子規と漱石
https://japanese.hix05.com/Literature/Shiki/shiki07.soseki.html 【子規と漱石】
漱石は子規の死後数年たった明治四十一年に、雑誌ホトトギスの求めに応じて子規の思い出を口述筆記させた。その中に次のようなくだりがある。
「なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところに遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親類のうちへも行かず、此処に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。」(漱石談話 正岡子規)
この話は、お山の大将でないと気がすまない子規の性格を面白おかしく述べたもので、大分誇張が混じっている。話の中では子規のほうから勝手にやってきて、漱石の承諾もないままに居座ったようになっているが、事実としては、子規の病を知った漱石が、自分のところで静養するようにとの配慮から、わざわざ招いたのである。
当時子規の故郷松山の中学教師に赴任していた漱石は、年来の親友子規と一緒に暮らせることを喜んだにちがいないのだ。漱石は子規が大喀血した明治22年のこともよく覚えており、それが支那に居る間に悪化して、一時は生死の境をさまよったと聞いて、老婆心から静養を勧めたのだと思われる。しかも松山は子規の故郷だ。ここで自分と一緒に暮らしながら静養すれば、病気も少しはよくなるかもしれない、こう考えただろうと思えるのだ。
子規が漱石の下宿愚陀仏庵に滞在したのは50日ばかりに過ぎなかったが、この間松山の俳句愛好家松風会の人々に囲まれ、大いに俳諧を作り論じた。漱石もその輪に加わり、俳句をひねるようになった。その様子を、先の談話は続けて次のように述べている。
「僕は二階に居る、大将は下に居る。其のうち松山中の俳句を遣る門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると、毎日のやうに多勢来て居る。僕は本を読むこともどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でもなかったが、兎に角自分の時間といふものが無いのだから止むをえず俳句を作った。」
これもまた漱石一流の諧謔が現れている部分といえるだろう。
子規と漱石が知り合ったのは、一高時代の明治21年頃だとされる。その時二人を結びつけたのは俳句ではなく落語であったらしい。漱石の落語好きは有名だが、子規も若い頃には落語を喜んで聞いたのだろう。
そして運命の明治22年、子規は大喀血をした。そのときの二人のやり取りは、先稿で述べたとおりである。
一校卒業後、二人はともに帝国大学に進み、漱石は英文学、子規は哲学ついで国文学の道を歩んだ。しかし子規は途中で学業を放擲し、大学を中退する。その時漱石は子規の為に随分と心配してやったが、子規のほうはさばさばしたもので、陸羯南の発行する新聞「日本」の記者になって、そこを舞台に精力的に俳句を発表するようになる。
その年(明治25年)の夏、漱石と子規は連れ立って関西旅行をしている。子規が郷里の松山に帰るのに便乗して、漱石も亡くなった次兄の妻小勝の実家を訪ねて岡山に行くことにしたのだった。このときには、二人で京都や大阪に遊び、互いに友情を深めたと思われる。
さて松山での共同生活の後、東京へ帰った子規は脊椎カリエスのために床に伏しがちになり、漱石のほうは松山中学から熊本の高校へ転じたりして、二人が顔を合わせることは難しくなった。その代わり往復書簡を通じて、互いに励ましあうようにある。その内容は、漱石が作った俳句を子規に送り、それに子規が添削を加えるというものが多かった。
二人が最後に会うのは明治33年、漱石がイギリス留学に出発するに際して、子規に別れをいいに行った時だった。その時子規は餞別として次の句を漱石に贈った。
萩すすき来年あはむさりながら
子規も漱石も、これが最後の別れとなることを、覚悟していたに違いない、それが句から伝わってくる。
漱石のロンドン滞在中、子規は漱石にあてて2度しか手紙を出していない。死が差し迫っていた子規には、余裕がなかったのだろう。一方漱石のほうも、ロンドンでの暮らしが性にあわず、重いメランコリーにかかったりしていた。
その中で、子規が漱石にあてた生涯最後の手紙は、読むものの胸を打つものがある。
「僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣して居るやうな次第だ。・・・僕が昔から西洋を見たがって居たのは君も知ってるだろー。それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋へ往たやうな気になって愉快でたまらぬ。若し書けるなら僕の目の開いているうちに今一度一便よこしてくれぬか(無理な注文だが)・・・僕はとても君に再会することは出来ぬと思ふ。万一出来たとしても其時は話も出来なくなってるだろー。実は僕は生きているのが苦しいのだ。・・・書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へ。」
この手紙に接した漱石は、子規にあてて返事の手紙を書かなければならないと思いながら、自分自身の不調も理由して、ついにその機会をえないまま、子規が死んだという知らせを聞いた。
このことは漱石の心に、深い後悔の念として残ったであろう。だが漱石は、生きている子規に対しては返事を書いてやることができなかったが、別な形で、子規に別れの言葉を贈ることにした。子規没後の明治39年「我輩は猫である」中篇を出版するに際して序文を付し、その中で子規に対して哀悼の気持ちを述べたのである。
「余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬことをしたやうな気がする。・・・哀れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸を引き取ったのである。・・・書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉へなどと云はれると気の毒でたまらない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺してしまった。」
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【子規喀血】
行燈を月の夜にせん杜鵑(明治22)
五月雨を思ふてなくか子規(明治22)
それと聞くそら耳もかな杜宇(明治22)
一声は月かないたかほゝときす(明治22)
卯の花をめがけてきたか時鳥(明治22)
明治22(1889)年5月9日の夜、子規は突然喀血しました。翌日、医師の診察を受けると、肺病と診断されます。子規は、さほど大病と思わなかったのか、その日の午後に九段で行われた会合に出席しますが、午後11時に再び喀血しています。
子規は、翌日の午前1時までに、「ホトトギス」を詠み込んだ句を50ほどつくりました。
句には、「卯の花」「ホトトギス」などの初夏の季題が詠み込まれていますが、子規は卯年生まれのため、血を吐いたように口の赤いほととぎすと卯の花を主題にしたのでした。
子規は、一週間ほど、一度に五勺ほどの血を吐き続けました。『子規子』の「喀血始末」には、閻魔大王の訊問を受ける子規の姿が描かれていますが、判事の役割を果たした赤鬼の言葉に「今より十年の命を与うれば沢山なり」とあり、「死期」に通じる「子規」を選んだとも考えられます。
子規は喀血のあとの5月10日、遠縁にあたる服部嘉陳に手紙を書きました。嘉陳は、伊予松山藩士藤野正久の次男で、藤野漸の兄にあたります。ふるさと松山に帰る嘉陳へのはなむけに、自らを血を吐くホトトギスに例えた歌を添えています。当時、嘉陳は常盤会寄宿舎の監督を務めていました。内藤鳴雪の『鳴雪自叙伝』には「この監督は最初同郷人の服部嘉陳氏であって、私も給費生の始まった頃からその生話掛の一人で、やはり寄宿舎にも関係する事になっていた。その後服部氏は、病気のため帰郷することになったので、そこで私がその後任となったのである」とあります。
我が師とも父ともたのみぬる服部うじの都を去りて遠き故郷へ帰らるると聞きて、いとど別れのつらき折からいかにしけん。昨夜より血を喀くことおびただしければ、一しおたのみ少なき心地して
ほとゝきすともに聞かんと契りけり血に啼くわかれせんと知らねば(明治22年5月10日 服部嘉陳宛書簡)
翌日は、正岡家の後見人であった大原恒徳に手紙を宛てました。嘉陳への手紙とともに左手で書いています。これは「右の肺がわるき故、何をするも左手をつかうは真の杞憂にして、苦痛のわけには無之候」と綴っています。もともと子規は左利きで、手紙は造作もなく書けたようです。また、「病気のこと母上はじめ他の方々へは可成御話無之様奉祈候」と、病気のことを伝えないように頼んでいます。
