大仏は感染症対策?
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/column33.html
IDESコラム vol. 33「大仏は感染症対策?」感染症エクスプレス@厚労省 2018年12月21日
IDES養成プログラム4期生:大塚 美耶子
こんにちは。冬らしく寒くなりましたね。IDES4期の大塚です。
今年もインフルエンザが流行りだし、学級閉鎖になった学校も出ているようですが、皆さま、お元気にお過ごしでしょうか?
前回のコラムで幼少期より家族で、世界各地を転々としていたことお伝えましたが、現在の実家は奈良に落ち着いており今年の夏休みにも奈良に帰りました。今年の小3の長女の夏休みの自由研究は『仏像について』になりました。長女と一緒に取り組みましたが、母親の私も俄然熱が入ってしまいました。
実は奈良の大仏が作られた理由のひとつが感染症対策だった、というのをご存知でしょうか?
大仏の制作が開始されたのは西暦745年。聖武天皇が位に付いていた8世紀前半、天平9年(737年)には、当時の政治の中枢にいた藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が、当時猛威をふるっていた天然痘で相次いで死去したそうです。そのほかにも、天平時代は例年旱魃・飢饉が続いたり、天平6年(734年)には大地震で大きな被害があったり、社会が不安にさらされた時代であったそうです。
聖武天皇による東大寺大仏の造立には、こうした社会不安を取り除き、国を安定させたいという願いが背景にあったものと推測されています。
目に見えない感染症への、どうしようもない思いは、日本だけではなかったようです。
海外でも昔からマラリア、コレラ、チフス、天然痘、結核で死亡する人は多く、黒死病とも呼ばれたペストに至っては、14世紀のヨーロッパ人口の3分の1を死に至らしめたと言われています。
細菌やウイルス等感染症の原因が判明していなかった時代は、病気の流行は神の怒りや誰かの祟りであり神にすがるほか、魔女の仕業と思われると魔女狩りが行われるなど、予防や治療などもありませんでした。
未知の事柄について、誰かのせいにしたり、犯人捜しが起きていたようです。
まさに、当時、感染症は人智を越えた恐るべき存在であり、神や魔法使いの仕業とされていたことがうかがい知れます。
昔は神仏等に頼らざるをえなかった感染症対策ですが、科学が発達した現在は(まだ未知の感染症もありますが)幸いなことに原因や感染経路が解っているものが多いことから、感染症の対策を行うことも可能になりました。
感染症対策の基本は早期発見、早期対処を行うことで感染の拡大を抑止することです。
現代でも、感染症が発生したら、犯人捜しが起きてしまうことがあります。感染させた人を悪者にすることがあります。
ですが、感染症は、誰しも感染源となりうるという謙虚な姿勢で、善悪ではなく、感染症をみんなで押さえ込むために、皆さんが感染症にうつらない・かかってもうつさないという気持ちで日常を生活することが大切だと思います。
もし、現代で、大仏を作るとしたら、大仏様の大きな手には手指衛生のシンボルを、そして顔にはマスクをしていただいたり、袖で鼻と口を押さえるポーズのデザインにして、咳エチケット啓発のシンボルにすれば、まさに疫病の対策になりますね。
そんなことを考えた、子どもとのひとときでした。
もうクリスマスですね。体調を整えて、聖なる夜をお迎えください。
https://www.nippon.com/ja/in-depth/a06603/ 【人類の天敵「ウイルス」】
人類の天敵「ウイルス」(3):感染症の恐ろしさを忘れた日本人
2020.04.10 斉藤 勝久 【Profile】
日本人は長い歴史の中で、流行り病(はやりやまい=感染症)に何度も苦しめられ、見えない敵と闘ってきた。その名残が節分の豆まきなど、日本の文化に息づいている。だが、今日の多くの日本人は感染症の恐ろしさを忘れ、新型コロナウイルス感染拡大で自国に緊急事態宣言が発令されるとは、予想できなかった。人々が大都市に密集し、超高齢化する日本社会は、病原ウイルスが好む条件をそろえており、「天敵」への警戒を怠ってはならない。
奈良の大仏さまに込められた祈り
「奈良の大仏さま」で有名な東大寺では、4月から毎日正午、「新型コロナ」の早期終息などの祈りを込めて、大仏殿で僧侶が読経を上げている。約1300年前に大仏造立を決断した聖武天皇の時代は、大地震や飢饉(ききん)が続き、疫病(感染症)が流行した。
高熱を発し、死亡率が高く、治っても痕(あと=あばた)を残す「天然痘」で、人類を最も苦しめたウイルスによる感染症だ。平城京にもまん延し、当時の国政を担っていた藤原氏の4兄弟が全員病死するなど、朝廷は大混乱。日本の総人口(当時)の25~35%に当たる100万~150万人が亡くなったという。
