宮沢賢治についての思いちがい
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【宮沢賢治についての思いちがい】 より
わたしたちは、たいへんな思いちがいをしていたのかもしれません。それは、宮沢賢治のことです。彼が日本を代表する童話作家であることに異を唱える人はいないでしょう。
海洋生物学者でもあったアメリカの女流作家レイチェル・カーソンは、『センス・オブ・ワンダー』という小著を残しています。美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見はり、人間を超えた存在を認識し、恐れ、驚嘆する感性、すなわちセンス・オブ・ワンダーを育み強めていくことの意義をおだやかに説いた本です。
宮沢賢治は、だれよりもセンス・オブ・ワンダーをもっていた人でした。賢治の詩や童話を読んでおどろかされるのは、作品舞台のすみずみに星や花や石といった自然のアイテムがちりばめられていることです。
賢治は「雲の詩人」とか「雨の詩人」とか呼ばれますが、日本の文学者の中で、彼ほど自然を生き生きと描いた作家はいません。それは、彼が意識的に、山や野原や谷川という自然を、好んで作品の舞台に選んだからだともいえます。
1896年に生まれて1933年に亡くなった賢治は、その死の直前まで膨大な詩や童話を書きつづけました。どの作品にもこのうえなく幻想的イメージに満ちた世界が描かれており、すべてを一人の人間の想像力の産物だとしたら、奇跡のイマジネーションを前に、わたしたちはただただおどろくしかありません。
しかし、どうも事情は少しちがうようです。というのも、賢治はけっしてみずからの想像力だけで創作活動を行なったわけではなかったらしいのです。この問題を2つの視点から見てみましょう。
まず1つ目は、彼の作品には海外文学をはじめとした数多くの書物の影響が見られること。それは、もう模倣といってもおかしくないほどにあきらかな影響が見られるのです。たとえば、童話集『注文の多い料理店』の「序」には次のような一節があります。
「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです」
あまりにも有名な一節ですが、じつはアンデルセンの『絵のない絵本』の模倣であるとされています。また、賢治は郷土である岩手をエスペラント風に「イーハトヴ」と呼んで、理想郷としました。『注文の多い料理店』を刊行したときの自筆の広告文の中では、イーハトヴについて説明しています。それによれば、「強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスが辿つた鏡の国と同じ世界の中、テパンタール砂漠の遥かな北東、イワン王国の遠い東と考えられる」とあります。
ここには、アンデルセンの「小クラウスと大クラウス」、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』の名がそのまま登場しますし、テパンタール砂漠はインドの宗教詩人タゴールの詩集『新月』に出てきます。イワン王国というのも、トルストイの『イワンの馬鹿』に由来します。
賢治が読んでいた本は、神話、自然科学、社会科学、哲学、言語学、心理学、民俗学、文学、音楽、それに浮世絵を中心とした絵画など、さまざまな分野に及んでいるのです。賢治は英語やドイツ語も得意であったため、洋書もよく読んでいました。その顔ぶれは、ダーウィン、マルクス、エマーソン、タゴール、トルストイ、チェーホフ、ゲーテ、グリム、アンデルセンまで、じつにバラエティに富んでいます。
『銀河鉄道の夜』と『青い鳥』の関係
おそるべき読書家であった彼は、大正時代の若き博覧強記でした。その膨大な知識がみずからの作品の中に流れ込んでいったのも当然かもしれません。賢治ほど内外の広範囲の書物から深い影響を受け、しかもそれらを自作に自在に取り込んだ文学者も珍しいといえます。それは一種の模倣かもしれませんが、彼自身にはおそらくそんな自覚はなかったでしょう。
賢治と同じようなタイプの作家に、芥川龍之介がいます。彼の代表作である「鼻」や「芋粥」は日本の『今昔物語』に、また「杜子春」は中国古典に、「蜘蛛の糸」は仏教説話に題材を得たものであることは有名です。芥川も大正時代の博覧強記だったわけですが、芸術上の模倣について、「芸術上の理解の透徹した時には、模倣はもう殆ど模倣ではない。寧ろ自他の融合から自然と花の咲いた創造である」と述べています。