拝啓仕候。その後律縁談の儀は如何相成候哉。さても私一昨夜已来吐血致候処右は全く肺焮衝の由。しかし数日にして全癒するとの診断故、御心配被下間敷候。今にして早く防がずんば不都合の由に御座候。別に苦痛もなく格別の事は無之候えども、もし他方よりこのこと御伝聞に相成候ば、御気遣も有之んかと思い、一寸申上置候。くれぐれも御心ぱい被下間じく候。右の肺がわるき故、何をするも左手をつかうは真の杞憂にして、苦痛のわけには無之候。失礼御免奉願候。謹言。
叔父上様
病気のこと母上はじめ他の方々へは可成御話無之様奉祈候。
都合つき候わば、金少々御送被下度奉願候。
私卯歳なれば卯の花にも縁あり。従而啼血するという杜宇(ほととぎす)にも廻り、親類に相成候もいとおかし。
卯の花をめがけてきたかほととぎす
小家父上などに肺病のすじ有之候哉。御報奉願候。(明治22年5月11日 大原恒徳宛書簡)
子規の喀血の様子がわかるのは、明治22(1889)年9月に自分の病気を閻魔の審判に擬した『喀血始末序』という文に書かれています。これによれば、当初、喀血は結核のものだとは思わず、喉の病気だと考えていたのです。医師の診断を受けて結核と分かりますが、安静にするようにという医師の指示を無視して、集会に出席し、その夜に再び喀血しました。詳しい内容は、子規の証言をお読みください。
被告「五月九日夜に突然(何の前兆もなく)略血しました。しかし自分は喀血とは知らず、咽喉から出たのだと思いました(咽喉から出たことは前年ありました)。もちろん喀血の咳嗽に伴うことは後に知りました。翌十日は学校へ行かんと思いましたが、朝寐して遅刻しましたから、友達の勧めに従うて医師の処へ行き診察を請うと、肺だというので自分も少し意外でありました。医師はまたその日は熱が出るから動くなといいましたが、よんどころなき集会があってその日の午後には本郷より九段坂まで行き、夜に入りて帰るとまた喀血しました。それが十一時頃でありましたが、それより一時頃までの間に「時鳥」という題にて発句を四、五十ほど吐きました。もっとも、これは脳から吐いたので肺からではありませぬから、御心配なきよう、イヤ御取違えなきよう願います。これは旧暦でいいますと卯月とかいって卯の花の盛りでございますし、かつ前申す通り私は卯の年生れですから、まんざら卯の花に縁がないでもないと思いまして『卯の花をめがけてきたか時鳥』『卯の花の散るまで鳴くか子規』などとやらかしました。また子規という名もこの時から始まりました。かように夜をふかし、脳を使いしゆえか、翌朝またまた喀血しました。喀血はそれより毎夜一度ずっときまっていましたが、朝あったのはこの時ばかりです」
判事「喀血は何日続きしや。また分量はいかん」
被告「一週間ばかりつづきまして、分量は一度が五勺くらいと存じます」
判事「毎夜喀血する時は定っていたか」
被告「いや定めがありません。早き時は八時、遅き時は十一時くらいでありました」
青鬼「その方は前に肺患にかかったのは意外だと申したが、何ゆえそう思っていたか」
被告「自分今春学校で測りましたに肺量は二百二十リットルありましたから、通常よりは多いくらいだし、また充盈と空虚と胸周の差はほとんど二寸くらいありましたから、これまた通常でありましたから、同学生などの中ではいばれたものでありました。それゆえ自分は肺患は容易に来らず、来たところが脳病の後だと思考しておりました」
青鬼「その方は前に突然喀血し云々と言い、また意外なりし云々というを見れば前兆は少しもなかりしと思う。いかん」
被告「仰せの通り前兆はありませんように心得ますが、しかしよくよく考えますと、少し妙なことがあります。それはほかではございません。自分は幼少の時より大きな声が出せませず、また少し長く(三十分くらい)つづけさまにしゃべりますと声がかれます。また少し余計に走ると非常に困しみました。これらは生来あまり肺のよからぬを証するものにやと思います。また最も近き前兆はこの二年ほどは痰が出ることが常でありまして、病気前は平生よりは少し繁く出たかとも考えます。そのほか近年風邪を引くことの名人でありました。このほかは知りませぬが、これとても後からの考えで前は何も気がつきませんでした」
青鬼「喀血前に発熱せしことはなかったか」
