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man maru

七夕

2020.07.07 10:12

1年前の七夕の頃、父が亡くなって3年目。母がまた足を痛めた。6月のある夜、蛍を見に東京の奥多摩まで遠出をした際に、丘から急な段差を降りようとして、無理に膝を痛めてしまったらしい。帰りの道中歩きながらに始まり、3、4日ほど連日施術をするが、痛みは引いていくどころかむしろ強まる。痛みの峠を越えないとは、相当に痛めている。靭帯の損傷か…

なんとか痛みを取りたい、と内心若干焦りが生まれる。


母は身体の痛みが引き金になったか、痛みがひどかった際に何重にも紐づけられていた父への思慕の念が引き起こされたらしい、こころも一挙に弱っていくのが目に見えて感じられた。

七夕が近いので、孫たちのために笹を買い、折り紙を切って短冊を作り、願い事を書こうかと提案する。「それはいい、やぁ、嬉しいわぁ」 まるで母自身が小さな少女のような声をあげた。70にも近いおばあさんは、保育園に通う3才の孫、こはるに負けない可愛らしさで、その作業にときめいていた。少し元気になって良かった、とほっとした。


結局用意した短冊には、孫たちよりも、70の母が誰よりも多くの願い事を書いた。10数枚のそのほとんどが、自分のことではなく、家族のことについてだった。3人の娘たちのこと、その夫たち、6人の孫たちのこと、一人ひとりに対して。自分を省みず、常に周囲の人に想いと愛情をかける、掛け値無しに。母という人。


近所の花屋で買ってきた小さな笹に、母がいそいそとその短冊をかけて飾った後、ちらと短冊の1つに目が止まり、一挙に眼の奥が熱くなり朝から号泣する。慌てて母に涙を見られないようにベランダに出る。


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生涯で一度だけ、自分でも気に入った歌を作ったことがあります。


大音響

あんまり音が大きいので

我々の耳には聞こえない

だけど、ほら

またひとつ

花びらが

落ちた


「あの人はもう亡くなったんだから、現実に向き合って、自分自身の人生を生きていきましょう」

「悲しみの感情をワークすることで癒して、自分の経験を完了させましょう」


亡くなった人は世界に大音響を放っています。我々の方が「亡くなって」いるのでその音が聞こえなくなっているのです。


「悲しみの感情」は「ワークすることで癒」すのではなく、自分が亡くなる瞬間まで引き受けて生きるもの。


「花びらが落ちた」「悲しみ」は、落ちた花びらの代わりに咲いた本物の華。


自分の経験など未完了でまったくかまわない。

この世のすべては未完了なのだから。


(橋本久仁彦さんの言葉より)

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明 さん

    明は、日の光、月の光


    明の魂を呼び、召喚し、



逢いたい、逢いたい、逢いたい‥‥

 

    愛、逢い(あい)、たい

    という愛(かな)しみ


     愛しとは、かなし

     かなし   こころが動き、我慢することができない、しみじみといとおしい気持ち

 

