伝染病の流行 古代・中世の疫病
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【第一節 伝染病の流行 古代・中世の疫病】 より
原始・古代の人たちは病気は邪神によって起こされるものと考えた。したがってその治療法は呪術的なものであって、祈祷によって神の崇りを除こうとしたり、削掛け・護符を所待して疫病から逃れようとした。とりわけ、一時的に流行する伝染性の疫病は、災いをもたらし死に導くはやり病として恐れおびえた。
『日本書紀』には、崇神天皇五年の条「国の内に疾疫多く、民死亡者有り」を初見に、奈良時代以前の疫病流行十数回を記録している。このうち、伊予国と明記しているのは慶雲三年(七〇六)の飢疫と翌四年の疫の二回である。『続日本紀』による奈良時代の疫病流行は二〇回で、伊予国の記載は天平宝字四年(七六〇)の疫のみであるが、諸国を通じて〝疫瘡〟=痘瘡の流行がしばしば記録されているので、伊予国も当然この中に含まれたであろう。痘瘡の流行で有名なのは、天平七年(七三五)大宰府管内に発生、翌々年これが全国に流行して、藤原不比等の四子をはじめ「公卿以下、天下百姓相継いで疫死」した時のものである。
中国との交通が盛んになると、大陸の悪疫も輸入され、諸種の伝染病が流行するようになる。痘瘡は平安時代に入るとますます流行し、『栄華物語』や『扶桑略記』などに散見する。また赤痢は『日本三代実録』貞観三年(八六一)の条に「八月、赤痢を患う者衆し、十歳以上男女児此病に染苦す、死者衆し矣」とあり、現今の流行性感昌に類する咳逆病も貞観四年を初めとしてしばしば流行している。この時代の診療は加持祈祷をもって第一としたが、各種の薬湯・丸薬の服用や排膿・洗浄・患部への膏薬貼布なども用いられ、湯治療法・鍼・灸・按摩も行われた。
鎌倉・室町時代の記録の多くはただ単に疾病とのみ伝え、その被害状況も京都のものがほとんどで、特に伊予国と記したものは見当らない。性病がわが国に入ったのはこの時代であった。梅毒は永正九年(一五一二)を初見として急速に広がり、民間では〝唐瘡〟〝綿花瘡〟と呼ばれた。ヨーロッパに梅毒が現れたのは一四九五年ころのフランスといわれるから、二〇年足らずで日本にも伝わったことになる。
この時代には、相次ぐ戦乱の中から矢傷・刀傷を専門とする外科医も現れ、〝金創医〟と称された。専門の医師や僧侶による調薬も進んで、薬が庶民の間でも常備されるようになった。温泉療法や按摩・鍼・灸も普及した。しかし、痘瘡や咳逆・痢病などの悪疫の流行は適切な防疫と治療の方法がないままに相変わらず猖獗を極め、「死亡算なき」有り様で、人々はただ神仏に加持祈祷したり、疫神送りや護符に頼るより策がなかった。
江戸時代の伝染病と防疫
江戸時代になると、都市や交通が発達するにつれて、伝染病はその発生周期の短縮が目立ち、頻発するようになった。中でも痘瘡と麻疹は、「庖疾は面定め、麻疹は命定め」と俗にいわれるように庶民が最も恐れた病気の代表であった。表1―1は記録にみられる諸国と伊予国の痘瘡・麻疹流行の概要である。
痘瘡の伝染経路は患者との接触とされたから、その防疫対策は患者の隔離を第一とし、専ら諸神に病魔退散を祈念した。『国分叢書』(越智郡桜井村庄屋加藤友太郎編)の「里老叢談」の中に、痘瘡は神の仕業であるからこれに羅ったものは皆痘瘡神を祭る必要がある、痘瘡神を祭るには庭内に小竹を左右に立てて七五三繩を張り、赤に紙で垂れ〝のし掛″を作る、数日そのままにして、〝七五三揚げ″をして産土神に納め、痘神に赤飯を献じ、患者に赤木綿の手拭を被らせるという、痘病の災いを最小限に食い止めようとする迷信的試みが見られる。またいわゆる〝庖瘡絵〟といって、疱瘡神を豆打ちする図柄に鐘堂・為朝・桃太郎などを描いた赤刷りの錦絵が痘瘡除けのまじないとして利用された。また「痘瘡軽クスル法」として、「二日前ヨり貯へ置ク白水ヲ湯ニ湧シタライヘウツシ」た中へ「あひる卵一ツ、つばめの屎三ツ、あづき三粒、酒少々、金はく弐枚」を入てとくと混ぜ、小児が生まれて七夜の内に手拭をもって頭面から髪の中まで身体中洗ったらよいといった迷信も伝わっていた。
流行性感冒(はやりかぜ)も全国で猛威を振るった。
流感(風邪)は享保年間ころから〝風邪″〝風気″〝風疫″〝風疾〟〝咳嗽″といった字をあてた記録が目立つようになる。大流行した時には、〝お駒風〟(安永五年)、〝谷風″(天明四年)、〝御猪狩風″(寛政七年)、〝お七風〟(享保二年)、〝薩摩風〟(文政七年)、〝琉球風″(天保三年)、〝アメリカ風″(安政元年)といった、流行時の事件などと結びつけた俗称を付したりしている。
