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『江戸のエコロジスト一茶』①

2023.12.25 05:50

https://showahaiku.exblog.jp/27980689/  【『江戸のエコロジスト一茶』】

(マブソン青眼著、角川書店、2010年)

(「檻の俳句館」館主)マブソン青眼著『江戸のエコロジスト一茶』(角川書店、2010年刊行)全文を添付・公開致します。出版社の方では現在絶版になっておりますが、ぜひこのホームページからお読みになり、信州の俳人・小林一茶のヒューマニズムと民主主義的思想と”心のエコロジー”に耳を傾けましょう!

第一章 ”鄙び”への道のり(帰郷後一年目、文化九~十年)

①“文系的なエコロジー”に向けて

 江戸時代の日本列島、排気ガスの年間総量はもちろん零グラムでした。また、食糧自給率はほぼ百%でした。しかも小林一茶が生きていた江戸末期の農村と現代日本の都会を比較した場合、必ずしも今の日本の人々の方が幸せを実感しているとはいえないでしょう。

 これから、一茶晩年の句々に詠まれた近世村人の生き方、そして“自然と人間の共生”と呼べるような世界観を再発見してゆきたいと思います。実はその生き方と世界観は、現代社会の重大な課題である地球環境の保護のための示唆を多く与えてくれるのです。

 一茶には二つの人生がありました。反骨精神を燃やして生き延びた青年・中年と、穏やかな世界観を生んだ晩年。やはり人間の心には決定的な変化が起こり得るのです。一茶の場合、五十歳を過ぎて信州の農村に帰郷してから、確実に彼の心には何かが生まれました。彼は森羅万象と仲の良い「生き物」に変わってゆきました。文化九年の冬以降、一茶の作品は日本文化における「エコロジー的精神」の深さを物語るようになったと、僕は思います。

行(ゆく)としや かぶつて寝たき 峰の雲

 文化九年十一月十九日(西暦一八一二年十二月二十二日)の作(『七番日記』)。

 句日記に「十九晴 本庄」とあります。一茶は道中、現在の埼玉県本庄市の宿場で一泊します。この十一月、彼は故郷永住を決意し、江戸を出て北信濃の柏原へ向かいます。そもそも本百姓の長男として生まれた一茶(本名・小林弥太郎)は、さほど苦労もせずに中流以上の村人として人生を送るはずでした。彼は、幕府の法規によって父親の全財産を相続することになっていました。しかし、三歳で母を亡くした後、一茶は継母や腹違いの弟と仲が悪く、十四歳で江戸へ奉公に出されます。たまたま出会った俳諧に熱中し、はやくも二十八歳という若さで江戸・葛飾派のに任命されます。その後、七年の俳諧行脚を済ませたものの、結局は江戸の俳諧師として認められませんでした。主な理由は、その「百姓」という身分にありました。とはいえ、父の死後、四十歳になった一茶は家族からは土地も財産も何も分けて貰えませんでした。一茶はつまり、俳人としても百姓としても、生活する権利すら否定された人間です。

 父の死の七年後、村の役人の仲介を得て、ついに第一次遺産交渉が終了します。一茶は土地と家の半分を相続することが許されます。損害賠償については、のちの交渉に持ち越されることになっています。

 この句を詠んだ時の一茶はもはや五十歳です。裕福な俳人・夏目成美の庇護を受けてはいますが、江戸の俳壇につくづく疲れています。作品よりも格式を尊ぶ葛飾派から次第に一茶の気持が離れてゆきます。行く年の浮雲のように、江戸でみた夢は心から離れてゆきます。その文化九年の四月に、大切な女弟子・花嬌の三回忌がありました。十月には同じ房総地方の親友、双樹が逝きました。嫌な一年でした。一茶は十一月十七日に江戸を立ちます。もうこの大都会の修羅場には戻らないぞと自分に誓って、中仙道を歩きます。

 本庄の宿に着くと実はさきほどの句に続いて、類似する別の作品、発句ならぬ俳諧歌を書き止めます。

ねがはくば松に生てぬく〳〵と

 かぶつて寝たき峰の白雲

 

