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Yutanの森 

海外発信されている 私のストーリーjcatにより

2020.06.29 09:00

2019.03.23

「人は笑うために生まれてきた」

ということを

大好きな絵と歌で表現しています


子供が思いつくような飾らずに描いた絵と

経験から生まれた等身大の詩を歌い

たくさんの人に

絵が光っている

歌声が実家のような空気感で

安心し、癒されると言われることから

「光の絵」と呼ばれ

「心の花を咲かす詩を歌う」と

言われています。


その活動は

2019年にはスタジオジブリ宮崎駿監督主催の「淵の森の保全活動」というイベントで

宮崎駿監督の前で自身の歌を披露するなど


台湾やオアフ島、ニューヨーク、パリなど、

海外にも広がっています。


ほんの3年前まで普通の主婦だった私ですが

気づけば2017年から「生きる歓び」を届けるアーティストになっていました。


2018年には都内で行った

初個展「わたしに還る」展には

全国より500人もの人が駆けつけるなど

活動は年々広がりを見せています。


わたしが「生きる」ことについて

さまざまな形で表現するアーティストになった経緯を少しお話したいと思います。

私は22歳から14年間という長い間、

ある日突然、治らない大腸の難病になりました。


それは想像を絶する生活で

ほぼ食事をとることもできず、

痛みで眠ることもできず、

排泄の失敗が続き、

外出をすることもできなくなりました。


20代の女性が普通に楽しむ生活とは

全く無縁の毎日を送ることになりました。 


心地よいはずの風も刺激となり、

手が水に触れただけでも刺激となり、

痛みでお腹を抱え下血を繰り返す日々。


「あたりまえ」だと思っていた毎日は

ガラガラと崩れてゆき、

あっという間になくなりました。


周りの友人たちが

20代を謳歌し華やかに過ごす中

私はその経験を知らず14年もの間、

絶望の毎日を過ごすことになりました。

それは「死ぬのを待つ」だけのような

毎日でした。


ある時、医師に

ステロイドの生涯許容量を超えたので

大腸を切除する手術をすすめられました。


お腹に便の入る袋をつける手術です。

私にとって、それは「死ぬ」ことより

嫌で嫌でたまらない事でした。


子供の頃から学生の間、

遊ぶこともせず、ひたすら勉強だけをして

いつも完璧を目指した結果は

こんな大きな病気。

思いもよらない事でした。 


私はこのことをきっかけに

「どうせ死ぬのを待つ人生だ。

もう、誰からどう思われてもいい!

残りの人生、好きなことだけして生きていくんだ!」と

強く決心することになりました。


私は、自由の効かない身体でありながらも

嫌なことをやめ、我慢をやめ、

好きなことだけを選び、

徹底的に自分の本音を生き始めました。


生き方、心の在り方を変える作業は

私にとって本来の自分にかえっていくもので

周りにとっては、180度人が変わったように感じることでした。


もちろん私の周りは驚き

人から嫌われたり、バカにされたりもしました。

私から離れていく人が殆どでした。

好きを貫くことは

体裁を気にしないように生きる事だったので

とても勇気のいる事でしたが

周りの目を気にしない在り方によって

私の病気は、嘘のように消えていきました。


それは

「周りより自分を大切にできた瞬間」でした。


私の体調はみるみる回復し、

再び食事を摂ることができるようになり

気持ちよく眠ることもできるようになり

排泄の失敗も無くなり

外出もできるようになり

私は失った14年を取り戻すかのように

楽しいことを沢山して

自然に笑顔が増えるようになりました。


あたりまえだと思っていた毎日が

実は、どんなにかけがえのないものか!

