「日本の夏」10 朝顔③多様性
「朝顔は酒盛知らぬ盛り哉」芭蕉
(朝顔は、すぐ傍らで酒盛りをしている我々にはまったく我関せずの趣で、清く爽やかに咲き誇っている)
朝顔のイメージは爽やかさ、はかなさだけにとどまらない。この句からは、朝顔の毅然とした強さのようなものが感じられる。
「朝顔や吹倒されたなりでさく」一茶
強風で吹き倒されてしまっても、倒されたなりで今朝の花をつけている朝顔のたくましさ、健気さへの一茶らしい共感。
「朝がほや一輪深き淵のいろ」蕪村
蕪村は、底知れぬ淵のような深い藍色した朝顔に、単なる美しさだけではなく人生の深淵をかんじとったのだろうか。
次は鈴木真砂女ならではの句。一夜を共にした翌朝(「後朝=きぬぎぬ」のシーン。
「朝顔やすでにきのふとなりしこと」鈴木真砂女
「朝顔」には、「寝起きの顔」、「女性の交情の翌朝の顔」という意味もあったようだ。
五木寛之はさらに朝顔の別のイメージを喚起させてくれる。
「アサガオの蕾は朝の光によって開くのではないらしいのです。逆に、それに先立つ夜の時間の冷たさと、闇の深さが不可欠である(中略)ぼくにはただ文学的なイメージとして、夜の冷たさと闇の深さがアサガオの花を咲かせために不可欠なのだという、その言葉がとても新鮮にのこってしまったのでした」(随筆『アサガオは夜明けに咲きます』)
これはイエス・キリストの復活と重なる。イエスの墓を早朝に訪れた人びとは、すでにイエスが復活しそこにおられないことを知る。イエスは闇の中で復活されたのだ。
「さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは『だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか』と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。するとこの若者は言った、『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。』・・・」(『新約聖書』「マルコによる福音書」16章1節~6節)
このように朝顔は実に多様なイメージを喚起させるが、人間の手で多様に変化させられもした。江戸の「変化朝顔」だ。江戸時代、空前の朝顔ブームが2度訪れる。第1次朝顔ブームは文化・文政期(1804~1830)。1806年に起きた「丙寅の大火」により、下谷に大きな空き地ができたため、植木職人たちはそこで品種改良した朝顔を栽培し、「下谷の朝顔」と呼ばれ人気となった。特に、「変化朝顔」呼ばれる、一風変わった姿の朝顔が人気を集めた。現在では朝顔といえばまずだれもがラッパ型の花を思い描くに違いないが、この時流行した「変化朝顔」はそんな朝顔のイメージとはかけはなれた奇妙キテレツなものだった。風車のようなものがあったり、花弁が細く長く垂れ下がったいて花火のようだったり、また葉が松葉状だったり、茎が平べったく帯のようになっていたりなど、実に千変万化な形状だった。
やがて下谷が復興して空き地が点在するだけになってしまうと、上野をはさんで入谷で朝顔の栽培がはじまる。嘉永・安政期(1848~1860年)の第2次朝顔ブームだ。多数の朝顔図譜や、「花合わせ」(品評会)に出品された朝顔の優劣を記した番付表が出版されている。牡丹咲きや八重咲きのように花弁の枚数を増やした豪華なものなどさまざまな朝顔が作り出された。観賞用として、大名や御家人、僧侶、裕福な商人の間でもてはやされ、自らその栽培にまでも熱中。変化朝顔は大変な高値で取引されたため、植木屋はもちろんのこと、下級武士や一般庶民までが変化朝顔の栽培に精を出した。
日本人にとってあまりに身近でじっくり眺めることも少ない朝顔だが、そのイメージは実に多様で面白い。
尾形月耕「入谷朝顔市」
渓斎英泉「夏景色美人合」
変化朝顔
変化朝顔
藤島武二「婦人と朝顔」個人蔵
児島虎次郎「朝顔」大原美術館
ホイッスラー「朝顔」
マティアス・グリューネヴァルト 「イエスの復活」イーゼンハイム祭壇画(第2面)