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KANGE's log

映画「ルース・エドガー」

2020.07.09 11:34

【お手軽な解釈を拒絶する、巧妙で強かな問題提起】

事前情報なしで鑑賞しました。

戦火の国エリトリアで生まれたルースは、難民として7歳でアメリカに渡り、白人夫婦であるピーターとエイミーの養子となった。幼少時のトラウマを克服し、学業においてもスポーツにおいても優秀な高校生となったルース だが、レポート課題で黒人革命運動家を取り上げたため、同じアフリカ系の教師ハリエットから危険視されるようになり、彼女がルースのロッカーを調べたところ、違法な花火が見つかって…というお話。

事前情報なしですから、「あれ? ルースの両親が、なぜ白人なの?」というところから、スタートです。

ルースが、理想的な学生なのか、あるいはテロリスト予備軍なのか、というサスペンスとして物語が展開していきます。彼が本当は何をしたのか、どういう考えを持っているのかは、観客には知らされないまま話が進んでいきます。誰が本当のことを言っているのか、疑心暗鬼が重なっていく。不穏なBGMもあいまって、ちょっと湊かなえ的なイヤミスっぽくもありますね。

肝心のロッカーの花火ですが、ルースが自分のロッカーに花火を本当に入れたのかどうかという事実は、我々観客には知らされません。また、レポートの「フランツ・ファノン」ですが、特に我々日本人には馴染みのない人物なので、ハリエットが抱く懸念が正当なものなのかも、分かりません。この間のBlackLivesMatter運動の中で、エマ・ワトソンや大阪なおみが紹介していた人物で、おそらくレポートを書いたのがルースではなくて、白人であれば、こんなことにはならなかったのでしょう。 

少なくとも「人種差別はダメ」といった、単純な話ではありません。登場人物の誰も差別的な行為をしているわけではありません。

逆に、ルースに対しては、「自由の国アメリカで、困難な生い立ちを克服して、将来を嘱望される高校生」として、皆が期待しています。しかし、その期待が、彼をラベリングすることになり、彼にとっては強いプレッシャーになっています。しかも、そのラベリングから逸脱することは、即「ダメな黒人」に転落することを意味します。この点においては、彼が黒人であるがゆえに、不当に追い込むことになっています。ルースのあり得るかもしれない未来の1つとしてデショーンがいるわけです。

この「ラベリングの呪縛」は、ルースだけに不自由を強いているわけではありません。養父母であるピーターとエイミーは「食事は基本テイクアウトで、自分のことは自分でやる」という、保守的な家族像からは極端に反対側に振り切ったライフスタイルですが、一方で、ハリエット先生に対しては偏見の目で見ることに躊躇がありません。また、おそらく、ルースを尊重するために、自分たちの実子はつくらないと決断したのでしょう。そのことは、夫婦間にも軋みを生んでいます。「難民を養子にして育てる良き白人夫婦」であろうと、過度に自分たちを追い込んでいるように見えます。だからこそ、ちょっとした刺激で、ボロボロと崩れていきます。

ハリエット先生も、黒人学生に希望の光を与えるよき教員であろうとしています。精神を患っている妹のことを隠しているのは、一点でもネガティブなところを突かれたくないという、先ほどのルースのプレッシャーと同じ背景でしょう。「白人にとって良き黒人であること」を自分にも、黒人学生たちにも課しています。やはり、そこにも無理があります。

敵対するルースとハリエット先生、彼らを同じ「黒人」というカテゴリーに分類しても、何も見えてきません。もちろん、ルースとデショーンも違います。 

劇中では「箱に押し込める」という表現が使われています。自分を箱に押し込めるのは他人とは限りません。自分で押し込めることもあるでしょう。そして、自分が、相手を箱に押し込めていることにさえ気づかないことだってあるでしょう。人は他者を箱に押し込めてしまうものなのだということを自覚して、ときどき隙間を作る必要があるのかもしれません。そうすれば、そこに「光」が差し込むこともあるのでしょう。

登場人物たちのアイデンティティの揺らぎを描くことで、アメリカという国のアイデンティティに対しても疑問を投げかけることになっているように見えました。

学業にもスポーツにも秀でていて、ディスカッションが得意で、ユーモア溢れるスピーチができるというアメリカ的な「成功する学生像」の裏で、そこから逸脱する学生たちに目を配っているだろうか。「難民を受け入れて、アメリカの自由な教育を受けさせる」という大義に縛られるあまり、そこで生まれる歪みや膿みから目をそらしていないだろうか。「発音しづらいから」という理由で本当の名前を奪って新しい名前をつけるように、アメリカ的な正しさの箱の押しつけになっていないだろうか。

とにかく、1つの答えが出る作品ではないので、「こんなことを考えてみました」という感想しか出すことができない、手強い映画なのでした。