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源法律研修所

若鷲の歌 <追記あり>

2020.07.04 22:00

 早いもので、今日は、亡父の14回目の命日だ。肝臓癌で亡くなった。医師によると、昔は、注射針を使い回ししていたから、若い頃に受けた集団予防接種によって肝炎ウイルスに感染し、ずっと発症せずに潜伏していたのが突然発症し、急性肝硬変を経て肝臓癌になり、他の臓器へ転移したのだろうということだった。

 自宅で倒れて、救急車で病院に運んだ時にはすでに手遅れで、余命1か月と宣告された。手の施しようがないと言われた。医師から、本人に告知すべきかどうかを訊ねられたが、母も私も異口同音に告知に反対した。父の性格からして、生恥を晒すよりも自ら命を断つ道を選ぶことが分かっていたからだ。そこで、家族や妹夫婦はもちろん、医師や看護師も、口裏を合わせて、父を騙すことになった。


 どこのご家庭でもそうだと思うが、父と息子は、大なり小なり反りが合わないものだ。我が家も例外ではなく、反りがあまり合わなかった。私は、霊長類学を勉強して人間社会を研究したくて農学部へ進学しようと勉強していた。模擬試験では余裕で合格圏内にいた。しかし、父が法学部以外は認めないと大反対した。 

 住み込みの新聞配達で奨学金を貰い、アルバイトをすれば、なんとか学費は工面できそうだが、アフリカの渡航費・滞在費は無理だ。そこで、霊長類学を諦め、親の世話になるものかと、学費がタダで給与まで貰える防大を受験すると言ったら、戦前生まれの母に泣かれて、断念した。

 自暴自棄になり、法学部へ進んだ。命があり、喜怒哀楽の感情や知能がある動物を法律学が「物」として扱っていることを知った時には、とんでもない学部に入ってしまったものだと後悔した。こんな私がまさか法律を教える立場に立つとは夢にも思わなかった。


 話を戻そう。完全看護の個室だったから、父のことは病院に任せればよいのだが、私は、仕事のある日もない日も、毎日欠かさず見舞いに行き、身の回りの世話をした。そのため、毎日、嘘をつくことになった。医師は余命1か月と言っていたのに、奇跡的に半年も生きたため、一生分の嘘をついたと思う。もし閻魔大王がいるとしたら、私は間違いなしに舌を抜かれるだろう。

 腹水が溜まり、大きな腹になっていた。腹水を抜いても抜いても、直ぐに大きな腹になった。あちこちに癌が転移していたのに、一度も痛いと言わなかった。激痛でのたうち回ってもおかしくないのに、医師も看護師もなぜ痛がらないのか、なぜ痛いと言わないのか不思議がっていた。あれほど父の性格を説明したのに、やはり医師も看護師も「武士」が如何なるものかを知らぬのだろう。


 深夜、病院から電話があり、覚悟するようにとのことだった。もとより覚悟はできていた。病室へ駆けつけたら、意識不明の父が一方の手で喉を押さえ、もう一方の手を天井に向けるような仕草をして、苦しがっていた。苦しんでいるので、なんとかしてくれるよう何度も頭を下げて頼んだが、若い宿直医は、オロオロするばかりで全く頼りにならなかった。亡くなった後で分かったことだが、喉に血の塊が詰まっていたため、苦しんでいたそうだ。これさえなければ、安らかに死なせてやれたものを。

 私は、公務員試験予備校の講義があるため、明け方まで付き添って、後を母と伯母に託し、朝から出講した。父に意識があれば、「私事よりも仕事を優先しろ!」と言ったはずだからだ。講義終了後に電話をしたら、講義中に亡くなっていて、死に目に会えなかった。葬儀も、講義と受験相談のため、途中退席せざるを得なかった。


 生前、父がひとり酒を飲みながら、ごく稀にだが、思い出すかのように口ずさんでいた歌が『若鷲(わかわし)の歌』だ。別名「予科練の歌」とも言われる。

 土浦海軍航空隊の海軍飛行予科練習生(略して、「予科練」と言う。海軍のパイロット養成学校の少年飛行兵のことだ。)の生活を描いた昭和18年(1943年)9月16日公開の映画『決戦の大空へ』の劇中歌だ。軍歌ではない。

 Wikipediaによれば、「1944年(昭和19年)8月時点でのレコードの販売枚数は23万3000枚」の大ヒットだったそうだ。連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将がブーゲンビル島上空で戦死したのが昭和18年4月18日。敗戦色が濃厚になった戦中にこれだけレコードが売れたことに驚く。


 予科練は、十四歳半から受験できた。もう少し戦争が長引けば、父も予科練に行っていた。間違いなしに合格していただろう。運動神経が良いだけでなく、小学校1年生から戦後に制度改正された新制高校を卒業するまで、毎年、品行方正学術優等として表彰されていたからだ。突然、戦争が終わり、予科練に行けなかったことを本当に悔しがっていた。

 父は、普段、戦争中のことを口にすることがなかったし、私も一度だけ聞いた話にすぎないのだが、父の先輩たちも予科練に合格し、皆戦地に散ったそうだ。先輩たちと靖国で会おうと約束したのに、自分だけ生き残ってしまったことを父は恥じていた。

