「日本の夏」7 鮎②ドラマ
鮎は弥生時代頃から、日本人が好んで食した魚。『古事記』(712年)には神功皇后が朝鮮遠征の帰り道に、佐賀県・玉島川のほとりで鮎釣りをして、食事をしたとの記述がある。これが『日本書紀』(720年)では、朝鮮に渡る前に筑紫の末羅(まつら=佐賀県唐津市付近)で、「三韓征伐」(「三韓」=古代の朝鮮半島にあった百済・新羅・高句麗の3国)の勝敗を川釣りで占ったとある。神功皇后が釣り針に米粒を餌にし衣の糸を釣り糸にして「われ西方にある財の国(新羅)を求めんと欲す。もし事を成すことができるなら、この釣り針に川の魚よかかれ!」 と釣り糸をたらすと鮎が釣れた、となっている。魚偏に占うで「鮎」と書くようになった由来だ(別説あり)。
『万葉集』には魚の歌が32首あるが、そのうち半数の16首が鮎の歌。
「松浦(まつら)川 川の瀬光り 鮎釣ると
立たせる妹(いも)が 裳(も)の裾(すそ)濡れぬ」大伴旅人
(松浦川の川の瀬が美しく照り映えて、鮎を釣ろうと立っておいでになるあなたの裳の裾が水に濡れている)
これだけの解釈だと面白くもなんともない。これはかなりエロチックさが漂う歌。大伴旅人(おおとものたびと。大伴家持の父)は、若鮎のピチピチした姿を美しい乙女に重ねている。「裳の裾濡れぬ」がポイント。燃えるような紅の裳裾から白い素足がチラチラと見えている、健康な色気を感じさせる美しさを詠んでいるのだ。女性の釣り人とは意外な感じがするが、それはこの歌が神功皇后の鮎占いの故事に因んで読まれているから。旅人は神事だった鮎釣りを恋愛の歌にしてしまった。この歌には続きがある。
「松浦なる 玉島川に 鮎釣ると
立たせる子らが 家路(いへぢ)知らずも」大伴旅人
「あなたの家への道を私は知らないのです」と詠んでいるが、これは「あなたのアドレスを教えてよ」という要求の婉曲表現。さらに歌は続く。
「遠つ人 松浦の川に 若鮎(わかゆ)釣る
妹が手本(たもと)を われこそ巻かめ」大伴旅人
「妹(いも)が手本(たもと)をわれこそ巻かめ」とは「恋しいあなたの腕を枕にしたい」という意味。つまり「あなたと一夜をともにしたい」と詠んでいる。なんとも万葉集らしいおおらかでストレートで生々しい恋愛歌だ。
ところで俳句の世界では、「鮎」は夏の季語だが、「若鮎」、「小鮎」は春の季語。若鮎はその名の通り、若さに満ちあふれた元気な魚。かなりの急流も遡る。鯉の滝登りという言葉があるが、若鮎もひけを取らない。川底に段差ができて、小さな滝のような流れになっている所でもぴょんぴょんと跳びはねて段差を越え、うまく飛び越えたものはさらに上流へと遡って行く。この「飛ぶ鮎」を鬼貫(おにつら)は、悠然と動く雲と対比させて見事に詠んだ。
「飛ぶ鮎の底に雲ゆく流れかな」鬼貫
一茶は流れに逆らって上ってゆく鮎をこんな表現にした。
「わか鮎は西へ落花は東(ひんがし)へ」一茶
几董(きとう)の次の句は説明が必要だろう。
「鮎汲ミや喜撰ヶ嶽に雲かかる」几董
「喜撰ヶ嶽」は琵琶湖を流れ出た宇治川の右手にそびえる宇治山のこと。平安の昔・喜撰法師が住んだので「喜撰ヶ嶽」という。わかりにくいのは「鮎汲ミ」。若鮎は川底に段差ができて、小さな滝のような流れになっている所にさしかかると、一旦そこで小休止するかのように群れを作ってとどまる。この若鮎の群れに網を差し伸べて掬い取るのが古来行われた「鮎汲み」。何とも人間は阿漕(あこぎ)なことをするものだ。阿漕と言えば、「鵜飼」もなかなかのもの。鵜には魚を丸呑みにし雛に与える習性があるが、これを利用して、鵜が捕らえた鮎を人間が横取りするのだから。
「面白うてやがて悲しき鵜舟かな」芭蕉
最後に大好きな蕪村の句。
「鮎くれてよらで過ぎ行く夜半の門」蕪村
夜半に門をたたく音に出てみると、鮎を届けに来てくれた釣り帰りの友。寄っていけというのに、もう遅いからと遠慮したのだろう、そのまま立ち去ってしまった。私は友のやさしさ、おもいやりに感謝し門のそばに立ち尽くす。わずか17文字でこんなドラマを創り出す蕪村の凄さが実感できる一句。
国貞「鵜飼船御遊(源氏絵)」
広重「清流に鮎」
土屋光逸「長良川 鵜飼」
川瀬巴水「鵜飼(長良川)」