうに向かっていると思うんです。

・跋扈する自己責任論、生活保護バッシング

倉田:そう。叩きやすいやつを叩きます。あと、例えば貧困からはい上がれない人に対して自己責任という言葉は2000年代ぐらいに突如として流行りましたよね。

古谷:あれは、小泉政権のときに起こったイラクにおける、日本人3人人質事件(*2004年4月)の中から起こってきた議論ですね。

倉田:そうか、あれのときですね。

古谷:はい。

倉田:あの時代に突如、すごく世間が「自己責任」を言うようになったけれども、現在ではそれを飛び越えて、そういう「自己責任」に対する疑問もなくなって、「自己責任」が自明の事、当たり前のこととして受容している人が多くなっている。自分もその貧困の一員なのに、それは仕方のないことなんだ、というふうに考えている。自身が貧困線にいるのに、「甘えるな」みたいなことを自分で自分に言い聞かせるわけですね。

古谷:いわゆる「貧困は甘え」論ですね。

倉田:そうそう。少し前の話題になりますが、堀江貴文氏(ホリエモン)の話です。とある会社に勤めている人がずっと月収が14万円のままである―、と。その状態が何年も継続している。それで日本が終わっているみたいなことを言ったときに、堀江氏がそれに対して「日本が終わっているんじゃなくて、おまえが終わっているんだよ」と言ったのです。そのことが記事になっていたのです。そこで、その記事を読んでいる読者のコメント欄を参照してみたのです。案の定「日本ではなくお前(自分)が終わっている」といって堀江氏に大挙同調しているわけです。でも、現実社会にも近い考え方を結構いっぱい思っている人がいるのです。いわゆる新自由主義的な発想というか。結局、自己責任でチャンスをつかめない方が悪い。成功しないお前が悪い、お前の努力が足りないだけ。みたいな。しかし世の中にはチャンスをつかみたくともつかめない構造の中にいる人は大勢いるのです。

古谷:いつも思うのですが、社会には個人の能力や実力を生かす無限のチャンスが転がっており、自分の貧困や苦労は社会のせいではなく、単にそのチャンスをつかまない自分自身の怠惰である、みたいなことを言う人に言いたいのです。じゃあ、あなたが1930年代にドイツやポーランドでユダヤ人に生まれたら同じことが言えますか、と。そう思いませんか?

倉田:なるほどね。しかし、たぶんそういうことを言っても、彼らは「いや、でも今は現代の日本だから(状況が違う)」と言って返すでしょう。でも、本当に社会のせいで這い上がれない人はいるのです。本当にどうしたってままならないという人もいる。そういうことに対して実に思いやりがないというか、自分も犠牲者の側なのに、そのことに気付かないままでいたりするとがとても怖い。でも、そういうことを言っても同意してくれる人は少ないなと、思ってしまう。

古谷:少なくなっていくかもしれませんね。

倉田:だってやっぱり耳障りがいいでしょう。そうやって継続して勝利してきた人の言葉は。しかし勝者が居るという事は敗者が居るという事でもあるし、努力しても全員が勝利するわけではない。そのあたりに思い至らない世の中は嫌だし、そういう社会の仕組みそのものにも問題があるんだということをみんなもう少し考えてほしい。自分1人が勝ち上がることに注力しすぎる風潮がありますよね。近年とみに強くなっていると思います。

古谷:やっぱり生活保護というのは甘えだとか、欲張りだとかという理屈もそのあたりから発生しているんでしょう。そもそも生活保護は国民固有の権利なので。憲法に書いてある生存権なので、何でそれを主張することが甘えなのか私は理解できませんけど。

倉田:本当に、生活保護受給も裏でやっぱりズルをしている、自分の払った税金をタダで持っていっている、ぐらいに思っている人がいるんですよね。

古谷:確かに不正受給をしている人はいますが、率で言ったら、ゼロ・コンマ何パーセント。

倉田:ほんと、そうですよね。

古谷:不正受給者はいます。ゼロとは言わない。しかし繰り返すように生活保護受給そのものが生存権なので。生きる権利なので。それは日本国民である以上は生活保護を受ける権利があるし、在日外国人も準拠しますというのも「国からカネを貰っている」とかじゃなく、受け取る権利を行使しているだけですからね。でもこれも、要するに叩きやすい構造の中に内包されている訳ですよね。生活保護受給者は何かと弱い立場ですから、叩きやすいわけです。だからお笑い芸人の河本準一さんの母親の不正受給問題とか、自民党の片山さつき議員を筆頭に「国民総バッシング状態」だったのです。でももっと巨大な税金を湯水のごとく使っている在日米軍への「思いやり予算」の無駄とか不備についてはダンマリ。攻撃の基準が訳の分からないものなんですよ。

