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たくさんの大好きを。

深海 おわり (文

2020.06.30 18:58



「・・本当にいいんですね?」

「はい。もう決めたんです。」

「わかりました・・。あなたの選択を私は守りたいと思います。」

小雨の雨音が香の耳にはなぜか優しく届く。

こんな日でよかったと思った。なにもかもキラキラ光る晴天の青空の下では、やっと沈めた気持ちが顔を出してきてしまいそうで、雨に紛れて早くと焦りだけが回っていく。


カチャッとノブを回る音と共に、白髪の少し小柄な老人が姿を現し、

「熱は下がったようじゃのう。」

そう言い目を細めた。

「教授。」

「銃弾が掠めた場所も幸いに外傷はほとんどなかったからのう、熱さえ引けばすぐに日常に戻れるはずじゃ。」

歩み寄ってきた足を止め、香をじっと見つめると、重たげに口を開く。

「・・・もう行くのかのう?」

隣に立つ荒木が視線を下に落とし、僅かに硬い表情を浮かべる。

「はい。お世話になりました。教授にはいつも助けられてばかりですね。・・ごめんなさい。あたし、何もお礼ができないままで・・」

「香くんが生きていてくれることがなによりわしは嬉しいんじゃよ、だから気にするでない。それよりも・・今から、かのう?もう一日ぐらい体を休めてから行ってはどうじゃの?」

困ったように眉を下げながら、香が首を振る。無意識に首元の鎖をカチャリとなぞる。

「ごめんなさい・・」

「・・そうか。やはり決意は固いようじゃのう・・香くん、ひとつお願いを聞いてもらってもいいかな?」

「お願い・・ですか?」

戸惑った表情の香に、教授が頷く。

「多分、おまえさんのことじゃ、この街を離れるつもりなのだろう。だがな、例えあやつの元を離れても、おまえさんが狙われる可能性はゼロではない。離れたことをこれ幸いと思う輩もいる事は否めん。ここで預かっていた以上、おまえさんに何かあってはあやつに合わす顔がないからのう。」

「そんな・・あたしは・・自分の身は自分で守れるようになりたいと思います。離れてまで足手まといにはなりたくないです。」

「わかっておるよ。香くんの気持ちは痛いほどにな。だからこそのお願いなんじゃよ。」

「教授・・・?」

香の肩にそっと手を添えて、教授が荒木に視線を移す。荒木の瞳に強い光が灯る。

「荒木を連れて行きなさい。共に行くのじゃ。この世界はのう、おまえさんが思う以上に仄暗く、足の引っ張り合いでな。どんな手を使ってもあやつのことを引き摺り下ろしたい輩から守るためには、この男が適任じゃろう。」

「そんな!あたしのわがままに荒木さんを巻き込むわけにはいきません!」

香が激しい抗議の声を上げるが、スッと荒木が香の前に進み出てその手を取る。

「香さん、私は言いましたよね?守らせてください、と。あなたに危険がある以上、私も行きますよ。それが私に与えられた役目です。ダメだと言われても行きますから。」

「なっ!?・・」

「ふぉっ、ふおっ、ふおっ。荒木、おまえさん随分変わったのう。よいよい、若いということは羨ましいのう。わしがもうちょい若かったらな。」

「教授!」

「香くん。このお願いだけは聞いてくれんかのう。でないとわしはここからおまえさんを出してやる事はできぬよ。」

静かな口調だが、抗い難い凜然たる空気の中で、諭すように言葉は続く。

「荒木を今回の警護に配置をお願いしたのもわしじゃよ。今回ばかりはあやつが思うように動けぬ気がしてのう・・歳は取りたくないものだが、その分ちいとばかし色々な繋がりもできていてな、そんなことも可能なんじゃよ。あやつもそれは気付いていたようだ。意図するところまではおそらく辿りついていなかったと思うがの。」

小雨のせいか、雨音はほとんど聞こえてこないが、窓越しに見える灰と薄水色が混じる景色が香の心に不思議な静けさを連れてくる。


何故だろう。

自身が置かれている大きな輪の廻りの中の出来事であるならば、必然であるような気がした。

教授の存在の大きさは嫌というほど分かっている。

獠の過去を知り、幼い獠と同じ時間軸を生きた人であり、全幅の信頼をおく唯一の人である人物の言葉を香が受け入れない選択はなかった。

「獠は教授の存在には気付いているけれど、その理由までははっきり分からないということですね?」

教授と荒木が驚いたように香を見つめる。

先程までの感情に揺られていた様子は消え、キュッと両手を膝の上で合わせて、少し困ったように笑う。

「わかっていないならわからないままがいいと思います。教授はあたしのどうしようもない気持ちも全部わかって動いてくれていたんですね。だったらそれは獠には必要ないですから。獠を置いて逃げた薄情なあたしのままでいいんです。」

それがあたしにできる多分唯一のことですから。とまた笑う。


教授も荒木も心を掴まれたように目が離せなかった。

どうしてこの人は。

と荒木は思う。

あやつは馬鹿じゃのう・・

と教授は憂う。


それでも口には出せぬ気持ちを呑み込み、できる限りの温もりを込めて、教授がその細い肩にそっと掌を添える。

「なにもいうなということじゃな?」

「はい。もし獠が訪ねてきても、パートナーを解消したとだけ伝えて下さい。でも・・こんな口うるさい奴居なくなってせいせいしたーって、アイツ来ないかもしれませんけど。」

へへへと戯けたように笑う香に、教授の瞳が切なく細まる。

「・・そんなわけがなかろう・・」

「・・あんなに想ってくれる人がいて、獠が幸せになれないはずないから。教授、獠は絶対に幸せにならなきゃいけない人ですよね。」

そう言ってとても綺麗な笑顔を浮かべる。

たまらず荒木が目を逸らし、真横に口を結んだ。


幸せはな、みなに訪れるべきなんじゃよ。

香くん、おまえさんにもな。


この娘でなければならないと願う気持ちと、走り出している狂った歯車は相容れない。

どうしてやることもできない無力さに、教授の顔に苦渋の色が浮かぶ。


「・・ほかに伝えたいことは?」

ふるふると香が首を振る。

「そうか・・あとのことは荒木に伝えておる。おまえさんが行きたいという場所もおおよそは・・な。その地は荒木にとっても特別な場所のはずじゃ。不思議だのう・・離れる二人があれば、縁があり共に行く二人も在る。香くん、荒木を頼む。この男はな、ある意味あやつよりも数奇な人生を送ってきた。この国のからくりの中で生きてきた男だ。だからこそおまえさんを託すのじゃよ。裏の裏まで知り尽くしている。なにか事があったとしても必ず守り抜くじゃろう。」

「守られてばかりはいや・・なんです。あたしにできることは?」

繰り返しは嫌だと勝気な瞳が揺れる。

「側にいるだけでいいんじゃよ。おまえさんがいる事で荒木の見える世界が変わっていくじゃろう。・・いや、もうすでに変わっておるはずじゃ。のう、荒木よ?」

名を呼ばれた荒木が、教授・・それは・・と少し慌てた様子になり、カラカラと可笑しそうに教授の顔が綻んだ。

「教授・・でも・・」

荒木と共に行くという選択の意味を推し量り、瞳を伏せ香が呟く。

「そんなに難しく考えるでない。色々な形があって然りじゃよ。今必要だからそうする。それだけのことじゃ。新しい地に行けばまた環境も自ずと変わっていくだろうて。その時にまたその時の在り方を考えればよい。今の最優先は香くん、おまえさんを守ることじゃ。よいか?わかるな。おまえさんに何かあれば、あやつに深い傷を残すということを。これはあやつのためでもあるんじゃよ。」

「・・・はい。あたし・・最後までご迷惑かけてばかりでごめんなさい。」

「最後なんて寂しいことは言わずに、たまには顔を見せに来なさい。いつでも待っておるよ。」

今は叶わぬ願いだろうと思いながら、廻りゆく流れのどこかでまた巡る必然があれば、と想いを言葉に託す。

「それはそうと、何故あの地に行こうと?」

「アニキが・・言ってたんです。あたしに日本海を見せてやりたいって。いつか、行ってみたいと思っていました。」

「そうか・・・」

「教授?」

「いや、何でもない。少し昔のことをな・・。荒木。あの地はおまえさんの故郷でもある。繋がっている縁もあることじゃろう。助けになってやりなさい。」

「はい。」

教授の前では、荒木も獠もまるで子供のようだと、香は思う。 

同じように自身も所詮掌の上の気もするが、反発の気持ちは無かった。たくさん助けられてきた。獠を救ってくれた人。感謝しかなかった。

「ありがとう・・ございます。」

「・・わしはおまえさんのそういうところがとても好きじゃよ。」

「へ?」

からかわないでくださいと恥ずかしそうに笑うその顔は心を温かくしていく。

お元気で。と去っていくその背はもう既に前を向いている。

「強い子じゃな、獠・・。脆くもあるが、しなやかさがある。おまえの事を誰よりも思うあのひたむきさに、このおいぼれもついほだされてしまうのう。」


雨は止む事なく降り続いている。

バタンと車のドアが閉まる音が響き、しばらくするとエンジン音と共に、小雨の向こう側に、シルエットが小さくなり、消えていく。

残像を追うようにしばらく見つめていたが、ゆっくりと踵を返して教授が部屋を後にした。





雨音がざわめく胸にしとしとと染み入り、忘れられない眼差しの向こう側の澄んだ空が蘇る。あの日はよく晴れていた。優しい眼差しが誰だかわからないまま旅立った事を、記憶を取り戻した時に激しく後悔した。


ちゃんと記憶があったなら

間違いなくあなたの胸に飛び込んでいた



「そろそろ時間です。」

ドアを開けながらシンイチが出発を促す。

「シンイチ。」

ユキが覚悟を秘めた瞳でシンイチを見つめる。

「・・時間です。」

「少しだけでいいの。」

「・・10分です。それ以上は待てません。」

「ありがとう!・・お願いできる?」

「はい。ここで待っていて下さい。」

ドアを閉め、シンイチの姿が見えなくなる。息を大きく吸い込む。

最後にどうしても聞いてみたかった。

もしそうならば、と。

想う事は自由であっていいはずだ。

ドアが開く音と共に焦がれた男が近付いてくる。躊躇いなくユキが胸に飛び込んでいく。


ここに全てがあるのに。

どうして叶わないんだろう。

「冴羽さん、もし・・もし私が香さんより早くあなたに出会っていたら、私を愛してくれましたか?」

無言でユキを見つめる獠のジャケットの袖をきつく握りしめ、胸に頬を寄せる。


少しでも先に出会っていれば

例え出会いのタイミングが同じだとしても、

重ねた時間がもう少し長ければ

止まらない気持ちを宿して、潤む瞳で見上げる。


少しの沈黙の後、変わらないな。と獠が笑う。

「冴羽さん・・?」 

「懐かしいよな。いつだって君は真っ直ぐに飛び込んできていた。久しぶりに会った時も、ああ、変わらないなって思ったよ。」

「・・私は私ですから。あの頃も今も。記憶をなくしていた頃もやっぱり私です。」

獠の言葉の意図が分からず、戸惑いながらユキが答える。

「そうだな・・。だけどアイツはいつも他人ばかり優先して自分は後回しなんだ。あの頃も今も・・な。」

「!!?・・それは・・?」

震える唇で、問う。

「おれと君では例え何のしがらみもなく出会っていたとしても、きっと今と変わらなかっただろう。」

「どう・・して?」

せめて泣くまいと涙は堪えた。それではあまりにも惨めだった。

獠が切なげに眉を寄せる。

「君は・・与えられる立場の人間だ。勿論無意識だろうがね。おれは・・与えてやることができない。できたとしても一時的にだ。君に本当に必要なのは変わらないものをずっと与え続けてくれる存在だ。」