 もちろん西行の名歌「ねがはくは花のしたにて春死なむ…」の反転として、滑稽味あふれる狂歌になっています。が、それだけの作品ではありません。

 一茶は西行のこの歌を踏まえるのが好きだったようです。実は十五年後の文政十年の春も、また同歌の本歌取り「花の陰寝まじ未来がしき」を詠んでいます。その「花の陰」の句は一茶が亡くなる半年前の吟となり、一般に一茶の辞世句といわれています。一茶は文政十年十一月十九日に亡くなります。そうです。十一月十九日といえば、帰郷の途中でさきほどの本庄の宿に泊まった日と同じ日です。十五年後のちょうど同じ日に、自分が故郷で息を引き取ることになるとは、一茶はその時知るはずもありませんでした。それでもなぜかこの日、彼は西行の辞世といわれている歌を踏まえて、人間よりも松に生まれたかったのだと嘆くのです。詩歌を吟ずる者は、他次元の世界と繫がっていると思わせるような偶然です。

 それはともあれ、高木に化身して俗塵を離れて雲を被りたいという一茶の願望は西行の吟よりもはるかに思い切った感情移入、いわば“自然に対する同化意欲”がうかがえるといえます。ところで、まったく同じ時代を生きたドイツのベートーヴェンの名言が思い出されます。

我は一人の人間よりも一本の木の方が好きだ

(EinBaum bedeutet mir mehr als ein Mensch)

 いずれも、母なる自然への回帰を願う、老いの金言といえましょう。人生以上に樹木の生命を敬愛するという奇想。

 一茶は、数年前の俳文集『父の終焉日記』所収の俳諧歌のなかでも、すでに「の」という序詞に託して、理想の人生を竹の清らかな姿に喩えています。

うけがたき人と生れてなよ竹の

 直なる道に入るよしも哉

 

 一茶晩年の、動植物を人間に喩えた擬人化の句々は有名ですが、同時期に一茶は頻繁に人間を動植物に喩えてもいたのです。以上の俳諧歌二首がその例となります。そこにはいわゆる「擬人化」の反対となる「」と呼ばれる比喩表現を認めることができます。「擬人化」と同様に、「擬物化」は人間とその他の生き物を同じレベルで捉えるという感性が働いています。一茶は一流の俳人のなかで唯一農民の出であったため、唯一そんな感性に基づいた「生き物感覚」を詠むようになったと、僕は思います。生きとし生ける物をみな同じく敬愛するような世界観を、金子兜太氏は「一茶のアニミズム」と呼んでいます。同時に、二十一世紀のエコロジー精神を支えるべく、最も大切な価値観がこのような作品に提唱されているともいえるでしょう。つまり、すべての生命の存在価値を平等に認めることによって、人間が環境の生態のバランスを守り、おのずとそれが持続可能な発展に繫がってゆくという考え方です。やはり「エコロジー」と言うのであれば、科学的データから語るべき問題ではないでしょう。人間が人間だけの快適さを求めて地球を破壊し、結局は自殺的行為に走るのを止めさせたいのであれば、まずは人のに語りかけなければなりません。科学的データで恐怖を浴びせても世の中の長期的な変化は望めません。人々に「木を愛する気持」を伝えることから、すべてが始まるでしょう。

        *     *

 『研ぎすませ 風景感覚』(技報堂出版、一九九九)に、景観工学者・中村良夫氏とアニメ作家・宮崎駿氏の対談「輝け命」が掲載され、宮崎氏は興味深いエピソードを語っています。近くの土地を駐車場からもう一度林に戻そうと、めでたく住民運動が起こったと言います。しかし、入手できた木の苗は九州産のものだったため、住民の間で議論が沸騰したそうです。それは住民の一部が他所の木の遺伝子をもってくるのであれば、緑地化運動に参加しないと言い出したのです。結局、樹木が育たないまま企画が取止めになりました。「科学的な理屈」のせいで「木を愛する気持」が忘れられました。中村良夫氏いわく、

今のエコロジーという概念はサイエンスの概念です。サイエンスの概念をそのままわれわれ人間行動の判断に持ち込むことにはある種の危険がある。

 では、人間に馴染みやすい“文系的なエコロジー”の精神をどこから求めましょうか。それはもちろん、江戸時代の大俳人で、唯一百姓だった小林一茶の作品から求めるべきでしょう。もし世界中の人間が、なかでも政治家たちが一茶と同じ眼差で木々を仰いでいたら、京都議定書の実施はきっと近づいてくれるに違いありません。

 「エコロジーの時代」に向けて、まずはわれわれの思考様式を換える必要があります。

 さて、一茶翁の帰郷の旅は続きます。十一月二十一日(西暦十二月二十四日)は碓氷峠の「大吹雪」に耐え、七日間必死で歩いたあげく、いよいよ二十三日の夕方、故郷の北信濃・柏原に到着します……。

