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花の命

2020.07.08 07:14

https://charlor.net/5550 【百日草(ジニア)の花言葉の由来・意味・誕生花】より 抜粋

100日もの間、次から次へと新しい花を咲かせる百日草(ジニア)。観賞期間が長いだけでなく、大輪咲きや小輪咲き、背が高くなるものや矮性種など、様々な種類があることからガーデニングに大変重宝されています。

カラーバリエーションも豊富で、どれも見る人を元気にしてくれるカラフルな色ばかり。それなのに、百日草の花言葉に切ない言葉が並んでいることを知っていますか?

ここでは百日草の切ない花言葉とその由来、花の咲き方や人気の品種、育て方まで、百日草の魅力をたっぷりお届けします。

切ない言葉が並ぶ百日草(ジニア)の花言葉

百日草の花言葉は、「別れた友への想い」「遠い友を思う」「不在の友を思う」「古き良き時代」「いつまでも変わらぬ心」「絆」「幸福」「注意を怠るな」。

鮮やかな花を咲かせる百日草ですが、花言葉は切ない言葉が目立ちますね。これは、長い間咲き続ける姿が「誰かを待っているように見える」ことが由来です。

また、長期間だからこそ最後まで気を抜かずに咲き続けなければならないという気持ちが「注意を怠るな」という花言葉に繋がっています。

百日草(ジニア)はどんな花?色別の花言葉はある?

百日草は、春から秋にかけて次から次へと花を咲かせる一年草です。観賞期間の長さから「百日草」と名付けられましたが、実際は半年(180日)程度開花が楽しめます。

カラーバリエーションはとても多く、赤やピンク、オレンジや黄色、白や緑、複色など様々。色ごとの花言葉は決まっておらず、全ての色が上記と同じ花言葉になります。


http://meigen.ivory.ne.jp/meiku/hayashi.htm  【花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき林 芙美子】  より

昭和26(1951)年、心臓を患っていた林芙美子は、主治医の忠告を聴き入れず、『主婦の友』の「私の食べあるき」という企画で外出した。夜10時過ぎに帰宅し、家族と団欒した後、床に就く。

11時を回っていた。突然、芙美子は苦悶し始め、午前1時、帰らぬ人となる。47歳だった。

花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき

自由奔放に生きたといわれる作家の内実は、貧困や孤独との闘いであった。

林芙美子は誕生から、放浪者だった。

行商人の父・宮田麻太郎と、母・林キクの元、山口県下関市の間借りの部屋で生まれ、私生児として届けられる。22歳の麻太郎に、14歳年上のキクと入籍する気はないまま、3人の生活は続いた。

だが芙美子6歳、母とともに家を追い出される。麻太郎が、芸者を同居させたからだ。雪の降る夜、少女の心に大きな傷が残された。

一度だって、ほんとうの父に逢いたいと思ったことはない(一人の生涯)

同じころに麻太郎から解雇された番頭・沢井喜三郎が、芙美子の養父となる。母と沢井は、町から町へ行商をして歩いた。1つ1銭のアンパンを芙美子も売り歩き、日が暮れれば、行商仲間の子供たちとパンをかじりながら帰った。

やがて3人は、広島県の尾道に落ち着く。

愛に飢える文学少女

15歳の時、芙美子は尾道市立高等女学校へ入学した。才能を発揮したのは作詩である。空想力が自由に跳ね、生き生きした文章が駆け出す。

商業高校に通う岡野軍一と出会ったのも、そのころだ。2人は語り合って時を過ごす。淡いときめきだった。

女学校を卒業した芙美子は、東京へ向かう。仕事を見つけ、両親の生活を少しでも支えたい。また、東京の大学へ進んだ岡野に会うためでもあった。

しかし、再会した2人の幸せは続かなかった。貧しい行商人の娘との結婚は、周囲から反対されたのか、岡野は故郷へ帰ってしまう。

わびしく苦しい生活が始まった。目まぐるしく芙美子は、職を遍歴する。文士や学者宅での掃除・洗濯、株屋の事務員、玩具工場やカフェでも働き、産院の手伝い、毛糸売りもやった。が、1日じゅう働いても、その日をどうにか過ごす収入しかない。キャベツを刻んだだけのおかずがごちそうだった。泊まる家がなく、駅の公衆便所に寝たり、空き家に潜り込んだ夜もあった。