「そんな!私だって!」

「アイツはさ、こんなおれにずっと何年も変わらず与え続けてくれた。おれがどんなに突き離しても離れなかった。いつもいつもおれや周りばかり優先して、それでも笑ってたんだ。」

胸が苦しい。

鼓動が止まらない。

そんな風に優しく笑うあなたがみている先は、私じゃなくて彼女なんだと思い知らされる。

「君がいるべき場所はおれの隣じゃないはずだ。彼がどんな気持ちでおれを呼びにきたのかと思うと・・な。似てるよな、いつも自分は後回しなところとか。」

「・・私がわがままだと言いたいんでしょ?」

どうせ。と涙目のまま、頬を膨らます。

駄々っ子のような自身がいることも、本当は分かっている。

「そうは言ってないさ。おれだって相当、だしな。」

「・・始まることすら無かった?」

「多分な。」

言い切って笑う顔はどこか幼くて、もう何も言えなかった。

だから少しだけ意地悪な気持ちになる。

これぐらいは許して欲しいと思う。

与えられる立場という言葉に本当は少し傷ついたけれど、心のどこかでそれでも私の方がと思う気持ちがあったことさえきっとお見通しだったんだろう。


私と彼女

何が違うんだろう

それすらわからなかった私は悔しいけれど、やっぱりそちら側なんだと思い知る。


「一時的にしかできないって、本当に?」

「・・なんだよ?」

途端、狼狽えたように視線があちこちに彷徨う。

嘘が上手だけど下手な人。

胸の中から距離を置き、せめて最後くらいはと、涙を捨てる。

「ふふ・・いいわ。聞かないでいてあげる。だって悔しいもの。とっても。」

「・・・・・」

「冴羽さん、私、帰ります。するべき事が山程ありますから。」

「抱えるなよ。支える奴が側にいるのを忘れるな。」

そう言って髪をくしゃりと撫ぜる仕草に、流行る動揺を抑え、はい。と笑顔で返した。

「あの日の空を、私は忘れないと思います。」

「・・おれもだ。」

「お元気で。」

「ああ。」

「ほら、待ちかねてるぜ。」

くいと獠が少し開いた扉の方を指で示す。

「・・お話中のところ申し訳ありません。時間です。」

時間をとうにすぎていることに痺れを切らしたのだろう。獠をちらりと見遣りながら、シンイチが扉を大きく開く。

「ごめんなさい、シンイチ。今行きます。」

急ぎ足で扉に向かいながら、去り際にありがとう、冴羽さん。と言葉を残し、シンイチの向こう側で待機していた警察関係者であろう人だかりの中へと身を預け、女王の立ち振る舞いを瞬時に纏う。


「お世話になりました。あなたのおかげで女王が無事だったこと、本当に感謝しています。」

「国に戻ったら、基盤を固めていくことだな。弱さを補うには人材と周りの国の力も必要だ。守りたいなら、汚れ役も必要だろう・・な。どんな世界の裏側でもな。」

「わかっています。私はとうにその覚悟はしていますから。私の父もそうやって国を守ってきました。そんな家系なんですよ。」

当たり前のことのようにさらりとシンイチが伝える。

「あの方は光の当たる表を歩んでいけばいい。国の上に立つものはそうあるべきです。知らなくていい裏側は私の役目です。」

「そうだな・・」

「ただ・・・」

小さくなっていく凛とした背が振り向き、シンイチ!と呼ぶ名が届く。

「・・大切なんだな。」

「当然です。なくてはならない方ですから。ただ、いつも驚かされてばかりですが。」

感情のままに動く様は一国の女王らしからぬ。と眉を潜めるが、その瞳に浮かぶ愛しさは隠せない。

「お互い大変だな。じゃじゃ馬相手だと。」

「冴羽さん、香さんは・・・」

「心配するな。無事だよ。おれの元を離れただけだ。」

「どうするんですか?」

シンイチ!と再度呼ぶ声が、広めに造られている廊下の端の方から反射のように響いた。

「連れ帰るさ。」

躊躇いなく言葉が漏れる。

「冴羽さん・・」

「当然だろ?パートナーだから・・な。」

二人の視線が絡む。ふっとシンイチが緩め、柔らかに笑う。

「お元気で。」

「そっちもな。」

パタリとドアが閉まり、いくつもの気配が徐々に遠ざかっていく。小雨は相変わらず降り続いている。窓の外に広がる青が隠れた世界に一瞬目をやり、背を丸め、ふうと息を吐いた。

「あの狸じじい、待ってろよ。」

去りゆく二つの背がいつか重なればいいと願う自身に自嘲の笑みが浮かぶ。


いつから変わったのか。

槇村と出会ってからか、香と出会ってからか、

どちらもなんだろうといつも同じ答えに辿り着く。


「迎えに行ってくるよ、槇村。」


ジャケットの胸ポケットの膨らみをそっと左手でなぞりながら、確かめるように握りしめ、前を見つめた。





都心からほんの少し離れた場所に広がる、その場所は都会の喧騒が嘘のように、深い静けさで佇んでいる。獠にとっての最後の砦のような場所だが、今は中で待ち構えているだろう人物ごとふてぶしくさえ映る。

ガン!と乱暴にミニのドアを閉めると、玄関先から馴染みの声がのんびりと聞こえてきた。

「なんじゃ、ご機嫌ナナメのようじゃのう。」

この狸め!誰のせいだ、誰の。と心の中で毒付きながら、不機嫌を顔一面に貼り付けて、

「・・どうも。ご無沙汰しています。」

と、門扉を跨ぐ。

「やっときたのう。わしゃ待ちくたびれたぞ。」

「・・で?香は?」

何から何まで転がされているようで、気に食わない。

「久しぶりなのに、不機嫌そのものだな、ベビーフェイスよ。」

「・・その呼び方はやめて下さい。」

「仕方ないのう。まあよい、とにかく中に入りなさい。話はそれからだ、獠。」

促されるまま、中へと進んでいくと獠の表情の険しさが色濃くなっていく。

「教授、香は?」

答えは返らない。先刻まで小雨だった空模様は、すっかりと色を変えて青空が覗いている。

再度、獠が詰め寄るように問いかけた。

「香はどこに?」

「・・そんな顔をするぐらいなら、何故早く来なかった?獠よ。」

きっと余裕のない顔をしているのだろう。それでも構わず、在るはずの存在を焦るように探り、察知できない事に焦りは募る。

「それは・・依頼中に放り出しては行けない。」

「ほう・・ならば質問を変えようかのう。何故長い間放っておいたのじゃ?根は張り、禍根はとうに香くん自身を蝕んでいたようじゃ。原因があっての結果じゃよ。昨日今日だけの話ではあるまい。」

「・・だからですか?あんな真似をしたのは?」

「どれについてのことかのう?」

剣呑な雰囲気を意に介さず、のんびりとした声で教授が静かに見つめる。

「何故あの男を?おれの元から連れ去るためですか?」

裏切りにも似た感覚さえ覚えている仕打ちに、漆黒の瞳の中に怒りが揺れる。

「何故・・ですか?」

「わからぬか、獠?」

張り詰めた空気の中、何時になく厳しい視線を獠に向ける。

「守るなら、おれがいます。何故あの男が必要なのかわかりません。」

「それは奢りというものじゃよ、獠。」 

「・・・・・」

「覚えているかのう、おまえさんが日本に来たばかりの頃、ほれ、あの庭で咲いていた桜を見ながら話したことを。いまはまだその季節には少し早いがのう。」

これから咲き誇るであろう、桜の木々をじっと見つめながら、教授が懐かしそうに目を細める。

「・・さあ・・昔のことは忘れました。」

「そうか・・。わしはあの頃とは思いは変わってはおらんよ。おまえさんは見つけたと思ったんじゃがな。そうであって欲しいとも願った。だからこそ。じゃよ。」

「香は離れるべきだと?」

「それを決めるのは香くん自身じゃ。わしでもあやつでもおまえさんでもない。」

驚いたように獠が目を見開き、軽く頭を振る。

教授の示す意味に、やはりとため息が漏れた。

「アイツが・・それを選んだということですか。」

「わしも荒木も香くんの願いに沿っただけに過ぎん。始まりは戸惑いはあったじゃろうが、荒木を寄越した意味をあの子はようわかっておった。」

「・・おれではダメだということですか。」


双の瞳が不安定にグラグラと揺れている。あまりに心許ない様に、死神と呼ばれた頃の男の姿が重なり、失ったものの大きさに深く胸が痛む。


戻ってしまうんじゃろうな、香くんがいないと


あの桜が咲く頃にはこの男はどうなっているのだろうと沈む気持ちが、杞憂であればいいと願う。

「そうではない。ただ、全てが少しばかり遅すぎたのう、獠。香くんはもうとうに決意しておった。それに気付かなかったのか、気付かぬフリをしてきたのか、どちらかのう、獠。」

「おれは・・」

「わしに言えることはもう何もない。ここには香くんはいないとしか言えんよ。」

「・・今朝、ですか?」

低い声は絞り出すように吐かれる。

「そうじゃ。仕方ないのう。おまえさんは依頼中だった。それはそうじゃろう。それでも遅すぎたんじゃよ。この狂いはどうにもならんのう・・」

「あの男は・・」

「共に行ったよ。当然じゃろう。わしも荒木も香くんを一人で行かせるわけにはいかないからな。香くんもそれを理解し、荒木も自身がそれを願った。二人が選んだ道じゃよ。」

「どこへ?」

暗い闇が降りてくる。それでも、と言葉は続く。

「香くんが伝えていない事をわしが言うわけにはいかぬよ。荒木は聞いていたようだがな。おまえに言えぬ想いを、あやつに吐露していた香くんの気持ちを思うと、そうすることが今の最善だと思えたんじゃよ。」

