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6月21日礼拝

2020.06.21 10:20

【9時礼拝】

伊藤大輔牧師

ローマの信徒への手紙7章21-25節  


ちゃんと生きる。 

きちんと生きる。 

誰しもが考えること。 

でも、それはどういうことなのでしょうか。 


パウロは、人一倍、ちゃんと生きることに熱心でした。 

パウロの時代、ちゃんと生きるとはモーセの律法をちゃんと守ることでした。 

生活の色々な場面、モーセの律法をちゃんと守る。 

それができれば、「きちんと生きている」と誰もが認めてくれました。  

パウロは律法をちゃんと守っていました。 

ですから、パウロのことを悪く言う人は誰もいません。 

みんなが「パウロは立派だ」と褒めてくれました。  

パウロは、もっとみんなから褒めてもらおう、認めてもらおうと、 

もっと、もっと律法を守っていきました。  

一生懸命、守っていけばいくほど、みんなから、パウロは認められるようになりますが、 

同時にパウロの中では、一つの思いが膨らんでいました。 


それは、自分が嘘つきだ、という思いです。  


律法を守っている。 

それはちゃんとしています。 

でも、心の中では、律法が「ダメだよ」と言っていること、 

それが、したくてしたくてしょうがない気持ちになっていました。 

こんなことではダメだ! と、

パウロはもっともっと律法を守ることに集中しますが、 集中すればするほど、

律法が「ダメ」と言っていることをしてみたい気持ちが大きくなっていきます。  


律法は神様に喜んでいただく。 

褒めていただく。 

そのために守っていました。 

でも、なんでもご存知の神様が、パウロの心の中をわからないはずがありません。 

自分の嘘が全部、バレている。 

どうしても、嘘をつくしかない。 

それしかできない。 

「なんと、自分は惨めな人間なんだ。」 

パウロの気持ちが今日の聖書にも記されていましたね。 


根本のことを考えてみましょう。 

どうして、私たちは「ちゃんと生きよう」と思っているのでしょうか。 

ちゃんと生きたらどうなるのか。 

ちゃんと生きなかったらどうなるのか。 

ちゃんと生きる。 

それは自分も気持ちいいですし、

人も気持ちよくなります。 

私たちの気持ちのため。 

もちろんそれも大切なことです。  


でも、みんなが喜んでくれる。 

これがどうして大事なのでしょうか。 

「それが大事だ」と思っている私の心はどのようなものなのでしょうか。 

みんなが喜ぶと私も嬉しい。 

それは、よく考えると、みんなのことを気にしている。 

心配している。 

怖がっているのではないでしょうか。 


みんなから、嫌われたらどうしよう。 

嫌われたら生きていけない。 

ちゃんと生きる。

それは、みんなに嫌われないようにしている。 

それが根っこにあるからではないでしょうか。 


パウロはまさにそうでした。 

律法を守らないと、みんなに褒めてもらえない。 

みんなに嫌われる。 

神様に褒めてもらえない。 

嫌われる。 


だから、律法を心から守ることのできない自分は「本当はダメなんだ」 と思っていました。

「みじめだ」と思っていました。  


イエス・キリストが十字架にかかり復活をした。 

それを真剣に考えていたパウロは気がついたのです。  

イエス様を十字架にかけた。 

それは「神様なんか信じるものか」 

「神様を大切にするより、自分たちの生活の方が大事だ」 

という人間たちの気持ちの現れです。 


「イエス様なんかいらない」

「神様なんかいらない」 

それが十字架です。 


その十字架の後、イエス様は復活をしました。 

私たち人間が、どんなに「神様なんかいらない」と言っても 

神様は私たちと一緒にいる。 

ずっと一緒にいる。 

そうだとすると、自分が律法をちゃんと守ることができなくても、 

神様は私と一緒です。 


ちゃんとしなければ、友達は私から離れていってしまうでしょう。 

ちゃんとしなければ、私はひとりぼっちになってしまうかもしれません。 

パウロはそれが心配でした。 

でも、ちゃんとしていなくても、神様は一緒。 

それはちゃんとしていなくても神様は私のことがいつでも大好きなんだ。 

パウロが見つけたことです。 


ちゃんと生きる 

それは、人の目を気にして、人が怖いから行いのではありません。  