被告「自分の病気は変則で発熱という前兆はなく、現に十日の日に医師が発熱せんといいしも虚言となりし訳にて、ついに発熱せしは一週間くらい後にてかえって喀血のやんだ後くらいであります。また熱も強きことはありませんでございました。発熱して血を喀くは通例だそうでございますに、自分のは反対でありました。もともと人間がひねくっていますから、病気までが変り物だと思ってひねくります」
判事「喀血がやんで後、病気はどうであった」
被告「その後は痰に血痕がまじりまして、かようなことは一カ月の余もつづきまして医者までが長いのに驚きました」
判事「食事はどうであった」
被告「なるべく動かぬように寐ておれと医者がいいましたゆえ、坐禅イヤ臥禅でもした心持でいましたから食欲はなくなりますし、粥と玉子が食えぬ時もしばしばありました」
判事「その方は十日の日に医者のすすめも用いず、うちを飛び出したりしたくらいだから、その後もさだめて害になるようなことをしたろう。一体にその方は不養生との評判じゃがどうだ」
被告「仰ではございますが、それは真赤な嘘でございます。十一日の朝喀血しましてから、さすがの自分も大閉口で無口のお願をかけたが、獅子にでも出っくわして死んだまねをするようにかれこれ難儀をしました」
判事「全く血がとまって後はどうした」
被告「医師の勧めで西洋料理などをやらかし、葡萄酒を飲んで贅沢を尽しました」
判事「そのほか医者が何か勧めはしなかったか」
被告「早く故郷の海浜へでも帰り、海水浴でもやらかし葡萄酒を飲み、御馳走を食うて海浜を散歩せよと申しました」
判事「そのすすめに従うたか」
被告「イヤ従いませんでした。それは学校の試験だけをすまして後と思い、医師や親類などの勧めを用いませなんだ。しかし試験後匆々汽車にて神戸へ出てそれより汽船で三津まで航し、それよ人力車で松山へ帰りました。その日は七月七日でありました」(喀血始末序)
大量吐血で入院中の夏目漱石、担当医にこわごわ回復具合を ...
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『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、 慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」 ...
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2019/08/27/58792 【夏目漱石と胃潰瘍「吾輩ハ胃弱デアル 特効薬はまだない」】
今回の患者さんは松山にゆかりのある文豪。
誰か?って、そうです、夏目漱石さん。
病弱だった――なんて話を皆さん聞いたことがありましょうか。
調べてみると、これが結構なものでして……さっそく本題へ参りましょう。
天然痘に虫垂炎、トラコーマ……と既往歴がパンパン
飼い主の珍野苦沙弥は、まんま漱石さんです
京大のポストも蹴って、職業作家として生きる。が……医療が進歩し、胃潰瘍は死の病ではなくなった
漱石は明治維新の前年、1867年の江戸生まれ。
3歳時に天然痘にかかり痘痕(あばた)が顔に残りました。出だしからヘビーですよね……。
漱石の写真は左向きで右頬を隠したポーズが有名ですが、実はこれ痘痕を隠しているため。お見合い写真でも、その部分を修正するなど、かなり気にしていた模様です。
病弱だった漱石は、大学予備門に在学中、虫垂炎のため試験を受けられず留年。この頃、トラコーム(伝染性の角膜炎)にもかかっています。
その後、東京帝国大学を卒業し、高等師範学校の英語教師となりましたが、そこで肺結核を発症、さらに近親者の死も重なり神経質衰弱となります。
いったん、ここまでの病歴をマトメてみましょう。
◆既往歴
3歳 天然痘
19歳頃 虫垂炎、トラコーマ
25歳頃 肺結核、神経衰弱
現代より栄養状態の良くなかった当時にしても、なかなか病弱な方だと思われます。
てなわけで、話を進めましょう。
飼い主の珍野苦沙弥は、まんま漱石さんです
明治33年、漱石は文部省の命令でイギリス留学をします。
その間、神経衰弱はさらに進行し、『漱石発狂』の噂が流れたため予定より早めに帰国。
帝大と一高で教鞭をとった漱石でしたが、お堅い授業は不評、叱責した学生が入水自殺という中で精神衰弱は悪化していきます。
そんな時、知人から「小説を書くと気晴らしになり精神衰弱に良い」と勧められ、処女作『吾輩は猫である』を執筆しました。
漱石37歳、遅咲きの作家デビューです。
当初、吾輩は猫であるは1回読み切り予定で、俳句雑誌『ホトトギス』に掲載されました。
しかしこれが、予想を超える大好評!