済まぬな、獠。と最後の言葉を伝える。

「パートナーは解消して欲しいと伝えてくれと。それが香くんから託された言葉じゃ。」

挑むように見据えた漆黒の瞳が黒く濁る。

「それだけ・・ですか?」

「それだけじゃよ。」

「・・・・・」 


闇はきっと深く暗い。光は去った。


「後悔のないようにな、わしはおまえの幸せも願っておるよ。」

今はきっと届かないだろう。

無言で立ち去る背中は、拒絶を纏い、近寄ることさえ躊躇われる。 


のう、獠。

それでも。を、わしは信じていたいのじゃ。

その時にはーーー


小雨が隠した想いを、おまえは受け取ることができるかのう。





あれから、どうやって家に辿り着いたのか記憶がままならない。気付けばソファーの上で高く登った日の光を盛大に浴びて、目覚めを促された。

気怠く重い頭は床に散乱する尋常ではない酒の空き瓶の所為かと、浴びるように胃に流し込んだ様を思い出して、額に手を当てこめかみを抑える。

ふと、慌てた素振りで無造作に放り投げられていたジャケットの胸ポケットを探り、その感触にほっと安堵する。空振りに終わった行き場のないそれを片手で弄びながら、再度胸ポケットに手を伸ばし、タバコを探ろうとすると、ブルブルとバイブレーションの音が掌に伝わり、瞬時に取り出し画面を見つめるが、一転眉を潜め、ため息混じりに指でタップする。

「・・なんだよ?」

「あら?わざわざかけてあげてるのに、感じ悪いったらないわね。」

「あんだよ?用件は?」

頭の左側を覆うような、ずきりとした頭痛が不規則に襲ってくる。不快感極まりない。

「・・ねえ、ひどい声よ。大方、朝まで飲んでたんでしょ?しっかりしなさいよ。獠、あなたねえーー」

「説教なら切るぞ。」

赤いマークのボタンに手を掛けようとすると、慌てたような声が届く。

「獠!話は終わってないわよ!」

「んだよ?もう仕事は終わったはずだろ?冴子。」

「そちらは無事、ね。女王も感謝してたわよ。なんだか吹っ切れた顔してたわね、彼女。」

「そうか・・」

「今日は香さんの事。」    

携帯を握る手に思わず力がこもる。

「・・香?」

「そう、あの荒木という男と消えたから、行き先を探ろうとしたんだけど、まるで手がかりなしで。正直お手上げね。」

「アイツは・・そんなヘマはやらないさ。」

「何者なの?打たれた男と現場に残された銃跡は、あなたのパイソンだけではなかったわ。おそらく・・あの男よね?」

「まあな。おまえ、ヤタガラスって知ってる?」

なんでもない事のように紡がれたその単語に、電話越しの冴子の気配が変わる。

「・・まさか?あの男が?只者じゃないとは思ってたけど・・私も噂でしか知らないけど、同期の皇宮警察から聞いたことがあるわ。シークレット中のシークレットで、皇宮警察でも限られたトップしか知らない話だって。やっぱり・・存在するのね。それならあの男のやり口が完璧なのも納得ね。」

「おれも信じちゃいなかったがな。あちら側の世界のことは、な。」

「だったら尚更よ。もうこれ以上は何も出てこないと思うわ。あそこは特殊だもの。お父様でさえ絶対に口を割らないわ。」

「そうだな。おれの方でも無理だろうな。」

「どうするのよ?」

イラついているのだろう。タンタンと指で机らしきものを弾く音と共に、口調がキツく早くなる。

「どうもこうもなあ〜、アイツ、うちにまでちゃっかり入り込んでたし、りょうちゃんやられっぱなしでくったくただし〜。」

「は?なにそれ?何しに来たのよ!なんで易々と入られてんのよ!!」

鼓膜に響く、甲高い叫びにしかめ面で獠が耳から携帯を外す。

「うっせーなあ。香から鍵預かって入ってきたんだから仕方ねーだろ。槇村の形見を返しに来たんだよ。香に頼まれてな。」

冴子が息を呑む様子が伝わり、すぐにため息が届く。

「・・なによ、それ?決定的じゃない。香さんが自らあなたから離れて、そんなすごい男が付いているなら、あなたが出る幕なんてもうないんじゃない?」

「誰が出る幕がないって?誰がだよ。」

「獠?あなた・・・」

「やられっぱなしは性に合わないんでな。きっちり返させてもらうぜ。」

「信じて・・いいのね?」

探るような、確かめるような疑問形の物言いに、信用の無さが伝わり苦笑する。

「当たり前だろ?」

「当たり前、なのね・・」 

香に対しての過去のアレやそれを思えば、随分素直になった男に、不思議な感情が冴子の胸を埋めていく。

「アイツがなんと言おうと、誰といようと関係ない。おれはパートナーを解消したつもりはないしな。」 

「あら?とうとう解消されちゃったのね、パートナー。」

「!!?それはだなあ!冴子っ!おまえなあ!」

「もたもたしてると取られちゃうわよ。」

「うるせっ。・・そんな女じゃねーよ。」

煽るような揶揄いに、見せるもんかといつもを装い、それでも本音を混ぜる。

「あらあら、随分素直になったわねえ。だけどどうするの?私もあなたももうこれ以上は辿れないわよ。」

ここまで見越した上だろうと、あの、狸じじいめ、覚えてろ!と心の中で毒付くが、それしかないのだから仕方がないと腹を括る。

「乗ってやるよ、今回ばかりは、な。で、冴子、悪いが頼まれてくれないか?」

「なにを?」

ぼそり。と獠が用件を伝える。

「・・わかったわ。行くのね?」

「ああ。」

「必ず、連れて帰って来なさいよ。後の事は任せて。」

「悪いな。」

「信じてるわよ、獠。」


冴子の言葉を受け取ると、通話を切り、携帯をソファーに無造作に放った。

沈む気持ちはもう捨てた。

堕ちた感情はまた上がればいい。

彷徨い定まらない思考で、酒で誤魔化しながらも辿り着くのはただ一つの想いだけだった。


悪いな。荒木。

おれにもどうしても必要なんだ。


まずは腹ごしらえと新しい服だよな。と脱衣所へとのそりと向かった。




「美っ樹ちゃ〜ん!不倫しましょ〜!」

ガゴン!

目標目掛けて飛び込んできた物体が、お盆とサイフォンのダブルパンチでずるずると床に沈み、ピクピクと軟体動物のように不自然な向きで蠢いている。

「無様ね。」

「そうだな。」

男を沈めた二人が、冷ややか過ぎる視線を向け、何事もなかったかのように日常を続けていく。

「な、何すんだ!!客に向かって!」

「ファルコン、お客ですって。」

「客っていうのは、きちんと金を払う奴だ。ツケばかりの甲斐性なしは客とは言わん。」

冷めた口調を揃えて、いつもよりも数段素っ気ない態度で喚く声を一瞥する。

「払わねーなんて言ってないだろうが!不味いナポリタンくれよ。」

海坊主の眉がピクリと動く。

「不味いは余計だ。おまえが金を払うなんて、珍しい事もあるもんだ。」

「冴羽さん、しばらく香さんを見かけないけどどうしたのかしら?」

抑えた声が怒りを表す。美樹の瞳は獠の瞳に刺すように重なり、逃さない。

「美樹ちゃん、そおんなに怖い顔しても、見惚れてるぐらいキレイだよなあ。」

「茶化さないで!冴羽さん、香さんがどんな気持ちで!」

美樹は香をとても可愛がっている。海坊主も然りだ。知らぬ間に今回のことも胸の内を吐露していたのだろうと、自身だけが知らぬ気持ちに、やりきれなさでガシガシと頭を乱暴に掻き混ぜる。

無言で大量に盛られた皿が差し出され、まだ何か言いたげな美樹を海坊主がやんわりと制す。

「不味い!」

「頬いっぱいに頬張りながら言うセリフじゃないけど。」

「素直じゃない奴だ。」

「ふるへー。」

リスのように膨らんだ頬に、更に掻き込むようにガツガツと貪る。

「・・うちの品に関わるわね。お代はきっちり頂きますから。」

「はかーらー、ひゃらうってひってんらろ〜。」

「・・汚いわね。食べてから喋ってよ、冴羽さん。」

ジト目で美樹がため息をつく。

「・・獠。用件はなんだ?それを食いにきただけじゃないんだろう?」

はっとした顔で美樹が海坊主を見つめる。

「・・・・・」

「おまえが金を払うなんてよっぽどだ。いいから早く言え。」

最後の一口をゴクリと飲み込み、側にあったグラスの水を流し込む。

「ほんと、察しがいいよな、しばらく離れるかもしれないから、ツケにするのも悪りいかなあと思ってな。」

「離れる!?ここを!?新宿を?」

「ああ。」

「どうして!?香さんは?」

険しい顔で美樹が詰め寄る。

「連れ戻しに、な。」

美樹が息を呑む。海坊主が静かに瞳を合わせる。

「連れ戻しに・・?迎えにじゃなくて?・・

そんなに拗れるまでなんで放っておいたのよ!」

「・・・・・」

「ユキだか誰だか知らないけど、大事にしなきゃいけない人を間違えてない?香さんが平気だったわけないじゃない!何にも知らないくせに!香さんがあなたとあの人をどんな想いで見ていたか。あの人を見送るあなたにどんな想いで笑って声をかけていたかを、あなたは何にも知らない!」