相次ぐ国難に悩んだ聖武天皇が743年(天平[てんぴょう]15年)、国家の安寧や疫病から人々が救われることを願って大仏の造立を命じたのである。日本での疫病は古くより、海外から持ち込まれることが多い。平城京の天然痘は、朝鮮半島の新羅(しらぎ)に派遣した使節(遣新羅使=けんしらぎし)を通じて入ってきたと言われる。
疫病の流行で三十数回の改元
1年前に元号が令和と改まったが、改元も疫病と関係があった。令和は最初の年号の「大化」以降、248番目の元号だが、改元理由で最も多いのは、自然災害や戦乱、疫病など大きな異変が起きた時の「災異改元」で、100回を超える。これは新天皇の即位による改元の74回よりも多い。
災異改元のうち、3分の1の三十数件は疫病の流行で多くの死者が出た時だった。一番多かったのが天然痘で、続いて高熱と全身に発疹が広がる麻疹(はしか)。大勢の人が次々と亡くなっていく原因も分からず、治療法もなかった時代、日本人は祈り、改元するほかに対処の方法がなかった。
豆まきの「鬼は外」と、隅田川花火
節分の豆まきの「鬼は外」も、疫病に関連がある。豆まきは室町時代の1425年ごろから行われてきたとされているが、この鬼は、目に見えない恐ろしいこと、つまり疫病や災害なども含んでいる。赤鬼は天然痘をはじめとする感染症などで、高温のため顔が赤くなった病人を意味するという説もある。
また、各家の玄関などに鬼が嫌いなイワシの頭と、ヒイラギの小枝を差し、鬼の侵入を防ぐ。日本人はこれを今も毎年繰り返し、疫病神を追い出して病気にならないよう、家族で願い続けている。
「疫病退散」はすべての人の願いだった。東京の夏の夜を彩る「隅田川花火」もそれに由来する。1733年(享保18年)、江戸時代の8代将軍・徳川吉宗の時、「大飢饉や江戸に流行した疫病による死者供養と災厄(さいやく)除去を祈願して」、両国川開き(水辺の納涼祭)が行われ、その初日に花火が打ち上げられたのを起源としている。(東京・墨田区ホームページから。今年は新型コロナの感染拡大を受け、開催中止と決まった。)
世界遺産・金峯山寺蔵王堂の節分会で鬼に豆をまく山伏ら=2019年2月3日、奈良県吉野町(共同)
世界遺産・金峯山寺蔵王堂の節分会で鬼に豆をまく山伏ら=2019年2月3日、奈良県吉野町(共同)
感染症と大地震は「忘れた頃にやってくる」
今も全国各地の神社仏閣には、人々が昔から「疫病退散」を祈願してきた祭りや伝承が受け継がれている。これだけ疫病=感染症の問題は、日本人には身近に迫ったことだったのに、その恐ろしさを、今回の新型コロナで感染者が続出するまで忘れていた。
「感染症の流行と大地震はよく似ている。周期的に発生することは分かっていても、いつ、どこが狙われるか分からない。寺田寅彦の名言通り、『忘れた頃にやってくる』。地球に住む限り、地震や感染症から逃げられない」。環境ジャーナリストで、『感染症の世界史』(洋泉社刊)の著書もある石弘之さん(79)は解説する。
石 弘之氏:環境ジャーナリスト・環境学者。朝日新聞記者を経て、国連環境計画上級顧問、東京大学と北海道大学の大学院教授、ザンビア大使などを歴任。『地球環境報告』(岩波書店)、『私の地球遍歴―環境破壊の現場を求めて』(講談社)など著書が多い。
石 弘之氏:環境ジャーナリスト・環境学者。朝日新聞記者を経て、国連環境計画上級顧問、東京大学と北海道大学の大学院教授、ザンビア大使などを歴任。『地球環境報告』(岩波書店)、『私の地球遍歴―環境破壊の現場を求めて』(講談社)など著書が多い。nippon.comではシリーズ「日本の自然:破壊と再生の半世紀」を連載。
東京の代々木公園で70年ぶりのデング熱
近年、国内で感染症の問題が起きたのは、2014年の夏。東京の代々木公園で蚊に刺された最初の患者は、40度近い高熱で全身の痛みを訴え、「デング熱」に感染していた。元は暑い東南アジアの病気で、日本では第2次世界大戦中に南方の戦地などから持ち込まれて流行したことがあり、約70年ぶりの国内発症となった。
感染者は増えて2カ月で160人となり、終息した。デング熱の感染源は、やぶ蚊の仲間のヒトスジシマカやネッタイシマカで、海外で流行する感染症が日本に侵入してくることが避けられないことを物語っている。
この騒ぎの前に、コロナウイルスによるSARS(重症急性呼吸器症候群。2002年から翌年にかけ流行)とMERS(中東呼吸器症候群。2012年流行)が世界で感染拡大したが、日本は両方ともほとんど無傷だった。デング熱も早期終息。幸運が重なった日本は、今回の「新型コロナ」では、感染爆発する中国の事態を対岸の火事として、「わが国は大丈夫」と初動で油断があったことは否定できない。
