Okinawa 沖縄 #2 Day 30 (11/07/20) 豊見城市 (15) Kakazu Hamlet 嘉数集落
嘉数集落 (かかず、カカジ)
- 嘉数公民館 (村屋 ムラヤー) (2019年10月2日に訪問)
- 嘉数ガジュマル (2019年10月2日に訪問)
- ムラ御嶽 (嘉数の神 カカズヌウガン) / 頭数の神 (チジガン) (2019年10月2日に訪問)
- イシグーヤマ
- アシビーナ
- 嘉数バンタ (2019年10月2日に訪問)
- 馬場跡
- アシリナー御嶽
- 村之殿 (ムラヌトゥン)
- 金満御嶽 (カニマンウタキ)
- コーグーシー
- 神屋
- 大井 (ウフカー)
- 御願之井 (ウガンヌカー)
- 今帰仁井 (ナチジンガー)
- 新井 (ミーガー) / シリヌカー (移設)
- 前白井 (メーダガー) / イナンガー(移設)
- 長嶺井 (ナガンミガー)
- チンガー (クガニガー、ニーチュガー)
- イリカンガー
- ウラシラニガー (ンススガジガー)
- カラドーガー
- 英慈王の墓
- 旧日本軍砲陣地
この嘉数集落には3回来ている。昨年の10月2日に来た際には、嘉数バンタと御嶽だけ見たのだが、今年に入り色々と調べると、これ以外にも文化財として、嘉数集落が保存しているものがいくつか紹介されていた。そこで、その文化財の見学のため、7月7日に再訪した。多くの文化財は見れたのだが、暑さでバテてしまい、全部までとは行かなかった。そこで、7月11日に3回目となった。
嘉数集落 (かかず、カカジ)
嘉数集落は海抜70~80mの丘陵の上にあり、北のに真玉橋、南西には長堂、東は長堂、南は饒波と接している。この隣接する集落のいずれに行くにも丘陵を下る事になる。その意味では、交通手段が自動車となる前は、甚だ不便な場所であったのだろう。
嘉数は沖縄方言では「カカジ」という。沖縄戦当時は世帯数が76戸で人口は380人の中規模の集落であった。2019年末の人口は3,202人、世帯数は1,334世帯で、ここ10年は人口はあまり変わっていない。
嘉数公民館 (村屋 ムラヤー)
ここはかつての村屋 (ムラヤー) があった所。村屋の前にはメーミチがあり、この道が集落のメイン通りだった。
集落はこのメーミチに沿って東西に長く伸びている。公民館の裏にはかなり大きな広場があり、ここで村の行事が行われる。
昭和43年に撮られた村屋の写真があった。まだ茅葺きの建物だった。この年に米軍統治下の琉球政府の高等弁務官資金でコンクリート製に建て替えられた。
嘉数ガジュマル
公民館の入口付近に石灰岩の岩山があり、そこに大きなガジュマルの木が生息している。この木は沖縄の名木100選の一つとなっている。樹高20m以上、幹周り6.5mもある。沖縄戦にも耐えて樹齢100年以上と推定されている。このガジュマルは集落のシンボル的存在。ただ木の衰えが著しく、後どれ程生きるかと言われている。
ムラ御嶽 (嘉数の神 カカズヌウガン) / 頭数の神 (チジガン)
高樹齢の大木は信仰の対象になるのであろう。ここには二つの拝所が設けられていた。
ムラ御嶽 (嘉数の神 カカズヌウガン) は文字通り、村の神で、琉球由来記に表されている嘉数の御嶽の候補地の一つ。昔は長嶺グスクにあった長嶺城之殿が最重要な拝所だったが現在はここが最も御願されているそうだ。
もう一つの拝所は頭数の神 (チジガン)とか頂之嶽 (チヂヌタキ) と呼ばれているもの。岩の下にある拝所はノロが葬られている墓と伝わっている。
岩山の下にノロの墓と伝えられているものがある。
幾つかの集落でも見かけたのだが、この岩山にも戦後米軍が廃棄した酸素ボンベを利用した鐘が残されている。
イシグーヤマ
公民館を挟んでもう一つイシグーヤマと呼ばれる岩山がある。何かありそうな形をしている。上まで登って見たのだが、ここには拝所は無かった。
アシビーナ
村屋の前にはアシビーナがあった場所がある。ここではモーアシビ (毛遊び) と呼ばれるイベントが行われ、若い男女の出会いの機会が作られていたのだが、それも、大正時代初めごろまでだったそうだ。
嘉数バンタ