「美樹。」

「ファルコン!言いから言わせて。私は香さんが選んだ道なら、それでもいいと思うから。」


無理矢理にではない。それは分かっていた。だったらもうなにも言うまいと決めていた。

けれども目の前の最後まで沸切らなかった男には、堰をきったように溢れて止まらなかった。 


「おれの方でも探ってみたが、行き先はわからん。相手の男は少し特殊だが悪くはない。美樹の言う通り、香の意思ならもうこのままでいいんじゃないか?獠。」

「・・そうね、ファルコン。」

隣で美樹が頷き、真っ直ぐに獠に向き合う。

いつもなら、分が悪くなると途端逃げ腰になったり、毒付いてみたりするはずの反応はなりを潜め、黒い瞳は逸らされることなく二人を見つめる。

「冴羽、さん、?」

「そうだな。おれは何にもわかってなかった。多分、もう遅いんだろうな。だから連れ戻しに、だよ。・・まあ実際どうなるかわかんねーけどな。」

最後にぽつりと漏らした弱気が、いつもは見せない男の心の吐露だと思うと、胸を突き、美樹は何も言えなくなる。

「散々香の気持ちから逃げてきたツケだ。せいぜい苦しんでこい。」

「フン!余計なお世話だ。おれが帰るまでに少しは腕を磨いとけ。」

「ハン!嫌なら食べるな。さっさと行きやがれ!回りくどい奴だ。おまえが帰るまで守ればいいんだろう?この街を。フン!任せろ。」

「悪りぃな。」

「・・ほんと回りくどいわよ、冴羽さん。それに遅過ぎるのも正解。行って玉砕して泣いて帰っても、慰めてなんかあげないんだから。」

「だっ、誰が泣くかよ!ガキじゃあるまいし!」

椅子から半ばずり落ちながら、美樹を軽く睨む。

「あら、そう?でもね、冴羽さん。」

カウンター越しに、とびきりの笑顔を作るが、瞳から上が影が差し込んでいる気がする。

「な、なんだよ?」

「一人で帰ってきたら、もうお店に出入り、き・ん・し。ね?」

にっこり。

こりゃ本気だな。と思わずひくつく。

傷口にどっぷりと塩を塗ってくる様は、美樹の本気の怒りで、それだけ香という存在が獠の身近の人間にいかに浸透しきっているかを思い知らされる。

長居は無用だなと、椅子から立ち上がり、カウンターに小銭を数枚置くと、無言で左手を上げて店を出て人混みに消えていく。


「ファルコン・・・」

「待つしかない。後はおれ達ができることをやるだけだ。」

「・・そうね。私まだ香さんに話したいことがたくさんあったの。だから・・きっと帰ってくるわよね?」

「そうだな・・」

お互いそれ以上言えなかった。例え獠でも今回ばかりは分が悪いのかもしれない。

口に出すと泣いてしまいそうで、美樹は笑う。

「ファルコン、私ね、信じてる。香さんは冴羽さんとこの街を手放したりしないって。」

美樹の肩を、海坊主の無骨で優しい掌が抱き寄せる。    

「そうだな。」

夫の言葉は魔法の言葉だ。その一言で真綿のように安心感が満ちていく。

大丈夫。

きっと帰ってくるから。

その時までーー






この地に初めて来た時には、どうしてこんなに空気が澄んでいるんだろうと、ひどく感動を覚えた。ポツリポツリと荒木が生い立ちを語ってくれた。


生まれ落ちた土地。

名を持たない意味。

生きる意味を見失い、教授に出会い救われた事。


「こんな風にこの地にまた戻ってくる事になるなんて思っていませんでした。これも香さんのおかげですね。」

荒木の言葉をじっと聞いていた香が、ゆっくりと首を振る。

「あたしこそ・・縁もゆかりも無いこの土地に、迷いなく来れたのは荒木さんのおかげです。空気が綺麗で、空も澄んでいて、でも何故か不思議に落ち着きます。初めて日本海を見た時はびっくりしましたけど。」

クスクスと香が楽し気に笑う。

随分と明るくなってきた。と心の中で荒木が安堵する。

一月前に来た頃には、毎日、日本海を眺めて心ここにあらず。の日々を重ねていた。 


「日本海ってまるで・・」

その先に続く言葉が、見つめる先が、いずれは変わっていく事もあるのかもしれないと、

ただ側にいる事を選んだ。


「どうしてかな、獠みたいなんだよ。」


小さく囁いたその声は、荒木の耳に届き、肩を抱く手に知らず力が込もった。

離れてもなお付き纏う存在に、己の無力を知る。それでも寄り添うことはやめなかった。


荒木は桜の花が好きだった。桜はこの国の象徴だ。生まれ落ちた時から定められていた、守るべき存在だったものにも深く通じている花だ。

咲き誇る桜並木を歩きながら、まだ一線に出て間もない頃に、父と初めて並んで歩いた。

なにを喋るでもなく、ただ黙って並んでいた。その父はもういない。

今は隣に香がいる。不思議な縁だと思った。

だから桜が芽吹くこの季節に、古からのゆかりのあるこの土地で、桜を一緒に見ることができたらーーと、願う心は日に日に増していく。


「香さんは、本当の名さえ持たない私をどう思いますか?やはり普通ではないですよね。」

それは心の中でいつも消えない想いだった。

「普通?」

きょとんとしながら香が首を捻る。

「普通って言われても・・荒木さんもきっと知ってると思いますが、あたしもちょっと複雑に育ったから、何が普通かイマイチよくわからなくて。あ!で、でも育ってきた環境もその後の事も不幸だなんて思ったことないし、だから、その・・」

「香さん?」

「と、とにかくっ!全然大したことじゃないです!荒木さんは荒木さんだし。名前がないとか普通とか・・それでも何も変わらないです。」

「そう・・ですか。」

槇村香というのはこういう人間なんだと思った。

こちらの世界に入り込んでから色濃くなっていた自身に対する疑問が、嘘のように晴れていく。

「不思議な人だな、あなたは。」

そういえば以前にも似たようなセリフを、言ったような気がする。香はきっと変わらない。

側にいれば何度もこんな想いで包まれ、そして何度も同じ言葉を告げるのだろう。

ほんのり赤くなった頬や耳が可愛く思う。

「荒木さん。」

と告げる口元へと目を奪われる。

「・・はい。」

「帰りましょうか。昨日たくさんカレー作ったんです。よかったらお裾分けします。」

荒木と香はアパートの隣同士で暮らしている。この地に縁があり、場所や人に繋がりを持つ荒木が香の生活の基盤を用意した。

律儀な香はせめて自分に出来る事はと、こんな風に食事の提供を度々している。どんな事でも少しでも香が気が紛れるのであれば、と荒木もゆるりと受け入れる。

「香さんのカレーは美味しいですからね。楽しみです。」

実際カレーに限らず、香の手料理はとても美味いのだ。時にはタッパーで、時には皿や鍋ごと差し入れられるそれは、穏やかな距離感を育んでいるようにも思えた。

「荒木さん、あたし、仕事を始めたいなと思います。いつまでもお世話になるわけにいかないですから。それに・・もうそろそろちゃんとしなくちゃと思って。あたしに出来ることがあれば、ですけど。」

「・・あなたがその気ならいくらでも仕事はありますよ。小さな街ですが、若い人材は不足しているので。」

「探してみますね。」

「私も一緒に行きますよ。」

当然のように荒木が伝える。

「・・ダメって言っても来るんでしょ?」

頬を膨らませて、斜め下から薄茶色の瞳が見上げる。

「・・・・・」   

「??」

「・・わかりました。私は近くで待っていますから。でも確認だけはさせて頂きます。人や場所の。いいですね?」

「はい!」

嬉しそうに香が後ろ側で手を組み、笑顔を向け、荒木が困ったように笑う。

「まいったなあ・・反則ですよ、それは。」

「へ?」

香は気づかない。荒木はたまらず声を上げて笑う。不思議そうに見つめる香の瞳は、どうしてこんなにも澄んでいるのだろう。

薄茶色の瞳の向こう側に広がる青の空がやけに眩しい。じわりと体温が上昇していく。桜が過ぎれば初夏の季節になり、その頃には香の見える世界はどう変わっているのだろうと、ふと視線を外し、ぽつりと漏らす。

「今日は・・いいんですか?」

荒木の視線の先に気づいた香が、無言で頷き、へにゃりと眉を下げる。

「いいんです。いつまでもあんな調子じゃ、アニキに怒られちゃいますから。」

「お兄さんといつも一緒なんですね。」

香の首元をそっと荒木が見やる。

「はい・・なんだかアニキに守られてるような気がして。離せなくなっちゃいました。ダメですね、いつまでたってもアニキに頼ってばかりで。」

「誰だって、誰かに支えてもらいたいと願うものです。そして支えたいとも。ダメなことなんて一つもないですよ。」

「荒木さん・・」

「帰りましょうか。」

「はい。えっと・・ほんとにカレーで?」

「もちろん。」

何気ない会話が心地いい。

少しだけ伸びた柔らかな癖毛が、香の肩で跳ねて遊ぶ。



二人の間を縫うように風が抜けていく。



ヒヤリとした感覚を隣側から感じ取り、見上げると冷めた瞳で一点を見つめる荒木の姿に出会う。一変した空気に、香の心臓が早鐘を打っていく。

顔を上げなくても分かる。

隠そうとはしていないその気配は、躊躇うことなくゆっくりと近づいてくる。 


どうして

なんで


幸せだと伝えにきたのだろうか。

それともまだアニキとの約束に縛られているのだろうか。

思うと同時に香の足が地面を蹴り、反対側へと駆け出していく。荒木が驚いたように振り向き、しばらく香の背を瞳で追うと、また再度目の前で立ち止まった男を見据える。


「何の用ですか?」

「連れ戻しに来たに決まってんだろ?」

「会いたくないようですが。」

「って言ってもなあ・・アレはおれのモンだし。」

ポリポリと頭を掻きながら、バツが悪そうにそっぽを向く。

「アレとかソレとか、挙げ句の果てはモノ扱いですか?愛想尽かされて当然ですね。」

「・・うるせー。上手く言えねーんだから仕方ないだろ。」 

「やけに素直ですね。」

「ん?まあ・・な。」

「渡しませんよ。今更。」

「言ったろ?連れていくって。」

二人の男の間に静かに炎が走る。

「ここに辿り着いたという事は、あの方も承知という事ですね。」

「まあ、な。」

肩を竦めて、苦々しく笑う。




  

二度目に訪れたのは、ひと月以上経ってからだった。街を離れているという噂が回れば、その隙を狙う輩にこの街が荒らされかねない。同業者や女刑事に後の事は頼んであるが、負担はなるべく軽くしておきたいと、奔走していた。根っこに不穏分子を持つ、新手の勢力と思いがけずやり合うことになり、時間だけがやたらと掛かった。事が全て終わった時にはひと月は軽く過ぎ去っていた。


体の疲労はピークだった。 

乱雑に玄関のチャイムを鳴らす獠にとぼけた顔で、

「やっと来たのかのう。」

とニンマリ笑う教授に、こめかみに青筋がはっきりと浮き出た。

「で?何の用かのう?」

「・・香はどこへ?」

前回と同じ質問を投げ掛ける。

「何故わしに?言えぬと言ったはずじゃが。」 

その答えは想定内だ。それでも、と食い下がる。

「これ以上はおれでは辿れません。教えて下さい、教授。」

「ほほう・・・随分と丸くなったのう、ベビーフェイス。」

「だから、その呼び名はやめて下さい。」

心底嫌そうに、獠がジト目を向ける。

「ふぉっ、ふおっ、ふおっ。わしにとってはいつまでたってもベビーフェイスじゃよ。」   

そう言いながら、中へと促すが、軽く首を振り目的を告げる、

「教授、香は?」

「気忙しいのう、獠。だから言ったじゃろう?あちら側に関わるなと。」

「・・どの口が言いますか?寄越したのはそちらだと思いますが。」

「ふーむ。で、その心は?」

「は?」

「なぞかけじゃよ、なぞかけ。ほれ、答えは?獠。」

ふざけているわけでもない様子に、ひとつため息をついて、重い口を開く。

「香を守る、ためですよね?」

自分がいながらとしゃくに触るのは間違いないが、最善だったと今ならわかる。それでもあの男が側にいるのは、嫌だという感情以外になかった。

教授の瞳が柔らかく細まる。

「あのままおまえさんの側にいれば、あの子は自分を犠牲にしてもおぬしや女王を守ろうとしたじゃろう。女王の気持ちを無下にできないおぬしには、香くんの無謀な自己犠牲を防ぐ事ができるとは思えなくてな。一瞬の判断の遅れが死に繋がる。おまえさんが一番わかっておるじゃろう?」