 また、友人と二人で田圃の畦道(あぜみち)を歩いていたら、米軍のグラマン戦闘機の機銃掃射を受けて、友人が即死したそうだ。低空飛行で攻撃してきたため、パイロットの顔が見えたそうだから、パイロットも非戦闘員である民間人の少年たちであることを認識しただろうに、わざと殺したのだ。この友人の仇を打てなかったことも後悔していた。


 今日、幸運にもyoutubeに映画『決戦の大空へ』がアップされていることを知った。早速、見た。幼き亡父がかつて見た映画を見られて、良い供養になった気がする。


 この映画は、海軍省が全面協力して、軍人はもちろん、飛行機や学校も全て本物を使った宣伝映画であり、実際、その宣伝効果は大きく、この映画を見た全国の少年たちが予科練を志願したらしい。父によると、予科練は、少年たちの憧れの的だったそうだ。とにかく七つボタンの制服が格好良かったらしい。ちなみに海軍は、陸軍と異なり、志願制だった。

 確かに、脚本もあり、演出もある宣伝映画なのだが、この映画には現代の日本人が失いつつある大切なあるものが意図せずして数多く描かれていることを見逃してならないだろう。

 1時間半ほどの短い白黒映画で、「永遠の処女」と呼ばれた原節子も、「かっちゃん」のお姉さん役として出演している。今の女性とは話し方や言葉使いが全く異なる。予科練の母親代わりをする「倶楽部」、工場の託児所、戦争中の街の様子や庶民の暮らしぶりも興味深い。

 主人公たちが予科練を卒業した日が奇しくも昭和18年8月15日だった。その2年後、我が国は、ポツダム宣言の受諾を表明する。15年間に約24万人が予科練に入隊し、うち約1万9千人が戦死。特攻隊として出撃した人が多かった。


 お若い方はご興味がないだろうが、GHQの占領政策として、「War Guilt Information Program(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」という戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画が立案され、日本が行ったことは全て悪だった、間違いだった、嘘だったと日本人を洗脳する様々な工作が行われた。

 例えば、「真相はかうだ」、「真相箱」、「質問箱」と名称を変えながら、「太平洋戦争の真相を日本国民に伝える」ラジオ番組がお茶の間に流されたり、検閲などの厳しい言論統制が行われた。事後法に基づいて行われた東京裁判では、被告人に有利な証拠の多くが裁判長によって却下された。

 ご興味がおありの方は、例えば、江藤淳著『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(文春文庫)、櫻井よしこ著『GHQ作成の情報操作書 「真相箱」の呪縛を解く』(小学館文庫)、小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明 「却下未提出弁護側資料」抜粋』(講談社学術文庫)をご覧頂きたい。

 このWar Guilt Information Programの影響は、凄まじく、今なお多くの日本人を呪縛し続けている。


 おそらくこのブログをご覧頂いている皆さんの多くも呪縛されているのではないかと思う。しかし、戦前・戦中の全てを悪とみなす色眼鏡で見ずに、昔の学園ドラマだと思って見れば、現代の日本人が失いつつある大切なあるものに気が付くと思う。

 たった1時間半の映画だ。難しいことを考えずに、戦中にタイムトラベルするのも一興だ。無料でタイムトラベルできるなんて、素晴らしいではないか。削除される前に、ぜひご覧いただきたい。

 ブログに埋め込みできない設定になっているので、URLを貼っておく。

https://www.youtube.com/watch?v=juKoA2SZNpc


<追記>

 父が亡くなった際には、医師に死亡診断書を書いて貰って、葬儀屋さんが死亡届及び火葬許可書の手続を代行して下さったが、それ以外の手続は、母が行なった。私は、当時、公務員試験予備校の講義・受験相談、大学の学内講座、自治体職員研修、ボランティアで行なっていたエントリーシート・面接カードの添削に追われていたため、平日に身動きできなかったからだ。電気・ガス・水道・電話・NHK・インターネット等の名義変更は、私が行なった。

 老母は、市役所に行って、あれが足りない、これが足りないと言われて、各課をたらい回しされた上に、何度も住所・氏名等を書かされたので、一度で済むようにしたら良いのにと憤慨していた。母に申し訳ない気持ちになった。

 手続に必要な書類、本人確認に必要なものなどが全て異なるから、致し方ないと思いつつも、届出書や申請書は一枚にできるし、窓口を一本化することぐらいできるだろうにと思った。中核市ぐらいになると、毎月市民が数百人単位で死亡する以上、各課の職員さんも同じことを何度も何度も市民に言わなければならないのは面倒だろうから、窓口が一本化すれば、職員さんも楽になるはずだ。

 今は、市区町村のHPにも、「おくやみ」関係のサイトを設けて、それぞれの手続の担当課と手続に必要なものの一覧表をアップするようになっている(分かり易さや親切さには、自治体により大きな違いがある。)ので、かなり便利になったとは思う。これだけでもかなり前進であって、業務改善して下さった職員さんに感謝申し上げたい。

 しかし、一市民としては、さらにもう一歩前進して欲しいと思う。去年の記事だが、大分県の別府市が窓口を一本化している。お金もほとんどかからないから、是非他の自治体も見習って頂きたいと思う。


 公益財団法人 東京市町村自治調査会

<2019年度かゆいところに手が届く!多摩・島しょ自治体お役立ち情報>

課題を業務改善につなげよう!~別府市「おくやみコーナー」・つくば市「RPA」の事例から~

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