嘉数集落の西の端に嘉数バンタがある。ここは、かつて豊見城グスクや瀬長島とともに「豊見城三景」の一つであった。特に夕眺めが綺麗だったという。バンタとは沖縄の言葉で「崖」や「端」を意味し、見晴らしが良いことから村民の憩いの場所であった。ここからは漫湖や豊見城市街が臨め、ここを降れば真玉橋の古島になる。琉球王府時代には、この嘉数集落内に、王家の分家筋の豊見城御殿の別荘が置かれ、別荘をおとずれた要人たちがくつろぐ憩いの場所でもあった。
馬場跡
かつては、この嘉数バンタの隣に馬場があったそうだ。今は専門学校が建っており、馬場を偲ぶものは無い。
この集落の西から東へと文化財を見て行こう。
アシリナー
集落の西端にある国元 (クニムトゥ) とされている屋号大殿内 (ウフドゥンチ) の場所にある。かつては真玉橋にあるチニンムイの遥拝所 (ウトゥーシ) だった。今は無くなっているのだが、ここには龕屋があったそうだ。また石獅子もここにあったとも言われている。根差部の石獅子と同じく、漫湖にあったガーナムイに向けて建っていたと言われている。(この石獅子の存在には集落内でも議論があるらしい)
村之殿 (ムラヌトゥン)
琉球由来記にある嘉数之殿と言われている。自然石が三つ置かれている。火の神を祀ってあるのだ。豊見城村史ではここを別名カ二マン御嶽と呼ばれていたと書かれてあるが、こことは別にカ二マン御嶽があった。少し豊見城村史とは食い違っている。
金満御嶽 (カニマンウタキ)
承察度の義弟の泰期 (たいち、たいき) である金満按司に由来する御嶽。この辺りが、嘉数発祥の地と言われている。ここは琉球由来記にある嘉数の御嶽の候補地の一つ。
コーグーシー
豊見城村史に掲載されていた集落の地図にはここがコーグーシーと呼ばれる拝所があるとなっている。地図にある周りの建物や道を確認すると、ここがそこにあたるのだが、祠とか霊石とかは見当たらない。ただ、少し高くなっているところに岩が剥き出しになり大きなガジュマルの木が生息している。拝所になっている様な場所だ。機会があれば、村の人に確認をしたい。
もう一度訪れて見た。今度は反対側から行く事にした。細い路地があった。ここを通れば前回来た場所に行ける筈だ。果たして、墓があり、その墓の横に岩山があり、コーグー岩 (シィ) と書かれてあった。この岩山自体が拝所になっているのだ。
神屋
どこにも載っていないのだが、集落内に、神屋らしきものを見つけたので、中を覗いてみる。幾つかの香炉が並べられている。確かに拝所だ。ずっと気になっていたのだが、どこの神屋にも香炉がいくつも並べられている。これは何を意味しているのだろう。そこで調べてみると、解説の一つには、この香炉一つ一つが門中で選出した神人 (カミンチュ) 一人一人の香炉だそうだ。神人 (カミンチュ) とは神に使える人のことを言い、祝女 (ノロ) が祭事を行うときに祝女 (ノロ) を助ける役割を担うそうで、終身の役割。神人 (カミンチュ) に選ばれたときに、香炉を祭壇におき、亡くなるまでこの香炉がそこにあると説明されていた。時代とともに後継者がいなくなってしまった集落も少なくない。
井戸もいくつか残っている。
大井 (ウフカー)
公民館の裏の広場から崖を下った所にある。ンブガーとも呼ばれ、正月の若水を汲む井戸だった。
御願之井 (ウガンヌカー)
大井 (ウフカー) から数メートルのところにある。表示板には村井 (ムラガー) と書かれていた。更にこの近くに今帰仁井 (ナチジンガー) があると出ていたのだが、見あたらなかった。別の解説書では御願之井 (ウガンヌカー) の別名ともあった。今帰仁井 (ナチジンガー) は見当たらないので、ここがそうかもしれない。井戸の名前はいろいろな呼び方をされていることが多く、この様に探していた井戸が先に見つけたものと同じというケースも幾度かあった。
今帰仁井 (ナチジンガー)
再度嘉数を訪れたので、もう一度この井戸を探して見た。見つかった。御願之井 (ウガンヌカー) のすぐ下の草むらの中にあった。この間見た資料では御願之井 (ウガンヌカー) の別名とあったのは間違いの様だ。表示板が倒れてころがっていたのを起こすと、確かにナチジンガーと書かれている。何故、今帰仁井と名をつけたのだろう? 今帰仁への思いで、遥拝所もかねていたのだろうか。沖縄南部を巡ると今帰仁への遥拝所が多くある。三山時代に今帰仁城主であった湧川按司の子孫はクーデターで今帰仁を追われ、南部に逃げて住み着いた所が多い。ここもそうなのかも知れない。
新井 (ミーガー) / シリヌカー (移設)