「・・・わかっています。」

あの時、香に気を取られて全ての判断が一瞬遅れた。あれは自分のミスだ。腕ではなく香の心臓を貫いていたかもしれないと思うと、体が急速に冷えていく気がする。

「もう、自由にしてやってはどうかの?香くんなら時間が掛かってもちゃんと前を向けるはずじゃよ。」

更に言葉は紡がれる。

「香くんは答えを出した。後はおまえさんがどうしたいかじゃのう。」

教授の言葉に、獠の眉がピンとあがり、ニッと不適に笑う。

「おれはパートナー解消したつもりはありませんから。どうしたいかなんて決まっています。」

「ほう・・・」

驚いたように息を吐きながら、まじまじと教授が見つめる。

「どうやら、吹っ切ったようじゃな。」

「はい。」

「おぬしは頭で色々考えすぎる。手を伸ばしたいなら伸ばしていいんじゃよ。」  

「・・はい。」

低く静かな声で答えて、頭をやんわりと垂れる。

「いつまでたっても揺れていたおまえに香くんを託すわけにはいかなかったからのう。」

「教授・・香は。」

しばらくの沈黙の後、教授が口を開く。

「始まりの地じゃよ。香くんはそこにいる。」

「はじまりの地・・・」

記憶を探るようにしばらく思案していた獠だが、少し伸びた黒髪の間から覗く瞳に、強い光が宿っていく。

「お世話になりました。行ってきます。」

「もう大丈夫じゃな?」

「はい。」

「だがのう、あちらにもおまえさんに負けないくらいのいい男がついとるからのう。まあ、負けても泣くんじゃないぞ、獠。」

ふおっ、ふおっ、ふおっと三日月の目をして教授がニヤつく。

「だっ、誰が!ったく、教授まで!負けるつもりは毛頭ありませんから!」

勢いとはいえ、否定する事なくむしろ肯定している事に、三日月の瞳がますます細くなっていく。

気付いとるかのう、獠。

ダダ漏れじゃよ、らしくないのう。

けれど心は温かい。


「気をつけてな。」

「わかっています。」

本当はどちらにも幸せでいてほしいがのう。と少しだけ切なさを抱えながら、先日よりも晴れた気持ちで、がんばれよ。と送り出した。





「いいのか?アイツを一人にして?」

「この地には私のように任務を退いた人間が幾人もいます。そちらに手は打ってあるので問題ないです。」

ここは庭みたいなものですよ。と真顔で告げる荒木に、盛大に獠が眉をしかめる。

「できれば関わりたくねえなあ・・ここはなんだか落ち着かん。」

胸ポケットをガサゴソと探りながら、目当てのものを掬い上げて、ライターを指で弾く。

一連の作業をじっと見つめていた荒木が、深い青を讃えた瞳で口を開く。

「あなたも・・この地に縁があるのかもしれませんね。」

あん?と面倒くさそうに一瞥して、ぷかりと紫煙をふかす。

「生憎、非現実な事にはまるで興味がなくてね。それより荒木くんとやら!」

へらりとだらしなく顔を崩す。

「なんですか?」

「いくら古びた土地でも、もっこりちゃんの一人や二人や三人!いや、それ以上!は!いるんだろう?な?」

「・・タバコはきちんと灰皿に捨ててください。」

「お?ああ、悪りぃ。」

喚いた口から、地面に落下したそれを、いそいそと携帯灰皿にギュッと押し込む。

ふと荒木が目を細める。

この男の意図は明らかだ。相変わらずを装うが、全身から僅かな緊張感が漏れ出ている。


フェアじゃないのは好きじゃない。

閉じ込めて隠しておけるならいくらでもそうするが、それでは香の心を壊してしまうだろう。それは望んではいない。

ただ、目の前の男が抱える想いはもっと凶悪で、底がない。


「あまり、度を越すと、私も大人しくはいられませんよ。」


最優先は槇村香の心を守る事だ。

その想いだけは、どうしても譲れない。


あの頃が蘇る。

同じだと思った。


「同じじゃ、ないな。」

少なくとも、感情を挟む余地は無かった。


懐かしそうに空を見上げる荒木を、黒い双璧が色を無くしたまま捉えると、僅かばかりに荒木の口角が上がり、互いに譲れぬ見えない火花が赤く散った。





どれだけ走っただろう。

体力には少しは自信があったはずだが、動揺からか息が乱れて、酸素がうまく回っていかない。苦しくなる呼吸に、はあはあと意識をしながら冷静さを必死で取り戻していく。

首元の鎖の先で、落ち着けとばかりに形見の品が揺れている。

「あれ?ここ・・」

晴天の下に広がるのは、灰色に光が差し込んだ圧倒されそうな程の存在感がある鳥居だった。

一度荒木と共に訪れた場所に無意識に足が向いていたのかと、誘われるようにフラフラと鳥居をくぐった。

壮大な木々の間を抜けて、荒木と共に辿った道を記憶を辿りながら、ぼんやりと進んでいく。

『出雲大社は他とは違って、二礼四拍一礼なんですよ。』

ほとんど知識のない分野だったが、一般的な場所では二礼二拍一礼なのは頭の片隅にあったので、

『どうしてですか?』

と問えば、

『神様に対して限りない拍手をもって迎えますという意味が込められているんですよ。』

と本当に大切そうに話してくれる姿に、とても心打たれたことを思い出す。

荒木の世界は香には新鮮で新しい発見が溢れていた。

おぼつかない記憶のままたどり着いたのは、そびえるように佇む一本の大きな大きな木の前だった。

『この木は樹齢千年ともいわれているムクの御神木です。』

不思議に気持ちが落ち着いていく。

『ここはとても神気に満ちた場所です。千年の時を超えているのなら、あちら側にも通じているのかもしれませんね。』

ムクの枝葉を見上げながら、荒木の言葉が鮮明に蘇っていく。

本当にあちら側と繋がっているのなら、会いたいと願ってしまう。

こんな風に心を乱さないように。

もっと強くなれるように。

一度くらいは会いに来てくれてもバチが当たらないんじゃないかと、心の声が漏れる。

「アニキ・・会いたいよ。」

澄んだ空気が、肌に心地が良い冷たさを伝えてくる。

まるで、何かに見守られているようで、ムクの木のひと隅に、触れない程度にそっと手を掲げた。



「逃げるなんて、あんまりだよな、槇村。」



切り裂いたのは、どうしても忘れられないその声で。

「なんで・・・」

と、唇が震える。

振り向く事はしない。するもんか。と思う。

足元から崩れてしまいそうで怖かった。


「ここってさ、あっち側と通じてるんだろ?

なんか、いそうじゃねーか?草葉の陰からなんとやらってな。」

いつもと変わらぬ調子が、意味するところがまるで分からない。

「・・あんたそういうの信じないんじゃないの?」

「んー?そうでもないぜ〜。前に幽霊騒ぎがあった時も、おれよりお前が信じてなかっただろ?」

「・・忘れた。」    

「どこまでだよ?」

「全部。」

「ひでーの。」

「そうよ。だからあたしなんかに構っている暇があったらあの人ーーうわっ!?」

香の身体がくるりと反転する。腕の中に囚われている事に気がつき、焦り、身動ぐ。

「ちょっ!!獠!」

「ひどいってのはおれだよ。」 

「え?」  

「やっと名前を呼んだな、香。」

名を呼ばれて弾かれたように顔を上げると、照れ臭そうに獠が笑う。

慣れない距離と、向けられる柔らかな瞳はあたしのものじゃないのに。

勘違いしてしまいそうで、逃げたい気持ちで一杯になり、獠の胸を強く押した。

「ひどいってなにがよ?それはあたしのセリフだけど。いいから離してよ。」

「おまえが?」

両腕の拘束が緩まる。

するりと腕から抜け出して、距離を保つ。

獠が眉根を寄せてため息を落とした。

「香。」

「だから!」 

名前を呼ばれたくなかった。

どうしても揺さぶられてしまうから。

「あたしは何もかも投げ出してきたんだよ!?

もう嫌なの!何もかも!全部!だから忘れた。全部。あたしに必要なのは、獠じゃない。アニキがいてくれればいい。どうしてこんな所まで来るのよ!さっさと自分の幸せ考えなさいよ!」

背を向ける。ひどい言葉だらけで、早く獠の視界から消えてしまいたかった。

こんな場所で感情が昂ってしまった事を、詫びた。

「ごめん・・・」


去っていく背中は何かを懸命に守ろうとしている。

「だからおまえは甘いんだよ。」

残ったのは、泣き出しそうな顔の残影と甘い響きだけだった。

頬を緩めて口角を上げる。

ムクの木の向こう側をちらりと一瞬見やると、眩しそうに瞳を細めた。




バタン。

勢いよく閉められた隣まで響くその音に、荒木の動作が止まる。先刻去った後に、海岸の方へ行ったと連絡を受け、冴羽も一緒だとの連絡を再度受けてから、落ち着かないままこの場所でじっと帰宅を待っていた。

しばらくすると、ゆっくりと香の気配が動きだし、荒木の家のドアの前で止まる。

トントン

扉を開けると、俯きながらおずおずと両手で鍋を差し出す香の姿があった。

「ごめんなさい、遅くなって。こ、これ。あたし・・あんまり食欲ないからよかったらどうぞ。」

大鍋に作られているカレーは二人で食べても食べきれない量がある。明らかに泣いていた顔だが、日常に戻ってきたことに、ほっと安堵した。

「ダメですよ。ちゃんと食べなきゃ。」

「あ、はい。」

諭すような口調に香が顔を上げ、眉を下げる。  「食事は基本です。一人で食欲がすわないのなら私が付き合いますから。」

「え?」

荒木の顔は至極真面目で、まじまじと見つめた後、堪らず香が吹き出す。

「・・何ですか?」

「いえ・・ごめんなさい。なんだか高校の時の担任に先生みたいだなって。あたしにいつも飯食ったか〜ちゃんと食えよ〜って言ってたから。そっくりだなぁって。」

ぷ。とまた短く吹き出す香に、荒木の眉がぴくりと動く。

「香さん・・・」

「は、はいっ!わかりました!食べます、食べます!!じゃ、じゃあサラダ作りますから一緒にどうですか?」

「・・食べます。」

「ど、どうぞ。荒木さん、トマト大丈夫でしたよね?」

「大丈夫です。」

食事というものは腹にためるためと、体の機能を維持するために摂取してきたものだったため、好き嫌いなど二の次だったが、改めて聞かれると耳の後ろ辺りがうずうずして落ち着かないなと苦笑する。

開け放たれた扉を跨ぐと、どうぞ。と再度促される。香が扉を閉めようとドアを引くと同時に、ガタッと腕が揺れた。

「なっ!?」

慌てて扉のほうに振り向くと、見慣れたワークブーツがストッパーのように阻んでいる。

「香ぃ〜、おれも腹減った。カレー大盛りな、大盛り。」

ニンマリ笑って、ずかずかと当たり前のように入り込んでくる様子に、香の頭は追いつかない。荒木は冷めた瞳でただ見つめている。

思考がぐるっと一回転したところで、ようやく事態を把握する。

「な、な、な!なんでいるのよ!!そ、それにっ!か、カレーって!ず、ず、図々しーー」

「なんでいるのって決まってんだろーが。あ、おれもトマト大丈夫だから、よろしくなっ。」

気がつけば靴をぽいぽいと脱ぎ散らかし、どっかりとリビングのラグに座りこんでいる。

先程までのやり取りの余韻など微塵もない姿に、浴びせてしまった言葉の罪悪感で押しつぶされそうになっていたのに。目の前の男は変わらず通常運転だ。あたし、嫌だって言わなかったかな?そもそもだからなんでいるんだろう。とまた思考がぐるぐるとしていく。