赤痢は、江戸時代には広く〝痢病″と呼ばれているが、食毒・腹痛・腹下りと区別ができず、飢饉・水害の際などによく流行した。享保の飢饉に関する事項を集めた『虫付損毛留書』には、「薬法書之薬用候者を書付」の項があり、「食毒ニアタリ相煩ひ候ニ付炒塩をぬる湯ニテ用ひ快気仕候」「食毒ニアタリ腹張痛相煩候ニ付苦参を濃く煎シ用ひ快気仕候」食毒ニアタリ相煩ひ候ニ付黒大豆煮煎し用ひ快気仕候」「食毒ニアタリ腹痛後腹張り相煩ひ候ニ付苦参を用ひ其上大麦之粉を炒め候テ用ひ快気仕り候」「時疫相煩ひ候ニ付みょうがの根と葉を春汁で取用ひ快気仕り候」「時疫相煩ひニ付生房を舂汁で絞り用ひ、其上桑の葉を焙り煎じ用ひ快気仕り候」「時疫相煩候ニ付芭蕉の根を舂汁で紋り用ひ快気仕り候」などの薬法事例が報告されている。
江戸時代の流行病の記録は〝疫病〟〝疫邪〟など病名の不明確なものが多いが、〝湿疫〟〝熱病〟〝赤疹瘟病〟などの病名が記されており、今日の腸チフスと考えられている。コレラの流行は文政五年(一八二二)が最初であるが、伊予国の諸文書にはその記録がない。おそらくどのような流行病か解らず、記録する術もなかったのであろう。
安政五・六年のコレラ流行
安政五年(一八五八)から万延元年(一八六〇)のコレラは、伊予国でも猖獗をきわめ、多くの死者を出して人々に大きな衝撃を与えたことを各地の記録で知ることができる。
コレラ菌の原発生地インドから中国に広がっていた病毒をわが国に運んだのはアメリカ軍艦ミシシッピー号で、安政五年五月に中国方面からの患者を乗せて長崎に入港した。まず長崎出島に吐瀉の患者が現れ、艦内にも多数同様の患者があった。出島にいたオランダ医師ポムペはコレラ病と断定して治療法及び予防法を書いて長崎奉行所に提出したので、奉行所は早速管内の医者に周知させた。コレラの流行はたちまち九州・中国から畿内におよび、六月下旬には東海道万面に広まり、七月上旬江戸に入って、「八月朔日より九月晦日までの死人の員数一万二千四百九十二人、この外に人別無のもの一万八千七百三十七人」「葬礼の棺大道小路に陸続して昼夜を棄ず絶る間なく、御府内数万の寺院は、何所も門前に市をなし、焼場の棺所せまきまで積ならべて山をなせり、夕に人を焼く葬坊も旦に荼毘の煙と登り、誂へらし石塔屋も今の間に自己が名を五輪に止む」(「安政牛秋頃痢流行記」)といった惨状となった。
八月一三日には宇和島藩江戸邸内にも疑似患者三、四人が出た。気遣った伊達宗城は、自書でもって「火鉢江程能く火を入れ、とろ火にて大茶碗か土びん様のものへす(酢)を入れそろそろと煮たゝぬ様ニせんじ、足を座敷の間中へ置き、すの匂ひ十分に座敷うちへ廻り候ヘハやめる、右折々いたし日中又ハ上天気の節ハ是に及す、雨天の節しめしめ敷日ハ度々致す可き事」「寝冷への用心専一」「喰物にも、す(酢)の物類の宜敷折々喰可し、肴類用心、もたれ易き品又ハ一夜こしのもの禁す可き事、煮立の品よろしく候也」といった予防法を示した。八月二四日には幕府から悪疫の薬法が出されたので、藩主直書の予防法共々直ちに諸士に達し、宗和島にも九月一日これを伝達した。
幕府の「コレラ疫癘ヲ防除する要方」は、「一 流行病ノ人々ニ伝染スルヤ、口鼻ノ呼吸息ニ随ヒ腹中ニ入り、血液へ交り、一 身ヲ循環スル故二病根トナル」に始まり、「一 住居ハ広クシテ風気ノ左右前後ニ吹透ス所ヲ選フヘシ」「一 飲食ヲ慎ムニアリ、野菜ハ新キヲ選ミ一切軽ク湯煮シクルモノ、其他芥子、胡麻、紫蘇、柚等ノ香アルヲ専用スヘシ、魚類油気少キモノ、鶏卵類ハ良シ、野菜類共ニ久シク塩漬又ハ天日ニ乾シタル至テ悪シ、惣シテ腹中温暖ナルモノヲ選フヘシ、服シテ寒冷ナルモノ必ス食スへ可ラス」「薬用ハ大小便ノ快利ヲ第一トシ、次ニ龍脳、麝香惣シテ香気アル薬朝夕用ヘシ、頭脳開キ快ク思ヒ軽キヲ覚ルヘキヲ専用トス」など、通気・食物・薬などに関する事項を箇条書きにし、蘭医ポムペの提出したコレラ治療法・予防法を付していた。その予防法の中には、「第一 胡瓜、西瓜、未熟ノ杏子等相用候儀堅ク禁候事」「第二 人々裸ニテ必ス夜気ニ触レ申サス様心掛申ス可シ、夜分決テ衣類覆ハス寝申間敷候事」「第三 日中暑気ニ触レ余リ身労ノ仕事致シ申間敷候事」「第四諸惰弱ノ行殊ニ酒呑過義最モ害ニ相成候事」「第五 若シ下痢相覚候ハ、直様療用ノ手当致シ猶予致ス間敷候事」といった内容のものがあった。九月七日、江戸藩邸には藩医冨澤大珉(禮中)
