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Okinawa 沖縄 #2 Day 31 (14/07/20) 豊見城市 (16) Takamine Hamlet 高嶺集落

2020.07.15 04:30

高嶺集落 (たかみね、タカンミマキョ)

昨年10月に豊見城市の各集落を巡った時に訪問していなかった集落。豊見城市の文化財リストにはこの集落が含まれていなかったので来なかったのだが、その後、調べると幾つか見たい文化財があるのが分かり、訪問することにした。


高嶺集落 (たかみね、タカンミマキョ)

高嶺集落は12世紀ごろから古島で始まり、その後、現在の集落の場所に移動している。明治36年 (1903) に隣の平良村と合併して一時的に五年の間は高良村になったが、その後は豊見城村の字に戻る。沖縄戦の昭和20年 (1945) 当時は世帯数が47戸、人口約180人であった。戦争で人口が激減し、25年後の昭和45年でも、世帯数53戸、人口294人にしか増加増加していないしていない。その後、豊見城団地建設 (昭和44年〜51年) や糸満市の一部が編入されたことによって人口が激増した。2019年末の人口は3,695人で2010年から、コンスタントに増加し、世帯数も増加している。

沖縄戦当時は豊見城村の中でも小さな字の方に属していたが、現在は多い方になっている。


高嶺古島 (タカンミフルジマ)

高嶺集落は平良集落の隣に位置しており、古くは平良グスク (標高109m) がある丘陵の西南の標高70mの段丘に広がっていた、ここは高嶺古島 (タカンミフルジマ) と呼ばれ、平良グスクの初期段階の12世紀ごろに形成されたと推定されている。この古島は平良グスクと何らかの関係を持った住居地であったと思われる。(平良按司の家臣の領地?) その後、高嶺古島から東の方に集落が移って現在の集落となっている。

現在、かつての高嶺古島の丘陵はあまり民家はなく、丘陵の頂上には老人保健施設が立っている。そこからは平良グスクのある丘陵が見えるが、ここからは平良グスクへの道はない。


高嶺之殿 (タカンミヌトゥン)

この高嶺古島の殿小毛 (トゥングヮーモー) と呼ばれる高台に高嶺之殿 (タカンミヌトゥン) があり、高嶺集落の聖域となっている。ここを高嶺御嶽 (タカンミヌウタキ) と考える説もあるが、高嶺集落には御嶽は存在せず、平良グスクの御嶽を拝んでいたと伝わっているので高嶺之殿 (タカンミヌトゥン) だったのだろう。以前は御嶽にはノロのみが入ることが許されており、住民はこの高嶺之殿で御願 (ウガン) を行なっていた。豊見城村史に載っていた写真では高嶺之殿 (タカンミヌトゥン) には前之殿 (メーヌトゥン) と後之殿 (クシヌトゥン) の二つの祠が縦に並んでいたのだが、現在は新しい祠に建て替えられて、この二つの殿と地頭火之神 (ジトゥーヒヌカン) が祀られている。地頭火之神はかつては高嶺之殿 (タカンミヌトゥン) の後方の上深底原にあったのだが、老人保健施設建設でここに移設されている。

以前の高嶺之殿と地頭火之神

この上深底原 (イーフカシクバル) には古墓が点在していたが、老人保健施設の建設の際に、この高嶺之殿の裏に合葬されている。香炉が4つならんでいる。

ここからは糸満の海が臨める。

写真を拡大すると右上に薄っすらと慶良間諸島も写っている。


下之井 (シチャヌカー)、下之殿 (シチャヌトゥン)、上之井 (ウィーヌカー)

古島がある丘陵の麓の老人保健施設入り口に一つ井戸跡があった。下之井 (シチャヌカー) で集落が移動するまでは産井 (ンブガー) として、産水や正月の若水に使われていた。(写真右上、左下) シチャ (下) とあるので、かつてはウィーヌカー (上之井) もあったのだろうか? この近くには下之殿 (シチャヌトゥン) があったのだが、集落の地図では出ていない。ウィーヌカー (上之井) の隣に拝所 (写真右下) があるのだが、これが下之殿 (シチャヌトゥン) なのだろうか? 調べると、上之井 (ウィーヌカー) はあった。下之井 (シチャヌカー)と上下に並んでると書かれてあった。とすると、この写真右下は下之殿 (シチャヌトゥン) だろうか、それとも上之井 (ウィーヌカー) だろうか?


