#23人目の著者② 中学校編〜花の中二病生活〜
前回は『ぼくとわたしと本のこと』を読んで火が付いた自分が、小学校時代の本とのエピソードを書き連ねていたら、そこそこの分量になってしまった。
今回は3年間なのでそこまで長くはならないだろう。
今回ここのページに辿り着かれた皆様は、『ぼくとわたしと本のこと』をもう読まれただろうか。
ぜひ読んで欲しい。
そしてあわよくば、ご自身でも書いてみて欲しい。
本が好きでも好きじゃなくても、人はどこかで、本に出会っている。
書いて自分を思い出すことで、あらためてそのことを確認できる。
この本は教えてくれる。
書くことは、唯一無二の自分を発見していくプロセスなのだと。
そしてこれは、若き大学生たちがそのプロセスを通じて生み出した珠玉の文集であり、自分の人生と向き合う事を教えてくれる本なのだ。
今、何かに行き詰まっている人は、騙されたと思って読んでみて欲しい。
人が良いと言ったその本を、信じて読む。良さがわからなければわかるまで信じて読み返す。
道ばたの花の美しさにふとした時に気付くように、自分の手の内に無かったヒントが、人から偶然薦められたものに込められていることは結構、ある。
さて、中学生編である。
校区の関係で僕の家から通える中学校は二つあったのだけど、特に迷うこともなく、小学校のメンバーがそのまま進学する方の中学校に、入学した。
中学校に入学早々、同級生2人にいじめられた。小2の頃とは別の人達だ。小学校からの同級生で、1人はたまに遊んだりすることもあったのだけど、なぜだろう。
国語の授業中にどんどん発言したからか、なんとなく目立っていたのか。生意気に映ったのか。
理由は今でも分からないが、たぶん、なんとなくなんだろう。
いじめというものは往々にして、当事者の深刻さと加害者の罪悪感は解離する。
虫で戯れるように、人を嗜虐する事が快楽やストレス解消になる、そんなものなのである。
子供が天使なのは小学校に入るまでで、あとは基本的に親のコピーである。だから学校は社会の縮図となりうる。
いじめられた、といっても、ものを隠されたり下駄箱の靴がなくなったりという感じではなく、授業中に邪魔をしてくる系だったように記憶している。
ただ地味な嫌がらせも継続されると応えてくるもので、技術の授業中に一度、女子の前で泣いてしまったこともある。(我ながら情けない・・・。)
結局堰を切って親に話して担任から説教して貰う、という感じに終息したのだけど、いじめられっ子にとってはこの、「親に言う」というプロセスがなんとも言えず嫌なのである。
子供同士の諍いに親を介入させなければならない無力感。相手の子供に怒る親を宥める情けなさ。真に怒りたい、泣きたいのは子供自身だというのに。
ああ、もっと力があれば…と思わずには居られない。だからいじめは嫌なのだ、面倒くさい。
そんな自分も中学二年になれば加害者側に回り同級生の容姿を馬鹿にし始めるのだから、因果なものである。
そんな感じで始まった中学校生活であるが、その他は割と好きだったように思う。
別の小学校から来た面々との出会い、部活動の開始(筋トレを嫌がって冬場の練習をサボったりしていたが。)、ダイナミックな運動会、合唱祭など。
集団で頑張る楽しさを知ったのは、中学生からだと思う。
そんな日々を彩ったのは、小説や漫画だった。
小学校6年生くらいから芽生えた小説への興味、伊坂幸太郎の『オーデュボンの祈り』を皮切りに、児童書から、大人向けの小説へと手を出していくことになる。
恩田陸の『常野物語』不思議な能力を持つ、世間とはちょっと違った一族のお話や、『ドミノ』旧東京駅で繰り広げられるドタバタ群像劇に魅了され、石田衣良の『池袋ウエストゲートパークシリーズ』を読んでは、東京とはなんて危険なところなんだろうと思いを馳せたりしていた。
あさのあつこの『バッテリー』では、こんな大人びた中学生いないよ、と主人公を凄く彼方に感じた。
宮部みゆきの『ステップファザー・ステップ』は、こういうのもアリだなと思えたし、『ブレイブ・ストーリー』には中二心を鷲掴みにされた。
宮部みゆき作品では他にも『今夜は眠れない』と『夢にも思わない』とか、ミステリ系を少し読んでいた。
逆に、アニメ映画化した話題作『ハードル』とかは、大人が子供に押し付けようとする「道徳」が丸見えで、ウザさを感じたりもしていた。
漫画では、『テニスの王子様』にはまり、隠れたサッカー漫画の名作『ホイッスル!』を読んではサッカーもいいな、と本に影響されまくる日常を送っていた。
また、『るろうに剣心』完全版を全巻読んでは、以前書いた「悟り」の時のブログに、『苦労に短剣心』というゲームのキャラをモデルにした、創作物語を書いたりもした。我ながら相当イタい話である。