の宇和島城下コレラ流行に備えて施薬調達申し出の四日付「口上」が届き、一七日には公儀から諸国に沙汰された素人に心得べき療法「覚」を藩内に頒布するなど、国元でも次第に慌ただしさを増した。幕府の「覚」は、予防法として「冷す事なく腹ニハ木綿を巻き大酒大食を慎み、其外こなれ難き食物を一切給申間敷候」と指示、もし暴瀉を催すことになれば、「早々寝床ニ入りて飲食を慎ミ、惣身を温め」、芳香散へ桂枝・益智(龍眼肉・乾姜を調合した漢方薬)を用いること、これのみで治する場合が少なくないが、「吐瀉甚敷惣身冷る程に至りしもの」は焼酎一二合の中に龍脳または樟脳一、二匁を入れて温めすり込み、芥子泥(からし粉・うどん粉を等分に混ぜ酢で堅く練った湿布薬)を木綿切れに伸ばし下腹や手足へ小半時位で度々張ることなどを説いていた(資幕末維新八六六~八六八)。
幕府からの触書は大洲領郡中の『塩屋記録』にも書に写している。回記録は、「安政五年九月四日頃ヨリコロリと申病気大流行、直ニ病死也、長崎ヨリ初メ大坂江戸別シテ多シ、当四国ハ高松御城下に始まり、一日ニ弐百人程ヅツ死ス、未夕当所ニテハ少々御座候へ共、松山領松前に死人多し」と報じ、郡中町内で申し合わせて祈祷御籠百万辺その外諸社参詣を行い、九月一七日石鎚山代参、一八日宇佐八幡宮へ大般若祈祷を申しこむなどひたすら神頼み祈祷の日々であった。町内には、郡申諸藩医服部玄琢の手になる「禁物 くだ物生、疏菜生、焼酎、飲酒過度、もっともわろし、そのほか腹ニてこなれ難き物、平生食来儒物の外わろし、かつ食物過不及これなきよう専一なり、次に日中暑気時分働くことわろし、夜分長起きわろし、時刻を定め起臥すべし、慎まざれバ病をまぬがれかたし、用心第一也」といった「蘭人流行病予防口授の大略」を回達したりした。他方では、流行病は手足より付くとして、「其節手足しびれ直ニほそびき又ハなわもてくくり、直血かたまりたる所切り、血とり候ヘハ本復人も有り」といった誤りの療治法もはびこった。すねの下をくくって血を取る療治法は、同じころの温泉郡『湯山村公用書』にも記しており、「脚の筋を針にてさし又は刃物にて切て血を出せば大事に至らず命を助かるよし、右は九州辺にて比度流行の節、はじめ此療治をしらざる内は多く死失候処、此療治を覚てより助かり候者多くなり候よしに聞也」とある。ついで同書には、「ころりのまじない 生姜をへき、男は左、女は右の手足の内にこれをおき、その上に灸をすへて川見流せば此病をまねかるゝよし、江戸より申し来る」「同まじない一、ちひさき括り猿をぬひ、其中へ唐がらし、ふてし、やいと、ひいらきの葉少々づつを入れ、さげ居り候得は病を免るゝよし」、さらにコレラを免れる薬として、桑の香・木香・麦芽各一匁と丁子五匁を「能々水弐合入壱合にせんじのみ置候」、白乾天・胡麻各一匁・甘草少々・南天葉三枚・榊葉一枚・梔三ツを「水壱升入八合にせんじ茶碗に一杯ほどづゝ呑置けばころりの病まぬかるゝよし」とあり、これらの療治・まじないは早々に村方へ伝達されたようである。極めて幼稚・素朴な治療法であるが、コレラに戦々競々としながらも防疫に懸命に取り組む姿がうかがえる。
安政五年伊予国でのコレラ罹患者・死者の総数は不明であるが、宇和島藩八月一一日付の『御手留日記』に死者一〇日間に一、六四〇人・治療中四、五〇〇人とある。藩では、領内戸島の惨状が知られている。コレラ流行の経過と治療に当たった浦医の東水や三好周伯・熊崎寛哉らの活動を『藍山公記』に収録している周伯の復命書で追ってみよう。
戸島にコレラ患者が出たのは九月五日、罹患者男(二三歳)はその夜死亡した。ついで九日二人、一〇日一人、一一日二人、一二日四人、一四日一人、一五日一人と次々に発病、翌日か数日後に死去した。九日藩医谷快堂が出張して、浦医東水に治療法を授けたが、その際薬品〝ホフマン〟の補充と応援医師の派遣要請を受けた。藩当局は、布清恭に出張を命じたところ病に託してこれを辞去したので遠慮に処し、代わりに三好周伯を派遣した。周伯は一三日夕戸島に着岸、翌一四日東水から「九月五日夜半頃より発病、色々と手術相尽し候得共、寸効なく甚だ当惑仕候、九月十日十一日の間劇発して死者十人、その内半死者三人御座候」との状況報告を受けた。周伯は、戸島に来る前の一一日砂澤杏雲のコレラ療治に立ち会った。患者は、「微下痢一二行四肢厥冷痙攣ヲ発ス、直ニ痩削眼目陥り、声嗄煩悶甚敷ク、脈欲絶、身体強硬シ冷汗出ル」といった症状であり、左手の血管を刺しても血は出ず下痢を続けた。杏雲が蘭医ポンぺル説の水薬(ラウタ三〇滴・ホフマン一五滴・薄荷油三滴を二合半の水に混合した調合剤)を用いると、「吐弥々甚シ、下痢亦甚シ三四行の後、痙攣益々劇シク、後衰弱加り欲絶」の症状を呈したが、ラウタニュム一〇滴を投入したところ「少々四肢痙攣ユルム、暁ニ至リテ少シ精神モ正シク言語モ分リ、四肢温ニナリ」、追々回復に向かっていった。