Okinawa 沖縄 #2 Day 28 (03/07/20) 豊見城市 (13) Nagado Hamlet 長堂集落
長堂集落 (ながどう、ナガドー)
- 長嶺グスク (2019年9月30日に訪問)
- ナガンミヒージャー (長嶺樋川) (2019年9月30日に訪問)
- 農業訓練所跡 (日本軍駐屯所、慰安所)
- 長堂公民館 (東御嶽 アガリウタキ) (2020年6月12日に訪問)
- 根屋 (ニーヤ) (2020年6月12日に訪問)
- 巫女井 (ヌールガー)
- 山垣原 / ビジュル御嶽
- トーヌカー (シニミジカー)
- ニーヒガー
- クシヌカー (ンブガー)
- 避難壕
- 前道 (メーミチ)
- 前道 (メーミチ) グムイ
- 前之井 (メーヌカー)
- トーヌカーグヮー、地頭井 (ジトーガー)
- 地頭火之神 (ジトーヒヌカン)
- アザナガー (ナカシジガー)
- 上前森 (イーメーモー) / 戦車壕
- メントーガー
- 志屋嶺之殿 (サンミヌトゥン) (2020年6月12日に訪問)
この長堂には3回訪れた。1回目は長嶺グスク、2回目は集落散策、3回目は見落した残りの文化財を見るために戻って来た。現在住んでいるところから、近いのでこの後も来るだろう。
長堂集落 (ながどう、ナガドー)
長堂集落の起源については良く分かっていない。北山大按司の御子長堂按司所在仲村渠 (ナカンダカリ) とが先祖という家系図があるらしいのだが、この家系図と言うものは随分と後の時代に作られており信憑性については薄いだろうが、慶留間知徳著の「琉球祖先宝鑑」(1932年) にはいくつかの家系図が載せている、過去の資料や伝承をまとめたものだ。この仲村渠は廃家で今は途絶えているそうだ。下記のように、様々な系譜でこの仲村渠が長堂の人と出ている。どこまで信憑性があるかは疑問だ。豊見城市の他の字についても似たような系図が出ているのだが、琉球神話の天帝子、天孫氏 (天帝子の長男) から繋がっているものもある。天帝子や天孫氏などは、本土で言えば天照大神や神武天皇に当たるような神話の世界のものだ。権威づけのために、ほとんどの門中は、ここまで遡って祖先としている。これは中山、南山、北山の三国共に、英祖の子孫とされており、英祖自体が天孫氏25代の思金松兼王から三代目となっているので、殆どの系図が天帝子や天孫氏に行き着いてしまうのだ。為朝/舜天についても、為朝の琉球での妻、つまり舜天の母が、やはり思金松兼王から三代目の北山系で天孫氏の末裔だ。系譜をみるとしたら三山時代以降、琉球王朝時代以降だろう。
集落の始まりの古島 (フルジマ) は長嶺グスクの西側にあったといわれ、丘陵の斜面で北向きにあった。この古島が長嶺村で、一説では長嶺グスクが滅ぼされた際に、長嶺村の住民は、丘陵の南側に現在の長堂と金良に、更に嘉数、真玉橋、根差部にそれぞれ移動したと考えられている。
長堂は豊見城市の中では小さな字。2019年末時点での人口は1270人で世帯数は546となっている。ここ二年間で急速に人口が増えている。豊見城市が発行してる「豊見城村だより」には沖縄戦当時の集落の人口が記載されていた。それによると、集落の人口は252人で現在の5分の1だ。沖縄戦の直前に、子供と老人の83人は宮崎に疎開して戦禍を免れたが、村に残った169人のうち、半数の86人が戦争で亡くなった。長堂だけではなく他の集落でも半数近くの住民が戦争で亡くなっている。
この長堂集落は比較的豊かな字であったという。一つの判断基準が戦前 (昭和20年ごろ) に、集落内にどれだけ瓦葺きの家が存在していたかがある。ほとんどの民家は茅葺だった時代だ。この集落では15軒も瓦葺きの家が存在した。世帯数が60戸程だったので、25%が瓦葺きだった。これは他の豊見城の集落に比べてかなり高い率だ。裕福だった理由の一つが、この集落からは、ペルー、ブラジル、ハワイ、フィリピンへの移民を輩出しており、現地での成功者からの仕送りや、成功した帰国者で潤っていたそうだ。そのせいか、教育にも熱心な部落だったそうで、上級学校への進学率も高かった。