「香ぃ〜早くしてくれよ。」

などと、件の男は図々しいこと極まりない。それでも気がつけば、サラダのレタスをちぎっている自身がいて、条件反射とは怖いものだと無言で手際良くサラダを盛り付けていく。

「余裕ないですね。」

「・・うるせ〜。何でおまえが家まで上がり込んでんだよ。」

聞こえぬ程度の声で、男二人の視線が絡む。

「ご近所付き合いというやつです。」

「おまえみたいなのが一番信用できねーんだよ。」

唇を尖らせるが、荒木は一瞥するだけで意に介さない。

「・・おまたせ。」

荒木の前に皿をコトリと置いた後に、ダン!と乱暴に獠の前に皿を置く。淡々とサラダとコップも並べられて、ピッチャーから並々と麦茶が注ぎ込まれていく。

肩をすくめて、カレーを口に運ぼうとしたところ、鋭い制止が入る。

「ちゃんといただきますは?」

「あ?」

「だから、忘れてる。」

「・・いただきます。」

そう言うと、勢いよく平らげていく。


荒木の胸が少し痛んだ。多分二人は、特に香は無意識なのだろう。二人の日常の様子が垣間みえたようで、いただきます。と、ぽそりと言って、カレーを口に運ぶ。

「美味い・・」

「よかった!まだありますから!よかったらどうぞ。」

嬉しそうに頬を染めて、鍋を指差す。

そうして香自身も手を合わせていただきます。と食事を始める。

香は獠に視線を合わさない。差し出された皿は無言でよそっていく。あっという間に鍋底が覗くほどになり、何度目かの差し出された皿は、

「あとは荒木さんの分。」

と、ぴしゃりとはねられ、獠が憮然とした表情を浮かべる。

「足りねえ・・」 

「知らないわよ。勝手に来てほとんど食べちゃったくせに、よく言うわよ。もう気が済んだでしょ?」

「・・まだコーヒー飲んでねえし。」

「はあ??あんたほんとに何しに・・・わかった。もういいから、飲んだら帰って。獠には待ってる人がいる。」

「・・ふ〜ん、待ってるねえ・・」

アパートにいた頃のように豆から挽きながら、水を入れてセットすると、こぽっという音と共に、出来立ての茶色い液体がフィルター越しに落ちていく。ガラス容器からマグカップに八分目程注ぐと、はい。と静かに獠の前に差し出した。

顔を見ているとまた余計な想いに揺られそうで、立ち上がりキッチンに向かう。シンクに手をつき、ふうと息を吐くと波打つ鼓動の速さに気づき、俯き、瞳を閉じる。

とくとくとく

早鐘が徐々に穏やかになっていく。

大丈夫。と顔を上げた瞬間、くしゃりと頭を撫ぜられた。

「カレー、美味かった。コーヒーもサンキュ。」

どくり。と心臓が跳ねる。

もう一度、くしゃりと撫ぜると、離れていく気配と共にバタンとドアが閉まる音がした。  



「香さん。」

声で慌てて振り返る。震える右手を左手でキュッと抑えて、はい。と精いっぱいの声を出すが、上手く喉元を滑らない。

「まだ残っていますよ。一緒に食べましょうか?」

優しい声。

頷きながら、ポロリポロリと溢れていく涙の玉を黙ったまま見つめている。

この人はいつだって優しい。

真綿を包むように、ゆらりととても温かい居心地を与えてくれる。

それでも、どうしても。

「ごめん・・なさい。」

ゴシゴシと腕で濡れた瞳を拭いながら、きっとずっと変わらない気持ちを吐露する。

「・・謝る必要なんてありませんよ。私が好きでここに居ます。」

「でもっ!」

「私は私が最優先に守りたいものの為にあなたの側に居るんですよ。あなたに泣かれると私はどうしていいかわからなくなります。」

困ったように笑う荒木に、自然、香に笑顔が戻る。

「よかった。あなたは笑っていて下さい。」

ほっとした様子の荒木に、

「荒木さんて・・」

と言うと、可笑そうに香が笑う。

「香さん?」

「だって・・いつも笑ってばかりいられません。荒木さん、真顔で言うんだもの。可笑しくって、つい。」

そう言いながらも、笑いが止まらない。

「私は真面目に言いましたが・・」

「ご、ごめんなさい!で、でも・・」

「・・でも?」

ジト目で荒木が問いかける。

「荒木さんのそういうところ、あたしはすごく好きです。」

ふわりと花が咲くように笑う。 

「・・・・・」

「うん?荒木さん?」

「・・冴羽さんも大変ですね。」

「獠?獠が何か?」

「同情すらしたくなりました。」 

「ううん???」

「はあ・・・」

「た、ため息ー!?」


騒がしく繰り返されるやり取りは、扉越しに、まだ留まっていた男の耳に届く。

「無意識にも程があるだろ。」

多少の不機嫌を纏いながらも、瞳は穏やかだ。

「カレー、美味かったぜ。」

誰にも聞こえぬ呟きに、らしくないよな。と更に呟き、頭をガシガシと掻く。

泣かせたいわけじゃない。

なのに上手くいかない。


平静を装っても胸の内はどれだけ波打ってるかなんて、おまえは知らないだろう。

なんだか切なくなり、ぼんやりと空を見上げる。まだ聞こえてくる楽しげなやり取りに背を向け、ため息を吐く。

あんな風におれの前では笑わなくなったよな。と眉根を寄せる。

胸ポケットがやけに重くて、だから、どうやって、とブツブツと言いながらフラフラと闇に紛れて消えた。





あれから一週間が過ぎた。あれ以来獠が現れる事はなくて、ほっとした気持ちと同時に、ああ、本当に終わったんだと視界が滲みそうになるのを何度か超えて、日常を創り上げていく。

「香さん、そんなに焦らなくても。」

「だ、だって、こんなにことごとく駄目なんて・・、あ、あたし、何か問題アリでしょうか?」

必死な顔で香が詰め寄り、荒木が苦笑いを浮かべる。

「いや、その・・そんなことは。」

言葉に詰まる荒木はどこかおかしい。やっぱり何か原因があるのかと、どよんと気持ちが沈んでいく。

とにかく、どれもこれも連戦連敗なのだ。

四日ほど前から始めた就活活動は、短期のアルバイトを含めて不採用の通知の連絡ばかりで、流石の香も意気消沈で、昨日受けた本屋の面接もご縁がなかったということで、と先程携帯で連絡を受けたばかりだった。

何がいけなかったのだろう。

立ち振る舞い?粗野な言葉遣い?か、顔!?

と半ベソで荒木に報告に来ていた。

「香さんのせいじゃないんですよ・・」

「え?」 

「いや、こちらのことです。」

「・・・・・」

こんな穏やかな街にも必要とされていないのかと、口を真一文字に結ぶ。

「こんなんで、あたし仕事見つかるのかしら・・」

「あー・・まあ、その。」

んー?と間近で荒木の顔を覗き込む。

「荒木さん?」

「はい。」

「何か隠してます?」

「全然。」

んんー?と更にずいっと迫れば、僅かに眉が上がり、顔は一点を見つめて真顔だ。

腕組みをしてしばらく思案していた香だが、クルリと反転すると、スタスタと歩き出す。

「行ってきます。」

「どちらへ?」

「今日は少し頭を冷やしてきます。もしかして私の心がどこか落ち着いてないのが原因かもしれませんから。」

「・・気をつけて下さいね。」

「はい。」

「・・すみません。」

小さくなっていく背を見送りながら、荒木が呟く。


幸せであって欲しいと願う。

今ならばまだそんな気持ちで送り出せる。

冴羽は無理だろう。そして羨ましくも思う。

同じぐらいの月日を重ねていれば、自身もきっとどんな理由でも、例え望まれなくても、それでも側に居ただろう。


「光・・か。」

くるくる変わる表情がとても好きだった。

ひたむきな姿勢に、守りたいと思った。

だからこそ気付いてしまう。

どうやったって離れられないのだと。

気付いていないのはお互いだけだな。とはっと乾いた笑いが漏れる。


夢を見たと思えばいい。

大切なこの地で、僅かな時間だけ幸せな夢を。

「羨ましいよ、冴羽、おまえが。」




青の一面に朱が混じり始め、水平線と混じる様は、あの世とこの世の境界線が曖昧になっていくようで、この街に来たばかりの頃は毎日この光景をぼんやりと眺めていた。

あの先に、兄がいるのではないかと、会いたいと何度も願った。

子供のように膝を抱えて、ねえ、アニキ。

と、返らぬ問いかけを口にする。

「全部中途半端で落ち込んじゃうよ。ちゃんと置いてきたはずなのに。なかなか難しいね、忘れるって。」

空は朱の色が増していく。

「仕事もあたしがこんな中途半端だから、きっと伝わって駄目になっちゃうのかなあ・・。はあ・・流石に悲しくなっちゃった。」

一つ、また一つと断りの言葉を聞くたびに、焦りが生まれ余計に空回りになっていった気もする。そういえば最後に受けた本屋での面接は、不自然に明るくなり過ぎた気もしないでもない。

ぎゅっと膝を抱えて、頭を丸めてポツリと漏らす。

「アニキィ・・獠は何しに来たのかな。怖くて・・聞けなかった。だってーー」

「何しに来たって決まってんだろ。って・・前にも言ったよな?」

頭上から、ひょいと覗き込むように声が降り、反射で見上げると、二つの黒い双璧の瞳に出会う。

「うわっっ!!!!」

予想外の出来事に、後方にぺたんと尻餅をつき、目を見開き凝視する。

「な、な、な、なんで!?」

「だからおまえ、そればっかりな。」

苦笑しながらも獠が答える。

「連れ戻しに来たにきまってんだろーが。」

「・・なんで?」

声が掠れる。

「なあ、香。おまえさあ、なんでこんなとこでずっと海見てんだ?」

香の問いに答える事なく隣にしゃがみ込み、頬杖をしながら地平線に視線を向ける。

「・・・アニキが言ってたから。あたしにも日本海を見せたいって。いつか一緒に来ようって。それに・・」

「それに?」

「・・・ううん。いい。」

瞳を伏せて、膝を強く抱えて黙り込んだ香に視線を移し、また彼方の先をじっと見つめながら、静かに口を開く。

「おれもさ、ずっと昔に言われたことがある。おれに日本海を見せてやりたいって、な。」

「え!?」

伏せていた瞳が跳ねる。香の表情は驚きが隠せない。

「だ、誰に?」

「んー?オヤジ。おれみたいだって言われたよ。おまえにいつか見せてやりたいって笑ってた。おれにはよくわからなかったけどな。」

「うそ、そんな・・」

身体中の体温が上がっていく。時間を超えて同じ事を想う偶然に、今はもういないその人に想いを馳せる。 


灰色と青の海は、とても悲しい色に見えるけれど、本当はとても懐が深い、優しい海に思えた。


「おまえさ、槇村とここに来たかったなんて、おれに話した事なかったよな。おれもさ、おまえに何も話してなかった。おれたちは・・・どっちも大事な事は何一つ見せてなかった。」