倉田:その瞬間、瞬間のね。

古谷:そうです。怖いですね。

倉田:怖いです。単発的な「正義」は。だから一本筋が通っていないので、Aの不倫は許さないけれども、Bのケースでは許すと。そういうことになる。

・行き過ぎた嫌煙運動

イメージ(フォトAC)

古谷:全く異常です。まさに恣意的に攻撃基準が選定され、叩きやすいところを一斉に叩いてつぶして、粉みじんにするまで許さない。で、粉みじんになったらまたバッタの大群のように次の獲物を求めて移動する。民間だけではなく、役人もこういった風潮に追従していると思いませんか。顕著なのはタバコだと思うんですよ。

倉田:タバコは叩きやすいと思います。でも、法律で喫煙は禁止されていないですよね。

古谷:もちろんそうです。喫煙は自由権の範疇だから。

倉田:そうなの。でも、今すごく変なことになっていますよね。法律で規制されたり、禁止されていないのに、「でもこれは駄目」とか。一回じかに目撃したことがあるんですが、あるお店である女性が、「ちょっとタバコやめてほしい」「タバコやめてもらえませんか」と喫煙者に言っているのです。でも、クレームの相手は禁煙席ではなく、喫煙席に座っていたのです。

古谷:…意味が分かりませんが?

倉田:え?って思うじゃないですか。

古谷:そうですよね。

倉田:でも、だったらあなた(クレームを言う側)が席を移動すればいい話じゃない。だってそのために禁煙席と喫煙席が分離されているわけですから。

古谷:タバコを吸う権利と吸わない権利というのは両方均等な自由権ですからね。

倉田:そうですよね。喫煙権と嫌煙権はどちらかに軽重のつけられない同等の権利のはずです。

古谷:もちろんそれは話し合って、タバコを吸っている人がやめる選択もあるわけですが。

倉田:あります。

古谷:クレームを言う側、つまり嫌煙権を行使する本人が退室するという選択もある。両者同じく自由権の範囲内でフィフティー・フィフティーのはずなんですが、タバコを吸っている人の権利が5でタバコを吸わない人の権利が95になっている、というような片務的な状況になっています。

倉田:双方が話し合ってね、喫煙側が「だったら消しますね」、みたいに言えれば円満解決する。これだったら良いのでしょうが…。

古谷:それが本来ですよ。

倉田:しかし実際は、タバコの副流煙を吸わない権利みたいなものがあって、あまりにもそれが声高に言いやすい世の中になっている。

・放射線と「酒害」には鈍感

古谷:まさに恣意的な基準で叩きやすい攻撃対象がたばこであって副流煙なのでしょうね。私ね、本当に異常だなと思っているのは、タバコ問題には根本2つあると思うんですよ。1つは医学的な実証データに基づく嫌煙権。2つ目は道徳的な、要するに叩きやすいからタバコを吸っているやつとか会社とかを攻撃すると。1つ目の科学的なデータに基づく受動喫煙が悪いからやめてくださいというのは、これはWHOで発がんリスクがあると認定されているから、これは全く正しい意見だしそれは認めます。実際、私タバコ吸いませんから特にそう思います。それはいろんな臨床データでも分かっている。しかしながら、だったら同様に規制しないといけませんよね。健康に害があるものを。福島はどうなっています?国と東電は海洋に汚染水を放出する計画を進めています。大方の放射性核種は取り除きますとか言っていますが、環境濃縮(*生物の食物連鎖によって放射性物質等が次第に高次に濃縮されていくこと)についてはメカニズムが良く分っていない。あれはいいんですか。危険じゃないんですか。発がん因子にはならないんですか。おかしくないですか。

