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五郎のロマンチック歴史街道

風化して久しい“海城”高砂之城。 謎に満ちた歴史秘話を追ってみる。

2020.06.27 08:52

高砂城を攻略した秀吉軍に完勝した毛利水軍であったが、不可解にも進軍もせず、また高砂に留まることもなく帰国の途に就いた…。

古い地図を見ると、加古川口が播磨灘に少し突き出しているのが見える。埋め立てが進んだ

現在では殆ど平均化されていて、昔の地形は判別しようもないが、この河口付近は水運の拠点として栄えたであろうことは推察できる。

高砂城は、河口の西側にある「高砂神社」周辺に築かれた(宮司にお聴きしたところでは、神社の北隣にあった。)と言われているが、今なお、その場所は特定されていない。

高砂城は「高砂の浦城」とも呼ばれ、海の守りや海上交通のかなめとしての役割を担っていたものと思われる。中世末期の山城とは性格が全く違う「海城」ともいえる城であったのかも知れない。




高砂城の成立

赤松氏の資料「播州諸城交替連綿之記」(江戸時代成立文書)には、「高砂城主・杉岡蔵人祐利嘉吉比梶原景行此の城ヲ守ル。別所長治従者ナリ」とある。また、宝暦二年の「播磨鑑」にも、「始メハ杉岡蔵人嘉吉年中也」とあり、杉岡蔵人は、嘉吉の乱の際に、赤松満祐に従ったとある。

従って推測としてではあるが、嘉吉年間(1441~1443)の間に築城されたのではないか、と考えられる。

しかし、これらの記述は、全て江戸時代に書かれたものであるため、裏付けとなる古文書なしには確定することが出来ない。



城主・梶原氏について


前述の通り、高砂城を築いたのは荒井城主であった杉岡蔵人ではあったが、その後、梶原氏が播磨で勢力を伸ばし、城主となった。文明元年(1469)梶原出雲守景望が、知行高3,000貫で高砂を領し、梶原晴景の代には6,000貫に加増された。

この晴景の子孫と思われる人物が、梶原平三兵衛尉景秀(一説には景行)である。

加古川評定の二年前にあたる、天正四年(1576)に、当時の城主であった景秀は、鶴林寺太子堂の御影に「前机」を寄進しており、その銘には、「播州加古郡刀太山御太子御堂御宝前机寄進梶原梶原平三兵衛尉景秀敬白天正四年丙二月吉日」と記されている。

これにつき、鶴林寺吉田住職にお聴きしたところ、「確かに当寺に寄進されたものであり、宝物として大切に保存しております、とのこと。朱塗りの雄大かつ重厚な造りである。



三木城への兵糧供給拠点 高砂城の合戦


高砂城が海城として歴史の表舞台に登場することになったのは、天正六年(1758)から始まった秀吉の三木城攻めの時からである。三木の支城でもあったことから、高砂城主・梶原景秀(景行)は、最後まで最大の兵糧供給基地としての役割を担った。

「信長公記」によると、秀吉は同年五月六日に播州の大窪に陣を張り、神吉城の合戦ののちに高砂城に軍を差し向けたとされている。



「別所記」によると、梶原景秀は、毛利勢の吉川元春、小早川隆景の応援を得て、高砂から加古川~三木川(美嚢川)を遡るルートで食料を三木城に運び入れていた。秀吉は、この補給路を断つため、軍船を加古川の河口付近の「今津」に配置して一千騎で高砂城を攻めた。

景秀は、岡山にいた毛利輝元に急援を頼んだが、十月十七日、寄せ手は城際まで攻め寄せ雨あられのように、鉄砲を撃ってきた。景秀は馬にまたがり、三百騎を従え討って出てせめぎ合いを続ける…その時、寄せ手の中から松明を城の中に投げつけた。折からの浜風にあおられ、火は一気に燃えあがり牛頭天王(高砂神社)のご神木である「相生の松」に燃え移る。