立ち上がり、まっすぐに香の瞳を捉える。

「大事な・・事?」 

「そっ。おれも見せない。おまえも見せない。

それでも、おれはわかってたつもりでいたんだけどな・・」

滅多に見せない本音に触れている気がした。

「思い上がりだって叱られたよ。おれの奢りだってな。どいつもこいつも、ほんっと煩いぐらいに好き勝手言ってくれるぜ。」

ガシガシと頭を掻きながら、困ったように笑う。

「みんな・・元気?」

ちゃんと挨拶ができないまま、出てきた不義理を申し訳ないと胸が痛む。

「ああ。美樹ちゃんも、海坊主も、冴子のやつだっておまえのことばかりだよ。」

「冴子・・さん?」

「あいつが一番辛辣だよ。付き合いが長いのはおれの方なのに、おまえの肩ばかり持ちやがって。」

肩をすくめて、片眉を上げる。

「そうなんだ。」

「そうだよ。」

「日頃の行いが悪いからじゃない?」

香が頬を緩ませる。

「うるせー。言ってろ。」

プイと獠がそっぽを向く。

穏やかな空気が二人を包み、思わず顔を見合わせて笑った。


今ならちゃんと聞けると思った。

逃げてばかりじゃ、獠は前に進めない。


「あの・・ごめんなさい・・・。あんな形で投げ出してきた事。許さなくていいからね。それと!もう大丈夫だから。獠、あたしの保護者みたいなものだから、迎えにきたのかもしれないけど、あたし、ちゃんと働くし。一人で大丈夫だよ。だから、自分の事を優先して。ユキさん、きっと待ってるよ。」

泣かないで、ちゃんと言えた事の安堵感からふうと息を吐く。

大きく深呼吸をして、獠の方を見ると、どうしちゃったの?というぐらいにおかしな顔をしている。おかしなというかすごくヘンな顔。

「なんて顔してんのよ?」

「おまえ・・まじかよ?」

「は?なに?真面目に話してるのに、その言い草はなんなのよ!」

獠の言葉にカッときたものの、そりゃあ、まだ仕事きまってないけど・・・とボソボソ歯切れは悪くなる。

ヘンな顔のまま、黙って聞いていた獠がわざとらしいくらい盛大なため息をつく。

「はああああ・・・おまぁなあ・・」

「だから、何?」

ため息の意味がわからない。せっかくの穏やかな空気が台無しだ。

獠もイラついているのか、憮然とした顔をして、胸ポケットからタバコを取り出しライターで火を点けようとしているが、カチッカチッと何度指を滑らせても上手くいかない様子で、チッと舌打ちをする。

「何で獠が怒ってるのよ?」

ちらっと香の方を見ると、

「だあああ!!面倒だ!」

と、ずいっと顔を近づける。目は据わっている。香の頬に嫌な汗が流れていく。

「な、なによ?」

「あのさ、おまえ仕事決まる事ないから。」

「え!?なんーー」

「あと、おれは保護者じゃねーし。」 

「は?」

「それと、おれは全然大丈夫じゃねーよ。」

「はい?」

「でさ、許せないのはおれ自身でおまえじゃねーだろっつーの。おれはおれの気持ちを優先させたから、おまえを連れ戻しにきたんだけど。嫌だって言ってもな。迎えにとかそんななまっちょろいんじゃねーんだよ。」

「りょ!?んぐっ!あ、あにすん!」

「それから!いいからおまえ黙ってろ!話がややこしくなって全然前に進まん。」

獠の左手でがっちりと口を塞がれて、香が涙目で抵抗するが当然びくともしない。 

「香。」

右手で胸ポケットを弄り、ほれ。と香の掌に握らせる。

「?・・・」

掌に収まるそれは、白いベルベッドの生地の小さな箱で、香も何度か似たような物を街中で見かけたことがある品だった。

「・・は、はに?こえ?」

モゴモゴと掌の向こう側で驚いた声を上げる香を横目で見ながら、左手の拘束を外す。

「・・開けてみろよ。」

導かれるように、言われるがまま無表情で箱を開けると、シルバーに小さなダイヤが施されたシンプルな指輪が顔を出した。 


「・・・誰ーー」

「おまえの。」

「・・・誰にーー」 

「だから、おまえに。」

時が止まったように身動き一つせずに、掌の小さな箱を惚けたように見つめたまま、この期に及んで誰のだと聞いてくる香の斜め上の言葉に、間髪入れずに獠が答えていく。

薄茶色の瞳は戸惑いで揺れている。

「でさ、こっちがおれの。」

首元から、シルバーのチェーンを引き上げて、先端に光るリングを掲げる。香の掌にあるものと同じデザインのように見える。 

「りょ、獠が?・・なんで?」 

「なんでなんでって、いい加減気付けよ。」  

くしゃりと香の頭を撫でて、少し明後日の方を見つめるその頬は、心なしか赤く染まっている。 

「槇村のさ、指輪と一緒でもいいから、おまえもこうやって持ってた方が、仕事柄支障がないかと思ってな。」

と、ガサゴソとポケットからこちらもお揃いらしきチェーンを取り出す。

「槇村の指輪、やっぱ付けておきたいんだろ?おまえお守りみたいにしてただろ?」

「・・・・・」

「ん?どうした香?」

「・・・・・」  

「おーい?香〜?」

鼻先まで近づき、獠が間延びした声を掛ける。


ドン!!!

強い衝撃と共に獠の体が揺れた。

瞳が大きく見開き、顔を上げると薄茶色の勝気な瞳が射るように貫く。

「どうして?なんでこんな事・・同情ならいらない!」

「・・同情なわけあるかよ。」

「じゃあ義務?バカにしないでよ!」

「義務?おまえ本気で言ってんのか?」

低い声。

言いながら、ゆっくりと間合いを詰めていく。

香が息を呑む。

長い付き合いだからこそわかる。

獠の本気の怒りを。きっと導火線を点けたのは、自分なんだろうと理解はするが、それでもこのまま引けない。怒りはお互い様だ。

黒い漆黒の瞳が、鼻先五センチの位置まで降りてきて、自然体が強張る。

「同情とか義務とか、そんなモンでおれがおまえを選ぶって?香チャン、それ本気?」

背中がゾクリとする。

それでも瞳は逸らさない。

香は香で想いを吐き出す。

「獠は・・あの時、ユキさんと一緒に行きたかったんでしょう?あたしがいるから・・ずっとずっとアニキとの約束に縛られてるから。」

もうそんなのは嫌なの。と押し殺すように呟く。

「違うな。おれが、おまえを、離さねーの。言ったろ?おまえが嫌だって言っても、それでももうおれは離してやれない。」

「獠・・?」

「ユキと行きたかった?そうじゃないさ。」

もう少しで唇が重なりそうな距離で紡がれる言葉は、香の全てを捉えて離さない。

「帰る場所のその重責を思えば、少しでも軽くしてやりたいと思った。」

「だけど・・」

「香。」

怒りの色は消えている。在るのは深い深海のような穏やかな色だった。

「おまえの根っこの気持ちはそこだろ?おれが曖昧なままにしたからおまえはずっと抱えてたんだよな。おれは気付いていたつもりで、なにも分かってなかった。でもさ、おまえなら。って甘えてたんだよな。おまえなら、全部呑み込んでまた笑ってくれるって・・な。」

「・・・あたしは、そんなに強くない。笑うしかないじゃない。泣いたってあんたの隣には居られない。だったらなにも言わないで笑うしかなかった。」

そうだ。いつもそうやって気持ちに蓋をしてきた。いつの間にか、蓋が外れそうになっていた。だから沈めようと思った。この海の底に。

だけど顔を見ると溢れてきた。

止められない。もうそれでもいいと思えた。

「見せろよ。おまえがまだ抱えてるもの全部を。」 


溢れる。言葉も。隠していた想いまで。


「苦しかった。すごくすごく。獠がいなくなりそうで。あのまま帰ってこないんじゃないかって。戻ってきても、本当は一緒に行きたかったんだってずっと思ってた。あたしはずるいの。近づけば近づく程きっと全部が欲しくなる。そんなあたしは知られたくなかった。もうこれ以上獠の足枷にはなりたくなかった。」

涙は出さずに、真っ直ぐに前を向いて言い切る。

「香。おれはさ」

どうしてそんな風に優しい顔で笑うんだろうと思った。

そうして、両手で無意識に握りしめていた白い箱を見つめて言った。

「おまえだから一緒に生きていきたいんだよ。

他の誰でもない。おまえだけだ。全部が欲しくてなにが悪い?全部やるよ。おまえが望むならな。」

香の瞳から涙が溢れる。

「こんなあたし・・嫌じゃない・・の?」

「ば〜か。全部おまえだろ?嫌なわけないだろうが。」

視界がどんどん滲んでくる。欲しくて欲しくて堪らなかったものに手を伸ばしていいんだと思えた。

「これ・・、ほんとにあたしの?」

小さな箱を大切そうにそっと握り締める。

「おまえなあ、だからさっきからずっとそう言ってるだろ?まあ・・原因、おれだよな。おまえがそう思うのは。」

ブンブンと香がかぶりを振る。そうじゃないと伝えたかった。

「獠だけ・・じゃない。あたしも、きっとどこかで逃げてた。ごめん。」

「・・おまえはとことんおれに甘いよな。いいんだよ、全部おれのせいにしておけば。」

ぐしゃぐしゃと頭を掻き乱していくその掌はとても温かくて、片目で見上げると、見たこともないぐらいに幸せそうに笑う獠の顔があった。


「あのね、獠。あたしも思ったの。」

腕の中に抱き寄せられる。温かい。

「この海がね、獠みたいだって。」

獠が驚いた表情を浮かべる。そうして顔を見合わせて笑う。

「槇ちゃんが見てるかもな。」

「うん。」

「香。それ、貸してみろ。」

「うん?」 

掌の中にあった箱を手渡すと、獠が香のネックレスに触れ、スルリと器用に通すとカチャッと指輪同士が軽く当たり音が跳ねる。

「おれも、槇村も。おまえと共に在るよ。」

そうして強く強く、壊れそうなくらいに抱きしめられる。

もうどこへも行くなよ。と黒い瞳は頼りないくらい揺れている。首元で揺れている指輪が獠の気持ちだと思うと、この場所を誰にも渡したくなくて、縋るように見上げると、おれもだよ。と耳元で囁かれる。

