「マルティン・ルターと宗教改革」3 「歴史の転回点」
親の支配的価値観・世界観の影響下から脱して己の人生を歩み始めるには、人それぞれ強烈な契機が必要だろう。病気、親しきものの死、失恋、挫折。それらが、それまでの自分の在り方を振り返らせ、時には死への誘惑の中で古い自分を解体させ、新たな自己の形成に向けて人生を転換させる。ルターの場合、それは「落雷体験」だった。なぜそれがルターを宗教改革の道へ進ませるうえで、決定的出来事だったのか?
ルターは18歳で名門エルフルト大学(「大学に行くならばエルフルトに行け」という言葉が残っているくらい当時は有名な大学の一つだった)に入学。当時、大学はまずは教養学部に入る。ルターは、1502年に教養学士、1504年には教養学修士となり教養学部を卒業。入学時200名いた学生は17名しか残っていなかったが、ルターは2番の成績だった。赤茶の修士のフードを着けて、修士の指輪をはめ、教養学部の初級講義担当の義務も負うことになった。修士となったお祝いは松明行列が出るほど盛大なもので、ルターは「これほどの喜びはなかった」と語っている。父親も非常に喜び、学のある息子を自慢尊敬し、わが子に敬語で呼びかけたほどだった。そして、いよいよ本格的に専門の勉強が始まる。
専門学部は医学部、法学部、神学部の三つ。当時の大学においては、一番上は神学部。しかし、ルターは父の希望に従って法学部に進んだ。将来、社会に出て、例えば各地の領邦君主たちの宮廷の法律顧問か、自由都市の市長になる道が開ける。前途洋々だった。父はこの時、息子のために日本流にいうならば六法全書に当たる書物を買い与えている(1505年1月)。父親の期待がいかに大きかったか。なにしろ活版印刷術が前の世紀半ばに発明されたと言ってもまだまだ本はきわめて高価な時代だったから。万事がうまく進んでいた。しかし、この半年後の1505年7月、ルターは突如、大学をやめてしまう。一体、ルターに何が起こったのか?これが落雷体験である。
1505年7月2日、一時親元に帰省した後、再びエルフルト大学に戻る途中、ルター一行(1人の学友が同行)はシュトッテルンハイム村の近郊の野原で突然、落雷にあい地面になぎ倒されてしまう。ルターは思わず命乞いをし、そして叫んだ。
「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります!」
中世の人々は、それぞれ自分の守護聖人を持っていて、その聖人を通して神に祈った。父なる神やイエス・キリストは恐ろしい存在だったから、聖母マリアや守護聖人に仲立ちの取次ぎを期待したのだ。聖アンナとは、イエス・キリストの母である聖母マリアの母親だが、鉱夫たちの守護聖人だった。ルターの父ハンスは銅鉱夫から身を起こし、辛苦の末、銅の精錬炉三つを経営する実業家になった人物で、聖アンナはハンスの守護聖人だった。だから、彼の家では最も親しい聖人だったため、ルターの口からとっさにその名前が出てきたのだろう。それにしても、前途有望な青年が「修道士になります」と請願するとは、なんとも唐突で奇妙なことに思われるが、当時にあっては違っていた。それは、命の危険を感じたときの、中世の人々の典型的な反応だった。例えば、友人が突然死んだとか、大けがをして死にそうになったとか、書物を読んで身も震えるばかりに感動したとか、そういうことをきっかけに修道院に入るのも、殊更特別なことではなかった。
この落雷の日から2週間後、ルターは本当に大学をやめてしまい、エルフルトの町にあったアウグスティヌス修道会に入ってしまう。この突然の大学退学と修道院入りに友人たちは驚き、考え直すように言う。何より父親が激怒。力づくでもわが子を奪い返そうとするほどだったが、友人たちの強い説得でやっと思い留まったという。
ところで、シュトッテルンハイム近郊のルターが雷に打たれたとされる場所に、現在ぽつんと石碑が立っている。そこには一言こう刻まれている。「歴史の転回点」。落雷の一撃がルターの生涯だけでなく、西欧社会の在り方をも根本から変えたことをその石碑は今に伝えている。
「修道院に入るルター」
落雷にあい、聖アンナに誓願するルター
ルターが落雷を受けた、シュトッテルンハイムに立つ石碑
ルーカス・クラナッハ「マルティン・ルターの父母の肖像画」
アウグスティヌス修道院の門で友人たちに別れを告げるルター