公民館からメーミチを渡ってすぐのところにある井戸がある。新川 (ミーガー 写真左下) と呼ばれ、名前から見ると集落内では比較的新しい井戸なのだろう。ここは集落の中心部なので、主に集落の人の生活用水であったそうだ。同じ場所にシリヌカー (写真右下) という井戸跡もあった。しかし、これは移設された形式保存の井戸で元々は、先程訪れた村之殿 (ムラヌトゥン) の近くにあったそうだ。
前白井 (メーダガー、前田井?) / イナンガー(移設)
集落の東側にある小字の前原地区にある井戸。表示板にはイナンガーとある。名前が二つあるのかと思っていたら、少し紛らわしいのだが、イナンガーは別の場所にあったのをここに移設し、形式保存しているものだった。
長嶺井 (ナガンミガー)
長嶺グスクへの入り口にあると出ているのだが、入り口がどこなのかは分からず、そう思われる付近を探してみた。この後にいくチンガーの井戸が城内にあると書かれていたので、チンガーの手前を探してみたが、見つからなかった。残念。
チンガー (クガニガー、ニーチュガー)
長嶺グスクの案内板がある近くの畑に井戸跡がある。香炉もあり賽銭も置かれているのでこれがチンガーだ。この井戸はグスク内にあると書かれていたので、長嶺グスクは思っていた以上に大きい様だ。伝承では長嶺按司が仲間按司勢に追われて、この井戸に乗っていた馬につけていた黄金の鞍を井戸に落として自殺した様に見せかけて難を逃れたとある。この井戸は城内にあったとされているもだが、敵兵が城内まで追いかけて来たとは思えないのだが....
イリカンガー
集落がある丘陵の北側を長堂川に降りた所にある。細い道を下った途中に滝壺の様になっている井戸。湧水なのだろう、水が澄みきっている。嘉数の井戸の中で一番気にいった井戸だ。
ウラシラニガー (ンススガジガー)
神人 (カミンチュ) の衣装を洗う井戸だったそうだが、ここは集落から来るには不便な場所。何故わざわざこんなところまでに洗いに来たのだろう。
カラドーガー
嘉数集落から長堂集落へ降りる道がある。イシジャーミチという。かなり急な坂で、道幅も一車線程しか無い。昔のままの道を舗装しただけなのだろう。この坂の途中に井戸跡があるらしい。カラドーガーと言われている。水が豊富な井戸だったそうで、日照りが何ヶ月も続いた事があったそうだが、この井戸だけは枯れなかったと言われているそうだが、見つからない。地図で示された場所には古い墓があった。
英慈王の墓
イシジャーミチには英祖王統の第三代英慈王の墓と伝わるものがグーグルマップ上で出ていた。これを探しに去年もここに来たのだが見当たらなかった。地図上では民家の敷地内になっている。思い切ってそこに行き、聞いてみる事にした。幸運にもおじさんがいて教えてくれた。とんでもない場所だった。道はなく、草木が生い茂った中を、草木を踏みつけながら崖の斜面を行くと古墓があった。写真を撮るために、墓を覆っている草木を倒して、やっと墓が見える様になった。王墓にしては、ちょっと寂しい。帰りにおじさんに、この墓にお詣りに来る人はいないのかと聞くと、清明祭 (シーミー) には来るという。清明祭は沖縄では一番大切な墓参りの行事。この時期にはこの様なジャングルでも綺麗に草木が伐採されて墓参りがしやすくなる。拝所巡りもその村の年間行事を調べてその直後に行けば、綺麗に手入れされた拝所が見れる。
疑問に思うのは、何故このような場所に王の墓があるのだろうか? 祖父の英祖王は浦添城を居城としており、浦添よーどれに英祖王の墓がある。琉球の墓は一族の墓なので、通常ならば英慈王も浦添よーどれに葬られてしかるべきなのだが.... 何故、ここを英慈王の墓と考えたのだろう? ただ、英慈王の墓と言われているものはもう一つある。現在の南城市の玉城の祖先の天孫氏の墓の場所にある。英慈王だけでなく、二代 大成王、四代 玉城王、五代 西威王の墓も玉城にあるとも言われている。
ここで登場する英祖王統は沖縄で生まれた最初の王統で、中山王として歴史に残っている。初代英祖王の末裔が北山 (初代北山王の帕尼芝は英祖の次男の湧川王子のひ孫)、南山 (山南の初代国王承察度は英祖の五男の大里按司の孫) で三山時代始まりの元になっている。
- 初代 英祖王(1259年? - 1299年?) 浦添よーどれに英祖王の墓があった。
- 二代 大成王(英祖王長男、1299年? - 1308年?)