やがて知り合った俳優・田辺若男と、同棲するようになる。貧しいながらも幸せを感じていたある日、芙美子は田辺のカバンから、2千円の預金通帳を発見した。芙美子を働かせて大金を隠している田辺に、激しい憤りを覚えた。2人の仲は、数ヵ月で終わりを告げる。

芙美子は寂寥感に耐えかね、知り合って間もない詩人・野村吉哉と暮らし始める。しかし、野村は芙美子を土間へ投げ飛ばしたり、炭俵に詰めたりもした。やがて野村に愛人ができると、芙美子は身を引いた。

『放浪記』で鮮烈に

しばらく後、友人の紹介で手塚緑敏と会う。ようやく芙美子は、落ち着いた結婚生活を手に入れた。

そして、書きためていた日記に、芙美子は手を入れてみる。昭和3年、世は女流文学熱が高まっていた。

雑誌『女人芸術』に、芙美子の手記『放浪記』が載ることに。評判はよく、改造社が発刊した「新鋭文学叢書」の1冊に収録されたのである。

圧倒的な売れ行きだった。評論家の批評よりも早く、一般読者の人気を呼び、『続放浪記』も出版される。1、2年で60万部が売り尽くされた。

印税を手にした芙美子は、満州から中国大陸へ、2ヵ月にわたる旅に出た。昭和6年には、片道切符を手にパリへ。滞欧中、短編小説や随筆、紀行文などを次々に書く。旅に生きた芙美子らしかった。

名声はますます高まった。反面、栄枯盛衰の文壇でいつ、読者から忘れ去られるか、芙美子は不安にさいなまれたという。築いた地位を脅かしかねない新人女性作家には、特に神経質になり、露骨な妨害をしたという証言もある。

原稿依頼はことごとく、無理を承知で引き受けた。『晩菊』で昭和24(1949)年、日本女流文学者賞を受賞。新聞小説や雑誌の連載を敢行し、ほかにも長編、短編を発表している。

夜10時ごろから執筆を始め、深夜の4時に就寝する。朝は7時に起床して、決まったように机へ向かう。濃いコーヒーとタバコを愛する生活は、芙美子の健康に暗い影を落とした。肺炎で一度、入院したが、仕事は一向に減らない。動悸が激しくなり、持病の心臓弁膜症で少しの運動にも耐えられなくなっていく。

私はあと幾年も生きてはいられないような気がしている。心臓が悪いので、酒も煙草もとめられているのだけれども、煙草は日に4、50本も吸う(椰子の実)

いくつも連載中のまま、林芙美子は短い生涯を閉じた。死因は心臓麻痺だった。


https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_90148/ 【花の命はなぜ短い?日本の神話と歴史が記された「古事記」に伝わる花嫁たちのエピソード】 より

かつて作家の林芙美子さんが「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と言った通り、人間の一生なんて長くてもせいぜい百年、実に儚いものです。

今回は日本の神話と歴史が記された『古事記』から、人生が儚いものとなった理由について紹介したいと思います。

※以下、神様のお名前表記は『古事記』に倣います。

■木花之佐久夜毘売との出逢い

昔々、豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに。現代の日本)を治めるべく、天照大神(あまてらすおおみかみ。日本における至高の女神)の命よって高天原(たかまがはら。天上の世界)から派遣された彼女の孫(天孫)・天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)……名前が長すぎるので略して邇邇芸命(ににぎのみこと)は、笠沙(かささ)の岬という場所(現:鹿児島・宮崎県のどこか。諸説あり)で、一柱(※)の若く美しい女神に一目惚れします。