②故郷の雪、故郷の花

  これがまあ死所(しにどころ)かよ雪五尺

 文化九年十一月二十三日(西暦一八一二年十二月二十六日)の作か(『句稿消息』)。

 『七番日記』によると、一茶が正式に故郷・柏原に入ったのは、この句を詠んだ翌日、十一月二十四日となっています。ただ、二十三日の夕方はすでに実家の前を通り抜け、その時、掲出句が生まれたのでしょう。遺産交渉がまだ完全に終わっていなかったので、最初の晩から実家にいる義母と義弟を訪ねる訳にはいかなかったのです……。

 一茶は江戸から七日間必死で歩いて来ました。吹雪の夜です。それでも、生まれた家に辿り着いたものの、玄関に入ることすら許されません。その夜は、もう少し先にある二之倉という隣村の、実母の親戚の家に泊まります。

 読者の皆さんは「これがまあのか雪五尺」という別案の方をご存じでしょう。たしかに十一月二十三日付の『七番日記』には「つひの栖か」しか載っていません。しかし僕は『句稿消息』所収の「死所かよ」こそが一茶の傑作であり、一茶の本心を伝える秀句だと思います。

 「死所かよ」が載っているのは、帰郷直後に一茶が江戸の俳友・夏目成美へ送った書簡のなかだけです。それも冒頭に、「これがまあ死所かよ雪五尺」と「これがまあつひの栖か雪五尺」が併記されています。一茶はこの手紙を最初に、その後四年にわたって成美と文通を重ね、自作六百六十句の添削を依頼してゆきます。江戸を捨てても、彼は“一流の俳人として認められる”という夢を捨てていません。成美との文通で、中央の文化と最後の繫がりをもちたかったのでしょう。しばらくして成美から返信が届きます。「これがまあつひの栖か雪五尺」の上、最高評価の「極上々吉」が朱書されています。しかし、「これがまあ死所かよ雪五尺」は太い線で抹消されています。それに、文末には成美の「わる口」一言が……。

   情がこはくて一ッ風流だから、ではとらぬ。  雪の中でお念仏でもいつてゐるがいい

 「切落」とはもともと演劇界の俗語で、ここでは句会の常連客という意味になります。つまり、お前は情が激しすぎて、風流な句会の常連たちはお前の句なんか採らないよ、雪の中で情を冷やすがよいと、叱られたような、誉められたような評でした。いくらなんでも、そんな言い方はないだろう、と一茶は思ったに違いありません。

 とにかく、「死所」は江戸の趣味に合いませんでした。そうはいえ、江戸の奴らは北信濃の雪の怖さを知ってるのか、と一茶はつぶやいたのでしょう……。 

        *     *

 僕は十年前に母国のフランス・パリから、この北信濃の長野市に引っ越して来ました。信州の方言で最初に覚えたのは「こわい」という形容詞です。ここでは「疲れた」に近い意味で、特に雪の多いころに使います。東京やパリなどの風流な方々には「こわい」の意味が分からないでしょうね。ここの雪は「怖い」ほど「疲れる」のです。ここの雪は人間の命を狙うような恐ろしさがあります。ここの雪は芭蕉さんのいう「幻の住みか」を踏まえたような表現「つひの栖」、そんな奇麗事では表せるものではありません。やはり「死所」です。

 一茶は雪五尺(一.五メートル以上)に埋もれた実家を前に、さまざまなことを思い出したでしょう。四十七年前、顔も知らぬ母親はこの家で亡くなったそうです。そして、それから継母などにいじめられ、今までのすべての苦労が始まりました。今晩は、吹雪にもかかわらず、遠慮なく実家に入ることすらできません。一茶はこの句を詠んだ時、雪の恐怖、そして死の恐怖をいたく強く覚えたのです。彼は母親を失って以来、常に死を恐れていました。母の死のせいで子供として否定され、その後は父の死のせいで百姓の跡継ぎを否定され、最後は師匠・素丸や俳友の花嬌、双樹などに先立たれ、江戸俳壇の人脈も失ってしまいました。やはり、一茶が生涯残した二万句(実際には四万句以上もあったと推測されています)、それらはすべて死に負けないための猛烈な創作意欲によるものだと思います。最初は自分の生きた証が欲しかったのでしょう。しかし帰郷してからは、一茶は成美など、に認められるために発句を作らなくなりました。自分というい命、または他の弱い人間たち(子供、百姓など)あるいは小さな動植物の命を励ますために作句するようになったと、僕は思います。