これを芥川の自己弁護であると意地悪な見方をすることは簡単ですが、わたしも芥川のいう通りだと思います。何か読者に伝えたい大切なメッセージが明確な場合、その核心にいたるまでに模倣的な文章が存在したにせよ、それはやはり方便であり、最終的なメッセージの内容によって途中の模倣にも新しい意味が与えられるのではないでしょうか。まるで、言葉の錬金術ともいえますが、最近のように著作権の問題が厳しい時代にあっては、賢治や芥川の名作も、「剽窃(ルビ・ひょうせつ)」とか「盗作」呼ばわりされないともかぎりません。
おそらく、自分の言葉か他人の言葉かわからなくなるほどに、賢治の読書は彼の魂の養分として、その奥深くにまで入り込んでいたのだと思います。
賢治は、「童話の王様」アンデルセンからも、そのように深い影響を受けていました。たとえば、アンデルセンの「みにくいあひるの子」という物語は、賢治の中で「よだかの星」という物語に変化しました。ともに、みにくい鳥が他の鳥たちから馬鹿にされるという話ですが、単に美しい白鳥に成長しただけの「みにくいあひるの子」とは違い、「よだかの星」は自らの生命を失ってでも他者を救うという自己犠牲の精神にあふれています。作家の畑山博氏は著書
『わが心の宮沢賢治』において、「アンデルセンのあひるは、ただ己の置き場を間違ったために遠回りしたというだけの陽気な迷子だった。賢治のよだかは、はるかにそれよりも深く存在の哀しみを揺さぶる何かである」と述べています。
このように賢治は、先行する作品をそのまま真似たわけではありませんでした。影響を受けた作品を強く意識しながらも、法華経の教えに代表される宗教的信条も含めた自分なりの物語へと高めていったのです。
そして、彼が最大の影響を受けた作家こそメーテルリンクであり、作品は『青い鳥』でした。すでに盛岡高等農林学校時代に「雲とざすきりやまだけのかしはばらチルチルの声かすかにきたる」という短歌を詠んでいますし、童話「かしはばやしの夜」が『青い鳥』の第三幕第五場「森」にヒントを得て書かれたことはよく知られています。
それだけではありません。賢治童話の金字塔とも呼ぶべき『銀河鉄道の夜』も、『青い鳥』の強い影響の下に書かれているのです。
その詳しい理由は追って説明しますが、『青い鳥』以外にも『銀河鉄道の夜』に影響を与えたとされる作品はいくつも指摘されています。ざっと挙げてみても、キャロルの『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』、ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』、ジョン・バニヤンの『天路歴程』、ダンテの『神曲』、聖書「ヨハネ黙示録」、法華経「化城喩品」などの名高い物語や名著がずらりと並びます。
さらには、『天路歴程』のパロディとして知られるナサニエル・ホーソンの「天国鉄道」とか、賢治と同時代の日本の童話作家である長田秀雄の「幽霊機関車」のような、そのまま『銀河鉄道の夜』のストーリーやモチーフに重なり合う作品の存在さえ確認されています。
このように、宮沢賢治は、仏典や聖書から内外のファンタジーまで、さまざまなものから強い影響を受けています。そして、構想上のヒントから、部分的な借用、援用、主題にかかわるものまで、彼は自由自在にみずからの作品に取り込みました。以上が、賢治が自己の想像力だけで創作活動を行なっていなかったことについての第一の視点です。
幻視者としての宮沢賢治
次に第2の視点ですが、先に紹介した『注文の多い料理店』の「序」を思い出してください。そこで、賢治は自分の物語は「虹や月あかりからもらつてきたのです」と書いています。これをアンデルセンの『絵のない絵本』の模倣ととらえることもできますが、じつはもう一つの見方もできます。そして、その見方のほうが賢治の創作の秘密と密接にかかわっていると、わたしは思います。
すなわち、「虹や月あかりからもらつてきたのです」という言葉が比喩でも誇張でもなく、事実そのものだったのではないかという見方です。賢治は虹や月あかりからのメッセージを受けとれる一種の霊能力者だったのではないかということです。
森荘巳池(ルビ・そういち)氏という、岩手県盛岡市在住の直木賞作家がいます。花巻農業高校時代に賢治の文学仲間だったことでも知られていますが、その森氏が賢治の霊的能力について明かしています。
森氏が『春と修羅』に対して好意的な評論を書いたことがきっかけで、賢治は森氏の自宅をよく訪れて文学談義をしたそうです。その際、賢治はいろいろと不思議な体験を話してくれたというのです。たとえば、木や草や花の精を見たとか、早池峰山で読経する僧侶の亡霊を見たとか、賢治が乗ったトラックを崖から落とそうとした妖精を見たとか、そういったおどろくべき体験です。また、賢治が窓の外を指さして「あの森の神様はあまりよくない、村人を悩まして困る」と語ったこともあるそうです。