沖縄戦では、本土宮崎県への学童疎開をこの部落単独で進め、83人の学童疎開を実現した。本土への学童疎開を大規模に実施したのはこの長堂集落だけだった。これは住民の意識、教育を大切にする指導者がこの集落に存在していた事によるのだろう。この疎開実施の状況は各集落でかなりの差が出ている。
2018年に急に人口が増加している。
Nagamine Gusuku Castle Ruins 長嶺グスク (ナガンミグスク)
長嶺グスクは、嘉数と長堂の間に位置し、嘉数集落の東側丘陵の標高98mの丘陵上に形成されたグスク。長嶺按司の居城として南山国の防衛の第一線として備えたとあり、グスクの頂上部付近を「ウフヤックヮ (物見)」、その東側が台城 (デーグスク) と称され、城の台所があったところだと伝えられている。長嶺グスクの成立および活動時期は14~15世紀と推測されている。 そのほか、琉球国由来記 (1713年) によると、グスク内には「長嶺之殿」や「按司墓」などがあるとされている。長嶺按司はその支配下に金良、長堂、嘉数、真玉橋、根差部を置いていたと考えられている。
グスクの入口を入ると細長い広場があり、 左側の岩下に拝所、右側の奥に長嶺按司の墓、そして正面には三角点のある大岩がある。石積み等の地上遺構は無いのだが、伝承ではグスクの石積みは真玉橋の石橋への改修時に持ち去られたとある。この拝所が長嶺之御嶽なのだろうか、表示が無いので分からない。(豊見城村史では長嶺之御嶽は長嶺グスクの南斜面の山垣原にあるとなっていた)
伝承では、仲間グスクとの抗争で城主の長嶺按司が山垣橋で一戦を交え、戦死または敗走したといわれている。(この後、南風原町津嘉山の仲間グスクの訪問記でその内容を記載している。Okinawa 沖縄 #2 Day 1 (10/4/20) 南風原町 (1) Tsukazan Hamlet 津嘉山集落) 南風原町津嘉山で今も続いているアミシの御願は長嶺按司の霊を慰めるため長嶺グスクを遥拝しているそうだ。
案内板にはもう一つの伝承が書かれている。尚金福王 (1450~53年) の時代に長嶺按司陵生が、中国に渡って砂糖製造法を習い受け、琉球に帰国後あまねく周辺に製糖を教え広め、これが砂糖製造の始まりといわれている
ここからさらに丘陵の頂上への道がある。頂上は二つに分かれており、ウフヤックヮ (物見)と台城 (デーグスク) と呼ばれている場所がある。一説には、ここにある拝所が長嶺之殿であるというが、いろいろな説がある。按司墓の近くにあった拝所ではないかとの説、長堂集落川の丘陵斜面の山垣原にあったとか。どれも決め手がない状況なので表示板はない。
ここにある拝所 (写真左) が一説に言われている長嶺之殿。写真右が台城 (デーグスク) と呼ばれた台所か?
ここからの風景
長嶺按司の墓
天孫子二五代英祖二男湧川之主ツナギ 長嶺按司嫡子長嶺カンジヤー久高生と書かれている。上で掲載した系譜のハイライトしている長嶺按司がここに埋葬された。
後日、もう一度、この長嶺グスクを訪れて見たのだが、入口付近の畑の中に、もう一つの長嶺按司の墓があった。沖縄戦当時、この城のある丘陵には多くの日本軍の壕があり兵隊が駐留していた。そのために米軍の攻撃を受け、按司墓も破壊されてしまった。城の地形も爆撃で変わってしまい。どこに按司墓があったのかもわからない状態だった。戦後、按司墓を再建の話が持ち上がったときに、長嶺按司の子孫の枝分かれした門中間で再建場所についての議論が沸騰、意見の一致が見られず、それぞれの門中が按司墓を独自に建てたのだ。それで、もう一つあるらしい。ここで見つけた按司墓は一般的には知られておらず、ひっそりとしている。
チンガー (クガニガー、ニーチュガー)
この井戸は嘉数集落の域内にあるのだが、長嶺グスクの案内板がある近くの畑に井戸跡があった。香炉もあり賽銭も置かれているのでこれがチンガーだ。この井戸はグスク内にあると書かれていたので、長嶺グスクは思っていた以上に大きい。伝承では長嶺按司が仲間按司勢に追われて、この井戸に乗っていた馬につけていた黄金の鞍を井戸に落として自殺した様に見せかけて難を逃れたとある。城内まで追いかけて来たとは思えないのだが....
