特攻中継基地『加古川飛行場』と兵士たちの安らぎの場となった旧中村旅館の物語
『さぞ淋しかったでせう。今こそ大聲で呼ばせていただきます。お母さん、お母さん、お母さん…と。』(特攻隊員の遺書より)
第5次航空総攻撃は、初めて加古川で編成された。
この目的は敵艦船を徹底的に攻撃して沖縄上陸米軍の背路を遮断し、戦局を有利に展開することにあった。
総攻撃の開始は、昭和20年4月28日と定められた。この日移動性高気圧は東シナ海にあり、九州は快晴、南西諸島一帯に晴れ、台湾東部には雨が残った…。
4月28日、六航空軍の特攻攻撃は日没前後36機で敢行された。4月から始まった特攻作戦では、陸海軍併せて2200名に上る有為ある若者が、沖縄海域で華と散った。
特攻基地『加古川飛行場』の記録
古来より謡曲にも謡われる尾上の松など美しい松原が広がる高砂の地に昭和10年3月、転機が訪れた。
陸軍策定による、航空防空兵力の計画において、加古郡尾上村に飛行場を建設、新鋭飛行隊の開設が決まった。
同13年8月30日、飛行十三戦隊が開設し、新鋭機・九十五戦闘機が防空の任務に就いた。飛行十三戦隊は、その後ラバウル、ニューギニアにおいて、米英軍と戦った。加古川飛行場では、飛行兵の訓練が行われ、戦闘機が瀬戸内海を飛び、射撃、空中戦の戦技を磨いた。
昭和20年4月、米軍が沖縄に上陸すると、陸海軍飛行隊に対して、特攻命令が下り、加古川飛行場は、全国各地の陸軍基地から知覧に向かう中継基地となった。
同飛行場においても、教育未熟な飛行兵に対して、特高志願の有無を問いかけたが、全員が『熱望』『希望』との回答であった。
加古川で第76、213、214振武隊が編成され、4月28日から6月10までの沖縄戦において、16人の隊員が米英軍の砲火を浴び、南海に散った・・・。
7月以降は、本土決戦に備えて飛行機を温存することになったが、8月15日出撃することなく終戦を迎えることとなった。
敗戦が決定的になっていた時期に、なぜこのような悪魔のごときオペレーション(作戦)が行われたのか、次代を背負う有為な若者たちが狂気の時代に翻弄された、悲しい史実である。
飛行兵にとって、やすらぎの宿となった(寺家町)中村家旅館
加古川飛行場が完成した昭和12年、陸軍は、寺家町の『中村家旅館』を軍指定の旅館とした。
16年、太平洋戦争が勃発したころからは、軍人の往来も激しく、家族の面会場所、他の隊へ転隊する兵士の送迎の場にもなった。
沖縄戦が始まった20年4月以降、軍は、特攻兵に対し数日の旅館滞在を許可した。ここに、兵士たちの心を癒してくれた人がいた。
館主の、「宮田亀之助氏」と、その妻であり、女将でもある「宮田たまさん」である。
ご夫婦は、若き隊員たちの心中を察し、親身になって話し相手にもなり、もてなしたという。
去る8月5日、旧中村家旅館の近くに、お二方のお孫さんが住んでおられることがわかり、さる人を介して当時の様子や宮田亀之助氏と、たまさんの、人となりを、「お母様から聞いた範囲ではありますが」、との前置きでお聞きすることが出来たので、以下、その詳細を記してみる。
↑戻ることのない出撃を前に、若い特攻隊員はどんな思いでしたためたのか…。
お孫様は、断片的な話になりますが、と前置きされながら、次のように話された。
『祖父の亀之助は、戦後には、製紙会社を作ったほどの人物だったようです。祖母のたまと二人相協力して兵士たちに親身になって話を聞き、やりきれない兵士たちの心中を察して、親のようにもてなしたとの由です。特別攻撃を敢行することが決まった彼らには、決して、可哀想だとか、憐れみをもった態度では接しなかった。むしろ、残された貴重な時間を有意義につかってほしい…そんな気持ちが強かったようです。短冊などに遺書などを書き残すように勧める、ということはしなかった。
兵士たちが自主的に筆を使い、親のように接してくれるお二人に預けた、ということだった、と聞いています。
旅館には、地下には防空壕もあり、大きな備前焼きのツボが二つ三つありました。
食べ物の少ない時代でしたので、そのツボに食物をためて、旅館を離れ「尾上」に向かう兵士に差入れしていたようです。
たまさんは、きれい好きで、いつも凛として佇まいの綺麗な、また粋な人でした。美空ひばりが好きで、いつも口ずさんでいたと聞いています。客商売であったこともあり、お客が来館する前に身だしなみをきちんとするために、毎日夕方4時には、近くの銭湯に行き、身だしなみを整えていたとのことです。
旅館にはもちろんお風呂はありましたが、旅館の風呂はお客様用と考え、公私混同をせず、銭湯を使用していたと言われています。
隊員が筆でしたためた文には、勇壮な文も多かったが、その裏では、「お母さん、わたしを生んでくれてありがとうございました。」という遺書も数多くありました。
遺書の中に「断」の一文字が書かれた血書がありますが、おそらくこの意味は、この世への全ての未練を断ち切る(断ち切りたい)という言葉だと思います。たった一文字のこの言葉が、隊員たちの心からの叫びのように思われますね…。
昭和30年、祖父は、彼らを偲び、御霊安らかに、と自費で旅館前に「忠魂の碑」を建てました。
そして、その翌年に彼は他界しました。(その後、平成13年5月に元陸軍飛行兵により、碑は、兵士の遺書を保管していた木箱とともに、鶴林寺に移設され、全国から遺族、戦友、関係者が参列して、開眼法要が行われた。)
当時は、まだうら若き飛行兵も全員が特攻に「希望」「熱望」と書いて志願しました。それはなぜだか分かりますか……?