- 三代 英慈王(大成王次男、1308年? - 1313年?) この墓はこの三代英慈王の墓と伝わっている。
- 四代 玉城王(英慈王三男、1313年? - 1336年?)
- 五代 西威王(玉城王長男、1336年? - 1349年)この後に浦添按司察度が中山王となり察度王統を開始する。
第一尚氏王統までの琉球国の系図を作ってみた。先にも述べたように、英祖の子供が南山国、北山国の始祖となっている。つまり、中山、南山、北山の三国は元はこの英祖王統から来ている。最も系図は後世に作られているので、その血筋の権威付のために捏造されている部分もあるので、全てを鵜呑みにはできない。
旧日本軍砲陣地
沖縄戦当時に日本軍は嘉数集落がある丘陵を北に下った所に野砲陣地を構えていた。その為、嘉数集落内のめぼしい民家や陣地壕に多くの兵隊が駐留していた。1945年4月にこの野砲陣地から米軍に数発砲撃を行なったが、神山島 (チービシ) の米軍に即座に察知され報復砲撃を浴び、嘉数陣地は全滅、嘉数の住民も巻き添えとなり多くの犠牲者を出した。
嘉数集落住民の戦没者は146人で集落住民の38%にあたる。学童疎開は12人が宮崎県へ、5世帯が一般疎開で熊本県に行っておりこの人達は無事であった。村に残った人達は山原疎開はする事がなく、戦火が激しくなった1945年5月末で、この頃は集落の家屋は殆どが破壊されており、避難壕での生活を続けていた。一部の村民は村に残り捕虜となったが、その他の人達は、南部の喜屋武や摩文仁まで移動して行った。
質問事項
- 村の殿について豊見城村史ではここを別名カ二マン御嶽と呼ばれていたと書かれてあるが、こことは別にカ二マン御嶽があった。少し豊見城村史とは食い違っている。
- 拝所に並べられている香炉一つ一つは何を祀っている? カミンチュを表しているとなっているが、これほど多くのカミンチュがいるのか?
- 豊見城村史に出ている前白井は「前田井」の誤記ではないだろうか? メーダガーと書かれていたのでメーダは前田のことだろう。
- 今帰仁井 (ナチジンガー) の名の由来は?
- 中の井はどこにある?
- イシジャーミチにあるというカラドーガーは現在でもあるのか?
- 英慈王の墓の信憑性は?墓参りに来ていると聞いたが、英祖王統の子孫か?
- ウラシラニガー (ンススガジガー)は神人 (カミンチュ) の衣装を洗う井戸だったそうだが、ここは集落から来るには不便な場所。何故わざわざここに洗いに来たのか? 何か特別な場所?
- 長嶺井 (ナガンミガー) はどこにある? 長嶺グスク の入り口にあったとされているが、どのあたりからグスクが始まっていた?
- 英慈王の墓と伝わっている根拠は?