叶わ ない 

    その切なる願いは 叶わ 「ない」


けれど


ふと 辛くなる

ときに


無傷

  「無性に」を、無意識にか、無傷に と書いたのは、誤りではない、恐らく。

    そこに深い深い傷があり

     言うもえわれず


声が  

 声 (越え) 越えてゆく、彼の岸から、此の岸へと越えてゆく運び


聴き  たい  な。


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この1年で、何度も母のこの短冊を読み返した。

ここに母の全存在が、全人生が、立ち現れていると思う。

20才で両親を亡くした母にとって、父は、

間違いなく“明”(光)だった。

その“明”を失って、喪って、

これほどにもなく、母の存在は、“明さん”で埋め尽くされ、

“明さん”で溢れかえり、

明の身を、目には見えない姿を、耳には聴こえない声を、

乞う(恋う)、

そうするともはや、母  由紀子は、即  父  明  となる‥‥



母のこころの中に、いつも、はっきりと「父がいる」。



母は、母に贈られたどんな贈り物やお土産も、

父へと贈られたお供えものも、全て父に捧げる。


そして、父に報告している。

お父さん、こんないいもの、いただいたよ‥‥



沈黙する額縁の写真の中で、母は父の声を聴いている、

のだろうと、思う。



ひとは、から(空)だ、だという。

だから、私たち、何かに依るのだと。

何かにうつってゆくのだと。


ものに、こころは宿る。

贈られる花々に、いただきものに、

お歳暮に、

仏壇を取り囲むいつも何かしらのものたちが

全て、父である。


どれほど、母が、父を思い、

今も、父を語り、父の面影を、見ているか、

そこに、父の存在が、はっきりとある。

母が思うから、父は いる。



母の奥底には、いつもゆらぎながら、父が「い」て、

時折、そのゆらぎが、焚き火のように大きくなったり小さくなったりする。

恐らく、その「父が『いる』」ことは、亡くなるまで変わらない、自らの一部なのだろうと思う。


この人生で与えられた自分の運命に、最後の一息まで向き合おうとする。

母は、父のいない悲しみを、最後の一息まで共に引き受ける。



この、逢い(愛)たい 

という愛しみ(かなしみ)を、誰が奪うことができるだろうか。




短冊の母の願いを見て、その日の夜だったか、施術をしながら、「良くなって欲しい」という私の願いを、手放した。その瞬間に、すっと痛みは引いていった。

後から分かったが、靭帯損傷ではなく骨折だったので、相当な痛みだった。

病院から「全治3ヶ月、安静に」と言われたが、痛みなく歩けるようになった母は、また少し軽やかに、穏やかに、元のような日常に帰っていった。

「これで、来月のコーラスの発表会も参加できそう」と、また顔が輝き、嬉しそうに。


木漏れ日のように、ちらちらと「いない」「いる」の間を、揺らぐこころの炎。




今年は梅雨空が続いて気が晴れない、とライン電話で話す母に、

「また、七夕の笹買ってきたら」と言うと、

「そうや、そうや」と声を弾ませて、早速いそいそと買いに行った。


今年は、どんな願い事を書いたか。


何にせよ、願いは聞き届けられる。



母が、いのちの境を越え、彼岸に到達した暁には、

存分に父と逢い、父の声を聴くだろう。

この年の七夕の願いが叶えられる、いつの日かの母の葬儀の際には、

あっぱれ、と全力で言祝ぎたいと思う。



愛し(かなし)は、この此岸と彼岸を越える。

今、此の岸にいようとも、思いは彼の岸へと越えること、

此岸も彼岸もここにあることをありありと示してくれる、

この母と父の元に生まれたことに、

ただただ驚く。




そして私は、バリに来て半年強、日本語と日本の文化を離れ、外国で、言語的には本質に近しいと見受けられるものが選択し、抽出され得たとしても、細部に宿るあわいは削ぎ落とされた別物の、簡易的、説明的、表層的、短絡的に、物事と言葉をとらえがちな環境におり、


だからこそ、よほど、繊細に微妙なタッチで自分のこころに触れ続けたい、と、時折、母語のやまとことばで紡ぎ出される、「聞く」の師、姉の言の葉に、インターネットを通じて、触れる。そして、ゆっくりと、辿る。この、圧が高い言の葉に触れられることに、こころの深い場所からの安堵と、わたしには理解し得ないけれども大切なものがある、と、胸の内奥からの震え。



ともすれば、「ヒーリング」というカタカナを使い、「治癒される」と、さも分かった風に知ったかぶりをした、我が身ではないかと、背筋が微かに凍り、正される。


今を生きることのかけがえのなさを、

出逢う人、景色を何層にも深く深く観る智慧を、思い起こさせ、示してくれる日本という国に生まれたことに、

何とも言えない誇らしさと、歓びがある。

これもまた今世の自分の運命だったと、思う。命、運ばれてゆく。


まったく、私自身はどこまでも至らない存在ではあるけども、出逢った人が、私の誇りである。

どこにいようとも、私の中に、父が、母が、師が、姉が、無数の人たちが、

彼らのことばが、面影が、

息づいて(生きて)いる。



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「存在する」とは、「生きる」とは、「一人になる」ということが不可能であるということである、と示します。

なぜなら、「我々」が即「人間関係」であるからです。

なぜなら、「私」が即「他者」であるからです。


(橋本久仁彦さんの言葉より)

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