村火之神 (ムラヌヒヌカン)、スム之御嶽 (ウタキ)

老人保健施設への道から丘陵に入っていく細い山道がある。何かありそうなので、この道を進んでみた。やはり拝所があった。村火之神 (ムラヌヒヌカン)、スム之御嶽 (ウタキ) の二つの祠が建っていた。古島時代の配所なのだろう。


上原 (イーバル) 門中神屋

老人保健施設の敷地内に大きな墓があり、その横に神屋が建っている。上原門中の墓とある。高嶺集落の有力門中の一つで嶽元 (タキムトゥ)。 神屋にはいくつもの香炉が並んでいる。それぞれの香炉に祀られている名が書かれている。いつも神屋のなかを覗くたびに、どの様な人を祀っているのかが気になっていたのでこれは有難い。根神 (ニーガン)、歴代ヌル (ノロ)、上原親元など祖先の名が書かれている。琉球神道の神々ではなく、門中の祖先を祀っている。沖縄の祖先信仰の根強いことがよくわかる。沖縄では人が亡くなると、「ニライカナイ」と呼ばれる海の彼方へ魂が帰ると言われてきました。そして故人の魂は、七代後になるとその家の守護神になると言われている。日本本土でも祖先信仰は仏壇という形で残ってはいるが、沖縄ほど根強くはない様に思える。ここで少し疑問が出た。神屋に祀られているヌルは平良ヌルとなっている。高嶺集落にはヌルはおらず、平良ヌルが祭事を行っていたのだ。高嶺門中が別の集落のヌルを祀る事はよくあることなのだろうか?

この近くには上原殿 (イーバルトゥン) があったそうだが、詳細は不明。場所も書かれていない。現在ではここにある神屋が殿を兼ねているのだろうか? この上深底原 (イーフカシクバル) にはこの他にナークジーという拝所があるそうだが、場所はわからなかった。


古島から現在の高嶺集落に向かう。北側から文化財を見ていく。


ムヌメームイ (拝所)

小山の上に祠がみえた。ムヌメー森にある遥拝所で、戦前は高台頂上付近にあったものを戦後この場所に祠を建てて祀っている。これは旧暦9月9日のムヌメーでかつては豊作祈願の種下ろしの行事 (現在では子育て祈願や子孫繁栄を祈願) を行なっていた糸満市真壁のティラを拝む場所。


村井 (ムラガー)

この井戸は平良集落と高嶺集落の境の平良集落側にある。ムラガーは共同井戸とも書かれており、集落住民の主要な生活井戸であった。一説では轟井 (トゥドゥルチガー) と交換したと伝わっているそうだ。轟井 (トゥドゥルチガー) も平良集落と高嶺集落の境にあり、高嶺集落の住民はよく使っていたという。この二つの集落は一時、高良村として合併した時もあった。関係が良かったのかどうかは知らないのだが....


樋川井 (ヒージャガー)

村井 (ムラガー) から少し南に歩くと樋川井 (ヒージャガー) がある。産井 (ンブガー) とも言われている。樋川井とは樋 (とい) で水を引いてきたものを言うのだが、現在ではその面影はない。


高良 (タカラ) 門中神屋

樋川井 (ヒージャーガー) の隣に神屋が建っていた。高良門中と書かれている。高良門中は平良集落の赤嶺家の分家と言われ、高嶺集落では有力門中の一つ。神屋にはいくつもの香炉が並んでいる。神屋の隣には拝所もあった。これが見つからなかったチヌーミタンの拝所でここに移設されていた。

この樋川井がある斜向かいに拝所がある。名は分からない。ただ集落の中で未だに残されているところを見ると、集落では大切にされている拝所と思える。


この他にも集落内でいくつかの神屋が見られた。多くの神谷は民家 (その門中の宗家 ムートゥーヤーだろう) の敷地内に別棟となっている。これはそこで祀られている人はその門中だけでなく集落の人にとっても信仰の対象となっているからなのだろう。年間で行われる祭事ではお詣りの順路になっていることもある。


村屋 (ムラヤー) 