拝所とナガンミヒージャー (長嶺樋川) 跡
このグスクで出会ったシロオビアゲハとムラサキオカヤドカリ。このムラサキオカヤドカリの紫は今まで見たものよりもかなり鮮明。
豊見城市の観光推進計画の中に、豊見城城址公園とこの長嶺グスク丘陵の開発計画がある。2019年には民間企業にサウンディング募集を行った。民間企業に開発、実行、運営を行ってもらうために開催したもの。豊見城市だけでは資金的にも難しく、実行運営のノウハウも無い。(豊見城市の歳入は70%が国や県からの交付金で、自主財源は30%にとどまる。自主財源だけでは投資などの事業費用は全く出ず、市役所としてのサービス業務さえ維持できない状況)民間に任せるのは賛成だが、方針書などを見ても市が何をやるのかははっきりとはしていない。どうも、場所の提供だけのような気がする。市では具体的な実行計画が立案できる人材がいないのもその理由だろう。これは豊見城市に限ったことではなく、全国の各自治体の共通の問題だ。サウンディングの結果が公表されている。長嶺グスク丘陵の開発サウンディングに参加したのは5社。その内容は殆ど具体的なものはなく、説明会に参加したという程度のものだった。2社がゴルフ場の案を出しているが、これも豊見城市のマスタープランに入っているもので、要するに、豊見城市はここにゴルフ場の建設を許可、用地買収には支援しますよと言った程度だ。豊見城市が明確にしないといけないのは、なぜ開発が必要なのか、開発後、どのような街にしたいのかのイメージだ。豊見城市の開発想定地区は殆ど見てみたが、土地以外に利用できるものはない。スクラッチからの開発と考えた方が良い。とても、今の日本の経済状況ではこのプロジェクトが進むとは思えない。
この日 (2019年9月30日) は、ここから南風原町の津嘉山集落に向かった。
後日 (2020年6月12日) に長堂の別の文化財を訪れた。まず、この日に向かったのが公民館。
集落は長嶺グスクのある丘陵の南斜面にひろがっている。
後日見つけたのだが、豊見城村史に昭和20年当時の集落の地図が掲載されていた。この集落には2020年6月12日にも訪れたのだが、この豊見城村史を見て、7月3日にもう一度訪れる事にした。
農業訓練所跡 (日本軍駐屯所、慰安所)
昭和20年は沖縄戦があった年。長堂は隣の金良と合わせて、旧日本軍が比較的大きなスケールで駐屯していた印象を受けた。金良には高射砲が据え付けられて、兵隊が駐屯し、長堂には士官が駐屯していた。 集落の外れの饒波川沿岸にあった農業訓練所は日本軍の駐屯地に使われ、ここには朝鮮人慰安婦の慰安所があった。現在は南部農林高校となっている。
長堂公民館 (東御嶽 アガリウタキ) (2020年6月12日に訪問)
公民館の前には広い広場がある。ここは村屋 (ムラヤー) だったか? 後で調べてみると。ここはもともとは東御嶽 (アガリウタキ) だった。村屋はこのすぐ北側にあった。どこの集落でも昔からの御嶽で御願しているのだが、現在はそれらしき御嶽は集落内には見当たらない。琉球由来記では、集落の御嶽はかつての長嶺村にあった長嶺之嶽とされ、現在は集落の北側の山垣原にあるそうだ。この御嶽と同じ山垣原にある長嶺巫火神と、集落西にある御岩座原と呼ばれる高台の志屋嶺之殿の三つが集落の祭事で御願されている。
根屋 (ニーヤ)
公民館の広場の隅に拝所がある。村の草分けである根屋 (ニーヤ) の拝所で中にはいくつかの香炉 (と書かれている。ここがかつての東御嶽 (アガリウタキ) を兼ねているのだろうか?公民館の受付の女性に村の御嶽について聞いてみると、集落の人達は良くこの根屋に御願に来ているという。今でも集落内の幾つかの拝所 (多くは井戸の拝所) を巡っているそうだ。
様々な集落を訪れると、この根屋 (ニーヤ) を見かける。これは沖縄の中世の集落の構成を表している。沖縄の「ヲナリ神信仰」と深い関係がある。ヲナリ神信仰とは、 姉妹の霊力が兄弟の安全や事業を守護するという考え方で、ヲナリ (姉妹) に守護される兄弟のことはヱケリと呼び、ヲナリとヱケリは社会的な役割として、女は祭祀、男は政治を担当し、祭政一致が社会の基本的なあり方であった。琉球の村落構造もヲナリとヱケリが基本になっており、村落は、村の草分けである「根屋」を中心に構成されている。その根屋の長男は、村を率いる「根人 (ニーチュ)」と なり、村の政治を担当。そして、その妹は「根神 (ニーガン)」となって村の祭祀を司っていた。根神は、根人のヲナリ神として兄を守ると同時に、村を守る祭事を取り仕切っていた。
巫女井 (ヌールガー)