賢治には、迷った霊魂が見えたようです。今でも花巻の地元では、賢治のことを「キツネ憑き」と呼んで敬遠する人々がいるそうで、宮沢家の人々も賢治の不思議な能力については知っていましたが、タブーとしてけっして語らないそうです。
さて、賢治の生前に出版されたのは童話集『注文の多い料理店』と詩集『春と修羅』の二冊だけです。しかし、賢治は『春と修羅』を「詩集」ではなく「心象スケッチ」と呼びました。出版社が間違って印刷した「詩集」の文字をみずからの手でブロンズ粉で消してまで、賢治はあくまでそれが「心象スケッチ」であることに固執しました。
それは賢治の謙遜や照れであると従来とらえられてきましたが、じつは本当に「心象スケッチ」ではなかったのでしょうか。想像力を駆使して詩作を行なうことと、心で見る光景をそのまま記録することとはあきらかにちがいます。賢治は日常的にさまざまな神秘を目にし、それをスケッチしていただけなのかもしれません。実際、『春と修羅』の「序」には、「ただたしかに記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで」と告白されています。これまでの賢治研究者の多くは、この言葉をそのまま受け取りませんでした。そのために、大きな思いちがいをしていた可能性があるのです。つまり、宮沢賢治とは、文学者というよりも異界を見ることのできた幻視者であった。そのことを抜きにして、賢治の本当のメッセージを理解することは絶対にできません。
謎に満ちた言葉
『春と修羅』の「序」には、次の有名なくだりが出てきます。
「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い証明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い証明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」
これらの謎に満ちた言葉は、あまりにも難解だとされてきました。しかし、賢治が霊能力者であったことを頭に置いて読むならば、目から鱗が落ちるかのように、その意味が立ち上がってきます。
神秘学の世界において、人間の本質とは複合体であるとされます。すなわち、肉体とエーテル体とアストラル体と自我とから成り立っている存在が人間なのです。これは、ルドルフ・シュタイナーが講演のたびに毎回繰り返していいつづけたことでもありました。それほど人間にとって重要な事実であり、神秘学の基本中の基本だからです。つまり、人間とはまさに透明な幽霊の複合体なのです!
そして自我とは、「幽霊の複合体」でありながらも、統一原理として厳然と灯る主体にほかなりません。賢治は、このことを自分の体験によって実感していたのです。
ちなみに、複合体の一つである「アストラル体」とは「幽体」とも呼ばれます。臨死体験などでの「幽体離脱」を「アストラル・トリップ」ともいいます。そして、どうやら賢治は人生のさまざまな場面でアストラル・トリップを繰り返していたようです。
『銀河鉄道の夜』は、高い霊能力をもっていた賢治が書いた大いなる臨死体験の物語であると、わたしは以前から思っていました。
ある星祭りの夜に
ここで『銀河鉄道の夜』がなぜ臨死体験の物語かという説明をしなければならないでしょう。まず、簡単にストーリーを追ってみます。
少年ジョバンニは貧しい家の子です。父親は監獄に入れられて、母は病気で床についたままです。そのため、彼は学校の帰りに活版所の手伝いをして母親を養っています。友達はみんな彼に意地悪をしますが、カムパネルラだけはやさしい目で彼を見てくれます。
それは星祭りの夜のことでした。ジョバンニは病気の母のために牛乳を買いに走ります。街は星祭りを祝う人出でごった返し、みんな祭り気分で浮かれていて楽しそうです。しかし遊ぶことが許されていないジョバンニは、楽しげな親子連れを横目で見ながら、牛乳屋に走るのです。
ところが、せっかく大急ぎで走って来たのに牛乳屋の主人は留守で牛乳を売ってもらえません。留守番の老婆に、「ではもう少したってから来てください」といわれて、ジョバンニは仕方なく、牧場の近くの原っぱに行って寝転がりました。空には一面に星があり、銀河がジョバンニに語りかけているようです。
すると突然、力強い汽笛の音がしたかと思うと、汽車がジョバンニのいる草原を走って来て、彼の前で止まりました。この突然の汽車の登場こそ臨死体験のはじまり、つまり幽体離脱を表現しています。