倉田:いまだアンコントローラブル、という見方が常識的でしょうね。

古谷:あと、WHOの基準で同じように発がんリスクがある、健康被害があると言っているお酒はどうですか。「ストロング酎ハイ9%」は誰でも買えるんですよ。私は世界をいろいろと、もちろんそんなに全部行っていないけれども、だいぶ行ってみて、「9%」なんてどんな国でも売っていないですよ。だいたいアルコール度数は高くて5.5%、平均で4.5%ぐらいじゃないですか、酎ハイという飲み物は。

倉田:あれはさすがに最近問題になっていませんか。

古谷:なっていますが、堂々と売っています。いまだ堂々と。健康に害があるからやめろという立論をするんだったら、酒害はどうですか。お酒の害です。これは全く肝臓、膵臓、食道、咽頭、口腔等に影響がありますから。これも同じじゃないですか。受動まで含めて問題だと言うんだったら、酒席で勧められたお酒だって「受動酒害」であり、なんなら路上で酔っ払ってげろを吐いたおっさんの悪臭も「受動酒害」ですよね。これを断固抹殺する権利だって堂々と主張しないといけませんね、ということを言わないんですよ。言っている人もいますが。他国での酒類販売はだいたい夜9時~10時で終わっていますよね。一部の国際的観光地などの例外を除いて。ところが、タバコだけはもう駄目。何を言っても何をやっても全部ダメ。このアンバランスはなんぞや。

倉田:だってやっぱり「国家のスポンサー様(酒税)」だから。

古谷:いや、だからそこからおかしいじゃないですか。

倉田:そうなんですよ。そういうところは本当に「え?」というような日本の仕組みを見るにつけ、おかしなことになっている。

・「愚行権」問題…その行き着く先は

古谷:『健康帝国ナチス』(ロバート・N・プロクター著、草思社)という本があって、面白いのですが、それはナチスというのは実は極めて健康的で潔癖な社会を目指していたのだ―という本です。なにせナチスは横暴だから、健康とかはあまり関係ないと思うじゃないですか。実は全く逆で、がん検診とか、お酒、タバコ、とにかく健康に悪いものは全部禁止の推奨をしたんですよ。

倉田:そうなんですか?

古谷:そうなんです。ナチスは実は健康帝国だったという話なんです。ヒトラーはベジタリアンなんですよ。お酒もタバコもやらいのですよ。なぜと言うと、酒とかタバコは外部から取り入れられる不純なものだから、自分の純潔が汚れるという考え方なんですね。だからナチスそのものが、自然の土とか森林とか、農業に関しては有機農業を推奨しているんですね。だからナチスというのは全ドイツ国民に対して健康推奨と禁酒ウィークとか禁煙週間というのを出すんです。あと、がん検診とかも国民に積極的に推奨したのです。汚いもの、汚濁したもの、不浄なものはすべて「ドイツ的ではない」として排除したのです。

倉田:そうなのですね。

古谷:だから、純血なドイツ人は病気になってはいけないという考え方なのです。それは落後者なのです。だから、そうならないためにそういう不純なものを外部から入れないで、不純なものを早く発見して除去する。これを人間にまで当てはめたのがユダヤ人迫害や障碍者、ジプシーやロマの排除です。彼らはドイツ国内にある不浄で汚染されたものであるから除去=ホロコースト等して取り除く。そうすればドイツの純潔が保たれる。異常な発想ですが事実ナチはそれをやったのです。結局のところ、潔癖というのは排外の思想なんです。異物を外に出すことによって秩序を取り戻す。

倉田:なるほど。

古谷:これは全く今の日本社会と似ているのではないかと思う。

倉田:本当にそうだし、今思いましたが、実は健康であるということですら実は不健康な人というのは絶えずいるわけです。これはどういうことか。体に悪いみたいに言われているものも取り入れると不健康になっていくということは医学的に正しくとも必ずしも人生観として正しいのか、という話です。これも久坂部羊さんという作家が『日本人の死に時』という本を書かれたのですが(久坂部羊著、幻冬舎)、とにかく長生き=善というものでもないということです。

古谷:確かにそうですね。

倉田:その本の趣旨としては、長く生きるのは全然よくないと。今日も生きていた、今日も生きていたと言いながら目が覚めるたびにがっかりする老人もいっぱいいる。実はうちの祖母もそうだったのです。まだ死んでいなかった…と朝起きてがっかりする。要するに人生観の違いです。この世の中は長生きしたいと思っている人ばかりではない。ということは、実は体に悪いと巷間言われていることを好きなように実行して、まあまあの早さで死ぬという選択肢は、意外と悪いことではないのかもしれない。