熱に浮かされたように、身体が熱を帯びていく。照れ臭いのも混じって、くすぐったいよ。と返せば、心臓が止まりそうなくらいの色を含んだ視線で絡めとられた。

こんな距離感は慣れなくて落ち着かない。

だけど。と煩いくらいに響く胸の音を、押しつけるように手を伸ばして背に回すと、額に、頬に、大きな掌が触れて、愛おしそうに瞳を細めると、唇が落ちてきた。 


触れる瞬間。

「私はお役御免のようですね。」

そう言って荒木が二人の前に現れた。

「あ、荒木さん!?い、いつから!?」

「香さんが尻餅をついた辺りからです。」

「!!」

ほぼ最初からではないかと、気付いていたであろう目の前の男をグイと睨みつける。恥ずかしさで香の頭から爪先まで見事に赤く染まっていく。 

「おまえ、案外根暗だよな。」

「あなたほどじゃないですよ。」

涼しい顔で荒木がさらりと交わす。


「あ、あ、荒木さん!」

「なんですか?」 

「あ、あたし・・あなたにたくさん助けてもらいました。ありがとうじゃ足りないくらい。」

夕陽と同じ色に染まった顔で、無防備に笑う香の顔を切なそうに見つめると、

「香さん。」

名を呼びながら、極々緩やかに、腕の中に囲う。香の口から思わず小さく声が漏れる。 

隣の獠の気配が鋭くなるが、荒木は構わず香に伝える。

「あなたに会えてよかった。私にとって大切なこの地で、あなたと過ごすことができて

私は幸せでした。」

「荒木さん・・」

「隣で並んでいたかった。本当は・・」

「え?」

「いえ、何でもないです。お元気で。」

多くを語らない荒木に、香の胸がさわさわと揺られていく。

あたしはーー

離れていく荒木の掌をそっと握る。

「香・・さん?」

どうしても伝えたい事があった。

「今まで側にいてくれてありがとうございました。あの時・・名前を呼んでくれてありがとう。あなたですよね?熱のせいであまり覚えてないけど、でもずっと呼んでくれていた声がありました。アニキがあなただって。あたしも、あなたに会えて・・よかった。」

ありがとう。と笑顔を向ける香の姿に、目を奪われ、叶うならばと伸ばした手は宙を切る。


「・・お元気で。」

「はい!」

「桜・・」

「桜?」

「本当は見たかったです。あなたと一緒に桜の花を。」 

「荒木さん・・」

名残惜しそうに空を見つめる荒木に、香が屈託のない言葉を想いに乗せる。

「またいつか・・今度会えたらお花見ができたらいいですね。」 

香の想いは、晴天の下に広がる光のようにどこまでも澄んで曇りがない。

「・・そうですね。」 

二人で。という言葉を呑み込んで、荒木が気持ちの折り合いをつける。

 

「泣かせたら、今度こそ攫いにきますよ。」

「・・おまえが言うとシャレになんねーんだよ。」

「本気ですよ。」

「だろうな。」

「力ずくでも。」 

「!?おまえっーー」

クッと荒木が喉を鳴らす。

「冗談ですよ。」

「・・どうかな。」

「そうですね。冗談は得意ではないので。」


大切ですよ。とても。

あなたに負けないくらいに。


少し離れた場所に立つ香に笑みを向けると、横目で獠を見やりながら、晴れやかな足取りで立ち去っていく。

唇の動きだけで本音を残していった男の去り際は眩しくさえ写る。


「やっぱ、関わりたくねーな、あちら側は。」

巧妙に爪を隠しているが、性質は自身と変わらないはずだ。仄暗さはお互い抱えている。その気になれば、あっという間に攫ってしまうだろう。ヒヤリと背中に冷たいものが伝う。


「獠?」

背後から、黙り込んだ獠を伺うように、香が声を掛ける。

「りょーお?どうしたの?」

こちらの気持ちなど、まるで気付いていないであろうゆったりとした口調に、

「なんでもねーよ。」 

と、ピンと指で形のいい額を弾いた。

「痛い・・・」    

恨めしそうに、額を抑えながら香が口を尖らせる。首元で二つの指輪が揺れ、視界に入るのが言いようがないくらい甘くて、直視するのが気恥ずかしい。

「あの・・獠、こ、これって・・」

以心伝心かと思うくらい、ピンポイントで投げ掛けられて、思わず言葉に詰まる。

それでも、どうしようもなく愛しい存在だと、もう十二分に自覚があるから、潤むまあるい瞳に精一杯返そうと、波打つ胸の音を隠して指先に力を込めて肩を抱き寄せた。


「病める時も、健やかなる時も、な?」

耳元でそう囁けば、地平線が映り込んだ薄茶と赤が混じった瞳が大きく見開いて、ガラス玉のような涙を落としていく。

綺麗だと思った。おれがこんなに綺麗なものを手に入れていいのかと、まだ躊躇いは消えてはいない。



『だから、いいんだよ。獠。おまえが望んでも・・な。』


「槇村・・」

獠の言葉に香がぴくりと肩を揺らし、濡れた瞳のまま見つめる。

『幸せになれ、獠。二人でな。』 

「・・いいのか?」

『馬鹿だな。何度も言わせるなよ。』 

「・・そうだな。サンキュ、槇ちゃん。」



「アニキ・・行っちゃった?」

返事の代わりに、その細い身体をきゅうと抱き締める。

「そっか・・なーんであたしのとこには来ないのかなあ?こんなに可愛い妹が待ってるのになあ、アニキのバカ。」

「可愛い?誰が?」

あえてのツッコミに、ムッとした顔で顔面に小さなハンマーを落とす香のいつもらしさがたまらなく心地よくて、こんな関係は変わらずにいられたらと願う。

「おれには言いたい事が山程あるからじゃね?」

「なるほど、そっか。」

「納得するのかよ。」

「するわよ。」 

イーと口を広げて見せる姿は、子供の様で、さっきまでの艶めいた雰囲気がどこへやらで、引き戻す様に再度抱き寄せ、逃さぬ様にと顎を救い上げる。

香の首元の二つの指輪が揺れているのを、満足げに見つめ、視覚だけで狂いそうな程甘やかなプックリと熟れた唇へと落ちていく。


完全に堕ちる寸前

待って。と囁く香の声が震える。

「あ、あたしのこと、好き?」

声だけでなく、指先まで震えているのが、胸の中まで甘く染めていく。

「大切過ぎておかしくなるくらいにな。」

「・・・す、好き?」

「・・・・・」

「獠。」

「好き、じゃあないな。」

「え?」

ふるると揺れる睫毛にキスを落としながら、どうしようもなく緩む頬を見られたくなくて、香の後頭部を胸に更に抱き寄せる。

「好き、じゃあなくてさ、」

そうしてずっと言えなかった言葉を伝えた。

 




波の音と共にふと聞こえた気がした。



『獠を救ってくれてありがとう。お嬢さん。』



ああ、やっぱりあなたもいたんですね。と、しぶきを上げながら、岩間に打ち付ける波を見つめる。深い深い海の底は、きっと何もかもを包み込んでいるんだと思う。

「どうした?」

「・・・ううん。なんでもない。」

どうか安らかでありますようにと祈るように願いながら、肩を優しく抱かれて、帰る場所へと踏み出した。


fin

2020.6.28



最後、すごくすごく長くなりました🙏🙇‍♂️🙇‍♂️

あとがき、あとでまた書きたいと思います。

ここまで読んで頂いて本当に本当にありがとうございました(*´-`)


あとがき


深海のお話、始めた当初はここまで長くなる予定なかったんですが、最後まで書けてほっとしています(*´-`)7を上げた後はすぐに続きを上げて終わるつもりだったんですが、なんだかとにかく、書いても書いても終わらなくて、終わらない〜!.°(ಗдಗ。)°.となりまして、書きたいことはわかっているのに表現ができなくて、ヘロヘロになって何日かは創作から離れて日々の日常でコロコロしたりして、気分転換をしたりしていたので、なんだか随分当初よりはラストが遅れました😭

見返してみると、1.2を纏めたので1をいつ最初に上げさせて頂いたのか忘れてしまってますが、多分二年弱ぐらい前で、途中他のものを書いたり、描いたりしていて、こんなに長くかかってしまったものを、最後まで読んで頂いて本当に本当に感謝の気持ちしかないです(о´∀`о)ありがとうございました。


ここからは、お話についてのことになるので、ネタバレや私の個人的な見解を書かせてもらうので、それはいいよ〜って方はそっ閉じでお願いします🙏


このお話は私が原作にハマった当初、頭の中でずーっと妄想していたお話になります。

当時は中学なりたてで、しかもハマってすぐに原作終わってしまったので、大好きなのに終わった!😱とすごくショックでした。

二人が大好きすぎて毎日寝るときに頭の中で妄想していたお話の一つです。

その当時は単にユキさんが大嫌いだったので、ユキなんでいやー!の一心で二人が仲良しだったらいいなーぐらいのお話で、大人になってから読み返してみると、あれ?ユキさんはおせおせグイグイだけど、冴羽さんは一緒に行くつもりは毛頭ないんじゃないかな?

と思いまして、たくさんのものを抱えているユキさんをなんとかしてやりたいといういつものスタンスと、あと昔の自分の事も被ったんではないのかなと思いました。それしか選択肢がない道を行かなきゃ行けないという事が余計になんとかしてやりたいとなったのかなと思いました。すご〜く個人的な見解です🙏今回、本当はもう少し入れたかったお話で陰陽がありましたが、それを書くとまた派生していきそうで終わらなそうだったので、そこは省きましたが、また別の機会に書けたらいいなあと思います(*´-`)

原作で海原さんが冴羽アパートに来たときに、香ちゃんに、アマテラスさん。と言っていたのがすごく印象的で、ずっと前に頭で妄想していたユキさんのお話となんだか通じるなあと思って、深海のお話を書いてみたいなとなりました(*´-`)陰陽でいうと、私の中では冴羽さんは陰、出雲。香ちゃんは陽、伊勢。のイメージがすごくあります。陰陽は☯️←こんなマークですが、どちらが欠けても一つの丸にならない、どちらも必要、背中合わせ、光と影。とかそんなイメージです。

離れても離れても惹かれ合う二人かなあって、思っています(*´∇`*)

一度は離れてしまうお話大好きで、支部やサイトさんでも素敵なお話になみだ、涙いつもさせてもらっています🙏

ヤタガラス荒木さんは個人的に昔からとんでも話すきだったので、陰陽や日本海や出雲に絡めて出してしまいました(*´-`)

出雲も伊勢も大好きで特別な場所なので、自分の中で書いていてただただ楽しく書けました(*´꒳`*)個人的趣味満載で分かりにくい点もあったかもしれないと、それでも読んでくださった方々に感謝しかないです😭本当にありがとうございました🙏

これからもコトコトとお話を描いたり書いたりできたらいいなと思っています。

いつも本当にありがとうございます😊


支部さんの方にも沢山のコメントありがとうございます😭メールで感想送って頂いた方々も本当にありがとうございます😭また後ほどお返事できたらと思っています🙏そしてそして読んでくださった方々も本当に本当にありがとうございました🙏🙏🙏


2020.7.1