ジョバンニが汽車に乗ると、すぐに汽車は走りはじめます。車内を見ると、カムパネルラが乗っています。カムパネルラに向かってジョバンニは、「僕たち、どこまでもどこまでも一緒に行こう」といいます。
カムパネルラは「うん」と弱々しく答えますが、それがどことなく曖昧(ルビ・あいまい)で、ジョバンニの不安をかきたてます。ジョバンニは自分の降りる駅も知らなければ、なぜこの汽車に乗り合わせたのかもわかっていません。でも、カムパネルラはそれを知っているのです。
人がまばらだった汽車には、いくつかの駅を通過するにつれて、さまざまな人々が乗ってきます。じつは、彼らは死者であり、この銀河鉄道は死者たちを彼らが行くべき場所へと運ぶ汽車だったのです。カムパネルラはすでに死んでおり、死後の世界へと旅立っていたのです。
賢治はこの世界を「幻想第四次の世界」と呼んでいます。すなわち、そこは四次元であり、幽界つまりアストラル界なのです。
銀河鉄道の乗客でただ一人だけ死んでいないのが、ジョバンニです。だから彼は自分の降りる駅を知りません。死者の降りる駅は、彼らの生前の行ないに対して決まるものであり、各人によって異なります。しかし死んでいないジョバンニは、汽車を降りてそのまま行ってしまうことはありません。途中下車してさまざまな場所を見学することはできても、必ず汽車に再乗車しなくてはならないのです。
ジョバンニは切符も持っておらず、検札係が来て切符の提示を求めても、どうしていいかわかりません。自分と同様に切符を持っていないだろうと思われたカムパネルラは、ちゃんとポケットから切符を出して検札を受けています。ジョバンニもポケットの中を探してみると、切符らしきものが出てきました。それを見て、隣の席に座っていた鳥捕りの男がいいます。
「おや、こいつはたいしたもんですぜ。こいつはもう、本当の天上さえ行ける切符だ。天上どころじゃない。どこでも勝手に歩ける通行券ですよ」
死者たちは自分の行き先がもう決まってしまっているのに、ジョバンニはどこにでも行けるというのです。本人が希望すれば、天上でもどこでも自由に行けるというのです。すなわち、生きているうちはどんな可能性でもあるということです。死後の世界は生きているときの過ごし方によって行くところが決まるので、生きているあいだは行くところを選ぶチャンスがあるのです。天上へさえ行ける切符というのは、努力次第で天上に行けるほどのレベルまで自分が成長することができるということなのです。
死者たちの降りる駅はそれぞれちがっていますが、ほとんど全員が降りてしまっても、カムパネルラだけは降りません。彼は、最後の駅で一人だけ降りていきます。なぜなら、カムパネルラは自己犠牲によって死んだからです。同級生で、いじめっ子のザネリが川に落ち、それを救うためにカムパネルラは川に飛び込みました。ザネリは助かりましたが、カムパネルラは命が尽きて死んでしまいました。そのためにカムパネルラは死後、高いところに昇ることになるのです。
カムパネルラが下車したあと、たった一人で車内に取り残されたジョバンニは、ブルカニロ博士という不思議な人物に出会います。そして彼と話しているうちに、ジョバンニは自分の生き方の根幹となるものを見いだします。
そして、ジョバンニは目を覚まします。そこは、もとの原っぱでした。彼の顔はほてり、頬には涙が流れています。でも、すぐわれに返り、あわてて起き上がって牛乳屋へと走ります。今度はなじみのおじさんが出てきて、まだ熱い牛乳を手渡してくれます。
家路を急いで街に入ると、星祭りの騒ぎはやんでおり、街かどや店の前に女たちが七、八人ぐらいずつ集まって、橋のほうを見ながら何かひそひそ話をしています。橋の上もいろいろな明かりでいっぱいです。
そこで初めてジョバンニは、ついさっきまで自分と一緒に汽車に乗っていたカムパネルラの死を知るのです。このとき、ジョバンニはすべてを悟ります。
ブルカニロ博士と話をして汽車から降りるとき、ジョバンニは次のように言いました。
「ああマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のおっかさんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ。」
この言葉こそ、臨死体験によってジョバンニが学んだことでした。博士は、ジョバンニとの別れ際にこういいます。
「さあ、切符をしっかり持っておいで。おまえはもう夢の鉄道の中でなしに、ほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんとうのその切符を決しておまえはなくしてはいけない。」