周伯はこの事例を参考に、一一日発病した患者に水薬飲用を試み、「能ク相応」の効果を得たので、東水と共に数人に同様の治療を施し、「其後ノコレラ病数十人御座候得トモ、先ス活路ニ趣キ侯者多シ」といった一安心の事態となった。「薬ハ運用事専一ト相考へ申候」、死亡した一二人も「右ノ水薬ヲ用ヰ候ヘハ生キルヘキモノカト案セラレ候」と、周伯は残念がる。水薬が効を奏したのを見極めて、直ちに滋養物を少し与え強壮剤を服ませ養生専一にした結果、劇症のコレラ患者は次第に快癒、一四日時の患者三〇人の内死亡したのは二人だけであった。しかしその後も、一五日一五人、一六日四人、一七日二人、一八日五人と罹患者は続き、一八日二人が死亡した。一九日には日夜治療に尽力する東水の長女もコレラと診断された。東水も感染のおそれありとして療治を辞し、代わりに熊崎寛哉が二〇日昼応援に来診した。二〇日五人(内死亡一人)、二一日三人と罹患する中で、二二日に至り東水も発病、二三日には同人娘が薬石効なく死去した。熊崎寛哉もまた吐瀉が激しく感染の疑いが生じたので、藩は砂澤杏雲を急拠出張させて東水と寛哉を診察させた。東水の娘と老女を最後の犠牲にして、二四日以後新しい患者は出ず、二七日東水が平癒したのをはじめ病人も漸次回復して、一〇月上旬には戸島のコレラは終息した。「九月十四日ヨリ診察ノ病者百貳拾人程、コレラ病緩劇者五拾三人、死候者六人御座侯」、「熊崎寛哉、東水、周伯、此三人一致シテ精力を尽シ、命ヲ危難ノ間ニ置キ、昼夜間断無ク病者ニ心ヲ配り候也」と、周伯は復命した。
戸島のコレラは海を渡って加(嘉)島に伝染した。九月九、一〇、一一日ころ発病した患者の内一二人が死亡した。藩庁は松澤潤堂・小川道安を派遺することにしたが、両医師が渡海する前に周伯が戸島のコレラが一段落したとして二四日加島に渡り直ちに病人を診察した。「発病甚劇症、衰弱シテ死ニ向フ」重病者もいたが、「衰弱致シ候ヘトモ先ツ活路ヲ得候」病人に水薬を投じたところ、次第に快方に向かった。結局加島では二二人が発病、内一二人が死亡した。二七日、松澤・小川の両名が加島に着いたので、周伯は水薬の運用や病人治療の経験を申し送って二七日夕方戸島浦に帰り、一〇月五日帰城して病勢の衰退を上申、復命書を提出した。一〇月一七日藩主伊達宗城はコレラ治療の労をほめ、熊崎寛哉に銀三枚、松澤潤堂・小川道安に銀二枚あて、東水に米五俵を賜った。周伯は謁見を許され、二二日三好姓を名乗った(資幕末維新八六八~八七〇)。
翌安政六年(一八五九)も七月上旬からコレラが流行した。前年の流行でコレラの恐ろしさを知った人々は各地で疫病除けのまじないをした。『塩屋記録』によると、郡中では七月二五日天神社で神楽祈祷が行われ、以後四日間「賑わい勝手次第」で疫病神を払うことが許された。町組は鐘馗大人形、下浜組は猿大人形、上浜組は天狗大人形といった作り物をかき歩き、そのほか太夫行列・住吉踊り・祇園ばやし・神楽祭・御殿様行列・にわかなどで賑わった。清正公の信心者は幟はたに題目を唱えて七日間通りを回り、石鎚山への代参も出発した。八月に入っても病気流行は衰えないので、町ではまた鐘馗人形をかいて回り、戎社から神輿が出た。八月二九日には、藩より中以下の病者に医薬料を支給した。伊予岡八幡社・稲荷神社はそれぞれ藩命により一昼夜の祈祷があり、谷上山ほか諸寺も毎日祈祷に専念した。諸社寺より授けられた大守札が町内入口に立てられ、家々には朱文字守札が張られ、人々は縫い猿を身につけた。
松山城下では七月からコレラ(暴瀉病)が蔓延、東雲神社で領民除病安全のための祈祷が続けられ、成就の九月四日各町村に神酒、家々に御守が配られたことが、『松山叢談』『湯之山村公用書』などに記してある。この年松山城下では二、〇〇〇余人の死亡者が出たと『世上見聞録』(温泉郡大庄屋 郷田金次郎記録)は伝えている。
『小松藩会所日記』によると、九月五日の調べで、新屋敷村二一人、広江村二人、今在家村二人、北條村五人、吉田村四人、妙口村一二人、大頭村三人、北川村八人、上島山村一人、町一五人、計七三人の死者が出ており、一〇月二八日の再調査で死者一三七人に達している。『西条誌』には、「西条にコレラ病流行死亡者多数、大町村八堂山は新墓を以て一時白色を呈す」といった記事もあり、東予地方でもコレラは猛威を振るった。宇和地方には川之石浦・伊方浦・三机浦など沿岸部に流行、小川道安・松澤義安・布清恭らが派遣されて治療に当たった。西海浦には上方から帰帆した若栄丸がコレラを持ち帰り、七月一二日船主の倅の死に始まって船乗りと家族が次々と発病、内泊部落で三七人の人々が次々と死んでいったという。猖獗を極めたコレラも一一月ころようやく終息した。安政六年のコレラは、前年に比べてはるかに多くの古文書に記録されており、農村町方の区別なく人々の関心が高まったことが知られる。