        *     *

 先月、吟行を目的にひとりでエジプトを旅行して来ました。ケフのピラミッドにあるファラオの墓に入り、その後ふたたび外に出て、の上から太陽神を仰いだ瞬間、突如一茶の猛烈な創作意欲の意味がみえたような気がしました。「一茶の二万句は精子なんだ! 命を伝えるための精子だ! 彼は両親、妻、そして子供全員に死なれたからこそ、あれだけたくさんの句を作りたくなったのだ、一茶の二万句は死に負けないための巨大な金字塔だ!」と、ひとりで日本語で叫びました。一茶の句は尊くて儚い命を伝えるための精子のようなものだったのです。門を閉じた実家に舞い降りる雪片のような精子。しかし、雪のように死をもたらすものではなく、よろずの命を運ぶ精子だったのです。

  かるた程のなの花にけり

 文化十年正月十二日(西暦一八一三年二月十二日)の作(『七番日記』)。

 歌留多程度の面積しかない菜の花畑といえば、蕪村の壮大な景句「菜の花や月は東に日は西に」の反転としても面白い句ですね。一茶はこのころ柏原と同じ千曲川左岸の隣村や善光寺町の近辺を歩き回り、少しずつ弟子を獲得してゆきます。百姓という身分のため、江戸で俳諧師に認められなかった彼ですが、全国の俳人番付では一茶調の“田舎体”は高く評価され、文化八年に発行された「正風俳諧名家」などでは東日本の最上段八位にランクされています。おりしもその時北信濃には一流の指導者はなく、十二年前に亡くなった善光寺町の宗匠・の門人たちはおのずと一茶門となってゆきます。「一茶社中」形成の第二期に当たる、極めて重要な時期です。地方の俳業を目差す一茶は挨拶回りを続け、文化十年は七十五日しか柏原に泊まっていません(小林計一郎著『俳人一茶』を参照)。掲出句はきっと一月に長らく滞在した長沼(現在の長野市)の西嶋宅辺りで詠んだものでしょう。江戸に比べれば、信濃のパトロンたちは質素な生活ぶりです。それでも、彼らは自分でナタネから油を搾り、句会の夜は惜しみなく行灯の油を燃やしてくれます。自分で作った油ですから、江戸のように商人から買う必要はありません。鎌で刈ったナタネの一部が自然に地に落ちて、翌年はまた同じぐらいの菜の花が咲きます。便利な花ですね。前の年の太陽が作ってくれた種で、生活のための明かりがちょうど間に合うのです。しかもおまけに、(これは一茶には分からなかったはずですが)植物の栽培と燃焼のバランスがとれて、一切二酸化炭素を増やさないエネルギー源となっています。石川英輔氏(『大江戸のリサイクル事情』講談社文庫、一九九七)によると、

   燃やしてできる二酸化炭素は、再び大気に混じって  リサイクルし、いずれまたどこかの植物に取り込まれ  て植物体となった。一年に燃やす量と、一年間にでき  る量は同じだったから、全体からいえば何も増えず、  減らない。

        *     *

 そういえば、僕の実家のあるフランス・ノルマンディー地方・カン市の市営バスは、僕が高校生だった一九八〇年代後半のころから、全線ナタネ油(moteurà l huile decolza)で走っています。僕は毎日バスで三十分ぐらい通学していましたが、あの長い道程は実は二酸化炭素を一切増やしていなかったのです。カン市の中心部からサン・コンテスト村まで、下校路の後半はずっと菜の花畑の中をバスが走っていました。いい風景でした。ノルマンディーの農家の皆さんは近年、麦の値下げに悩まされていましたが、バイオ・ディーゼルとバイオ・エタノールの普及のお陰で、祖先の土地を手放さないで生活ができるようになったといいます。EU議会の強い意志によって、二〇二〇年までに欧州連合の車燃料の二十%が植物性燃料に変えられることになっています(現在フランスは二%、ドイツは五%程度です)。

 ところで父もときどきガソリンの代りにバイオ・エタノールを入れています。「ちょっと高いけど、今日は機嫌がいいからさ、バイオでいこう!本当はトヨタのハイブリ

ッド車を買いたいけど、あれは高過ぎるよねぇ…」と言いながら、いつもサービス・ステーションのお姉さんへ軽いウィンクを送ります。父の“エコナンパ”はそのお姉さんには効果がないようですが、地球には悪くないでしょう!