そして、博士はジョバンニに向かって、次のような謎めいた言葉を吐くのです。
「ありがとう。私はたいへんいい実験をした。私はこんなしずかな場所で、遠くから私の考えを人に伝える実験をしたいとさっき考えていた。おまえの言ったことばはみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。おまえは夢の中で決心したとおりまっすぐに進んで行くがいい。そしてこれからなんでもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんとうの幸福を求めます。」
ジョバンニは力強く答えます。そして博士は切符をジョバンニのポケットに入れて消えてしまい、ジョバンニは目を覚ますのです。
以上のように、『銀河鉄道の夜』が臨死体験の物語であることはあきらかだと思います。しかもこの幻想的な物語は、死が霊的な宇宙旅行であり、死者の魂は宇宙へ帰っていくという真実をうまく表現しています。さらになによりも重要なことは、ジョバンニが死後の世界からの帰還後、「ほんとうの幸福」の追求を決意する点です。
『青い鳥』のチルチルとミチルも、夢から覚めたあと、つまり四次元のアストラル界から三次元の世界に戻ったあと、自分たちの飼っている鳥が青い色に変わっているのを見ます。そして、「幸福は日常生活の中にこそ探すべきだ」ということに気づき、本当の幸福を求めはじめるのです。
チルチル、ミチルやジョバンニは、蘇生後、幸福を求めて2度目の生を精一杯に生きる数多くの臨死体験者そのものの姿です。彼らはこの世に戻って来たとき、大いなる普遍思想に目覚め、その瞬間から幸福、愛、平和といったものを追い求めずにはいられなくなるということが、たくさん報告されています。
宮沢賢治の臨死体験
このようにメーテルリンクや賢治は、霊的真実をファンタジーとして子どもや一般の人々に提供したわけです。ブッダにしろ、イエスにしろ、たとえ話の天才でした。こういった物語づくりのセンスはいつの時代にも求められるといえるでしょう。
そして重要なことは、メーテルリンクがその少年時代に実際に臨死体験をしているのと同じく、賢治も臨死体験をしていたということです。賢治が亡くなった1933年9月21日の早朝4時半から5時。賢治は森荘巳池氏の自宅を訪れたそうです。森氏が寝ていると、階下の土間をゴム靴をはいた人の歩く音がしました。二度も三度も行き来するので、隣に寝ていた夫人も目を覚まし、てっきり泥棒と思って階段を降りました。すると下から三段目まで降りたところで音はパタリとやみ、土間にはだれもいませんでした。鍵もかかったままで、外から人が入った形跡はありませんでした。
そんなことがあって間もなく、その日のうちに森夫妻は賢治の死の知らせを受けました。死亡時刻は午後1時半であり、朝の4時半か5時には動けない状態で床に臥せていたはずです。午前11時半、にわかに起きて、父親に国訳法華経を千部つくって知人に配るように遺言しました。その後は安心して、自分の手で体をオキシフルで拭い、それが終わって母親に頼んだ水を飲んでから、賢治は1時半に他界しました。
生前の賢治はいつもゴム靴をはいていて、ゴポゴポという音をさせながら森家にやって来たそうです。森夫妻は、臨終の日に賢治が会いにやって来たのだと確信しています。あきらかな幽体離脱現象だといえるでしょう。つまり、賢治は臨死体験をしたのです。
このように、メーテルリンクも賢治もともに臨死体験者でした。そして、彼らが書いた『青い鳥』と『銀河鉄道の夜』はともに臨死体験の物語だったのです。
さらに、『青い鳥』と『銀河鉄道の夜』のあいだには五つの類似点が存在することを、多田幸正氏は『賢治童話の方法』(勉誠社)で指摘しています。すなわち、
(1)ともに夢の旅の仕掛人が存在すること
(2)兄と妹の旅であること
(3)死者たちとの出会い
(4)「幸福とは何か」の追求
(5)神秘主義とのかかわり
これを見て、(2)については違和感をもつ人がいるかもしれません。なぜなら、チルチルとミチルは兄妹ですが、『銀河鉄道の夜』に兄と妹など登場しないからです。でも、ジョバンニは賢治自身であり、命を失う級友カムパネルラは亡くなった彼の妹に重ね合わせることができます。
賢治の妹は、宮沢トシといいました。日本女子大学を卒業し、教師も勤めた才媛でした。二歳ちがいの妹を賢治が心から愛し、その死を心から悲しんだことは、有名な「永訣の朝」をはじめとする挽歌群からよくわかります。悲しむだけでなく、その死後のゆくえを兄は強く求めました。そして、最愛の妹の死の直後に『銀河鉄道の夜』は書かれたのです。
不治の病を抱えた兄妹