(※)神様を数える単位。人間でいう「~人」に相当。

花の命はなぜ短い?日本の神話と歴史が記された「古事記」に伝わる花嫁たちのエピソード

木花之佐久夜毘売(右)に言い寄る邇邇芸命(左)。石井林響「木華開耶姫」明治三十九1906年

「あなたはどちら様ですか?」

【原文】爾問「誰女」

彼女の名前は神阿多都比売(かむあたつひめ)と言い、山の神様である大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘です。阿多とは薩摩国阿多郡(現:鹿児島県日置市の南部と・南さつま市の北部)とも言われ、都とは「~の」を意味しますから、彼女はかつてその辺りに住んでいたのかも知れません。

ちなみに、よく知られている木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)とは異名で、咲き誇る花のような美しさからそう呼ばれていたのでしょう。

■まさかの初対面プロポーズ、そして二人の花嫁

さて、こうして絶世の美女・木花之佐久夜毘売と出会った邇邇芸命はと言いますと……

「結婚して下さい!」

【原文】「吾欲目合汝奈何」

【読み下し】「吾(われ)、汝(いまし)を目合(めあ)はむと欲(ほっ)す。奈何(いかん)」

まさかの初対面プロポーズ。さすがはやんごとなき神様、なさることも桁違いです。

まぁ実際は「私はそなたを妻に迎えたいと思うておるが、そなたはどうじゃ?」くらいのニュアンスだと思いますが、その返答はと言いますと、

「あの、お父様よりお答えいただきませんと……」

【原文】「僕不得白、僕父大山津見神將白」

【読み下し】「僕(やつがれ)白(まを・申)し得ず、僕が父・大山津見神まさ(将)に白さむとす」

まぁ急ぐ話でもなし、ましてや結婚とあらば「お父様」に筋を通すのが道理……という訳でさっそく「娘さんを私の妻に迎えたい」とご挨拶に伺ったところ、天照大神の孫神様とあらば、これはもう「玉の輿」どころの騒ぎではありません。

大山津見神は謹んで快諾し、大急ぎで婚礼の支度。家来に銘じて娘「たち」を邇邇芸命の元へ送り届けさせましたが、届いた花嫁の駕籠(かご)が二丁あるのを見て、邇邇芸命は首をかしげます。

「はて?私が妻に頂いたのは娘一人の筈だが……」

そういえば、木花之佐久夜毘売には石長比売(いわながひめ)という姉がいると聞いていたので「もしかして姉妹ともども下されたのか。それは誠にありがたい……」と駕籠から出て来た姉妹を出迎えた邇邇芸命はびっくり仰天。

花の命はなぜ短い?日本の神話と歴史が記された「古事記」に伝わる花嫁たちのエピソード

石長比売の花嫁姿(イメージ)。

それもその筈、石長比売は妹に似ても似つかぬ醜女(しこめ)だったのです。

■かくて命は花のように

(うへぇ……)

まさか絶世の美女を娶るには「醜い姉がセット」だったなんて……邇邇芸命は参ってしまいました……が、そこは己が欲望に「YES!」と言える神様、おとなしく運命を受け入れるようなタマじゃありません。

「いやぁ、お義父様……あのぅ、せっかくの『お気持ち』ではありますが……モニョモニョ……」

とか何とか言ったかどうだか、いずれにしても石長比売はその場でご実家へリリースさせて頂き、木花之佐久夜毘売のみ妻として迎え入れたのでした。

……しかし、仮に石長比売がおとなしく帰ったとしても、木花之佐久夜毘売の胸中はちょっと複雑だったのではないでしょうか。

もし筆者が同じ立場なら「私の美しさは認められた!わーい♪」という気持ちよりは「姉がかわいそう……と言うか、彼は容姿だけで他者を判断する神様なんだ……ふぅん……」という思いが渦巻いてしまいそうです。