かつての村屋は東御嶽 (アガリウタキ) のすぐ北側にあったのだが、かつては、その隣に呑殿内という屋号の家があった。今はもう民家は無くなっている。昔はこの家から巫女(ノロ) を出していたそうだ。その家があった場所に巫女井 (ヌールガー) が残っている。ここも拝所となっている。
山垣原 / ビジュル御嶽
長嶺之御嶽と長嶺巫火神があると書かれていた山垣原に行き、その御嶽と拝所を探すことにした。山垣原は長嶺グスクの南斜面で長堂集落の北側にあたる。斜面一面は墓所になっている。
ほとんどは区画整理された墓所なのだが所々に古い磨崖墓や亀甲墓があった。長嶺之御嶽がどこにあるのかはどこにも記載がなかったので、墓の通路を隅から隅まで歩いてみる。古い御嶽や墓は、だいたい大岩や大木がある場所や、墓地の端の森の中にある事が多い。
とうとう墓地の一番上まで来てしまった。ここに御嶽を発見。ビジュル御嶽とある。ビジュルは霊石の事で、これが御嶽の名前であったとは思えない。何時の時代からか集落ではそう呼んでいたのでは無いだろうか? ここが長嶺之御嶽かも知れない。御嶽はコンクリートの祠の中にある。その祠の裏側にの拝所があった。これが長嶺巫火神なのだろうか? 公民館の女性は分からないと言っていた。ここの自治会長さんがかつて社会の先生をしていて歴史に詳しいので、その人に聞いた方が良いとアドバイスをくれた。時期を見て訪ねて行ってみよう。
この山垣原でナガサキアゲハのつがいがひらひらと飛んでいた。集落内では綺麗な花が咲いている。
集落には沖縄伝統の平屋の家屋がいくつかある。
集落内には井戸跡などの文化財が残っているはずなのだが、見つかったのはこのトーヌカーのみ。公民館で尋ねてみようとは思ったのだが、公民館は週三日で午後3時から5時までしか空いておらず、この日は断念。
トーヌカー (シニミジカー)
集落の中央部分にある。この井戸はシニミジカーとも言われている。死に水井という意味で葬式の時使う水を取っていたそうだ。
後日、図書館やインターネットで拝所や井戸跡を調べ、7月3日に再チャレンジをした。
ニーヒガー
集落の北外側の畑の中にあった井戸。大木の根元にあり、香炉 (ウコール) が置かれている。拝所巡りの一つだろう。
クシヌカー (ンブガー)
ニーヒガーの近くにある。大きな井戸。
避難壕
このクシヌカーの集落側に小高い丘があるのだが、この丘には沖縄戦当時に住人の避難壕が掘られていたそうだ。
前道 (メーミチ)
集落の真ん中を走る道はメーミチと呼ばれている。この道の付近にグムイ (池) 跡や井戸跡などがある。
前道 (メーミチ) グムイ
今はグスク (池) は埋め立てられて駐車場になっているのだが、戦前頃までは大きな池があった。昭和の半ば頃までの集落にはグムイと呼ばれる池がある。この池では農業で使用していた馬や農具などを洗っていたそうだ。
前之井 (メーヌカー)
地図上ではここに井戸があるはずなのだが、形式保存の様な井戸跡は見つからず、民家の駐車場にマンホールがある。この下に井戸があったのかも知れない。
トーヌカーグヮー、地頭井 (ジトーガー)
先程、近くにトーヌカーがあったがここはトーヌカー”グヮー“。「グヮー」とは琉球語で「小さい」とか「かわいい」という意味を表す接尾語。トーヌカーの弟分とでもいうのだろうか。ジトーガーとも言われている。この家が地頭だった事からそう呼ばれているそうだ。
地頭火之神 (ジトーヒヌカン)
この井戸がある通りに、小さな拝所があった。民家の敷地内にあるのだが、出入りが出来る様になっているので、集落全体の拝所なのだろう。
アザナガー (ナカシジガー)
集落の東には上前森と呼ばれる丘陵があり、集落とその丘陵の間にある井戸。湧水なのか、水が溢れ出している。
この近くには沖縄戦当時、日本軍の壕が造られていたそうだ。
上前森 (イーメーモー) / 戦車壕
集落の東にある丘陵には、沖縄戦当時、日本軍の戦車壕があったそうだ。だいたいの場所しか分からないが、この辺りだろう。かなりの高台のところにある。
メントーガー
集落の南側の畑の中にある井戸。草が生い茂り、井戸がほとんど見えなくなっている。
集落内にはバナナの木を多く見かけた。集落の外の畑にはいくつものビニールハウスが立っており、マンゴを生産している。
志屋嶺之殿 (サンミヌトゥン) (2020年6月12日に訪問)
集落から長嶺グスクがある丘陵の上に、拝所があった。たまたま見つけた。インターネットで調べたが、全くヒットぜず詳細は不明。殿 (トゥン) の他に、井戸の拝所と霊石 (イビ) のある拝所があった。豊見城市と長堂自治会の連盟で文化財の標識まで出しているので、どこかに情報があると思ったのだが.....