トシは、自身のはかない生命を予期していたのか、少女のころから死後の問題をきわめて重視していました。彼女の祖父宛ての書簡の内容から、死後の魂の存続を信じていたことがわかります。当然ながら、当時流行していた心霊学にも大きな関心を寄せました。
トシの愛読書は、メーテルリンクの『死後の存続』(当時の書名は『死後は如何』)でした。日本女子大の恩師である成瀬仁蔵の影響があったようです。トシはみずから記した「自省録」に、「私は自分に力づけてくれたメーテルリンクの智慧を信ずる」と書いています。
そして、『青い鳥』を読んだ彼女は、『死後の存続』に書かれたメーテルリンクの霊界観が夢のあるファンタジーとして見事に表現されていることにとても感激しました。そして、仲のよかった兄の賢治にその感激を伝えたのです。
賢治もトシも結核という病に苦しんでいました。思うに、ともに不治の病を抱え、つまり死の影とともに生きている自分と兄を、トシはチルチルとミチルに重ね合わせたのではないでしょうか。そして、妹から勧められた『青い鳥』を読んだ賢治は、さらにイマジネーションを膨らませて、『銀河鉄道の夜』を書いたのです。チルチルとミチルはジョバンニとカムパネルラになり、「青い鳥」は「ほんとうの幸福」に言い換えられたのです。
そして、賢治とトシの兄妹は宗教の枠を超えた普遍宗教のようなものを意識していたと考えられます。トシに強い影響を与えた成瀬仁蔵は名高い教育思想家でしたが、メーテルリンクやタゴールなどとも親交があり、すべての宗教のもとは一つ、めざすところも一つという「万教帰一」思想を唱えていました。
同時代に大本教の出口王仁三郎が唱えた「万教同根」と同じ考え方です。この時代は、南方熊楠なども含めてスケールの大きい普遍思想の追求者が世界的に多く存在していました。成瀬は帰一協会を設立しましたが、のちに賢治がつくった羅須地人協会に影響を与えたとされています。
賢治は浄土真宗の熱心な信仰者であった父への反発もあってみずからは日蓮宗を信仰し、のちに田中智学の急進的団体である国柱会に入会しました。しかし、けっして法華経思想のみに偏することなく、ヒンドゥー教やキリスト教にも深い理解を示していました。ヒンドゥー教は、敬愛していたインドの宗教詩人タゴールの影響です。キリスト教は、郷土のキリスト者で内村鑑三の弟子だった斎藤宗次郎の影響がありました。彼は、「雨ニモマケズ」のモデルだとされています。
『銀河鉄道の夜』とタイタニック号
『銀河鉄道の夜』にもキリスト教の影響が強く見られます。そもそも「ジョバンニ」という名は「ヨハネ」のイタリア語読みです。
賢治が関心をもっていたキリスト教はカトリックだけではないようです。ジョバンニの前に姿を現わした最初の十字架は「円い後光を背負った形」をしていました。つまり、主にギリシャ正教やロシア正教などの「東方教会」系で用いられる「ケルト十字」でした。
また、宇宙物理学者の竹内薫氏によれば、ブルカニロ博士の名前にも注目すべきとのこと。「ブルカニロ」とは牡牛座の「ブル(牡牛)」、カシオペアの「カ」、双子座(ルビ・ジェミニ)の「ニ」、アンドロメダの「ロ」をつなぎ合わせたものであり、それらの星座の配置を順にたどると、頭から胸、右肩、左肩へと手を動かす「東方教会」の十字の切り方になるそうです。しかも、その十字の中心は賢治とトシを象徴するペルセウス座の「双子星」になると竹内氏はいいます。
この類(ルビ・たぐい)の星の暗号を賢治は好んだようで、「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれる手帳の最終ページには、沼森、岩手山、早池峯山など32の山々に経典を埋めたいといった内容のメモを記しています。作家の畑山博によれば、それらの山々の頂を線で結ぶと、はくちょう座、わし座、たて座、いて座という四つの星座の形になるそうです。それは、まさしく銀河鉄道が走る場所そのものなのです。
さらに『銀河鉄道の夜』には興味深い記述がいろいろと見られます。まず、世界の海難史上最大の悲劇とされるタイタニック号の犠牲者とおぼしき人々が乗り込んでくるところです。船が氷山にぶつかって沈んだという点、救命ボートに子どもや女性を優先して乗せようとしたがボートの数が不足していた点、沈みゆく船で賛美歌が歌われた点など、タイタニック号沈没事件をモデルとしていることはあきらかです。
賢治はこの事件を「岩手日報」などで知り、大きな関心をもちました。また事件の直後、それまでの人生で海を見たことのなかった賢治が盛岡中学の修学旅行で船に乗り、初めて海を見たばかりか船で外洋に出ています。さぞかし、彼の心は揺れ、タイタニック号の多くの犠牲者の魂のゆくえに想いを馳せたことは想像に難くありません。