樋川井 (ヒージャーガー) がある辺りに以前の村屋 (ムラヤー) であった。

沖縄戦では一時集落内に兵士が駐屯したが、クンジャーモーに壕を造った後は兵士はそちらに移動したため集落内にはあまり日本兵は駐屯していなかったという。村から大宜見村へ疎開をしたのは2世帯のみで、学童疎開、本土への一般疎開は皆無だった。疎開には消極的な集落であった。


高嶺馬場 (タカンミウマイー)

かつての高嶺馬場 (タカンミウマイー) は現在は高嶺児童公園になっている。細長い公園で真ん中にまっすぐの道路が走っている。ここを馬が走っていたのだ。


印部石 (しるべいし)

馬場跡広場の奥の先端部に印部石 (しるべいし) がある。原石 (ハルイシ) とも呼ばれ、琉球王府が田畑の測量するための起点に使われた石で、ここの印部石には「ユ」と刻印されている。隣には祠がある。印部石を祀っているのだろうか?元々は拝所の様な性格のものでないのだが、沖縄ではこの様なものも拝所になっているのだろうか。


製糖工場跡

この児童公園の入り口に公民館がありそこに製糖工場跡の石碑が建っていた。このサーター屋跡が公民館になっている。この集落も製糖が主産業だったのだ。


高嶺の石獅子 (シーサー)

公民館の横にあるイームヤーの高台に石獅子が残っている。石獅子は風化して形を留めていない。武富方向の南山グスクの方に向いているのだが、何の火除け (火返し ヒケーシ) をしているのかはわからなかった。

旧暦の8月15日に住民が石獅子にフチャギ (吹上餅) と呼ばれる餅を供えて拝むそうだ。ここに石獅子があると言うことはいつの時代かは分からないが、ここが村の端であった様だ。


遊びの神 (アシビヌカミ)

このシーサーがあるイームヤーの向かいの屋号徳門にアシビヌ神が祀られていたと言う。芝居の神様だそうだ。どこにあるのかは分からなかった。


チヌーミタン (拝所)

集落内にチヌーミタンと呼ばれる拝所があるそうなのだが、歩き回り探したのだが見つからなかった。旧暦10月に行われるシマーの際に拝まれる拝所だそうだ。写真は豊見城村史に掲載されていたもの。後でわかったのは現在は高良門中の神屋の奥に移設されているとなっていた。確かに神屋に後ろに祠があった。この写真と現在の高良門中の神屋裏にある拝所は少し形が変わっている。


知花井 (チマラガー)

集落から東に離れた高嶺溝原のチマラバルにある井戸なのだが、なかなか見つからない。周辺を歩きまわり、畑の中にやっと見つけた。今でも集落の住民に拝まれているそうだ。


高嶺拝所

この高嶺溝原はかつては集落の門中の墓が集まっていたのだが、豊見城小学校や豊見城団地建設で高嶺拝所に集められている。この拝所は豊見城村史には紹介されていたが、どこにあるかは書かれていなかった。チマラガーを探しているときに、偶然見つけた。最近は感が良くなったのか、根気強く探しているからなのか、見つかるケースが増えてきている。二つの墓には名が記されていたのだが擦り減って判読できなくなっている。一つは「知花按司」の墓でもう一つは「上原、大屋、新屋、満川代」の墓だそうだ。


この地域は豊見城団地が建設されて、広い道路や多くの商店街もできており、沖縄では近代的な街造りとなっている。標高70mぐらいの丘陵地だ。沖縄のほとんどの集落は水捌けの良い丘陵地に造られていたが、今でも人々は丘陵地に住む事を好んでいる。自転車での集落巡りは少し辛いところもあるが、丘陵からの見晴らしは抜群で、人々が丘陵を好むのもなんとなくわかる様な気がする。

これで高嶺集落見学は終了して、帰路に着く。今日も気温34度で湿度も75%と蒸し暑い。午後からは雨予報だったが少し後ろにずれているようだ。帰り道の途中に平良集落があり前回平良集落訪問の際に見落としていた文化財も見ながら進む事にした。(平良集落の訪問記は別途)  途中、遅れていた雨が降り始める。沖縄特有の雨の降りかただ。初めはパラパラと小雨なのだが急に土砂降りになり、しばらくすると雨が止み、晴れ間となる。この日はこのスコールに4回見舞われた。その度に雨宿りの場所を探し雨が止むのを待つ。もう慣れたものだ。暑さがきついので、少しは雨に濡れた方が気持ちが良い。それでも、4回目のスコールに出会したのは、もう少しで家に着けると言う時だった。今回はずぶ濡れになっての帰宅であった。


