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中村鏡とクック25cm望遠鏡

射場天体観測所(6)

2020.07.04 12:18

望遠景色写真・天体写真・まとめ

 射場天体観測所から撮影した、1933年(昭和8)頃の望遠景色写真です。写っているのは、17町(約1.85Km)先の沖合。撮影機材は不明です。

 射場天体観測所から写した12町(約1.3Km)先の観音堂です。

 射場天体観測からの距離を考えると、観音堂は神戸市須磨区にある、大本山須磨寺の本堂だと思われます。建物の形状が似ています。

 1933年頃に撮影された、太陽黒点拡大写真です。

 射場天体観測所客員研究員の井本進氏が撮影した、部分日食の写真です。[1936年(昭和11)6月19日]

 射場天体観測所で撮影された、北極星野写真(反転)です。

 射場天体観測所、並びに射場保昭氏のその後をご紹介して、この連載を終えたいと思います。

 1935年(昭和10)頃から、日本は徐々に軍事色が濃くなりました。英米に知人が多かった射場氏にとって、郵便検閲制度の強化は痛手でした。また、本業の肥料商も原料の輸入が先細りになり、経営が厳しさを増しました。

 戦火の拡大により、射場天体観測所の貴重な資料は、京都市内に疎開されました。しかし、疎開先で盗難に合い、貴重な専門書などが失われてしまったそうです。

 空襲で東京深川の鈴鹿商店が壊滅的な被害を受けたことにより、戦後、鈴鹿商店は清算会社となってしまいま す。家屋敷も処分され、射場天体観測所の幕が下されました。射場氏は、持病の糖尿病の悪化により、1957年(昭和32)4月24日に63歳で亡くなります。射場氏は生前、所有していた観測機材の多くを、東京天文台に寄贈していました。

 1945年(昭和20)5月の空襲により、大切な機材や資料を失った東京天文台(現:国立天文台)にとって、射場氏が寄贈した機材や資料が、どれほど役に立ったかは計り知れません。東京天文台(現:国立天文台)の発展に、射場氏が大きく貢献したことは、決して忘れられてはならないと思います。

(参考文献)

竹本修三「屈折・反射望遠鏡に関するエインスリー対ウォーターズの論争に加わった射場保昭 (PDF) 」 

(写真は伊達英太郎氏天文写真帖より)