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日本神話に描かれた疫病と日本人との関係とは?

2020.06.21 10:36

https://www.jiji.com/jc/v4?id=202006snw0001 【日本神話に描かれた疫病と日本人との関係とは?】 渋谷申博(日本宗教史研究家)

疫病の流行は神様のせい?

日本で疫病(伝染病)が広まり、危機に直面するのは当然ながら現代に始まったことではない。それでは昔の日本人は、どのように疫病と向き合い、乗り越えてきたのだろうか…。

その手掛かりは、神話の時代にまでさかのぼることができる。

日本各地に伝わる神社の由緒には、疫病にまつわる話が数多く残されているからだ。例えば「神様(あるいは恨みを抱いて死んだ者の霊)の祟(たた)りによって疫病がはやったが、その霊を神社に祀(まつ)り慰めたところ、祟りが鎮まり疫病が治まった」というパターンの伝承は多い。

疫病の神話・伝承は、わたしたちの祖先が疫病の苦難を乗り越えてきたことの証しである。これらの話は、疫病に備えることの大切さや、たとえ流行してしまっても、きっと克服できることを伝えてくれる。

では、具体的にはどんな話があるのか。まずは『古事記』の例を紹介しよう。

『古事記』に記されているパンデミック

神武天皇(じんむてんのう)は、日本国内を初めて統一して天皇位に就いたとされる。その後8代の天皇は事績が伝わっておらず、詳しい功績が分かるのは第10代の崇神天皇(すじんてんのう)からとなる。

崇神天皇の御代(みよ)は、日本という国家の礎がようやく固まりかけた時代であった(まだ半ば神話の世界であり、崇神天皇が実在したかについても意見が分かれているが、一説によると、その治世は紀元前1世紀ともいう)。

この崇神天皇の治世に、当時にすればパンデミックのような状況があったことが『古事記』に記されている

それによると「人民の多くが感染して、すべての人が死に絶えてしまいそうになった」という。

誇張はあるかもしれないが、この時の疫病が相当にひどいものであったことが想像される。

事態を憂えた崇神天皇は神牀(かんどこ)という神のお告げを受けるための床(ベッド)に横になり、どうすれば疫病が治まるのか神に尋ねられた。すると、その枕元に大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が現れて、こう告げたという。

「この疫病の流行は、私の祟りである。オオタタネコという者を探し出し、その者に私を祭神とした祭りを行わせれば、疫病は治まるであろう」

ここで登場するオオタタネコは、大物主大神がイクタマヨリビメという美女のもとに通って生ませた男子である。天皇は、四方に人を派遣し、このオオタタネコを見つけ出して大物主大神を祀らせたところ、お告げの通り疫病はやんだという。

そして創建されたのが、奈良県桜井市に鎮座する大神神社(おおみわじんじゃ)とされる。

大神神社は地域の人々だけではなく、朝廷からも崇敬を受けていたという。古くから疫病を治す神として信仰されていたが、「なぜ治病の神徳があるのか」という疑問も持たれたはずだ。

そこでこういった神話が生み出されたものと思われる。

古代人もウイルスの存在を知っていた?

興味深いのは、古代の人々も細菌やウイルスのような目に見えない小さなものが疫病を広めると考えていたらしいことだ。

大神神社とその摂社の狭井神社(さいじんじゃ)では、毎年3月に鎮花祭(はなしずめのまつり、ちんかさい)が行われてきた(現在では4月中旬)。

この祭りは、春に流行を始める疫病を治めるためのもので、神前には薬草などが供えられる。また医薬品メーカーからも多くの奉納品がある。

疫病を抑える祭りが「鎮花祭」と呼ばれるのは、桜などの花が散る季節になると、目に見えない疫神(疫病をはやらせる神)が四散すると考えられていたからだ。花びらが風に舞い散るように、無数の疫神が飛び散って、人々に病をうつすというイメージは、現代人が抱いているウイルスや細菌の様子に近いといえるのではないだろうか。

余談であるが、日本の神様はけがれを嫌うので、神事を行う前には必ずおはらいなどをしてお清めをする。神社に参拝する際に禊ぎ(きれいな水に浸って身を清めること)をしたり、手水舎で手と口を清めたりするのもそのためなのだが、ひょっとしたらこれらも古代の感染症対策の一つだったのかもしれない。