また、タイタニック号の犠牲者たちが賛美歌「主よみもとに」を合唱したことは有名です。賢治も「いろいろな国語で一ぺんにそれをうたひました」と描いたように、死を前にしてあらゆる国の人々の心が一つになった出来事に大いに感動したようです。言葉のちがいが乗り越えられたという現実は、彼にエスペラント運動へ向かわせる原動力となりました。
そのほかにもタイタニック号がらみの描写では興味深い部分が多いのですが、『宮沢賢治妹トシの拓いた道』(朝文社)で著者の山根知子氏が指摘した「沈没船から銀河鉄道への乗り換え」というテーマはとくに注目すべきです。山根氏は次のように述べています。
「タイタニック号は、20世紀初頭の近代科学技術を結集した、人間の驕りの乗り物として出航した。しかし、それがもろくも沈んだ事件によって、人びとは科学万能の価値観を同時に沈ませ、代わりにそれを超えて沈まない真の価値観を再確認した。賢治は、そこに浮上してきた信仰の世界の真の価値観を求める乗り物として銀河鉄道を想定し、タイタニック号と思われる船から銀河鉄道へと乗り物を乗り換えてきた青年たちの思いを語らせ、さらにジョバンニがその青年と『ほんたう』の生き方を求める問答をすることで、その価値観を吟味させたといえるのではなかろうか」
新世界への道
乗り物の問題はとても重要です。仏教では多くの人々を救う教えを大きな乗り物にたとえて「大乗」といいますが、銀河鉄道こそは大乗のシンボルとして描かれているのです。
そして、ほかの乗客に救命ボートを譲ったキリスト教徒の青年も、友人の命を救ったカムパネルラも、ともに「犠牲の愛」を実行して命を落としました。
しかし、青年たちは「サザンクロス」で降りましたが、カムパネルラはもっと先のおそらくは銀河鉄道の終着駅である「天上の野原」まで行きます。ここの部分には、キリスト教の犠牲的精神に強い共感を示しながらも、「たったひとりの本当の神様」という考え方にはどうしても賛同できなかった賢治の信仰上の本音が出ているように思います。
ちなみに、ジョバンニがもっていた切符は緑色の大きなものでした。『「雨ニモマケズ」の根本思想』(大蔵出版)の著者である龍門寺文蔵氏は、この切符は日刊新聞の「天業民報」をイメージしていると推測しています。「天業民報」とは緑色をした仏教新聞であり、賢治が信仰上の師と仰いだ田中智学が創刊したものです。つまり、ほんとうの幸福を求めるためには、まずは「天業民報」を購読すべしというメッセージが込められていたのかもしれません。
『銀河鉄道の夜』には、音楽も登場します。ドヴォルザークの「交響曲第九番新世界より」です。この曲は死者たちを霊界へと輸送する葬送行進曲の役割を果たしています。その生涯が賢治との共通点も多いドヴォルザークが示した新世界とは地理的には北アメリカ大陸でした。また、キリスト教徒の青年が乗った船もおそらくはタイタニック号と同じくヨーロッパからアメリカへ向かう船であったと考えられます。山根氏は次のように述べます。
「すなわち真の『新世界』は、近代科学のみが先走りするのではたどり着けないのであって、信仰心を基盤にしてこそ築かれるべき世界であるというメッセージが、これを作品に取り入れた賢治から発せられていると読むことができよう。さらに言い換えると、三次元的価値観を優先して生きるよりも、信仰を基盤とした四次元的価値観で生きることの意義が、青年の姿勢によって示されているといえよう」
ここで、「四次元的価値観」というキーワードが出てきましたが、その模型とでもいうべきものがあります。リンゴです。じつは賢治の作品の中には「汽車の中でリンゴを食べる人」のイメージが繰り返し出てきます。『銀河鉄道の夜』にも登場します。「鍵をもった人」である天上の灯台守が、いつのまにか黄金と紅の大きなリンゴをもっているのです。『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』の著者である見田宗介氏によれば、リンゴとは四次元世界の模型だそうです。
リンゴの形のいちばん大きな、だれにでもすぐに目につく特質は、それが「丸い」ということです。けれども同時に、ゴムマリのようにとりつくしまもなく閉じた球体ではなくて、孔(ルビ・あな)のある球体であるということ、それもボーリングのボールのように、表皮のどこかに外部からうがたれた孔ではなくて、それ自身の深奥の内部に向かって一気に誘いこむような、本質的な孔をもつ球体であるということです。閉じられた球体の裏と表、つまり内部と外部とが反転することの可能なもの、つまり四次元世界の模型のようなもの、それがリンゴなのです。