文久二年のコレラ流行
文久二年(一八六二)も悪疫の年であった。三月ころから疱瘡、五月ころより麻疹病がはやり、七月末にはコレラが流行しはじめた。郡中では、八月五日、町役場から赤文字守札が配布され、この日氏神に悪病祈祷が行われた。七日から五日間清正公信者が題目を唱えて町中巡回、八日から五日間石鎚講中が貝を吹いて町中巡回、この日石鎚山へ代参二人が出発、一〇日藩命で氏神に二夜三日の祈祷を開始、一一日には石鎚代参が帰町して各戸に入り込み祈祷をした。閏八月末ころにコレラは止んだが、疱瘡・はしかは絶えず、これら諸病で死亡した者は湊町だけでも一七〇人にも及んだ。
この『塩屋記録』のほか、『西条誌』にも「文久二年夏秋の候、コレラ流行、死者多し」と記されている。宇和島領では日振島に七月二七日コレラ患者が発見されたのを最初に、八月上旬津島郷の北灘・野井村・岩松村に伝染、同月中旬には宇和海の遊子浦・戸島に波及、同月から九月上旬にかけ九島浦・奥浦に広がり、三崎浦の内佐田浦にも罹患者が出た。コレラ病が発生するや、藩庁は、日振島に松澤潤堂と三好周伯、野井村に小川道安、岩松村に土居元慎と熊崎寛哉、遊子浦に布清恭、戸島に能島玄節を派遣、日振島がやや収まると松澤潤堂を戸島に移動させた。さらに九島浦に冨永習益、奥浦に林玄仲を出張させるなど、御側医格まで動員しての非常時態勢をしいた。医者の払底で不安になったのは宇和島城下の町人であり、「町内悪病流行ノ処御医方出在にて一統不安堵至極、自然手後ニ相成候て相成す儀何卒御呼戻成下度」と八月二五日付で藩に願い出た。このコレラも九月下旬には鎮静化した。八幡浜医師玄啓が一二月の書付で「コロリ流行ノ節、実意ニ治療致候ニ付、右様御褒美帯刀御免」を許されている文書が残っているところをみると、八幡浜方面にもコレラは伝播したようであり、この年の疱瘡・麻疹に加えて虎列刺という悪疫流行のすさまじさがうかがえる。
翌文久三年には中国の上海でコレラが大流行、昨年も上海で流行したものが三〇日ばかりして日本に上陸して猛威を振るったとして、六月公儀は長崎で「コレラは悪気相感し候病ニ候へ共伝染もいたし又ハ不養生の者兎角煩ひ候由なれハ用心に寄て引受さる様に相成候間、心得ノ為食禁並平常養生書付相渡候」と、次の「コレラ養生法」を示し、宇和島藩は七月五日にこれを郷中に触れ出した。
コレラ流行之時といへとも直様うろたへさはぎてそのつねのならひをかふべからず、只能く養生をおこたらぬよふに、おたやかにやしないをせんこと肝要とす、家屋しきおこたらずそふじして清らかになし、気の通ふよふにしてきたなくけがれはしき事をいむべし、尤油こくしてこなれがたきもの、油揚餅だんごの類と能熟せざる木草の実を食すべからず、凡食してあしきもの左に記す、すべて卵ある魚、色青き魚、いわし、さば、たこ、いか、しび(但マクロ也)、かつを、くじら、このしろ、かに、蛤り、えび、凡塩づけの肴類、すいくわ、きうり、まくわ、かき、なし、凡右にしるすものは、今よりあつき間はわすれでも食すべからす、凡ことしこれらの気味有之時ハすくに服足をあたゝめやく湯(足を湯にてあたためる事)風呂にて惣身を能あたゝめ、又腰湯をして惣して厚き夜具をかけ十分にあせを取べし、その後もなほひへぬやうに心付べし、又ハ日にてらされあつきにあはぬようにして、こゝろはへをやすくして何事にてもおもひこらさる様惣身をやすらかにすべし、男女の交りをつゝしみ、多く人のあつまりたる所に寄るべからず、酒食事すぎざるようにすべし、養生には一日に猪口一つ位しょふちうをのむべし、大に吉、しかれとも多分にのむと其身をほろほしにいたるべし慎べし、
種痘の開始
ヨーロッパでジェンナーが牛痘接種による痘瘡予防法を発見したのは一七九八年で、日本の元号寛政八年に当たった。牛痘接種の知識はシーボルトらによって日本に伝えられ、天保一〇年(一八三九)には蘭医リシュールが牛痘苗をもたらし長崎で二児に接種を試みたが、不善感に終わった。種痘書が相次いで翻訳され、それに刺激されて種痘を実施しようとする蘭方医も現れたが、この時期には牛痘苗を入手することは困難であり、人痘接種法による試みが続けられた。