まぁ何はともあれ、邇邇芸命は木花之佐久夜毘売と結ばれたのですが……一方、リリースされてしまった石長比売から事の次第を聞いた大山津見神は、たいそう恥じ入り、残念がって言いました。

「あぁ……なんと勿体ないことをなされたか。私が石長比売を嫁がせたのは、石の如く永き命を奉げんがため。木花之佐久夜毘売とだけ結ばれたことで、いっときは咲き誇れども、やがて儚く散ってしまう運命を選ばれたのだ……」

石長比売は石を司る女神であり、古来その堅さから不変不朽(変わらず、朽ちぬもの)の象徴とされ、邇邇芸命と結ばれることで、彼に永遠の命を奉げようとしたのでした。

花の命はなぜ短い?日本の神話と歴史が記された「古事記」に伝わる花嫁たちのエピソード

これにより、邇邇芸命やその子孫である神々や人間たちは、その命が花のように短く儚いものとなってしまった、と言われています。

■炎の中で三つ子を出産!木花之佐久夜毘売の立てた「誓約」

……さて、そんな事などお構いなしに、新婚初夜の明くる朝。

邇邇芸命が目を覚ますと、その枕元には木花之佐久夜毘売が、まんまるくなったお腹を抱え、幸せそうに微笑んでいました。

花の命はなぜ短い?日本の神話と歴史が記された「古事記」に伝わる花嫁たちのエピソード

「あなた……お腹の子、もうすぐ産まれそう。あなたの子よ?産んでいいでしょ?ねっ?」

【原文】「妾妊身、今臨產時。是天神之御子、私不可產。故、請」

そう聞いて、邇邇芸命は完全に目が覚めました。

「……謀ったなっ!」

いくら神様だからって、一晩で子供が出来た上に、そこまで大きくなるわけがありません。

「そなた、既に国津神(くにつかみ)の子を孕んでおきながら、私をたばかったな!」

※国津神とは邇邇芸命のような天津神(あまつかみ。天上出身の神様)と異なり、地上出身の神様を言います。

しかし、木花之佐久夜毘売は断固として譲りません。

「いーえ!絶・対にあなたの子です!あなたがお疑いなら、これからそれを晴らしてご覧に入れましょう!」

そう言って木花之佐久夜毘売は、召使いに自分の産屋(うぶや)を建てさせました。産屋とは出産専用の「離れ」で、昔は女性の生理や出産を「血のケガレ」として遠ざける風習があったのです。

それだけなら普通ですが、この産屋には戸も窓もなく、木花之佐久夜毘売を閉じ込める形で完成しました。

「いったい何をする気なんだ!?」

尋常ならざる様子に動揺する邇邇芸命に、木花之佐久夜毘売は誓約(うけい)をします。誓約とは天地神明に対して誓いを立てることで、古代の神々は時として、自分の言葉に命さえ賭けたのでした。

「これから産屋に火を放たせますが、もし私の宿している子の父が国津神であれば、私はこの愛されぬ子と共に焼け死ぬでしょう。しかし、私の宿している子の父があなたであれば、何があろうと無事に産まれる筈……さぁ、火を放ちなさい!」

花の命はなぜ短い?日本の神話と歴史が記された「古事記」に伝わる花嫁たちのエピソード

かくして産屋に火が放たれましたが、結局、木花之佐久夜毘売は無事に三つ子を出産。炎の中で生まれたため、長男は火照命(ほでりのみこと。後の海幸彦)、次男は火須勢理命(ほすせりのみこと)、末っ子は火遠理命(ほおりのみこと。後の山幸彦、神武天皇の祖父)と名づけられました。

もちろん誓約を受けた以上は、邇邇芸命もこの三つ子を自分の子供として認め、みんな仲良く暮らすのですが、その後の話は、又の機会に。