もし自分が断ったら、必ず肉親が“非国民の家族”と言われ、世間から白い目で見られることが明白な時代でした。
また、自身も、なぜ自分だけ生き残ったのかと終生悩み、自問自答しながら生きて行かなければならないことを、彼らはわかっていたのでしょうね…。
特攻の母に関する参考文献(1) 2012-5-19付け 産経新聞
兵庫・旧陸軍飛行場近くの旅館女将。「終生忘れ難し女将魂」
大東亜戦争末期、特攻隊の隊員が出撃前に残していった写真や色紙などの遺品約80点が、兵庫県加古川市の鶴林寺(かくりんじ)で大切に保管されている。各地の特攻隊員は、機体の整備や訓練のため旧陸軍加古川飛行場に立ち寄り、そして九州へ飛び立っていった。遺品は、飛行場の近くにあった軍指定の「中村家旅館」の女将(おかみ)、宮田たまさん(1903~86年)に託されたものだ。年若い隊員を、わが子のように慈しんだという宮田さん。「加古川の特攻の母」が守り伝えた遺品の数々は、隊員らの決意と愛惜の思いを今も物語っている。
遺族らによると、宮田さんは夫婦で旅館を経営。実子がなく、世話好きな宮田さんは、親子ほど年の離れた隊員たちに、わが子のように接した。食糧不足の中を精いっぱいの料理と酒でもてなし、ときには、ひそかに面会に訪れた家族と、旅館の中で引き合わせたりもした。出撃の日には、日の丸の小旗を振って見送っていたという。
こうした宮田さんを隊員たちも慕い、出撃を前に、思いを込めた品々を預けていった。宮田さんは戦後もこうした遺品を大切に保管し、昭和34年には旅館の前に慰霊碑「特攻隊之碑」も建立。しかし、死後の平成10年に旅館は廃業することになり、遺品は鶴林寺に寄進されるとともに、慰霊碑も境内へ移された。
保管されている遺品は約30人分。「必死轟沈」や「不惜身命」などと決意が記された色紙もあれば、精悍(せいかん)な表情で愛機の前に立つ写真もある。
また、「終生忘れ難し女将魂」と、宮田さんへの謝意を記した短冊も残されている。
軍事史研究家の辻田文雄氏は「特攻に関する資料が加古川でこれほど残されているのは貴重だ」と評価する。
知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)の八巻聡専門員は「宮田さんが母親代わりになって、熱心に世話をしたため、多くの遺品が託されたのではないか」と話している。
在りし日の面影と遺書絶筆…
特攻の母に関する参考文献
編集後記
昭和20年8月までは、当たり前のように尋常小学校で「修身」という道徳教育を行っていた。
親に孝を尽くし、お年寄りが困ったときは進んで助け、友達とは喧嘩せず、兄弟仲良く…このような教育が一年生より行われていた。
当時、欧米では教会でしかこのような“説教”はなく、海外からは、厚く称賛されていた。
「天皇を中心とした」という点は別にして、修身とは、“身を修める”の意であり、決して軍国主義を意味するものではないと、
編者は考える。戦後、GHQにより、教育制度が一変してしまった。
その結果、学校においても、道徳教育は、全くと言って行われなくなり、現在の親世代も、古きよき、そして悲惨な時代の知識に接する機会がなく、現在に至っている。
現時代は、今は亡き先達に対して、胸を張って誇れる世相なのか?彼らが望んだ日本を我々は作り上げてきたのか…。
無知は無理解と無関心を産む…。
終戦記念日に当り、自身なりに、その時代に生きた人々の生きざまの片鱗を書き残したく、本紙を作成した次第です。
取材に快く応じて戴いた館主のお孫様には厚く感謝致します。合掌
引用文献等
1、尾上公民館での
展示資料(除・写真)
2.「加古川・高砂の昭和」(除・写真)
3.産経新聞(2012-5-19付け)
4.神戸新聞(2005-8-9付け)
特別に取材を願いした方…当時館主のお孫様(お孫様には記載内容了解取付済み)