この付近にも日本軍の壕があったという。
ここは長堂集落と金良集落の境目の丘陵で、長良園という介護老人福祉施設がある。長堂の「長」と金良の「良」で「ながら」と名付けたそうで、両方の集落の老人にサービスを行っている。この二つの集落は元は長嶺村から移って来た。今でも交流は続いている。
今回 (2020年6月12日) は、ここからは隣の集落の金良集落 (かねら) へ。
6月27日から那覇市などで、図書館が閲覧が解禁となった。新型肺炎の影響で閉鎖されており、最近までは貸出のみ再開されていたが、図書館内での閲覧はまだ再開されていなかった。図書館には多くの郷土史に関する資料があるので、これを楽しみに沖縄に来たのだが、住民票は那覇に移していないので借りることができず、閲覧の再開を待っていた。やっと図書館での調べ物ができる事になった。今は豊見城市内にある史跡、文化財を調べているので、まずは豊見城村史に目を通し始めた。かなり詳しく書かれているので面白い。その中に各集落の昭和20年当時の集落の地図がある。ほとんどの集落は村の区画はほとんど変わっていないので、この地図で十分探索できる。この地図と解説を頼りに、7月3日に再訪してもう一度集落を探索する事にしたわけだ。この日も、この集落を見終わった後、一旦アパートに帰り、夕食を準備して図書館に行き、色々と調べ物をする。図書館は8時まで開いているので助かる。
質問事項
- ここ2年間で急速に人口が増えている理由は?
- 東御嶽 (アガリウタキ) はどこに移動? 根屋 (ニーヤ) へ?
- 祖先は長堂按司所在仲村渠 (ナカンダカリ) と言われているが、この人が国元になっているのか? 根屋はこの門中が祭事を行なっていたのか? 長堂按司とあるが、この地域は長嶺グスクの支配下であったので、按司は長嶺按司で長堂には按司は存在しなかったのでは? 長嶺按司は長堂には住居があったとも考えられるので、長堂按司は同一人物?
- 山垣原のビジュル御嶽は長嶺之嶽と長嶺ノロ火神なのか?
- 長堂は長嶺按司の傘下で指導的な役割だったのか?
- 長嶺按司と仲間按司との戦いはいつ頃と思われるか?
- 長嶺按司が滅ぼされた時に長嶺村から長堂に移って来たという説があるが、その後も琉球王朝 (第二尚志時代) にも長嶺按司は存在した様だが、滅ぼされた後、誰かが派遣されて長嶺グスクに入ったのか?
- 集落の年間行事での拝所巡りのルートは?