弘化四年(一八四七)二月八日、伊東玄朴は宇和島藩主伊達宗城の命で妹正姫に種痘を施した。前年から疱瘡の流行甚だしく命を損する者の多い中での宗城の決断であり、折から玄朴の下で修業中の藩医富澤禮中がこれを手伝った。正姫は「十五日より発熱し軽疱瘡と変じ、三月朔日全く癒す、面部僅に三ヶの疱瘡を残すのみ」(『伊東玄朴伝』)となった。正姫平癒につき奥附の面々は酒拝味仰せ付けらせ、禮中にはお褒めの目録が下された。
正姫に実施した人痘接種法は一応の成功をみたものの、発熱・軽疱瘡などの副作用が現れた。玄朴はこの副作用を取り除くには牛痘苗を用いるほかないと断じ、佐賀藩主を通じて牛痘取り寄せを長崎在留の蘭人に依頼した。嘉永二年(一八四九)七月、オランダ船が牛痘痂をもたらしたので、一〇月鍋島藩は江戸在勤中の伊東玄朴にこれを送り、玄朴は江戸藩邸の子弟に種痘を施した。一二月、玄朴門を退去する冨澤禮中に饒別として牛痘痴と種痘針を贈り、種痘方法について懇切に指示した。玄朴から禮中への書簡には、「当夏は長崎表牛痘舶来有之、追々東部へも伝播、十二月二日弊藩に参り夫より追々弘まり千人余も種立に相成申候、誠に古今の良法小生も追々試み既に一三〇人余実験仕候、京坂も殊の外盛の趣に御座候」と、牛痘接種の効用とその普及の様子を伝え、「牛痘痴並びに牛痘針等差上牛痘書相添差上申候、早速御試可被成候」「但し人痘の如く間地狭く種候事は甚不宜、一寸づつ間を取り御種可被成候、牛痘書にも有之候通り小児の年令に依り成るだけ数多く種え、第八日九日に相応の発熱有之候様に可相成候、二度目よりは痘を潰し痘漿にて御種可被成候、痘痂は感受不定に御座侯、痘漿をとるは種候初日より第八日に限るなり、西洋流の第七日日本数へにて第八日なり、少しも後れ候はば仮痘を生じ申候、真痘と仮痘との区別第一なり、仮痘は再痘す、慎んでこれを見誤る勿れ、」と、種痘法を解説した。
右の伊東玄朴の書簡にあるように、この年から翌嘉永三年にかけて江戸では伊東玄朴・桑田玄斎・大槻俊斎らが毎日数百名の小児に種痘を施したといわれ、京都では・(木へんに人、西)林栄建・日野鼎哉ら、大阪では緒方洪庵が種痘に尽力した。種痘所も各地で設立され、嘉永二年一〇月京都新町に「除痘館」が設立されたのを始めとして、一一月緒方洪庵が大阪古手町に、笠原良策が越前福井にそれぞれ「除痘館」を設けた。伊予国では宇和島藩が諸藩に先がけて、嘉永五年(一八五二)二月城下本町二丁目の町会所に種痘所を設立、毎月三日と一八日を種痘日と定めた。接種医には、伊東玄朴の手ほどきを受けた富澤大珉(禮中)と砂澤杏雲が任ぜられた。二月七日付の宇和島藩庁『大控』には、「冨澤大珉砂澤杏雲、此度右両人へ申付一統へ種痘致させ、毎月小児召連罷越候日次三日十日十八日二十五日卜相定候」との「御直書」を受けたので、郡奉行に「望ノ向ハ遠慮無ク罷出ヘシ、尤謝礼向等ハ一切心遣ニ及ス候、此旨在浦中江申付ハセヘク候」と指令したと記録されている。城下の町奉行や御船奉行・御作事奉行にも同様の指示をして、町方・職人への徹底を図った。町会所での種痘施術は三月一八日から開始されたようであり、二〇日冨澤禮中は会所へ小者一人・風呂土瓶一組・茶碗一〇・燭台二・煙草盆三・薄緑六・硯箱・筆墨・蝋燭・茶さらには炭の支給を求め許可された。五月一八日以後松澤義安倅の潤堂が折々手伝うようになり、六月二八日にはかねて申し出ていた伊方浦の開業医脇本玄昇の手伝いが許された。九月一四日には、谷快堂・賀古朴庵の両藩医が種痘医に追加され、さらに安政二年(一八五五)五月二七日土居玄慎と布清恭が加わり、同四年八月二日には父禮中に代わって冨澤松庵と谷口泰元が種痘医に任命された。
民間では、種痘所設立直後の二月二七日、卯之町代官役から「卯之町医師二宮敬作ハ先年長崎へ修行ニ至リ種痘術モ熟達シ難痘ニテ損スル者ナキ様治療ノ志願アリテ謝礼等ノ望ハナキ趣ナレハ、御領下望ノ者ヘハ右ノ者へ種痘セシムル様達シテモ苦カラスヤ、然レハ城下迄召連ルノ費モナク村落便ナリ」といった伺いがあり、藩庁は「冨澤大珉砂澤杏雲へ命ラレシ事故右両人ノ差図ヲ得テ勝手ナサシムヘシ」と指令したとの記録が『大控』に見えるので、二宮敬作がこの時期から種痘を開始したようである。また嘉永六年(一八五三)ニ月二二日、二名津浦の医師玄周が種痘の許可を求めてきたので、藩庁は種痘所に出頭させて実習の後許可を与えた。安政六年(一八五九)一〇月には魚成村源龍、古市村寛斎・田穂村俊斎・富岡村元厚らに種痘を申し付けている。