「日本は過去の感染症のケースについて、多くを学んでこなかったので、生かせる経験が少ない」と石さんは指摘する。クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」号の集団感染の対応にも、日本の経験不足が現れた。この10年間に世界で110件ものクルーズ船での集団感染があったが、日本は豪華船に対して、あまりにも警戒不足だった。
採集した蚊からデング熱ウイルスが検出されたことを受け、代々木公園閉鎖の張り紙をする公園関係者=2014年9月4日、東京都渋谷区(時事)
採集した蚊からデング熱ウイルスが検出されたことを受け、代々木公園閉鎖の張り紙をする公園関係者=2014年9月4日、東京都渋谷区(時事)
人員も予算も減少傾向の国立感染症研究所
政府は東京五輪・パラリンピックを念頭に観光立国を目指し、訪日外国人旅行者を4000万人にする計画を進めてきた。それに伴って、今回のように感染症が日本国内に持ち込まれるリスクが一段と高くなるのは、当然のことだ。
しかし、国内で感染症問題の中心となる国立感染症研究所の人員や予算はこの10年で減少傾向が続いている。国立感染研の人員が約300人、予算が約80億円なのに対し、米国の感染症対策の陣頭指揮をとるCDC(疾病対策センター)は人員が1万数千人、年間予算8000億円を超え、情報収集、国民への説明、検疫作業まで幅広く行っている。
国立感染研には、今回、問題になったように、大量の検体を短時間で検査する機能はない。「日本の感染症危機管理の司令塔となり、人材や施設の充実した新組織を急ぎ立ち上げるべきだ」と訴える国内の専門家は少なくない。
世界一の高齢化社会がウイルスに狙われる
世界各国での都市化による人口集中で、過密社会になったことが、感染症の急増に拍車を掛けていることは、この連載の前回に述べた。日本も東京や大阪など大都市に密集する都市化は著しい。さらに、日本は独自の問題を抱えている。世界のトップを走る高齢化社会である。今回の「新型コロナ」で、高齢者が病原ウイルスに狙われやすいのは、改めて明らかになった。
「人は病気の流行を招き寄せる環境をつくってきたが、特に歴史上、例のない日本の人口集中と高齢化は、感染症流行の温床だ」と石さんは警告する。
近い将来に予想される大きな自然災害に、もし、凶暴な感染症の流行が重なったら……。これもまた、想像するだけで、鳥肌が立ってくる。日本社会を守るために、課題は山積している。(おわり)
バナー写真:奈良・東大寺の大仏。毎年、白装束に身を包んだ僧侶や信徒らが1年のほこりを払う「お身拭い」が行われる=2019年8月7日(時事)
https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200601-00180450/
【度重なる感染症と自然災害で生まれた奈良時代・平安時代の文化と制度】福和伸夫 | 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授 6/1(月) 7:30
災禍と歴史
新型コロナウィルスの感染拡大の中、過去の感染症や自然災害を調べるようになりました。海外では、14世紀の黒死病(ペスト)とルネッサンス、コロンブスのアメリカ大陸発見と天然痘による16世紀のアステカ文明やインカ文明の衰退、18世紀のリスボン地震とポルトガルの衰退、アイスランド・ラキ火山噴火による飢饉とフランス革命、1918年の第一次世界大戦終結とスペイン風邪など、大規模な感染症拡大や自然災害は、世界の歴史と密接な関係があるように感じられます。そこで、日本の歴史についても調べてみました。今回は、手始めに、奈良時代・平安時代の感染症と自然災害について考えてみます。
天平時代の天然痘・地震と天平文化
729年から749年まで続いた聖武天皇が治めた天平は、奈良時代の最盛期で、天平文化が花開きました。一方で、地震や疫病の大流行がありました。734年5月18日には、畿内七道を揺るがす地震が起きました。生駒断層の活動が疑われており、誉田山古墳の一部が崩壊しました。その直後、735年から737年には、天然痘と思われる疫病が大流行しました。総人口の3割前後が死亡したとも言われます。この疫病で、藤原不比等の息子4人兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)が病死しました。735年に大宰府に帰国した遣唐使や、新羅使が平城京に疫病を持ち込んだ可能性があります。