参考文献
- 豊見城村史
- 豊見城村史 第二巻 民俗編
- 豊見城村史 第六巻 戦争編
豊見城村史
第23節 字嘉数
位置
嘉数は北は国場川をへだてて那覇市 (旧真和志村) 字国場に接し、北南に真玉橋、西に根差部、南に驚波、東に国場川をへだてて南風原村に接し、南東は長堂に接している。部落は高台地の上にあり、南東以外は甚だ耕地に不便である。
御嶽・殿
古えから移動しない部落であって、世立初の部落は現在の部落の西部であって、分家はだんだん東部に屋敷をつくって広まっていったのである。
御嶽 由来記中には嘉数の殿がある。この嶽の前二屋敷の西に嘉数の殿がある。この殿には火の神 (石を三つ並べた竈の神) がある。この殿のことを一名カ二マン御嶽とも言う。これは金満按司の五男我那覇親方が (饒波の大殿内参照) 嘉数、真玉橋等の屋敷囲をした方であるため一名カニマン御嶽とも称するだろうと思考せられる。なお稲二祭の時には長嶺城の御嶽を拝んでから後、嘉数、真玉橋、根差部の三カ部落はこの嘉数の殿 (御嶽) を拝んでから各部落の嶽や殿を拝むとのことである。城の殿が重んぜられたのであった。
現在部落の公民館 (部落の西前方) に御嶽があって尊崇されているが由来は不明である。
旧家殿 (カニマン御嶽) の前方に旧家は並んでいたのである。すぐ前方に仲里屋敷があり、仲里の西に大屋、その西に大殿内、仲里の東に仲門、その東に真地その前に平田があり、仲里の前に赤嶺があり、仲門の前に上田、その東に比盛、与那があり、大屋の前方に前赤嶺がある。
拝所としての井泉
- シリの井 大政内の後方
- 大井 御嶽の前方 (現在水豊富)
- 西リカン井 字の西後方、桶川
- 新井 公民館の前
- 中の井 嘉数二八番地
- 前白井 部落東の前
琉球千草之巻によれば嘉数村世立初「百名世主の孫嘉数大主在所大屋と云う」とあり、地組始「天孫子の又孫の二男座安親雲上在所大殿内」としてある。大屋について、右の百名世主の孫については祖先宝鑑にはないようである。大屋に関連した系統図を示すと (北山系統図参照)
右、長讃小按司は「豊見城嘉数村大屋と云う家にあり」となっている。また嘉数里主「嘉数村大殿内と云う家を相続す」となっている。
また同じ祖先宝鑑に (為朝公系統図参照)
右豊見城按司「御母は豊見城同村の奴留なり。居所は回嘉数村の大屋と云う家なり」としてある。西平按司については「母は嘉数村大屋、居所は長堂仲村渠、長嶺按司七世の世子となる」と記してある。
大殿内については祖先宝鑑によれば (天孫子系統図参図)
千草巻には天孫子の父孫の二男座安親雲上としてあるが、祖先宝鑑には豊見城按司の二男となっている。
同じく祖先宝鑑に (為朝公系統図参照)
右仲村渠王子の長男「同嘉数村の大殿内という家なり」とある。
また同じく (中城按司の系統図参照)
右、二男豊見城按司の三男は「嘉数村の大殿内に行く」となっている。
また同書に (北山系統図参照)
右豊見城按司の二男「同嘉数村大殿内と云う家にあり」となっている。
大殿内も祖先は入交 (いりくみ) が多かったようであります。現在大殿内は廃家になっていて、その子孫である真玉橋の比嘉が御持しているのである。嘉数の上田門中は大殿内の分家者である。大田門中は上田の分家者であるが、大田大屋子に任ぜられたので屋号大田を名乗るようになったとのことである。
嘉数にノ口はいない。祭祀は根差部ノ口が司っているのである。昔はノ口は嘉数にいたと言われ大殿内が昔ノロだったが、そこの娘のノ口が根差部へ嫁入して、玉がハラ等も持って行ったため、ノ口は根差部に移ったという伝説もあるようだ。
佐々小江
これは琉球国旧記に記録されている小川の名前で、長嶺城の西部から発して字嘉数の南前を通り根差部の後方と真玉樹の松尾原 (マーチューバル) 間を流れて、ヒラナシ (平良瀬) 森の東北方で漫湖に注ぐ川を言うのである。
旗印争耕
嘉数の旗印は争耕 (旗の文字) で豊見城王子から御拝領のもの、文字は書家の松堂朝睦氏 (王の御祐筆) の書であったという。ヌシ (旗頭) は飼又 (かいまた) だった。