このように宇和島藩は伊予諸藩だけでなく全国に先がけて藩営種痘所を設置し種痘の普及に取り組んだ。この宇和島藩よりも早く種痘を領内で実施したといわれているのが、今治藩医菅周庵と半井梧菴であった。長崎で医学を修業していた菅周庵がオランダ商館付の医官オットー・モーニケが持参した牛痘苗を入手して帰藩、その実施方について半井梧菴と相談した。梧菴も種痘法の有効なことを承知していたのでこれの実施方を藩主に建言、周囲の反対を押し切って、嘉永二年(一八四九)一一月藩士の子弟に接種したという。半井梧菴は『愛媛面影』の資料蒐集のため文久元年(一八六一)秋、新谷を訪れ、宿主鈴木小三郎と友人大野道別の子供・孫に親たちの危惧を払いのけて接種していることが、彼の紀行『西行日記』一〇月二日の項に見える。
松山藩の種痘は安政二年(一八五五)城下の町医池内蓬輔によって、初めて牛痘接種が行われた。蓬輔は『種痘小言』・『散花養生訓』を著して牛痘接種の普及に努めた。この書物は伊予人における種痘書の唯一のものであり、『散花養生訓』が現存する。
池内蓬輔の後、安倍楳翁が大街道で種痘社を起こして種痘の普及に努めた。楳翁の孫に当たる安倍能成は、『我が生ひ立ち』で、祖父と種痘について次のように記している。
私が祖父について人から聞いたのは、祖父が松山に於ける種痘の元祖だったといふことである。近頃誰かが見せてくれた文書の中に、こんなのがあって抄記してあった。それは牛の上に児童が「散華妙手」と書いた旗を捧げて乗り、そのぐるりに蔭高と署名して、「力ある安倍牛こそは牛起せおこしたりけりううるわざをも」といふ歌のやうなものが書いてある。安倍牛といふのは祖父楳翁のことで、楳翁が牛痘を土地に始めたといふことを讃へたものでもらう。それに添へて、「伊予松山牛痘種開祖安倍楳翁」と署名し、それに左の如き歌のやうなものが掲げられて居る。
植てより日数八日はもち玉子大豆酒鯛それらみなよし
灸ゆあみ髭そることも植てより十五ヶ日はゆるさゞりけり
鳥けもの青魚酢酒油けはすごしはわろし二十八日
これはどうも祖父の広告引札のやうなものであったらしく、前の祖父をほめた歌も種痘を受けた者の衛生を説いた歌も、皆種痘弘めの歌で、祖父といふ人は商売気のある町医者であったらしい。
池内蓬輔や安倍楳翁らはともに町医であり、宇和島藩の種痘が藩当局の奨励で普及していったのに対し、松山藩はこの面でも保守的であった。ちなみに、江戸在住の蘭方医伊東玄朴・箕作元甫・大槻俊斎ら八〇余名が神田お玉ヵ池に種痘館を設立したのは安政四年(一八五七)であり、万延元年(一八六〇)七月幕府はこれを官立にして種痘所と改称、同所で種痘を受けるよう江戸の町民に告知した。
温泉療法と漢方薬
医学が末発達な江戸時代には神仏に頼ったり呪術行為に依存することが多く、様々な民間療法が実施された(『愛媛県史』民俗下〝民間療法〟)。
火山列島日本至る所で湧き出る温泉も万病治癒の源泉として古来親しまれた。四国を代表する道後温泉の効能について、元禄一五年(一七〇二)編集の『玉の石』は、「一、上気 一、づつう 一、めまひ一、月の病 一、らうがい 一、たん 一、せき 一、つかヘ 一、打身 一、せんき 一、さん(まへのち) 一、かつけ 一、くじき 一、りん病 一、痔漏」など三一種類の病名を挙げ「此外諸病に浴してよし、一切の腫物いへかぬるによし、すべて男女にかぎらず病不病をえらハず」と説いている。嘉永四年(一八五一)に出版された『諸国温泉効能鑑』には「小結、諸種病ニよし予州道後湯」とあり、大関有馬温泉・関脇城ノ崎温泉に次ぐ温泉として全国に喧伝されるなど、湯治客で賑わった。
病気治療の決め手は薬剤であったから、江戸時代には本草学が発達し、幕府・諸藩は各所に薬園を設けて肉桂・人参などの薬用植物を栽培した。将軍吉宗の代に幕府採草使植村佐平次が享保一三年(一七二八)八月薬草を求めて伊予国に来たことが諸記録に見られる。また二宮敬作の願い出で嘉永三年(一八五〇)卯之町に薬園が開かれ、人参・黄連・甘草・知母・求地黄・サフランなどを栽培していたことが知られている。
蘭方医学が普及しない当時には、薬草に動物・鉱物など多種類のものを混合して調製する漢方薬の知識を身につけることが医師にとって必修条件であった。このため医術修行は薬種調合の会得に多くの努力が費やされた。