地震や疫病、飢饉に悩んだ聖武天皇は、仏教の力を借り、国分寺や国分尼寺を各地に作らせ、その総本山の東大寺と法華寺を建て、大仏を建立しました。多くの農民が命を落としたため、743年には、農業振興のため墾田永年私財法を制定し、農地の私有化が図られました。直後の745年6月5日には、天平地震が発生しました。この地震は養老断層が活動したもので、養老断層は、1586年にも天正地震を起こしています。
天平文化成立の裏には、感染症と大地震があったようです。ちなみに、節分のときに行う豆まきは、宮中で行われた追儺に起源があるそうです。疫病を持ち込む鬼を国外に追い払うために行われたと言われ、8世紀に始まったそうです。天平の疫病との関りが想像されます。
貞観の時代の疫病・地震・噴火と摂関政治・国風文化
859年から877年まで続いた貞観時代には、富士山の噴火、疫病、京都での洪水や飢饉、東北地方の大震災などが続発しました。藤原良房の摂関政治が始まった時代でもあります。
861年5月24日に、福岡県の直方に隕石が落下します。目撃記録が残る世界最古の隕石のようです。863年7月10日には、越中・越後で地震が起きます。同年には、都でインフルエンザと思われる疫病が蔓延し、終息後、霊を鎮めるため神泉苑で御霊会が開かれました。翌年864年7月2日には、富士山が大噴火します。貞観噴火と呼ばれる割れ目噴火で、青木ヶ原を溶岩が埋め尽くしました。866年には、応天門の変が起き、伴氏が滅亡して、藤原良房が摂政に就き、摂関政治が始まります。868年8月3日には播磨国地震が発生します。山崎断層が活動したようです。869年7月13日には、東日本大震災とよく似た貞観地震が発生し、大津波が東北の拠点・多賀城を襲いました。この年に神泉苑に当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈りました。これが、祇園祭の起源になりました。
翌年870年に菅原道真が方略試を受験しました。問題は、「明氏族」「弁地震」の2問で、地震について弁ぜよとの問いに対し、道真は中国で張衡が発明した世界初の地震計の地動儀のことを答えて合格します。そして、871年に鳥海山、874年に開聞岳が噴火しました。
元慶時代になっても、878年11月1日に関東地震が疑われる相模・武蔵地震、880年11月23日に出雲の地震が、さらに仁和時代になって、887年8月2日に京都の地震、8月26日に南海トラフ地震の仁和地震が発生します。まさに、大地動乱の時代でした。その後、894年には、菅原道真の意見で、遣唐使が廃止されます。901年に道真は大宰府に左遷され、903年に落命します。こういった中、日本独自の国風文化が芽生えていきました。
11世紀末の疫病・災害・改元と武家社会の到来
10~11世紀、清少納言や紫式部などが登場して王朝文化が花開く中、疫病が頻発しました。大都市・平安京は地方と交易が多く、密集した社会で疫病が感染しやすい環境でした。11世紀末には、1096年12月17日に永長東海地震、1099年2月22日に康和南海地震と南海トラフ地震が続発します。この時期には、災異改元が何度も行われました。
古事類苑の歳時部によると、1095年の寛治から嘉保への改元は疱瘡、1097年の嘉保から永長への改元は天変と永長東海地震、同年の永長から承徳への改元は天変と地震、1099年の承徳から康和への改元は康和南海地震と疾病によるとあります。たった4年間に4度も災異改元があり、原因は感染症と地震でした。この時期は、院政が始まった時代で、末法思想も広がったようです。
嘉保への改元以降の100年間に、改元が38回も行われ、そのうち災異に関わる改元は27回を数えます。うち、疾疫や疱瘡に関わる改元が12回、地震に関わる改元が4回あります。日本は、大化以降、1375年間に248の元号を持ち、疾疫や疱瘡が関わる改元は42、地震が関わる改元は25あります。100年平均で、18の元号を持ち、疫病に関係する改元は3.1回、地震に関係する改元は1.8回です。平安時代後期の疫病による改元の多さは異常です。この時代、平治の乱や保元の乱が起き、武士が台頭し、その後、平清盛や源頼朝の時代へとつながっていきました。
災禍を乗り越え、新たな文化を作ってきた奈良や平安の先人の苦労が思い浮かびます。
福和伸夫
名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
建築耐震工学や地震工学に関する教育・研究の傍ら、地域の防災・減災の実践に携わる。民間建設会社の研究室で10年間勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科で教鞭をとり、現在に至る。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。
