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Okinawa 沖縄 #2 Day 27 (29/06/20) 豊見城市 (12) Tohashina Hamlet 渡橋名集落

2020.06.30 06:07

渡橋名集落 (とはしな、トーシナ)


渡嘉敷集落から渡橋名集落に移動


渡橋名集落 (とはしな、トーシナ)

この渡橋名には昨年10月5日に訪れた。その時は沖縄に2ヶ月ほどの滞在予定だったので、豊見城市のホームページに掲載されている文化財のみの訪問に留めていたのだが、今回は腰を据えて、じっくりと沖縄を見る事にしたので、集落内にあるその他の文化財も見る事にした。沖縄は沖縄戦で多くの文化財が消滅しているのだが、各集落は終戦後、復興の際に以前からあった拝所や井戸跡などを復元保存や形式保存などで、その集落の貴重な歴史遺産として受け続いている。この様に集落を巡り、その集落に残っている文化財を見ながらその歴史や謂れを調べる事で、沖縄の歴史や風習などを知ることができる。

渡橋名集落は沖縄戦当時は人口約250名で45世帯の部落で、大正時代に人口と変わりない。2019年では人口は1556名、578世帯にまで大きくなっている。豊見城の中でも、教育が推奨された土地柄で、旧制中学への進学者は豊見城集落に次いで多かったそうだ。生計はサトウキビやサツマイモの生産が中心で、比較的豊かな字であった。

この渡橋名集落の始まりについての記述が豊見城村史に出ている。第一尚氏 最後の王の尚徳の側室の子である安次里親雲上や曽孫の宜保親雲上と言われている。そうだとすると、第一尚氏から第二尚氏へのクーデターの時期にあたる。尚徳王一族は金丸に尽く殺されたともあるので、殺戮を免れたとしても、親雲上の地位にあることには少し違和感がある。


渡橋名グスク

この渡橋名グスクは昨年10月5日に訪れた文化財の一つ。今日は再訪となる。渡橋名グスクは写真の貯水タンクのところにあった。丘陵の右側は座波名森と呼ばれる森で、隣の集落の座安集落の古島 (フルジマ) で、ここに住んでいた人たちが、下座安と渡橋名に移動して現在の座安集落と渡橋名集落を形成したと云われている。

このグスクも城塞よりは、渡橋名御願と呼称されている通り、拝所としてのグスクのようで、城塞グスクとしての遺構は見当たらなかった。

入口は上の写真に写っている貯水タンクの横の道にある。森の中にぐるっと周遊できる様に道があるが、蜘蛛の巣がすごく、取り払いなから進む。それと蚊の攻撃もすごく、払ってもすぐに戻ってくる。最近はこの蚊の攻撃には慣れてしまい、気にならなくなった。自転車で走っている間は、痒さは感じず、夕方家に帰えったときには痒みは治っている。慣れとはすごいものだ。

中に入り時計回りに進むと、すぐにコンクリート製の墓がある。「上代 保栄茂城 奴留神の墓 神世 天孫子」と書かれている。天孫子 (氏) とは琉球神話で中山王の始祖と言われ、弟の二人は北山按司と島尻世主、妹二人は君々聞得大君とこの祝々奴留神となっている。ここが祝々奴留神の墓とは信じられないのだが、沖縄や日本本土にも実在などしていなかった人物の墓がいくつもある。ただこれはその地の住民の信仰を表している。渡橋名集落の隣に保栄茂集落があるのだが、保栄茂集落の中ではなくこの渡橋名集落に墓を作ったのには何かわけがあったのだろう。その理由は気になる。

