【東京都】銀座(中央区)
銀座四丁目交差点(銀座通り) 202007
東京はおろか日本を代表する商業地「銀座」は、慶長17年に徳川家康が天下普請により日比谷入江を埋め立て街割りを実施し、駿府から銀座鋳造の役所「銀座」を移転させたことから始まる。
江戸時代から町人地として発展するが、明治維新後に二度の大火に見舞われたことで、大規模な区画整理と共に銀座煉瓦街の整備が行われ、それまで木造が多かった建物の不燃化が進行する。
関東大震災や東京大空襲で大規模な被害を被ったことで、現在の銀座の町並みの大半は戦後復興によるもので、多くの建物が当時の建築基準法に基づく”百尺基準(約31メートル)”で高さが揃えられている。
関東大震災後に竣工された洋風建築は、銀座四丁目交差点の和光の他に、交詢社通り周辺に何軒か残集まっているほかは広範囲に点在している。
一方、明治以降に柳橋とともに「新柳二橋」と称された花街”新橋”が隆盛を極め、現在も東京六花街の一角として現役で、歌舞伎座や新橋演舞場付近には大型料亭が数軒残っている。
【東京都】銀座「和光」(中央区)202007
銀座を代表する風景として必ず登場するのが銀座四丁目交差点で、周辺は日本最高地価を出す場所として知られる。
東海道にあたる「銀座通り」と戦前に開通された「晴海通り」と2つの大通りが交差し、四つ角は隅丸にして歩行しやすいように整備されている。
その角地に建つのが、昭和7年築の旧「服部時計店」こと「和光」(設計・渡辺仁)で、屋上の時計塔、ネオ・ルネッサンス様式の装飾とともに、丸み掛かったコーナーのショーウィンドウは銀座を象徴として目印ともなっている。
銀座通りに沿って「木村屋」「御木本真珠」「山野楽器」「教文堂」といった明治以降の老舗が並ぶ。
【東京都】銀座「交詢社ビル」(中央区)202007
交詢社は、明治13年に福沢諭吉が発起人として結成された実業家社交クラブで、その本拠地が交詢社ビルディングである。
煉瓦造りの建物だったが関東大震災で倒壊し、昭和4年に再建されたアールデコ調の洋風建築だった。
平成16年に10階建てビルに建て替えた際に玄関部分がファサード保存されている。
明治期には100近くの新聞社が集まり、交詢社は政財界の論評と演説の場として新聞の言論を支えた場でもあった。
【東京都】銀座「電通銀座ビル」(中央区)202007
電通は明治34年に新聞社の広告を扱う設立した「日本広告」が前身で、関東大震災後の昭和9年に本社ビルとして「電通銀座ビル」が竣工された。
エントランス上部には星形の社章、左右に男女のレリーフが象られているが、左の男性は「広目天」、右の女性は「吉祥天」を表している。
1階のエレベーターホールはモザイクタイル張りで、アールデコ調の装飾が見られる 撮影201703
【東京都】銀座「泰明小学校」(中央区)202007
関東大震災を教訓に、建物の耐震化と不燃化対策の一環として被災した小学校のほとんどが鉄筋コンクリート造りで再建した「復興小学校」が東京市中で誕生した。
その代表が大正14年竣工の泰明小学校で、フランス門からは、アーチ窓が連続して並び、壁が蔦で覆われた校舎を望むことができる。
明治11年創立の学校の卒業生には、島崎藤村や北村透谷など錚々たる名前が挙げられる。
当時流行のアールデコが取り入れられた校舎 202007