…ということを経験し

毎日はありがたくてたまらないのだと

感じられるようになりました。


生きていること、普通の生活が、

どれもが奇跡なんだと気づき

そうして感謝の溢れた生活の中で

「好きなこと」をすることは

「自分の限りある命」を大切にすることなんだと伝えたくなり、ブログを書き始めると


たくさんの方から話を聴きたいと言われ

あっという間に講演活動につながっていきました。


「今を楽しく自由に生きる」という

講演活動は、瞬く間に広がり

大勢の人の前や、企業や、

海外に呼んで頂いたこともありました。


私に出会うだけで泣き崩れる方々が

いろんな悩みを打ち明けられ

それに、お応えすればするほど

みなさんが笑顔になっていきました。


寝たきりだった私の人生も無駄ではなく

私は人の役に立っている事に

喜びと生き甲斐を感じ

講演活動に誇りを持っていました。


そうして講演家として活躍していたある日

オアフ島で同じような活動をしている方と

たまたま出会うことになりました。


私と同じように、

かけがえのない毎日は

自分自身がありのままの姿で生きられるように

神仏や宇宙がベストなものを

ご用意くださっている…という内容で

とても頷けるものだったのですが

その方の講演を聴いているうち

たくさんの人が救いを求め

講演者の方に依存しているように感じ

私はその時

強くめまいがし、立ち上がれなくなりました。


たくさんの人に

自由に自分らしく生きてほしいのに

私がしているのは

人を私に依存させているだけかもしれない…

「私のやりたい事はこれじゃない」と

その日をきっかけに、講演活動をパタリとやめてしまいます。


翌日、ホームステイ先でパーティーがあり

1人の女性と出会いました

彼女は少しも飾らない

子供でもわかるような詩を

とっても楽しそうに歌い続けていました。


その、にこやかな姿を見ているだけで

「生きることは楽しいな」と

周りにいる人たちを笑顔にし

「今」この瞬間を歓び生きることを表現

している彼女の歌声は

私の意識を変えることになりました。


その日以来、私は

もともと好きで書いていた詩に

メロディーをつけ、歌い始めました

とはいうものの、

歌うこと自体、とても苦手意識があり

避けていたことでしたから

帰国してからはボイストレーナーの元で

歌う練習をはじめました。


それは

「スタジオジブリで歌う」という

夢を叶える為でもありました。


毎週1回、新幹線に乗って東京まで

ボイストレー二ングをして帰る、、、という

日々を送りました。


最初は、

ただ楽しんで歌を練習していたはずなのに

知らず知らずのうちに

身体も心も頭もチカラが入り

失敗を恐れる私は

自分自身に完璧を求め

いつしか

「練習しなければならない」に変わっていました

このルーティンをこなす事に必死になっていて

私は再び自分を見失うことになりました。


そのことに気が付いたのは

2018年12月。

3年半ぶりに急に病気が再発した時でした。


また私は動けなくなり

みるみる痩せていき

このまま脱水で死ぬかもしれないと覚悟するほど、とても酷いものでした。


翌月に控えていた「ジブリで歌う」も

諦めなければならない状況でしたが

一度病気を克服したことのある私は

以前と同じような過程をふむことにしました。


ベッドの上で

「私は本当は何がしたいの?」

「私は本当はどうしたいの?」

「私は本当はどうありたいの?」

そんな風に自分の内側に話しかけ

瞑想する日々を過ごしました。


こうして自分の内側とつながることにより

病気が治るだけでなく、

たくさんの夢が叶ってきたことを経験していたので

私は私に話かけ続けました。


次第に肩の力は抜け

自分の足先は地球とつながっていて

自分の頭の先は宇宙とつながっていることを

思い出しました。


「ああ。私は元気になった3年間、

楽しむことを頑張っていたんだな」と気づき、

苦しみ抜いた惨めな14年間を

否定していた自分に気づきました。

この両極端の3年間と14年間のおかげで

私はいよいよニュートラルという状態をこの時、体感することになりました。


身体の力も、心の力も一気に抜け

周りにいるたくさんの方々に

「声が澄んでいる」「声が変わった」と言われ

本当に楽に生きられるようになった時でした。


それがちょうど2019年1月

宮崎駿監督の前で歌を歌う直前だったのです。

「私のまんま、そのまんま歌えばいい」

「私は音楽だ」

そんな風に思えるようになり

以前に増して、風まかせに生きるようになりました

力が抜ければ抜けるほど

生き方がシンプルになり

描く絵も、力が抜けた「私のまんま、そのまんま」になりました。


格好つけない、等身大の絵は

思いつくまま描くため、

見ているだけで

楽しくなり喜びを感じるものになりました

誰に伝えるわけでもなく

誰に見てもらうわけでもなく

誰に聴いてもらうわけでもなく

「私のまんま、そのまんま」を表現するだけ

あとは、「おまかせ」


そんなふうに全く評価を求めなくなり

自分の内側と深く深くつながればつながるほど

自分の外側に広く広く広がっているように感じます


最近では

自分の目の前にいる人も

自分の目の前にある物も

どれもが自分自身なんだと感じ

何もかも愛すべき存在だと思い過ごしています


そのような目に見えないつながりを感じられるのが

私の絵と、私の歌です。


絵も、歌も、私自身。

愛を描き続け、

愛を歌い続けようと決めています。

ゆうたん



こちらの記事は所属するJCATにて翻訳され

ニューヨークなど海外にも発信されます