歪んで捉えられた自己責任論について考えてみた
とあるブログを読んでいると、
「スピリチュアル自己責任論」という言葉を見かけた。
「スピリチュアル自己責任論」とは、
現在の自分の不満や満足していない状況は全て
自分のせい、前世のせい、トラウマのせい、などと紐づける考え方だそう。
「自己責任論」という言葉ができてしまうくらい、
全ての理由は「自己責任」という考え方は一部の社会では非難されている様子。
これってアドラー心理学とかも含まれるみたい。
私はアドラー心理学に関しては納得できる。
そして、なぜそんなにも「自己責任」という考え方がダメなんだろう?と思った。
私が思ったのは、
それを広めているスピリチュアル界隈の人が
ちゃんと理解してないからなのでは?ということ。
まぁ、だからといって私の捉え方が正しいとも言えないですよね。
私が捕らえてるのはこういうことだ。
私は貧乏な家庭で育った。
両親も祖父母も貧乏マインドだったため、「お金の扱い方」を知らなかった。
そんな大人たちの環境で育った私は、もちろん吹き込まれる言葉や教育も
「お金をうまく扱えないことが前提のもの」だった。
そこまでの知識がないのだから、自分で生活をするようになっても
そういった染み付いたマインドからは抜け出せないままだ。
ーーーーーここまでは「与えられたもの」です。
そして、ここから先は「自己責任」になりますね。
↓
お金持ちと呼ばれる人と貧乏と呼ばれる人の違いはなんなのか?
なぜ私はお金持ちになれないのか?
私が知らないことはなんなのか?
このように思考することもできますし、
何も考えずにただ無自覚に何も求めず人生を終えることもできます。
なぜ自分はこんな状況なのか?という問いから、
自分でどうにかできる問題と、どうにもできない問題に振り分けることが可能になります。
ここからがポイントなんでしょうね。
自分でどうにかできる。のに、しなかった場合。
それはどうして?という部分なんです。
やればできる状況なのにしなかった。
動けたはずなのに動かなかった。
それらの選択肢の裏側には、その選択肢を選ばなかったことによって
別のメリットがあるのではないですか?ということ。
「動かなくていい状況を正当化したい」という意識が隠れていたり、
「責任を取りたくないから」という場合も結構あります。
自分の行動に対する選択は、自分でしかできませんよね?
あなたのマインドはあなた以外のものではありません。
流れるような毎日の景色は、全てあなたが選びとった選択肢の積み重ねです。
起きる→トイレに行く。
起きる→顔を洗う。
起きる→もう一回寝る。
全て自分が決めていることです。
そしてなれている事は選択も簡単ですが、
なれていない事になるにつれて選択を迷うのは当たり前です。
それを選びとったことによって展開される未来が未知の場合は尚更。
その程度が小さいか大きいかで違うだけなんだと私は捉えています。
とあるブログで、「自己責任論VSみんなで支え合う論」と対立させている方を見かけましたが、
そもそも対立させること自体がナンセンスなのでは?
と私は思いました。
「助けてほしい」と自ら求める。
これってその選択をするのは自分の裁量だと思うんですよね。
他人が助けてほしいかどうかって、言葉にしなきゃ分かんないよ。
例に「自力で生きていけない貧しい人の面倒を見るのは国や政府の責任である」というアンケートに「そう思わない」と答えたのは日本人がダントツだったというデータを出されていましたが、
「自力で生きていけない貧しい人」のためにはすでに「生活保護」という制度がありますよね。
それをすぐさま申請してもいい状態の人でも、なぜかプライドを優先する人がいるのも事実。(実際に身近にいました)
それって自己責任だよね?と、私は考える。
だから、私が思うのは、
「自己責任論」の〝論〟ってつける段じゃないって!
というところに落ち着く。
冒頭に戻ると、確かに前世のせいにしちゃうのなんかは
ちょっと違うかもしれない。
だけど、全くのゼロだとは言い切れない。
ってか、その話をわざわざ聞きにいったり、鵜呑みにしたりするかどうかも
自己責任なんじゃないのーーーー???