其の炎上る音、雷電の如く、枝の焼け落ちる響きは地震の如し」だった。この火は高砂城の三の丸を焼き尽くし、近隣の在家数百軒、海岸の舟数数百隻を燃やしたという。



翌、十八日、毛利輝元の軍勢三千五百騎が、百艘の舟に乗って高砂沖に押し寄せた。

法螺貝や太鼓の音が鳴り響き、二手に分かれて秀吉軍に攻めかかった。是を見た城主・景秀も、

「かちんの垂直に萌黄縅の鎧を着、頭形兜を猪首に着なし、赤銅作の太刀を帯び、鹿毛なる馬に白鞍置いて、紅梅の作花を一枝後ろに差し」の出立ちで討って出る。

この勢いに、寄せ手は総崩れになり、海に逃げる者数知れずであった。景秀の大勝利であった。



しかし、この勝利の直後、尋常では考えられないことが起こった。誠に不可解にも、毛利軍は踵を返し、閧の声を上げ乍ら、帰国の途についてしまったのである…。

一方、大敗を喫した秀吉は、高砂、飾磨、網干、室津に番船を差し向け、敵による海路を

断ったうえで、再度高砂城を攻め立てた。さすがの景秀も、毛利の援軍がなければ、城を守り切れないと考え、高砂城を放棄するのであった。一族は、残らず三木城に入り、城主自身は、剃髪して、加古川の鶴林寺に隠れ住んだといわれ、子孫は、民間に下って永住したと伝えられている。

しかし、これは軍記であり、それも、文献により記述が異なる部分は少なくない。例えば、「播磨鑑」では、毛利軍は援軍を送るも、秀吉勢の海上封鎖等により、三木落城まで、高砂に長期に亘り留まることを余儀なくされた、と記しており、「相生の松」は、毛利軍兵により、薪として燃された、と記述してある。また、高砂城主・景秀が、鶴林寺に移り住んだという下りについて、当院吉田ご住職によれば、『「寺記」には見えませんが、複数の文献にそのように書かれているのをみれば、事実であったのかも知れませんね。』と話されていた。一方、「信長公記」によれば、

高砂城は、秀吉の命により、今藤九介と山内伊右エ門(一豊)により破却されたとある。



梶原氏と高砂「十輪寺」


高砂神社を訪れたあと、当神社の西、約五百メートルに位置する「十輪寺」を訪れた。ここには城主景秀の墓碑があるという。重厚な山門をくぐると、県指定文化財であるご本堂が正面に見える。浄土宗で、高砂の名刹である。


まだ梅の花は咲きやらぬ2月の初旬ではあったが、温かい陽光に鳥たちの鳴き声も春を思わせる穏やかな昼下がりであった。市指定文化財でもある玄関を廻り込み、広大な墓地の一角に、市の教育委員会による由緒書の立て札があり、その奥に「墓碑」はあった。案内して戴いたご住職の奥様にお礼を述べ、刻印された戒名を調べてみると、「圓照院俊如景秀居士」とあり、この存在は近年に判明した、とされている。



前ご住職に「方丈」内部をご案内戴いた。著名な京都の寺院にでも案内されたかのような錯覚を覚えるほどに、素晴らしい大広間である。その一段高い奥の間に、立派な経机が飾られてあり、前ご住職によれば、『梶原氏の末裔の方より寄進された、と伝えられております。』とのことであった。

⬆️梶原氏の末裔より寄進されたといわれる、「経机」。(仏壇前に置く机)菊の紋は、絵画でなく、くり抜きに細工されている。



⬆️梶原景秀の墓碑(十輪寺境内)