ちゃんと生きる。 

それは、自信を持つことです。 

どんなことになっても、神様は私のことを大好きなんだ。 

それを信じる。 

自分は大丈夫と自信を持つ。 


辛いこともあります。 

苦しいこともあります。 

そんな時でも、神様は私のことが大好きです。 

大好きだから、辛いこと、悲しいことも与えられるのです。 

どんなことになっても私は大丈夫と自信を持つ。 


神様は私のことが大好き。 

それは決して変わることはない。 

信じる。 

ちゃんと生きる。 

きちんと生きる。  

信じると見えてきます。 

私に準備されている「道」が。 

それを進む。 

ちゃんと生きることが始まります。 




【主日礼拝】

西川良三神学生

ヨハネによる福音書3:22-36  

自分は、11歳から15歳まで父親の仕事の関係で4年間イギリスに暮らした。

1969年7月日本に帰ってきたが、

その時は故郷に久しぶりに帰って来た町の様子も昔の友達もすべて変わってしまっていて、

なんだか空しさを感じていた。


暑い夏のときだったが、本多記念教会の礼拝に出た。

礼拝堂に座っていると、

不思議に「ああ、ここには変わらない何かがある」と直感的に感じた。

そのとき以来、自発的に教会に来るようになった。


教会学校の中学科、高校科で培われた聖書の学びと教会での交わりの土台の上に、

進学した都立新宿高校のクリスチャンの英語教師、澤正雄先生との出会いを通して洗礼を受けようと決心した。

高校時代いろいろな面で行き詰っていた時、澤先生を通して、

その教育者としての姿勢と時折語る聖書の言葉から、

キリストとの出会いを経験したと信じたからだ。  


本日の聖書箇所には、洗礼者ヨハネがイエス・キリストについて証をする場面が描かれている。

多くの人がこのヨハネのもとにきて洗礼を受け、イエス様もその一人であった。

ヨハネの弟子たちが、イエス様のところに自分の師匠より多くの人が集まるようになると、

それをライバル視でもするかのような言葉を口にしたことが記されている。

その言葉に対して、洗礼者ヨハネは、自分は救い主ではなく、やがて引き下がる者である。

イエス様こそが天から来られた方で、神から遣わされた方である。

神の言葉を話し、神からの霊を限りなく与える方である、と伝える。

神の子イエスキリストの到来が、新しい時代の始まりだった。  


この聖書の個所の原文のギリシャ語を見ると、

エルコマイという言葉が繰り返し使われていることに気づく。

基本の意味は「来る」ということで、

さらに行く、下る、達する、押し寄せる、という意味もある。  


この「来る」、エルコマイという言葉は神様と私たちの関係の大事な部分を表しているといえる。

「来る」と言うことは主に主語は「他者」で、行為が及ぶ相手が自分であった時は、

自分は受身的立場になる。

神様は一方的に人間の方に「やって来られる」方だ。

人間が訓練を積んでこちらから会いに「行く」方ではない。

神様が一方的に来られるのだから、それまでこちらは受身的にただ待つだけだ。

信仰とは神から一方的に来る恵み、

助けをじっと待ち、受け入れるといいう、受身的なものである。 


内村鑑三はこれに関連して次のように言っている。 

「することよりもしない方がよいことがたくさんある。 

人は行動するために造られているだけでなく行動を差し控えるためにも作られている。

 悪行を避けることは善行を行うことと同じように義務である。 何もしないことが悪行を回避するだけでなく、善行になる場合もある。 

ミルトン(イギリスの文学者)が言ったように『待っている者も奉仕している』のだ。」  


どのような時に神様は来られるのかはわからない。

ただ思いがけない出来事や出会いの中で、

その恵みが自分に訪れていることに気づくことはあるかもしれない。

もしかすると一見「禍」にしか思えない中にもそれが隠れていることがある。

自分の場合もそうであった。  


キリスト教の福音は、日本では「やって来た」宣教師によって伝えられ、

教会が出来たが、それは大本をただせば約2000年前にイスラエルの地に神様が送られた神の子イエスキリストの十字架と復活の出来事から始まる。

この神様の恵みは人間がこれまで歴史の中で様々な困難の中にあっても絶えることはなかった。

どんな災いの中にあっても、

人々はじっと神様から来る助けと恵のチャンスを待ち、信仰を受け継いでいった。

その「やって来る」恵みを信じ、希望をもって歩んでいきたい。