古谷:体に悪いことをすること「すら」も自由権ですから。「愚行権」とも呼ばれますが。

倉田:ほんと、そうですね。

古谷:で、実はその医学的には確かに体に悪いんだけれども、それが例えば本人のやる気につながるというのが重要なのですよね。それこそその手の本はもう山のようにあるわけですね。だから、タバコを吸うという愚行をあえて選択して、それによって寿命が例えば12年縮まるよと言っても、「それでいいです」と言う人の意志や権利をこの社会は軽視しすぎている。

倉田:そういう価値観を肯定する人はいっぱいいますよね。

古谷:権利が一方であるわけじゃないですか。自由権・愚行権というのが。

倉田:そうだ。

古谷:タバコを吸わなかったら何歳まで生きるかなんて、人生は一択なので「吸った人生」と「吸わない人生」を両方経験することは絶対にできないのだから、要するに分からないのです。

倉田:案外さ、タバコを吸わなかったらストレスにやられてもっと早く死んでいた可能性もあるかもしれませんね。

古谷:私はタバコ吸いませんからそれはわかりませんけれども(笑)、「〇〇をしなかったら」なんていう別の世界線での寿命なんて永久に分からないのだから、リスクを甘受するならもう、いくら愚行をしてもよいでしょう、あなたの勝手です、と思います。私いつも言われるんですよ。もっと健康的な生活をしなさいとか、割と酒とかガブ飲みするタチなので「やめなさい」とか言われるんですが、私はいつ死んでもいいんですよ。だって、それは自由権・愚行権の範疇ですから。

倉田:そうだよ、自由だよ。

古谷:愚行権です。愚かな行いをする権利。

倉田:自由社会の掟ですね。

古谷:清廉潔白に何事にも潔癖で健康にいいことをして、100歳まで生きる「人生100年」という言葉が私は大嫌いなんです。それに輪をかけて、もう罪も何も起こさない。超道徳的で100年静かに生きます、というのが社会の目指す模範的人生なのだとしたら、もうそんなものは人間じゃない。機械です。漫画版『風の谷のナウシカ』でナウシカが言うところの「肉塊」です。〇〇的人間の姿が目指すべき生き方なんだ―というのは非常に設計的で実際のところ非人間的です。生命とは完璧に清浄な存在などではなく、汚濁の中に瞬く光だ、とナウシカは言って超古代人の考え出した設計的人間計画(卵)を巨神兵に焼かせて破壊します。綺麗でまぶしくてキラキラした完璧な存在など人間ではなく、人間存在とは汚れて濁ってどうしようもなく愚かしい存在であると。でもそれこそが人間であるとナウシカは言うのです。いま、こういった生命のもつ活力―、しかしその反面として必然的に抱え込む「汚れている側面」とか「愚かな側面」というのを除去しようという運動が日本社会にみられます。それは端的に言って生命力の低下であり、生きる力の後退だと思います。日本社会というのがある種の生物なのだとしたら、汚物を排除し出来るだけ道徳的に勤め、潔癖であろうとすればするほど死に向かっているように思えてなりません。

倉田:私は死ぬまで愚かなことを選択肢から排除しない人生を送りたいと思います。



https://toyokeizai.net/articles/-/242657?display=b&fbclid=IwAR0TeeJ5K2qQ90shDEH0NcGtcbdtTyl9KZvFPAPrmhT7n_kvnkMe34l7yDI  【日本人が世界でバカにされている説は本当か「日本スゴい!」風潮を真に受けてはいけない】  より

『世界でバカにされる日本人』(谷本真由美著、ワニブックスPLUS新書)というタイトルを見た瞬間にピンときたのは、おそらく私自身が心のどこかで、このことを気にかけていたからだ。

マスメディアをにぎわす“日本礼賛ブーム”に対して、なんだかモヤモヤする思いを抱いていたということである。

といっても、こういった番組を頭ごなしに否定したいわけではない。それどころか、しばしばあの手の番組を眺めては、ツッコミを入れたりもしていたのだ。だから、偉そうなことを上から目線で語る資格はない。