引用・参考文献

①「兵庫の城(新版)」②「東播磨の歴史」③「郷土の城物語」④「高砂市史(第1巻)」⑤「播磨鑑」取材にご協力戴いた方々

①鶴林寺・吉田ご住職②高砂神社・宮司様③十輪寺・前ご住職




《参考追記》

圧倒的な勝利を得た毛利軍が進軍もせずなぜ帰国の途についてしまったのか?その謎に迫る。


「王佐の才」作者であり、歴史史書を忠実に基本としながら、常識的かつ独自の視点で歴史小説を書く堀井俊貴氏によれば、その理由を次のように推論、記述している。戦国歴史ロマンの一つとして紹介しておきたい…。




事の顚末を聞いた羽柴小一郎秀長(秀吉の弟)は、『毛利っちゅうのは、不思議な戦いをする。

強いのか、弱いのか、よう判らんなぁ…。毛利軍は、戦術レベルの戦いにおいては、確かに強い。兵は精鋭だし、将の質も高い。しかし、上月城にせよ、高砂城にせよ、一つの勝利を、その後の大勝に繋げようという執念というか、執着する部分が欠けるように思える…。なにゆえ、毛利は我々に攻めかかって来なかったんだろう。』例えば、小一郎であったなら、すぐさま、兵を三木城へ差し向わせるかどうかは別としても、取りあえず、高砂城を修復して、そこに軍を留め、播磨の陸海の拠点にしたであろう。毛利氏は瀬戸内海の制海権を握っているから、海際の高砂城なら、兵や物資をいつでも運び入れることが出来、万一攻められたにしても、迅速に援軍を派遣できる。

しかも、高砂城は、内陸の三木城と加古川で結ばれているから、この拠点さえ維持できれば、毛利氏と別所氏と有機的な連携がとれ、三木城の補給線まで確保できるのである。その程度の事を毛利が判断できないはずはない、と小一郎は考えるのである。


この疑問に応えたのは、小寺官兵衛である。

『そもそも、毛利は、天下を取るつもりで織田と戦ってはいないと考えます。織田家が大きくなり、

それに呑みこまれないために、戦わざるを得なくなった、というのが正直なところではありますまいか。』つまり、毛利は領土的野心から動いているわけではない、と官兵衛は言うのである。

『要するに毛利は、播磨で、織田の侵攻を阻み、出来るだけ期間を稼ぎたいと思っているだけなのです。そのために、別所や、摂津の本願寺に奮戦してもらいたい…。しかし一方で、備前の宇喜多の様子もおかしい。宇喜多が敵に廻れば、毛利の領国は剥き身になるわけで、これは一大事です。

領国から兵を動かすわけにはいかなくなる。毛利の動きに不自然さが匂うのは、その辺りに理由があると私は考えます。さりとて、織田と戦っている別所を見捨てた、と思わせるようなことも出来ない。だから、結局、水軍を使って、兵力を小出しにするような、中途半端な戦いになってしまうのでしょう。毛利は、このように織田と戦い、織田と戦うものを応援している、と世の中の人々に見せたいだけなのです。そのくせ、播磨に大挙乗り込んで、織田と決戦を挑むような度胸は、ない。自らは、血を流さぬ援け方しかしようとしない。そんな性根の者が、信長さまと天下を争うこと自体が誤りであると、私は思います。』


官兵衛は、以前から、熱心に備前の宇喜多直家に調略を仕掛けている。毛利に寝返って、織田につくという噂を流布しているのである。そのような状態では、毛利はおちおち領国から大挙して遠方まで長期に亘り、派兵することは出来なくなる。

『すると毛利は、もう播磨には出て来れなくなる、ということなのか…?毛利は別所を見捨てると…?』そばで聞いていた竹中半兵衛は、したり顔で、官兵衛に問い直すのであった。

「高砂之城」は、謎のヴェールに包まれた海城であり、遺跡すら残ってないこともあって、高砂市民の間でも、風化して久しいと言われている。これまで記述したとおり、軍記以外、この城の正確な位置、規模や詳細な歴史を把握できる古文書は、残念ながら現時点では皆無に近い…。