嘉永六年(一八五三)以来九年間江戸で華岡流外科学の修行に励んだ谷村元珉は、文久三年(一八六三)二四歳の若さで大洲藩江戸詰御番医に召し抱えられた。元珉は藩主加藤家の事、年賀御挨拶の事、屠蘇分量の事、登官応対記をはじめ必要と思われる見聞を「世俗聴言録」「諸事覚え控」に書き留めていったが、専門の医術についても諸家の薬剤秘伝を写し取り『葆斉秘録』と名付けた。この写本には、赤井家に伝わる産薬〝神亀生命湯〟などの漢方薬から〝ミイラ″〝スクシイネ″〝ハルサモ″といった阿蘭陀膏薬まで、その調合法・薬用法・効用について子細に記録している。例えば神亀湯薬は、「地黄、丁子、肉桂、防風、大黄」を薬種とし、「身ヲ清メ衣服ヲ改テ調合」、天照皇大神宮・水神・薬師如来に「安産速快為シ給エト祈念」、「難産ニハ朝鮮人参三分入、夫目口一盃入レ八分ニ煎シテ吉」「常任躰ノ時ハ人参一分二分ニ過ヘカラス」「産ハヤメノ時ハ前ノ八分ヲ一度用フヘク、産後ハ二口三口宛度ヲ重ネ用フヘシ」、「一 第一産諸ノ難治ハヤメニ吉 一 横産逆産ニ吉 一 産乱気ニ吉 一 産後腹痛ニ吉 一 産後頭痛ニ吉 一 産後血多下ルニ吉 一 産後ツカエニ吉 一 産後諸病難治ニハ先ツ此薬用ニテ吉」といった内容であった。またオランダ薬〝ミイラ″の効用につき「落馬打身ニ酒ニテネハネハト摺リ、打タル所ニ付ル、ヲクリカンキリ、スヘルマセイテトニ三分宛合せ酢ニ入レ用ハ打身ニナヲナヲ吉」〝スクシイネ″は「熱気有テ鼻塞リタル時粉ニテ火ニクベ煙ヲ鼻ニカク、風ヲ去リテ吉、熱気有テ耳塞タル時ニ、ハルサモヘラヒヤメン、乳香、琥珀此三色合セ火ニクヘ煙ニテ耳ヲフズベテ良、風ヲ去り耳明ニ成ル也」と説いている。
薬種商は『松山町鑑』によると、天明四年(一七八四)時に松山城下に八軒が営業している。松山城下で薬店を営み、大山祇神社の門前町建設に伴い大三島に移った薬屋五兵衛の子孫鈴木家(大三島町宮浦)には、かっての薬箪笥が残っており、それぞれの引出しに「営天 麦門冬 烏薬 益母草 茸香 白鮮皮 杏仁 牛旁子 木瓜 蘇子 龍胆 橘皮 山椒 玄参菊花 瞿麦子 牛膝 鬱金 乳香 沈香 黄花 紅花 縮砂 丁子黄柏木通 半夏 蔦根 厚朴 防風 枳殻 山梔子 黄苓 大黄荊芥 忍冬 麻黄 海人草 乾姜 香附子 紫蘇 甘草 苦棟皮 桂皮 芍薬 桔梗 黄蓮 猪苓」といった漢方の薬種名が一一三種貼付してある。同家には、寛文元年(一六六一)の「書出し調合帳」と題する漢方薬調合法の手控えが残っている。帳面には、「消虫湯 追虫湯 鷓胡菜湯 五香湯 甘連湯 高松五香 敗毒散ロニチン湯 桂枝湯 柴胡桂支湯 芍薬湯 桂支茯苓湯 麻黄湯 不換金正気散 日本一諷薬 萬金丹 リン病之大妙薬 川きゅう(くさかんむりに弓)散 延齢丹 本山呟切丸 せんキ妙薬 やけどの薬 ひせん湯薬 ほねつき薬 たむし薬 安栄湯 地黄丸 丁字圓批把薬湯 温湯散 補中益気湯 木香丸 十全大補湯 切薬 清心丹一粒丸 五種香 滾痰丸 香薬飲口目沈薬 和中散口五苓湯 わきかの薬 にわか薬」など漢方薬名を列挙、薬種調合と効用につき、「ニチン湯 茯苓中 半夏大 陳皮中 甘草少し 右の薬風ニテセキ有時用由也、せんじ用常也」「柴胡桂枝湯 桂支 芍薬中 黄苓中 川きゅう(くさかんむりに弓)大 柴胡中
白し(くさかんむりに止)中 甘草少し 右之薬頭痛風ニ用ゆ之 又頭痛つよき時は桂皮少シ多用ゆ也」「高松五香 連翹 乳香 木香 沈香 紅花各壱匁出物すい出しやいとのはせたる妙薬」「萬金丹 阿仙薬五十匁 肉桂八匁 丁字八匁 甘草四匁 麝香五匁 龍の子二匁 右ハ六味細末ニシテ丸薬也」「延齢丹 肉桂 縮砂 丁子 沈香 辰砂各十五匁 白檀 茅根 木香 桔梗各七匁 乳香一匁五分 詞子七匁 甘草九匁 麝香三匁 龍脳二匁五分 第一痰によし 気のよわきによし、たんにて咽のいたむによし、血のみち気付によし、右肺気の方に常に用ひてよし、」「りん病之大妙薬 八ノす五匁 甘草弐匁忍冬弐匁 乙切蔓弐匁 東肉桂弐匁木通弐匁 燈心三匁 山帰来三匁八味せんし用ヒ一廻り内請合也」といった解説を付けている。
大洲市山根の玉井家には祖父玉井甚十郎が家伝薬の製薬・販売を営んでいた時代の看板・錦絵ちらしと宣伝書『製薬功能記』などが所蔵されている。「功能記」の中の「薬長丸神方丹由来記」によると、玉井家の祖先庄助が主君加藤光康に従って朝鮮に出兵、帰国間近かに熱病に掛り所持の薬を服用しても効のなかったところを一朝鮮囚人から一包の薬を与えられ服すると寸時に熱気が消散し回復した。庄助は感じ入って精細に製法薬性を学び筆記して帰り、これを″薬長丸〟と名付け、腹痛・頭痛薬〝神方丹〟と共に子孫累代に伝えて九代を経過した。大洲藩士であった玉井家は秩禄処分を受けると同時に、甚十郎の養父政次郎が家伝薬の製造・販売で身を立てることを決意、明治九年六月内務省の免許を受け薬舗を開設したところその薬効たちまち知れ渡って注文が絶えず、大阪の心斎橋に売りさばき所を設けるまでに繁盛したという。このように、幕末・明治期には家伝の漢方薬をもって薬屋を営み、財をなす者も少なくなかったのである。