参考文献
[豊見城村史 1964年(昭和39)発刊・1993年(平成4年)復刻]
第9章 部落 第22節 字長堂
位置
長堂は東は国場川をへだてて南風原村に接し、南に金良、西に饒波、北は嘉数に接している。
古島
長堂部落は昔は長嶺城に近い所にあったといわれているが、移動の時代も不明であり、場所も確実でない。ただ古島は東向きで北風も当る傾斜地にあったため、現在地に移ったのだろう。現在の部落は東西に長い森を背にして南面していて、旧家の屋敷の配列は後東より西に野ン殿内、次に仲村渠屋敷、次は新屋小と並んでいて、野ン殿内の前方が又吉古屋敷になっている。
諸拜所
御嶽 由来記中に長嶺の嶽がある。これは昔長嶺村にあって長嶺城の御獄でもあったもので、現在長堂山垣原にある。
長嶺巫 (ノロ)火神、長嶺城之殿も山垣原にあり、志屋嶺の殿は長堂西方の高い所にあり (御岩座原) 現在は道路が横断して通っている。右御嶽、火神、殿も稲二祭の時拝むのである。
長嶺村(むら)が長嶺城の附近にあったことは部落の変遷の項で述べたが、長嶺村から長堂、金良等にも分散移動したのではないかと考えられる。
拝所としての井泉は次の如きものである。
- 前の井 西外間小 旧一月、五月、六月拝む。
- 仲毛井 仲毛原にあり、 旧一月、五月、六月拝む。
- 仲筋井 中筋 旧一月、五月、六月拝む。
- 赤嶺井 赤城旧屋敷 (七番地内) 旧一月、五月、六月拝む。
- 後の井 山垣原
他に琉球国旧記の井泉の項に長嶺井として樋川で長堂の長嶺城の下にあると記されているが、城の東、台城の下の樋川をさしている。
世立ち、地組、祖先
千草之巻に次の如く記されている。
長堂村世立初「北山大按司の御子長堂按司在所仲村渠という」右仲村渠について祖先宝鑑から系統図をつくってみると (北山系統図参照)
右、豊見城按司は「在所は豊見城長堂村仲村渠と云う家なり」としてある。千草之巻では北山大按司の子長堂按司になっているが、祖先宝鑑には豊見城按司になっていて、在所は同じく仲村渠としてある。
仲村渠に関する他の系統図を示す (百名世主系統図参照)
右、仲村渠の大君「居所は玉城仲村渠ミントンという家なり、豚を食べ始めた人という」とある。豊見城大君については「豊見城長堂村仲村渠という家なり、長男は同真玉橋に行く、四男高安に行く、五男は同金良村に行く、六男は同平良村に行く」となっている。
また祖先宝鑑に (為朝公系統図参照)
右義本王の子仲村渠王子は「在所は豊見城長堂村仲村渠と云う家にあり、其長男は同嘉数村の大殿内と云う家なり、二男は同真玉橋村の大屋と云う家にあり、三男は同柄良村の下田と云う家なり」となっている。
右西平按司については「母は豊見城嘉数村大屋の子女なり、此の按司は長嶺按司の七代の世子となる。居所は同長堂村の仲村渠と云う家なり」としてある。
また同じく祖先宝鑑に (南山王統図参照)
右の六男長嶺按司については「此の人は豊見城長堂村仲村渠にあり、死骨は城の下獄の端岩下に埋葬さる。子は四男三女あり云々」となっている。以上のように仲村渠は非常に入交混が多いのである。
千草之巻に長堂村地組始「今帰仁按司の孫弁茂武 (並茂武?) 里主在所又吉と云う」としてある。
祖先宝鑑により又吉の系統図を示すと (北山系統図参照)
(在所東大里西原ノン殿内)
右の今帰仁按司については「在所は東大里西原奴留殿内なり」となっていて、その長男大里世主については「在所は大里村南風原屋 と云う家なり。その六男並茂武里主此の人は豊見城村長堂に住す」となっている。
また同じく祖先宝鑑に
右の豊見城按司は在所長堂仲村渠であり、その長男、長嶺按司の三男長嶺里主父を相続せしも分家して死去。其後、裔九代目は東大里汪応祖が三男並茂武按司を相続す。在所は同長堂村の又吉と云う家なり」とある。
現在仲村渠は廃家になっていて、その分家には松下があり、新地があるが、松下も現在廃家になり、その子孫は大里村目取間にいるという。屋号に又吉の入った東又吉小があるが、この家から又吉は女系統であって男系は旧小禄間切儀間真常 (麻氏) の子孫だとのことである。
祖先宝鑑中に「豊見城邑長堂神元ヌル本新垣、安座名、仲村渠としてあるが、新垣、座安名については不明である。現在も新垣はあるがこの家は字高安から来た新垣門中であるが、前記の新垣とは関連なく、近年長堂に移転したものらしい。
祝女
祝女は新屋小であって、金良、長堂の祭祀を司っているのである。ヌルは屋号呑ン殿内が元ヌルだったというが、呑ン殿内の女子のヌルが屋号新屋小に嫁に行った際、そのままヌルの玉がハラ等も持参して行ってとうとうヌルは新屋小に移ったとのことである。旧六月十五日綱引があるが、そのときには東は仲村渠に、西は新屋小に勢揃いして、御願 (うぐわん) をしてから繰り出すとのことである。