京都三大奇祭の一つも疫病が起源

京都市北区の今宮神社や玄武神社などで4月に行われる「やすらい祭(やすらい花)」も、花とともに拡散する疫神を鎮める祭りだ。

やすらい祭は、鞍馬寺の火祭、広隆寺の牛祭とともに京都の三大奇祭に数えられる珍しい祭りで、鉦(かね)・太鼓をたたきながら独特の踊りを見せるのが特徴となっている。

この祭りには大きな花傘と赤と黒の長髪のカツラをかぶった練り衆が登場する。お面をかぶっていないので気付かない人が多いが、実は練り衆は鬼なのだ。ただし鬼は鬼でも、いい鬼である。

彼らは鉦・太鼓をたたいて楽しく踊ることによって疫神を花傘へと誘うとされる。そうやって町内を巡り、、町中に広まってしまった疫神を残さず花傘の中へと集め、、最後に神社で封印するといわれている。

この祭りでは疫神を誰かが演じるとか、人形でその姿を表したりされることはない。疫神はあくまでも「見えない存在」として扱われている。

「霊的存在だから見えないものとして扱う」というのが研究者の解釈だが、昔の人も病原体が肉眼では見えないほど小さい物であることを感覚的には知っていたのかもしれない。

 なお、玄武神社に伝わる由緒によれば、やすらい祭の始まりは965(康保2)年であったという。この年に大洪水が起き、その後に疫病が流行したため、大神神社にならって疫神を鎮める祭りを始めたのだそうだ。

疫神の正体は怨霊?―京の町から人が消えた日

奈良時代から平安時代にかけて、疫病の原因は怨霊(おんりょう)、つまり「恨みを抱いて死んだ人の霊」だとする信仰が広まっていた。

これを御霊(ごりょう)信仰という。

歴史研究者の説によれば、平城京や平安京という都市が建設されたことにより急激な人口集中が起こり、ゴミや排せつ物の処理が追いつかなくなって衛生環境が悪化した。こうして疫病が流行しやすい状態を招いたことが、御霊信仰が興った背景にあるという。

特に恐れられたのは、皇太弟でありながら藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺への関与を疑われて憤死した早良(さわら)親王(崇道天皇)、謀反を疑われて自害した伊予親王など、6人の皇族・貴族だ。

863(貞観5)年には、平安京の大内裏の南にある宮中専用の庭園である神泉苑(しんせんえん)で、それらの怨霊(御霊)を慰める御霊会(ごりょうえ)が行われた。

平安時代の歴史書『日本三代実録』(901年完成)によれば、都では数年にわたって疫病の流行が続いており、「死亡する者はなはだ多し」という状況だったという。

注目されるのは、御霊会を行っている間、神泉苑が庶民に開放されたことだ。

御霊会では怨霊の鎮魂のため、さまざまな歌舞音曲や相撲、騎射(馬に乗って矢を射ること)などが催されたが、庶民はそれらの見物を許された。宮中の庭園に庶民を入れるのは現代と同じく異例中の異例のことだった。御霊会には疫病の流行による社会不安を収める意味もあったのだろう。

疫病の流行はこの後も続く。

994(正暦5)年には、貴族も庶民も家の戸を閉ざし、道を歩く人が一人もいなくなったというから、新型コロナウイルス感染に対する緊急事態宣言が出された当時の東京のようだったことになる。

そこでまた御霊会が行われた。

この時の祭場は北野の船岡山(御所の北側にある丘)であった。ここに神輿(みこし)が2基据えられると、人々はこぞって幣帛(へいはく)をささげた。

幣帛とは、いわゆる御幣(神社でおはらいの時に使う、棒の先に段々に折った紙がついたもの)の一種で、神への象徴的なささげ物であるが、この時はその幣帛にそれぞれの家に取りついていた疫神(病原体)を吸着させて神輿へと運んだのだ。

こうして京のあちこちから集められた疫神は2基の神輿に封印され、難波に運ばれて海に流された。

つまり、疫病の原因は目に見えない特殊な存在(霊)であり、体や物に付着して病気を引き起こすが、それらを環境から排除できれば疫病の流行は終息する、ということを平安時代の人々も知っていたことになる。

科学的とはいえない方法かもしれないが、現代のパンデミック対策に通じる面がないとは言えない。筆者などは、当時の限られた科学・医学的知識でよくここまで疫病の原因(病原体)を把握していたものだと感嘆するのだが、いかがだろうか。

祇園祭も疫病退散の祭り?

