加古川改修記念碑にみる加古川…その豊かな恵みと氾濫、改修の歴史
1.河川・流域のあらまし
加古川は、その源流を兵庫県朝来郡山東町と丹波市青垣町の境界にある粟鹿山(標高962メートル)に発し、丹波市山南町において篠山川を合わせ、西脇市においては杉原川と野間川を、小野市において東条川、万願寺川を合わせ、さらに三木市において美囊川を合わせながら播州平野を南下し、加古川市尾上町、高砂市高砂町向島町で瀬戸内海播磨灘へと注ぐ流路96km、流域面積1,730k㎡の一級河川である。
2.流域の地図と規模: 別添資料-1 参照
3.加古川の歴史(あらまし)
加古川の豊かな水は、その流域に暮す人々に大きな恩恵と潤いを与えたが、他方、記録に残っているだけでも100回以上の氾濫・洪水を引き起こしており長きに亘り流域住民に筆舌に尽くせぬ辛苦を与え続けた歴史でもある。
以下に、その史実の一端をご紹介する。
4.加古川改修工事完成時(昭和8年)の様子
(1)竣工式は11月19日午前9時より加古川町大橋南の川原で挙行された。
(2)官民合わせて1,000人が参加。町内は美しく飾りつけられ、旗行列やちょうちん行列で大賑わいとなった。
(注)以上の記述は、国交省近畿地方備局 姫路河川国道事務所 による資料より引用。
(3)改修を記念して、以降、川祭りがおこなわれることとなった。
※参考
改修に要した費用と人員数
① 改修費用…当時の金額で、約6百万円(現在の貨幣価値では、約600億円)
~スカイツリー建設費(400億円)の1.5倍~
② 工事に携わった延べ人員数…120万人(死者は321人を数えた。)
5.加古川改修祈念碑について
(1)記念碑とその位置
(2)建立時期
1934年(昭和9年)11月の川祭りの初日に記念碑除幕式が行われた。
(3)碑 文… 別添資料-2 参照(原文:岡田本町地区町内会連合会長様 ご提供)
(4)碑文の現代語訳(およそ以下の通りと考えます。)
大体、世の中の利と害の重さは、「水」をおいて他になし。平時においては、灌漑用水や、水運により人々の生活を助け、計り知れない潤いをもたらしてくれる。しかし、他方、長雨による大雨は、治水の策無きことにより氾濫・決壊という絶大な害もたらす。そもそも加古川は、その源を丹波の国三国岳に発し、多紀・氷上・多可・加東の四郡を経て、加古印南の間に至る。その末は、二つに分かれ、一つは高砂港に入り、他の一方は伊保港に注ぐ。その長さは三十里あまり、流域は極めて広大であるが、長き歳月にあって、川の流れは奔放にして、わがままなほどに瀬、渕の位置を変えている。かつ、山沿いの流域にあっては、木材乱伐により、山崩れを誘発せしめ、特に、川の中腹から河口にかけては、年を追うごとに土砂の堆積量が増し、川底が浅くなり、長雨による大雨のたびに氾濫することとなった。流域の住民は、重なる決壊・氾濫に、しばらくの間も安堵して生活が出来なくなり、合議の結果、大規模な河川改修を陳情するに至った。その切実なる陳情は、(別府・多木久米次郎氏の功績により)大正七年において、やっと念願が叶う事となり、工期十三年を費やし、昭和八年に至り完成をみることとなった。工事費は、五百八十二万円余り、また工夫延べ百二十一万人以上を投入して、川底の浚渫、水路拡張、堤防の修復ならびに橋梁架設を以って水門護岸など、その設計は極めて精緻であった。故人いわく“利益を求めることよりも、害をなくすことの方が肝要“ の教えにより、害を除いて、利を求むることにより、後人は長きにわたって、その恩恵に浴することとなった。願わくば、末長く本川が清流にして水量が豊かであることを…。さすれば、その用途もまた広い。今後、灌漑や水運その他、数多の潤いをもたらすことは計り知れない。改修の偉行、後人は決して忘れてはならない。よって、そのあらすじを石碑に刻み、後世に告ぐ。
昭和八年十一月十九日 兵庫県知事 白根竹助 撰
尾山樋口俊次 書
6.そ の 他
(1)記念碑建立地面が、改修前の堤防最上部である。(現在より3~4m低い。)
(2)記念碑の前方(東側約10m)の電柱横に、右のような石碑が
残っているが、これは、春日神社の玉垣の一部と思われる。土地の
境界を目的として一部が移設されたのかも…。(三浦顧問 談)
7.水害写真の例示: 別添資料-3
国交省近畿地方整備局 姫路河川国道事務所 による資料より引用。