そんな、「落ち込んだりもするけど、わたしは元気です。」みたいな日常を過ごしていく中で、運命のサイトに出会うことになる。
ニコニコ動画である。
今やYoutubeに負け、人気も下火になったが、中学1年当時、ニコ動は立ち上がったばかりだった。
登録動画数も少なく、動物の映像とかで、Youtubeの動画を輸入するだけの媒体であったが、アニメブームが起きてから事態は変わっていく。
『涼宮ハルヒの憂鬱』を観て、ニコ動でMAD(動画の切り貼りに音源をつけてリズミカルに編集したもの)を見る。
『ひぐらしのなく頃に』を観て、ニコ動で「You」(物語をテーマに作られた楽曲)を聴く。
東方はよく知らないけれど、「チルノのパーフェクトさんすう教室」を聴く。(後から知ることになるのだが、これを歌っていたのは前述のオンラインゲーム上の友人で、当時憧れでもあった女子大生だった。)
早い話が、オタクである。
ライトノベルというものを見直して、西尾維新の『戯言シリーズ』を完走したり。
同級生女子が持っているのに興味を持ち、こっそり読んでみた奈須きのこの『空の境界』とか。
ああ、意外と馬鹿にならないんだな。素直にそう感じた。ハルヒは読みにくくてしょうがなかったが、それもまた味わいだった。
空の境界は、受験期にちょっと勉強しては少し読んで、また勉強に戻って…という感じで自分の絶好のモチベーションになっていた。勿論、親は知らない話である。
そんな感じで、「俗世」を満喫していた。今の自分からは信じられない話でもあり、言うのも憚られる話ではあるが、通ってきてしまった道なのだから仕様がない。
そんな中で初音ミクという媒体や、ニコ生という配信のはしりみたいなのが生まれる時代に居合わせたのも、何かの縁であろう。
部活に勉強に、と追いまくられ、どこか閉塞感を感じている自分にとっては、ネットの世界が唯一自分を解放できる空間だった。
親からは部活で発散しているのだから、と再三言われたが、部活は別に発散にはならなかった。下級生、レギュラー外という立場は抑圧を生み、でも練習して上手くなろうとするほどの情熱を底に見出すことはできなかった。
部活も勉強も、自分にとっては仕事みたいなものだった。
子供として、存在を許されるための免罪符。
思春期のエネルギーが有り余って、映る写真どれも無表情だった。写真というものが心底嫌いだった。
世界は欺瞞に満ちている、冗談抜きでそう感じていた。
女子と話すのが苦手で、前を向いて宙を見つめていた。
そんな、やべー奴だった自分も、ある意味懐かしい。
人と付き合うのはエネルギーがいることだ。
自分が何者かも判らぬまま、関係性を保つ所在無さが、煩わしかった。
大人になる事の方が、子供である事よりどんなにか楽だろうと思った。
ネットの中に潜り込み、地続きの人間関係から一時的に解放される時間こそが、自分の自分たる芯を守ることだった。
BUMP OF CHICKENというバンドに出会ったのは、その頃である。
本質の部分は変わらないようには思うが、今ほど明るい曲ばかりではなかったあの頃のバンプの歌詞が、当時の自分の心に深く刺さった。
「なんでこの人達は、俺の気持ちがわかるんだろう。」本気でそう感じた。
どこかで目にした、BUMPは文学である、という評論は当たっている気がする。弱さを曝け出してくれるその歌詞に、本質のところで共鳴した。
『レム』『ダイヤモンド』『才悩人応援歌』『ハンマーソングと痛みの塔』
こんなに人気なのに、愛だの恋だのあまり歌わないバンドは珍しい、と思う。
藤原基央の書く歌詞も、僕にとってはある意味本だった。当時よく聴いたバンプの曲は、今聴いても懐かしく、少し埃の匂いのする郷愁に浸らせてくれる。
そんな、本だけでは無い中学校三年間。
その後祖父と母親の病気を機に、そして、『WILD LIFE』という獣医師漫画をきっかけに、医学の方へと興味が向いていくことになる。
その話は高校生・浪人生活編へ続く。
そろそろ気づいた。このシリーズは、ついつい長くなる。
誰も求めていないかもしれない、自分の27年を振り返る。
自分は何者でもない、だけど今の時代なら、何者でなくても、勝手に自伝みたいなものを書いても、いいじゃないか。
読むも読まないも読み手の自由である。読んでもらった上で時間を無駄にさせてしまったなら、忍びないけれど。
これは僕とあなたの、感性の一騎打ちなのだ。
ぼくとわたしと本のこと』は一般書店でも、Amazonでも買えますが、上の二つのお店で買うと、もれなくご縁が付いてきます。本当です。