「マルティン・ルターと宗教改革」11 「諸侯の奴隷、農民の敵」
中世世界とは教皇(宗教)と世俗君主(政治)との二人三脚だったが、ドイツ(神聖ローマ帝国)国内にはさらに複雑な事情があった。それは世俗権力が中央集権体制をとれず、各地の領邦君主、世俗化した大司教や修道院領、独立の帝国都市や騎士領などに細分化され、各地の領邦君主らが自らの領土内に教会を建て支配権を握っていた(領邦教会制度)。そのため教会の改革を進めるためには、世俗君主との折衝・協力が必要。そこでルターは世俗権力と協力して地方の教会を調整し指導していった。このことが悲劇を生む。
1524年から25年にかけて,ドイツに大農民一揆が起こったが、その範囲,規模,戦闘の激しさから「農民戦争」と称せられる。原因はこうだ。13世紀の古典荘園制の解体とともに,ドイツ農民は賦役義務,不自由身分などからしだいに解放され,自由な経済活動によって富裕化。領主階級に経済的危機が生まれ、それを打開するため,賦役の復活,地代・租税の増徴,農奴制の復活など反動政策を強化した。そのため、農民は領主らの搾取のもと、悲惨な状況におかれていた。そうした農民がルターの宗教改革運動に勇気づけられ一揆に立ち上がったのだった。
指導者は、「革命の神学者」トマス・ミュンツァー。民衆の抵抗権を主張し、原始キリスト教的共産生活の再現を企てた。ルターも最初、農民に同情的だったが、やがて争いが、殺人・放火・略奪・破壊に及ぶと態度を変え、領主らに徹底した弾圧をすすめる。「刺し殺し、撃ち殺し、絞め殺しなさい」(ルター『農民の殺人・強盗団に抗して』)。農民は敗北したが、これはルターの一大汚点となった。エンゲルスは「諸侯の奴隷、農民の敵」とルターを評した(『ドイツ農民戦争』)。時代状況の中で考えなければならないとはいえ、こうしたルターの権力との妥協・追従は今日においても問題視されている。南ドイツの農民は、このとき諸侯軍側についたルター派から離れ、現地ではカトリックが主流となった。一方、勝利した諸侯勢力は、勢力を強めて各地で割拠し、ドイツはその領邦的分裂をさらに強めることになったのである。
また、改革運動の広がりは、プロテスタント教会とカトリック教会を後戻りできない分裂に至らせ、それを固定化させた。すでに教皇からは破門、皇帝からは帝国追放に処せられ(ウォルムス勅令)、異端となっていたルターは、1524年10月、公式にカトリックの修道服を脱いだ。その後、プロテスタント陣営と皇帝(カトリック陣営)の間に宗教的・政治的駆け引きがあったが(第1回及び第2回シュパイエル国会など)、1530年国会でルター派によってプロテスタントの信仰宣言ともいうべき『アウグスブルク信仰告白』が、それに対しカトリック側は『反撃文(コンフタティオ)』を発表。その後もプロテスタント諸侯による反皇帝同盟「シュマルカルデン同盟」の結成、またカトリック側では宗教改革運動に対抗して、イエズス会の創設や「トリエント公会議」(1545年~63年)が開かれ、プロテスタント教会とカトリック教会の分裂は決定的となる。
ところで「プロテスタント」という呼び名の誕生には、フランスやオスマン帝国の存在、皇帝カール5世の動向が大きく関わっている。皇帝カール5世の帝国を東から圧迫するオスマン帝国の存在は、ドイツに宗教改革の勢力を確立しようとする人々にとっては有益な力と見なされた。ルター自身、オスマン軍の攻勢を教皇とその周辺の腐敗、堕落に対する神罰であると認識していたし、彼は1520年代初頭には、オスマン帝国と戦うことに反対していた。1525年にフランスを中心に反ハプスブルク同盟が作られ、さらにフランソワ1世がスレイマン1世に援助を求めて接近した翌年、オスマン軍のハンガリー遠征が行われる。窮したカール5世の支援要請に対して、ルター派諸侯は「トルコの脅威」を初めて取引材料として用いる。こうして1526年の第1回シュパイエル国会において、ルター派諸侯と帝国都市とは教義を選ぶ宗教上の特権を与えられた(つまり、1521年のヴォルムス帝国議会で決定されていたルター派禁止の決議を事実上保留)のだった。
しかし1529年春、イタリア戦争の一時講和に成功した皇帝は、再びシュパイエルで開いた国会で3年前の譲歩を一方的に撤回。ルター派を否認し、ヴォルムス勅令を復活させた。この時、これに抗議したルター派の14の都市と6名の諸侯が「抗議書」を提出。「プロテスタント(抗議するもの)」の呼び名はこの出来事に由来する。こうしてルター派は新教徒=プロテスタントとして明確な勢力となり、その後、「シュマルカルデン戦争」という宗教戦争を戦っていくこととなり、ようやく1555年の「アウクスブルクの和議」でその信仰の自由(といっても領主クラスにとどまったが)が認められた。なお、一般大衆の信仰の自由が保障されるのはさらに後の17世紀の三十年戦争後の「ウェストファリア条約」によってである。
第2回シュパイエル国会 抗議書を提出するルター派諸侯
トマス・ミュンツァー
1539年ドイツ農民戦争 騎士を取り囲む反乱農民
カール・フォン・へーバーリン「農民戦争 ドミニカ修道院の略奪」
ドイツ農民戦争 農民の指導者の処刑
「アウグスブルク信仰告白」 諸侯たちがカール5世に手渡している
ルーカス・クラナッハ「ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ」ルーヴル美術館
ルターと友好関係にあり、ヘッセン方伯フィリップと共にシュマルカルデン同盟の盟主となったが、1546年のシュマルカルデン戦争を経て、1547年にカール5世に「ミュールベルクの戦」敗れて捕縛され、選帝侯位と所領を剥奪された
ティッツィアーノ「ミュールベルクの戦い後の皇帝カール5世」プラド美術館