しかし、それでいて、こうした風潮に対する違和感をぬぐえなかったのも事実。だから、そんな自分のスタンスの中途半端さも含め、モヤモヤしていたということだ。

ロンドン在住の著者は、元国連職員。過去には日本、イギリス、アメリカ、イタリアなど各国での就労経験があるという。つまりは「海外から日本はどう見られているのか」を実際に肌で感じてきた人だということになる。

だから本書に、「そうだよね〜」とうなずきたくなるような「共感」と「痛快さ」を期待したのだ。ところが予想に反して、第1章「『ここが変だよ! 日本人』—BEST7」を確認してみた結果、「あれ?」という気持ちだけが残ってしまったのだった。

ここは、「考え方」「働き方」「マスコミ」「政治」「社会」「文化」「行動」について、日本人の「おかしい」部分を列記した章である。その内容自体はあながち的外れだとも思わないのだが、圧倒的に外側からの視点で語っているところが、どうしても気になってしまったのだ。

端的にいえば、日本たたきが目的だと誤解されても仕方がない書き方をしていることは否めないのだ。でも、基本的には納得できる主張だからこそ、誤解を誘発するような書き方をするのはもったいない気がしたということだ。

しかし、続いて第2章「世界は日本をバカにしている」を読み進めてみると、印象は大きく変わる。ここでは1960年代から現在に至る、経済と連動した「世界における日本のイメージ」の変遷に焦点を当てているのだが、その解説はとてもわかりやすい。そして、著者がこの問題をきちんと理解していることが手に取るようにわかる。

東日本大震災が突きつけた日本の現実

特に納得できたのは、バブル崩壊以降に日本(人)に対するイメージが大きく変わったという指摘だ。それ以来、日本の債権処理問題や金融引き締め策が取りざたされ、日本に関する前向きな報道が激変したことについては知られた話。特に2000年以降は、著名な大手企業による金銭スキャンダルのように、日本を代表する企業の内部通報や内部告発、不正疑惑が大きく注目されるようになったわけである。

そして、それを踏まえたうえで、最も注目すべきは東日本大震災について書かれた箇所だ。

日本に関する報道で国内外に大きな影響があったのは、やはり2011年の東日本大震災ではないでしょうか。日本で発生した自然災害の大きさは世界の度肝を抜いたのですが、なによりも驚かされたのは福島第一原子力発電所(福島第一原発)に関するさまざまなニュースでした。

復興が驚異的に早くて道路が数日間で直ってしまった、災害があったのに暴動にはならず秩序が保たれた――といった前向きなニュースもありました。しかし、それ以上に注目されたのは、原発で働く人々への冷徹な待遇とか事故を起こした関係者が処罰されないこと、被災者に対する支援が不十分なことでした。(62ページより)

こうしたことは現実的に、日本国内ではあまり積極的に報道されない部分だ。しかし、本来であればなによりも先に報道されるべきことでもある。ところが報道姿勢が変わらないこともあり、この時期に日本のイメージはとても悪い方向に進んでしまったということだ。

バブル崩壊までのわが国は、世界経済をリードして未来を象徴するようなキラキラと輝いた国だったのに、今や災害で悲惨な目に遭った人たちをないがしろにしているのです。(63ページより)

この指摘は、単に「耳が痛い」と感想を述べるだけで済ませられる問題ではないだろう。

日本人は世界でまったく注目されていない?

とはいえ、東日本大震災がもたらした大きな津波被害と原発事故が、予想外のトピックスとして世界を震撼させたのは事実だ。しかし、だからといって海外の人々が抱く日本のイメージが変わったわけでもない。

少なくとも、冒頭で触れたような「日本スゴイ!」系のテレビ番組で放送されるような、「海外で注目を浴びる国」では決してない。あくまでワン・オブ・ゼム(One of them)にすぎず、たくさんある国のなかのひとつにすぎないということだ。

まず心に留めておくべきは、このことではないかと感じる。持ち上げられてうれしいとか、注目を浴びていないなら悔しいとか、そういう次元の問題ではなく、それが「現実」であるということだ。だとすれば、それは直視する必要がある。

そしてもうひとつ無視できないのは、「教育レベル」の問題だという。

どこの国でも同じことがいえるのですが、外国のことをよく知っているのは教育レベルが高い人、海外と交流が多い人、さらには好奇心から海外に興味があるような人に限られてしまうことが少なくありません。(62ページより)