京都三大祭の一つでユネスコの無形文化遺産にも選ばれている祇園祭(ぎおんまつり)も、疫病を街から追い払う祭りだ。

祇園祭は、実は御霊祭の一種であり、中世には祇園御霊会と呼ばれていた。

しかし、御霊会と区別されているのは、祇園祭には恐ろしい創始神話があるからだ。その最も古い記録は『備後国風土記』(奈良時代初期に成立)にある以下の話だとされる。

北の海に住む武塔神(むとうのかみ)が南の海の女神に求婚をしに行った時のこと、途中で日が暮れてしまったので、宿を借りることにした。

ところが、この地に住んでいた「将来兄弟」の弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は、家と倉が百もあるほどに富み栄えていたのにもかかわらず、物惜しみをして武塔神を泊めようとはしなかった。一方、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しかったが、武塔神に快く宿を貸した。

数年後、南の海の女神と結ばれて8柱(神様は1柱、2柱‥、と数える)の御子神に恵まれた武塔神は、御子神を引き連れて蘇民将来のところへ戻ってきた。

武塔神は蘇民将来に言った。

「私はお前にお礼がしたい。お前には子孫(家族)はあるか」

蘇民将来が妻と娘が2人あると答えると、武塔神は茅(かや)で輪を作り、それを家族の腰に着けさせよ、と教えた。

そしてその夜、蘇民将来とその家族を残して、その地の者はすべて殺されたのだった。

武塔神は蘇民将来に言った。

「私は素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。これからのち、疫病がはやるようなことあれば、『私は蘇民将来の子孫である』と宣言して腰に茅の輪をつければ災いを逃れることができるだろう」

以上のストーリーを簡単にまとめると、武塔神こと素戔嗚尊は疫病をはやらせる疫神であり、同時に疫病を防ぐ神でもあった。それゆえ、これを歓待しなかった巨旦将来の一族は死に絶え、親切に迎えた蘇民将来の一族は疫病から逃れる秘法を教わった、という話である。

つまり祇園祭は、蘇民将来にならって疫神を歓待し、京から出て行っていただくという祭りなのだ。そして、疫神でもある素盞嗚尊を祀っているのが京都市東山区の八坂神社なのである。

やすらい祭もそうだが、古代の人々には疫神を追いやるには音楽や踊りでにぎやかに歓待して境界の外に連れて行くのが良いと信じられていた。有名な祇園囃子(ばやし)も、もとは疫神を喜ばせるものであった。

祇園祭の山鉾は疫病を追い出すためのもの

祇園祭のシンボルになっている山鉾(やまほこ)は、もとはただの矛(ほこ)であった。869(貞観11)年に行われた祇園御霊会では66本(古代日本の行政区画である国の数)の矛が立てられたという。

994(正暦5)年の御霊会では御幣に疫神をつけて船岡山に集められたが、祇園祭では矛に疫神を憑依させたのだ。

しかし、室町時代以降、祇園祭は台頭してきた町衆が経済力を見せつける場となり、矛は囃子(はやし)方を乗せる山車(屋台)へと発展、華麗に飾られるようになって、今見るような山鉾へと変わっていった。

なお、6月30日は「夏越(なご)しの祓(はら)え」といって、半年分の罪けがれをはらう祭りが、各地の神社で行われる。この時、境内に大きな茅の輪が据えられ、参詣者はこれを左・右・左と三度めぐって心身のけがれをはらう

この茅の輪も先に引用した蘇民将来の神話に由来するものだ。

さて末筆ではあるが、ここまでお読みくださったみなさんに、一言。疫病退散の神徳がある神社にお参りしたいという気持ちになられたという方もいるかもしれないが、まだまだ感染予防の心構えは必要だ。参拝者で神社が密になってしまっては本末転倒であるし、神社によっては参拝制限を続けているところもある。郵送などで祈祷を依頼できる場合もあるので、感染状況などをよく見極めた上で慎重に行動されたい。

そして、完全に終息となったその時には、皆でお礼参りに行こう。

渋谷申博(しぶや・のぶひろ) 日本宗教史研究家。1960年東京都出身。早稲田大学第一文学部卒。主な著作に『カラー版 神社に秘められた日本書紀の謎』(宝島社)、『全国 天皇家ゆかりの神社・お寺めぐり』『一生に一度はお参りしたい全国の神社めぐり』『神々だけに許された地秘境神社めぐり』(以上G.B.)、『眠れなくほど面白い 図解 仏教』『眠れなくなるほど面白い 図解 神道』(以上日本文芸社)など。

(2020年6月5日掲載)