また、ジョバンニとカムパネルラの前に沈没船の水死者たちがやってくる直前に、車内いっぱいに濃いリンゴの匂いが充ちたとあります。そして、三人の水死者たちは、早速にリンゴをむいて食べはじめるのです。
賢治は、『双子の星』という作品の中で、「今は、空は、りんごのいい匂いで一杯です。西の空の消え残った銀色のお月様が吐いたのです」と書いています。つまり、お月様はなんとリンゴでできているらしいのです。昔から死後の世界のシンボルとされた月の正体はリンゴだというのです。
魂の錬金術
リンゴといえば、ニュートンを思い浮かべる人も多いでしょう。リンゴが木から落ちる瞬間を見て、「万有引力の法則」を発見したというエピソードが非常に有名です。彼が発見した「万有引力の法則」こそは、アリストテレスも信じていた「月より上の世界」と「月より下の世界」という二つの異世界を初めて一つに統合する「史上最大の法則」でした。木から落ちるリンゴを見てというのは単なる伝説にすぎず、じつは、ニュートンは天上の月をながめているうちに
「万有引力の法則」を発見したといいます。
リンゴが木から落ちるのは、すべて物体に重力があるからである。それでは、なぜ天上の月は落ちてこないのか。その素朴な疑問が「史上最大の法則」をニュートンに発見させたのでした。詳しくは、拙著『法則の法則』(三五館)をお読みいただきたいと思います。
月は死後の世界であり、四次元世界である。そして、リンゴは四次元世界の模型であり、月の正体である。もう、おわかりかと思います。賢治は、リンゴを食べることが、そのまま四次元世界にいたる魔法であり、死後の世界を上手に渡っていく方法であることを示しているのです。
ニュートンは「最後の錬金術師」と呼ばれるほど錬金術に情熱を傾けましたが、賢治によれば、リンゴを食べることそのものが魂の錬金術にほかならないというのです。さらには、人間の死とはその魂が四次元に分け入っていくことだといえるでしょう。そう、魂が肉体を離れていく「死」とは「魂の錬金術」そのものなのです!
童話に初めて「死」を持ち込んだのはアンデルセンであり、「死後」を持ち込んだのはメーテルリンクですが、宮沢賢治の童話にも「死」と「死後」があふれています。『銀河鉄道の夜』をはじめ、「ひかりの素足」「虔十公園林」「グスコーブドリの伝記」「土神と狐」「なめとこ山の熊」「まなづるとダアリヤ」「よだかの星」「フランドン農学校の豚」「水仙月の四日」「オツベルと象」「おきなぐさ」「鳥の北斗七星」などがそうです。これらの童話に描かれる「死」は、いずれも子ども、あるいは子どものような無垢な存在の死です。
ファンタジーに「死後」を持ち込んだ宮沢賢治
賢治と同じように、子どもの「死」を扱った作品が多いのが小川未明です。「太吉の死」「少年の死」「村の兄弟」「赤い手袋」「二つの琴と二人の娘」「金の輪」などがあります。
とくに太郎という少年が7歳のまま亡くなるという「金の輪」は透明な美しさをたたえた名作で、わたしの大好きな作品です。金の輪とは仏像の後光をイメージさせますが、これには小川未明の思い入れがあったようです。
未明は長男を六歳で、長女を12歳でつづけて亡くしているのです。それゆえ、深い哀しみとともに「童心」の永続性が未明童話から強く感じられます。
わたしは、小川未明を「日本のアンデルセン」だと思っています。アンデルセンは『人魚姫』という水の物語と『マッチ売りの少女』という火の物語を書きましたが、未明にはその名も「赤い蝋燭と人魚」という代表作があります。すなわち、未明はアンデルセンの二大名作を取り込んで、水と火の物語を書いたわけです。
未明はアンデルセンが童話に「死」を持ち込んだように、日本の童話に「死」を大々的に持ち込みました。しかし、賢治はさらにアンデルセンとメーテルリンクの2人の性格をあわせもっていると思います。なぜなら、賢治は「死」だけではなく、「死後」をも持ち込んだからです。
死後の世界を考えるとき、多くの人はまず「宗教」を思い、次に「哲学」や「科学」を思います。しかし、そのほかにもう一つ「物語」という方法があるのです。「死んだら星になる」とか「海の彼方の国に住む」とか「千の風になる」とかのファンタジーの世界があるのです。そのことを『銀河鉄道の夜』はやさしく教えてくれます。
わたしは、『銀河鉄道の夜』とは宇宙的視点から地球をながめ、「人類愛」を訴えた奇跡のような物語だと思います。賢治とほぼ同時代人で、フランスで同様のメッセージを発信した作品を書いた作家がいました。しかもその作品は、『銀河鉄道の夜』と同じく星から星をめぐる物語でした。そう、その作家とはサン=テグジュペリであり、作品とは『星の王子さま』です。