https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/8422576/ 【「感染症と人間の物語」20 江戸のはやり病(1)天然痘(疱瘡)①祇園祭 東大寺大仏】 2020.06.10 08:41
4月21日、京都八坂神社HPの「令和2年度 祇園祭についてのおしらせ」。
「本年の祇園祭につきましては、新型コロナウィルスの感染拡大による国内外の深刻な状況を鑑み、安心安全を第一に、関係者協議の結果、下記の神事行事を中止と致します。」
日本三大祭のひとつでもある京都八坂神社の祭礼祇園祭。毎年7月1日(吉符入)から31日(疫神社夏越祭)まで、1ヶ月にわたって行われるが、最大の見所とされるのが7月17日の前祭(さきまつり)と同24日の後祭の山鉾巡行。「動く美術館」とも称されるたくさんの美術工芸品で装飾された山鉾が京都の中心部を巡行し、その模様を楽しみに多くの観光客が訪れる。しかし、この山鉾巡行も中止。
HPの最後にこう記されていた。
※祇園祭の本義を鑑みまして、四条御旅所には榊をもって神輿に準じる神籬(ひもろぎ)を鋪設して、三社のご神霊をお祀りし厄災除去の祈りを捧げてまいります。
※31日疫神社夏越祭の茅の輪は7月1日より疫神社に設置いたしますので、自由にご参拝下さい。但し本年は持ち帰り用の茅の用意はありませんのでご了承願います。
疫病除去とかかわりがありそうだとわかるが、祇園祭とはどんな祭りなのか? 今からおよそ1100年前の清和天皇の貞観11(869)年に、京洛に疫病が流行し、庶民の間に病人、死人が多数出た。そこで、神泉苑に66本の鉾(全国の国の数)を立てて祇園の神を祭り、洛中の男児が祇園社の神輿を神泉苑に送って疫病退散を祈願したのがはじまりとされている。祭りの主役は神幸祭・還幸祭。山鉾が悪霊を排除したきれいな街に、神様をお迎えする。御神霊をうつした神輿は17日夕刻八坂神社を出発し、主に鴨川以東河原町などを通り四条寺町の御旅所に入る。そして花傘巡行の行われる24日まで滞在し、24日夕方より今度は寺町通以西の区域をまわり、夜遅くに八坂神社に戻る。コロナで大変な今こそ盛大に実施してほしいのだが何とも残念。
日本においても古代より、人々に火事や地震より恐れられていたのは疫病(感染症)だった。江戸時代には、天然痘(疱瘡)、麻疹(はしか)、水疱瘡(水痘)は人生の「お役三病」とされ、一生に一度しかかからないこの三つを無事に終えることが、健康面での最大の願いだった。特に天然痘、麻疹は死亡率が高く、一度流行すると多くの人命を失った。
まず天然痘(疱瘡)について。1980年、WHO(世界保健機構)により「地球上からの天然痘根絶宣言」が出され、現代では“過去の病気”となった天然痘だが、それ以前は世界中で人々の命を奪う恐ろしい感染症だった。わが国での最初の天然痘流行は、『続日本紀』(『日本書紀』に次ぐ勅撰の歴史書)によると、天平7(735)年。天平9(737)年にかけて発生し、日本史研究者ウィリアム・ウェイン・ファリスが、『正倉院文書』に残されている当時の正税帳を利用して算出した推計では、当時の日本の総人口の25~35パーセントにあたる、100~150万人が感染により死亡したとされている(吉川真司『天皇の歴史2 聖武天皇と仏都平城京』講談社、2018)。感染源となったのは「野蛮人の船」から疫病をうつされた1人の漁師とされているが、発生地から見て遣新羅使もしくは遣唐使が感染源である可能性が高いとする見方もある。九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出す。天平9(737)年6月には官吏の間で疫病が蔓延し、朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟(天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子藤原不比等の子)も全員が感染によって病死してしまう。
流行は天平10(738)年1月までにほぼ終息するが、国家に降りかかる災いを仏教の力で守ろうと考えた聖武天皇は、天平15年(743年)に東大寺大仏の造像を発願。天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。のべ260万人が工事に関わったとされ、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円との試算もある。また、教科書でおなじみの、農業生産性を高めるために農民に土地の私有を認める「墾田永年私財法」が天平15年(743)に発布されるが、これは疫病によるダメージからの回復を目指す社会復興策としての一面が強かった。