結果、全11回の連載作品となるなど、まるで「ジャ○プの読み切り漫画が好評で新連載開始」ってな感じでありました。
さて、『吾輩は猫である』は、主人公の猫から見た人間観察がキモであります。猫の飼い主は「珍野 苦沙弥(ちんの くしゃみ)」で、中学校の英語教師。性格は偏屈なくせにノイローゼ気味で胃弱、と、まるで漱石自身のことが描かれております。
そして小説の中では胃腸薬を飲む、こんなシーンが……。
彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色たんこうしょくを帯びて弾力のない不活溌ふかっぱつな徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後あとでタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。(『吾輩は猫である』夏目漱石)
ここに出てきた『タカジヤスターゼ』が胃腸薬なんですね。
成分は唾液などに含まれる消化酵素『アミラーゼ(ジアスターゼ)』で、でんぷんを糖に分解し、炭水化物の消化を助けます。ダイコンやカブなどにも多く含まれています。
タカジアスターゼは明治27年に麹菌からジアスターゼを抽出した「高峰譲吉」が、自分の名字から『タカ』をとり命名し特許取得をしました。そして胃腸薬、消化剤として市販され、胃もたれや胸焼けの薬として使われたのです。小説だけでなく、漱石も実際にタカジアスターゼを使っていたそうです。
ちなみに今でも薬局で買えますので、漱石に憧れている方は、食後にどうぞ♪
処女作以降、『倫敦塔』『坊ちゃん』と立て続けに作品を発表した漱石は一躍、人気作家となります。
そして明治40年、全ての教職を辞めて朝日新聞社に入社し、職業作家としての道を歩みはじめました。このときなんと京大教授ポストも蹴っているんですよ!モッタイナイ。
ところがところが……わずか3年後の明治43年6月、漱石は『門』の執筆中に胃潰瘍で入院、その2ヶ月後、療養に訪れていた修善寺で800gの大量吐血をして生死の境をさまよいます。
おそらく胃潰瘍からの出血でしょう。
漱石は何度も胃潰瘍での入退院院を繰り返し、痔や糖尿病にも悩まされました。甘いものが大好物だったそうなので、作家業のストレスものしかかって、摂取量もいきおい増えたのかもしれません。
そして大正5年、知人の結婚式で消化に悪いピーナッツを食べ胃潰瘍が再発。12月2日、排便の力みを契機に昏倒し、1週間後の12月9日に帰らぬ人となりました。
死の翌日、病理解剖が行われ、『胃潰瘍からの大量出血による失血死』と認められました。
まり先生の歴史診察室夏目漱石
医療が進歩し、胃潰瘍は死の病ではなくなった
胃潰瘍は、胃酸分泌と粘膜保護作用のバランスが崩れた際に起こります。たいていは粘膜保護作用の低下が原因ですけどね。
またヘリコバクター・ピロリ菌も胃潰瘍の発生に関与しています。防御因子が弱まったところが胃酸にさらされると、そこの粘膜が傷み、欠損。自覚症状としては『胃の不快感や痛み』があります。
潰瘍が深くなるとそこから出血しますし、更に進むと胃に穴が開く(穿孔)こともあります。太い血管に穴が開いた場合は大量出血につながり、その出血は命に関わりますので手術が大原則でした(残念なことに日本初の胃潰瘍手術は漱石の死から2年後)。
わざわざ「でした」という表現を使ったのは昭和57年に登場した「胃酸を抑える薬」により胃潰瘍出血が激減し、今では殆ど手術をしなくてすむようになったからです。
現在は、さらに違う種類の胃薬や、ヘリコバクター・ピロリの除菌療法、内視鏡をつかった止血術もあり、胃潰瘍での死亡は大幅に減少しています。
漱石が作家として活動したのは約12年間。もしも今の胃薬がその時代にあれば、もっともっと多くの作品が読めたことでしょう。
ただし、本気で生死をさまよったからこそ、珠玉の作品が数多残されたとも考えられるでしょうし……うーん、難しい。