質問事項


参考文献


豊見城村史

第17節 字高嶺


位置

高嶺は七号線道路 (元真壁郡道) の沿線にあって、北は平良、南は糸満町 (旧兼城村) 字武富に接している。


拝所

高嶺には現在御嶽はないし、由来記にも記されていない。しかし昔は平良城の御獄をおがんだものと思う。平良城に近い所で部落の上北方に高嶺の殿があり、俗に殿小森(モー)と称している。また部落の上の方上原屋敷に宇栄原の殿があって、二つの殿はともに字民から崇信されている。由来記には石の二つの殿が記録されている。

高嶺には祝女はいない。平良祝女が祭祀を司っていたのである。大昔は高嶺にも祝女がいたという伝えがあるが、それは大屋一門の屋号宇栄が昔祝女だったとのことである。

拝所としての井泉に、公民館の下に産井がある。また部落の後の森をこして深底原 (フカソコ) に行く新道路 (この道路は旧道に沿ってつくられている) のそばに下 (シチャ) の井がある。これは昔高嶺部落がこの附近にあって、その時代使用した井戸だといわれている。すなわち高嶺の古島は今の部落の後森をこえた反対の側にあったのである。高嶺の後原に下の殿があるが、これは古島時代の殿であって今でも拝んでいる。これは由来記には記されていない。元平良境界で現在は高嶺前原になっている轟井泉 (トドロチガー) は、由来記には記されていないが琉球国旧記には記録されている。平良部落より高嶺部落が多く利用していて、高嶺でも拝所となっている。高嶺部落の国元は大屋、郷元は上原 (宇栄原) と言われている。高嶺前原に無名戦死者を葬った慰霊塔がある。


世立ち、地組、祖先

千之巻によれば、高嶺村、世立初「高嶺大里より来る高嶺按司在所根所」地組始「前川按司此人は豊見城村高嶺村屋敷囲初められたる人なり」としてある。

祖先宝鑑より高嶺按司と前川按司を示せば次の通りである。(為朝公系統図参照)

右、高嶺按司については「母は大里按司の妹なり、豊見城平良大屋にあり」となっている。

右、大里大君の六男高嶺掟親雲上については「豊見城高嶺村の世の始高嶺按司の後裔を相続」とある。これから見れば高嶺按司は高嶺村大屋であるか、平良村大屋の分家であるか、どちらかだと考えられる。なお千草之巻には平良村世立初は「平川世主の孫平良大主在所は根所大屋と云う」とあるから、高嶺按司は豊見城高嶺村大屋がほんとうと考えられる。

右系統図の外子小禄掟親雲上は「高嶺村大屋の入婿、後浦添西原村へ隠居」となっている。尚また大屋については祖先宝鑑に左のことが記されている。(中城按司系統図参照)

豊見城按司の五男「高嶺村に行く大屋と云う家なり」としてある。

為朝公系統図中、前川按司については「在所は豊見城平良村高嶺村屋敷組初められて其村所を定めて住居せらる。今の在所は勝連と云う家なり、子四男二女あり」となっている。現在高嶺には勝連という家はない。

今一つ高嶺村については干草之巻に世立初「上与那原村東名大主の孫上間大屋子在所座神」地組始「平良村より来る高嶺子在所は勝連と云う」とある。

右の上間大屋子については (東名大主系統図参照) 祖先宝鑑からみると

となっているが、現在高嶺のどの家がその子孫であるか判然しない。

玉城村玉城仲嘉の御酒手表に豊見城高嶺村大屋、上原がある。また祖先宝鑑の昔玉城按司の裔孫の項には豊見城邑高嶺村徳東り腹が記されている。共に玉城系というわけである。

祖先宝鑑より高嶺の赤嶺に関連する系統を示せば次のように記されている。(英祖王系統図参照)

右大里王子の四男「高嶺村の赤嶺と云う家の入婿となる。その子五男三女あり」とある。