この墓の前の岩の前に御嶽がある。石碑にはクモリ(ソ?) ウタキと書かれていた。

この翁岩の裏側に墓跡か拝所かが三つある。

少し進むと拝所が二つ。

更に進むと視界が開け、広場になっている。ここに拝所が一つ。

この広場の奥にもう一つ広場がある。石で作られた小さな祠の拝所がある。

ほぼ一周したところで、別の小道があり、そこを行くとコンクリートの小屋の拝所があり、中には霊石 (イビ) と香炉 (ウコール) が並んでいた。

その奥に井戸跡がある。産井 (ウブガー) だ。これはインターネットで名前が載っていた。集落の人たちは祭事の際に、ここまで水を汲みに来ていたのだ。

この井戸の裏側に拝所が二つあった。

この森の中で変わり種アフリカマイマイを見つけた。殻はアフリカマイマイなのだが、中身はヤドカリに乗っ取られていた。写真左が乗っ取られたアフリカマイマイ、右が通常のもの。アフリカマイマイは東アフリカのモザンビークにのみ生息していたが、世界各地に輸出されて広がった。沖縄でも1930年代に食料難の解決のため食用として養殖されて広がった。当初は管理されていたのだが、沖縄戦で野外に逸出して野生化して広がった。戦後の食糧難の時期には貴重な食べ物だった。アフリカマイマイによる農業被害、固有種植物を食い荒らすこと、寄生虫がいることから、植物防疫法により有害動物に指定され、生態系被害防止外来種とされている。

このアフリカマイマイを乗っ取ったのが、ムラサキオカヤドカリで天然記念物になっており、ペットとして数千円で売買されている。


渡橋名公民館

渡橋名グスクのある丘陵を背にして渡橋名公民館がある。前面には小さいながらも広場がある。その片隅に、酸素ボンベの鐘が吊るされていた。色々なところでこの酸素ボンベの鐘を目にしたが、豊見城市では初めて見る。沖縄戦ではここに陸軍が駐屯し、米軍上陸をここに近い与根海岸と想定していた事から、1945年3月末に住民全員に避難命令が出て、饒波や高安方面に移動して、部落は空になり軍隊だけとなっていた。この字では学童疎開が一人も出ていなかったそうだ。村の指導者の意見が大きく影響した事と、住民自体が疎開に難色を示していた事で、村全体で疎開しないことになった。その後、米軍が本当中部に上陸すると、住民はシマに戻っては来たが、ここには米軍が高安 (6月6日に占領) 宇栄田 (上田 6月7日に占領) から、1945年6月7日 - 8日ごろにはこの集落に侵攻してきた。一部の住民は南部に脱出したが、大部分の村民は米軍の捕虜となった。この後、米軍はここから海軍司令部を攻める事になる。沖縄戦が終わった後、住民は集落に戻り生活を始めた。そのときにこの公民館の前の広場で惨事が起こったそうだ。ここには小学校が設置され、そこで遊んでいた子供たちが、不発弾をいじってしまい、子供たち5~6人が犠牲になったそうだ。この酸素ボンベの鐘はその戦後の辛かった時期を忘れないために残しているのかもしれないと思った。

昭和20年頃の渡橋名集落 (豊見城村史から)


中之井 (ナカヌカー)

公民館の近くにある井戸。給水チューブがあるので今でも使われている様だ。中之井とあるので、上之井や下之井もあるかと思い、探すが、見当たらなかった。以前はこの場所には池がありそのほとりにこの井戸があった様だ。集落住民の生活用水であり、社交場であったのだろう。


西之御嶽 (イリヌウタキ)

公民館の横の道を北に進むと森の中へ続く道があった。進んでみると御嶽がある。イリヌウタキ。イリなので集落の西にある御嶽という意味。ただ、この集落の御嶽は渡橋名グスクにある嶽であり、ここは遥拝所として造られた。時代とともに、ここを御嶽と呼ぶようになった。ここには拝所が3つあった。それぞれが何なのかは不明。沖縄戦ではここに機関銃が一門据え付けられ、近くには兵舎や日本軍の壕があった。昭和20年の地図では、御嶽はここしか記載されていない、恐らく、ここが渡橋名集落のメインの御嶽であったのだろう。


国吉井 (クニシガー)

公民館の丘陵側にある井戸。構造から見て井戸の前は水場になっていたようみ思える。丘陵に向かう道がある。グスクに行けるのではと思いこの道を進んだ。


井戸跡 (名称不明)