アメリカやヨーロッパの大都市であっても、外国に興味がない人の場合は日本と中国の違いさえわからない。大学を出ているような高学歴の人であっても、日本と北朝鮮は陸つづきになっていると信じている人だっています。

そんな一般的なレベルの人たちは日本のコンビニエンスストアがいかに便利で日常生活に密着しているかということには興味がないし、ましてや憲法第九条の何たるかなんてまるで関心がない。アメリカ軍が日本の各地に駐留していることさえ知らない人が多くを占めます。そしてまた、かなりの日本人が西洋式の家に住んでいることもわかっていない外国人だって大勢いるのです。(62ページより)

大げさだと感じるだろうか? しかし、「日本からすると、チェコスロバキアとウクライナがいったいどこにあるのかわからない人が多いのと同じようなもの」だと言われれば、納得せざるをえない部分はあるはずだ。

ところで「教育レベル」に関しては、とても納得させられたエピソードが登場する。この点について、まず重要なのは「情報源」だ。特に若い人や子どもの間では、いまやネットで得る情報は動画が中心。したがって、ネット動画の世界で日本がどのように扱われているかを見ることで、日本のイメージを知ることができるというのだ。

海外からなめられている日本

注目すべきは、ネット動画の世界に、日本人をあざ笑うような多くの外国人が存在するという事実。そして、その代表格として取り上げられているのが、2018年初頭に「青木ヶ原樹海の遺体動画」事件を巻き起こしたローガン・ポール氏だ。

ご存じのとおり、さまざまないたずら動画を投稿して莫大な再生回数をたたき出し、決して少なくない収入を得ているアメリカのユーチューバーである。子どもたちの間では大人気であるものの、やることがあまりにも過激かつ下品なので、子どもに悪影響を与えるのではないかと困り果てている親も少なくないという。

そんな彼にとって、格好のターゲットは日本だ。だから、来日時には渋谷や築地など各所で非常識かつ下品ないたずらをし、それらを動画としてアップしたわけである。

彼の動画を見ると、「あまり教育レベルが高くない外国人」が日本に対してどんな感情を抱いているのかがよくわかると著者は指摘する。

ローガン・ポール氏はオハイオ州出身のいわゆる“田舎者”で、教育水準が決して高いとはいえないごくごく一般的なアメリカ人といっていいでしょう。そういった人たちに、日本人だけではなく東洋人全般は、「体が小さくてクレームをつけない、ちょっと奇妙な人種」だと認識されているのです。(中略)東洋人はそういったイメージを持たれていますから、あまり教育程度が高くないアメリカのマジョリティにとっては甘くみられてしまいがちです。

だからローガン・ポール氏たちはアメリカやヨーロッパでなら絶対にしないようないたずらを日本ではたらき、亡くなった人の遺体をビデオで撮影するようなことができてしまう。こうして我ら日本人を困らせたり怒らせたりして楽しんでいる。自分たちと同じ人間とは思っていないからこその暴挙でしょう。(74〜75ページより)

誤解すべきではないのは、著者が決して、すべてのアメリカ人(もしくは外人)がそうだと言っているわけではないということだ。重要なのは、「あまり教育水準が高くないマジョリティ」という点である。

しかしいずれにしても、彼らが日本人を誤解していることは事実であり、だからこそ「日本すごい!」と手放しで喜んでいられるようなことではないということだ。

ただし個人的には、そのことをきちんと認識することができれば、それだけで本書の役割は完結するようにも思えた。

上記のようなことを踏まえたうえで、以後は「バカにされない日本人になるための方法」として、さまざまな主張がなされている。「本質を見よ」「所属先にこだわるな」「他人と自分は違うと心得よ」「自信を持って行動しよう」「感性を磨け」といった具合だ。

つまり冒頭で触れた「ここが変だよ! 日本人」と同じ視点に立ち戻っているわけだが、ここで展開される「~せよ」というようなメッセージは、むしろわれわれ一人ひとりが、自分自身で考えていくべきことではないかと考えるのだ。

そういう意味では、「現実」をフラットな視点で客観的に見つめた第2章にこそ、本書の意義がある。ほかの章がだめだと言いたいわけではなく、第2章に書かれていることを読者が真摯に受け止め、「日本人はどう進むべきか」を自分の視点で考えてみることこそが大切だと感じるのである。