道を進むと丘陵側に草を刈り込んだ通路がある。何かあると思い行っていると井戸がある。名前はわからない。


上之山井 (イーヌヤマーガー)

さらに進むと、先ほどと同じく草を刈り込んだ別の通路があり、その行き止まりには井戸と拝所があった。インターネットでは上之山井となっていた。ここからはグスク への道は通じていない。


クンジャーガー

渡橋名集落の東側は民家はあまりなく畑になっている。その中に、豊見城市の観光案内で出ていた井戸跡がある。クージャガーという。案内板によると、クージャガーは南山系の人々が造った井戸と伝っており、別名産井 (ウブガー) と言われ、正月の若水や葬儀の湯灌の水として使われていた。案内板の古写真にある二本松は渡橋名の二本松と呼ばれ沖縄の名勝となっていた。当時の二本松は残っていないのだが、新たに木が植えられ昔の風景が再現されている。沖縄戦当時はこの広場 (クンジャーバル) には戦車壕が構築されていた。戦後、金武村中川で収容所生活を送っていた村民が1945年12月に帰還が許され、まずはこのクンジャーバルに収容されていた。戦後、このクージャガーの北側には「Southerncross」と呼ばれた風車式灌漑施設が弁務官資金によって建設されていた。


東之御嶽 (アガリヌウタキ)

先ほどは西之御嶽 (イリヌウタキ) を見つけたので、ひょっとして東にも何かあるのかと思い調べると、東之御嶽 (アガリヌウタキ) があるとインターネットで見つけた。県営渡橋名団地 (193戸の大きな団地) の入口付近にあり、立派な祠が作られていた。今ではこちらの方が渡橋名集落にとって重要な御嶽なのだろう。しかし、西之御嶽 (イリヌウタキ) と同様に、本来は御嶽ではなく遥拝所の性格を持っていた。団地になっている場所はチチバルと呼ばれ、かつては馬場 (ウマイー)があった。沖縄戦では民間壕が造られていた。(以前は各家の庭先や裏に穴を堀り、入り口を草で隠すと言う簡単なものであったが、それでは機銃掃射などは防げないと言うことで、別に避難壕が造られたと言う)

今日はこれで終了として帰路に着く。


質問事項


参考文献


豊見城村史 1964年(昭和39)発刊・1993年(平成4年)復刻

第9章 部落 

第12節 字渡橋名

位置 

字座安と地続きであって座安の南東にある。渡橋名は由来記にもなく、旧記にもないが、嘉慶図には稲嶺 (上田の古島) の西に記してある(部落の変遷参照) 

御獄は座安と同一であり、古えの座安と下座安で現在の座安と渡橋名になったのだろうと考えられる。御獄は高い所にあるので、部落もその附近にあったのが、森の陰に移転して二部落になったのだろう。 


祖先 

千草之巻にも世立、地組始め等記されていないが、根所と見られている志礼については祖先宝鑑に次の系統図がある 

とある。安次里親雲上について「居所は泊村安里と言うその子長男は豊見城当瀬名村志礼と言う家に隠居す」とあり、その子孫だということである。安次里親雲上は養子であった。 また、志礼は豊見城部落より渡橋名に移住したとも言われていて、豊見城部落の屋号新谷原の後方にあるシリ井戸は、その豊見城村 (むら) 在住時代に使用した井戸といわれて、今でも崇拝している。 

なお 玉城村玉城仲嘉の御サカテ帳に渡橋名の世礼井、下庫理の名が記録されている。下庫理という屋号は城の御台所の役 (同人) から来た名であるが、司人であったという伝えはないようである。 

田頭の地組始めた人、南山より来る宜保親雲上はこの志礼 (田頭の地組始めを参照) であるとされている。以上四つ祖先が書かれているがその関係については、玉城按司の子大城世主の子孫で中城 (先) と、豊見城西原村と南山系と向徳王外子が養子に入ったのであった。 


拜所 

現在御嶽とよんでいるのが古来の御獄の外に二つある。東リの御獄と西リ御嶽である。これは御獄というよりはお通し所として後でできたものと思われる。