③“鄙び”の発見

花に出て犬のきげんもとりけらし

 文化十年正月二十六日(西暦一八一三年二月二十六日)の作(『七番日記』)。

 この日、一茶こと小林弥太郎は北信濃・柏原の実家で遺産交渉の最後の「熟談」に臨みます。番犬は覚えてくれたようで、歓迎してくれました。庭先の小さな菜の花畑に出て、折れんばかりに尻尾を振りながら久しぶりに来た弥太郎の顔を舐めたりしたのでしょうか。犬なんか損害賠償のことなど、七年分の田畑の収益や家賃の返済など、そんな下らない家族喧嘩とは無縁の生き物ですから。犬は一度その人が仲間だと決めれば、一生裏切らないし、無償の愛を捧げます。乞食の犬だって餌が貰えなくても絶対に他のあるじのところへは行きません。一茶はその時、俳人こそ犬のように、無我無心に生きるがよいと思ったのではないでしょうか。江戸の俳人たちは季題として「猫の恋」をよく詠んだりしますが、上記の一茶句のように実感をもって犬や猫を詠うことが少ないです。現代俳句においては、ペット・ブームにともない「ペット俳句」が増えて来ているようですが、この種の俳句も一茶の小動物詠が元祖だといえるかもしれません。ペットは、今も昔も人間と自然の中間に位置する、特別な生き物です。自然の法則を守りながらも、一生懸命に人間に合わせようとします。つまり一茶にとってもわれわれ現代人にとっても、ペットは大らかな自然と繫がるための大切な仲介役なのです。

 ところでその日、仲裁に入ったのは(犬だけではなく!)、小林家の菩提寺・明専寺の住職です。一茶はずいぶん妥協させられました。父の死から遺産折半の交渉終了までの七年間、別のところで家賃を払いながら農作の収益を得られなかった一茶にとって、損失が三十両に上ります。現在の物価に換算するのは不可能ですが、大工の日当を基準にすれば約九百万円、かけそばを基準にすれば約四百五十万円となります(『江戸時代館』小学館参照)。結局一茶は十一両二分で我慢することになりました。だいたい六百万円を二百万円に減らされたような落胆ですね。

 それでも一茶は、犬に顔を舐められながら、初めて自分の家を持つという幸せを嚙み締めたに違いありません。たとえ腹違いの弟と半々に分けた家であっても……。

        *     *

 二十一世紀の僕らも、もし地球という共通の「家」に末長く生き続けたいのであれば、今後金銭的な犠牲が必要不可欠になってゆきそうです。問題は意外と単純です。たとえば世界経済の利益の五%を環境保護に割り当てる必要があったとしても、それだけで永久に地球温暖化を防ぐことができるのであれば、誰しも喜んでその犠牲を払うのではないでしょうか。ただ、石油産業や自動車企業などは、基本的には目先の利益を優先するので、進んで二酸化炭素排出の削減に協力する訳がないでしょう。そんな時こそ、国民が政治家を動かさなければならない、という気がします。

 二〇〇七年のフランス大統領選挙の際、環境保護運動家のニコラ・ユロー氏(NicolasHulot)はフランス革命を支えたルソーの「社会契約」に因んで、「エコロジー革命」(Révolutionécologique)を支えるべく「エコロジー契約」(Pacteécologique)を発表し、それぞれの候補者へ働きかけました。エコロジー契約の一つに、「炭素税」(taxecarbone)の設立が含まれています。要は、すべての商品の値段の一部として、品物の発売までにかかった化石燃料(水、肥料、飼料の運送、貨物の運搬などに使われた分)を計算に入れるという制度です。最終的に炭素税で納められた金額を再生可能エネルギー源の開発に使うこととするので、いずれは炭素税の必要性もなくなるといいます。

 ところで、我が家の近くのスーパー「長野東急ライフ」では一年中アスパラガスが販売されています。春夏は長野県産の新鮮なもので、秋冬はオーストラリア産のものに変わり、どちらも三本が約二百円で売られています。で

は、オーストラリアの農家の皆さんに申し訳ありません

が、その品物には運送相当の炭素税を当ててもよいのではないでしょうか。オーストラリア産のアスパラガスは非常に高くなりますが、僕は春だけ長野県産の美味しいものを頂きます(そういえば毎年うちの庭にも五、六本ばかり自然に生えて来ますよ!)。

蚊いぶしもなぐさみになるひとり哉

 文化十年五月二十一日(西暦一八一三年六月十九日)の作(『七番日記』『志多良』『句稿消息』など)。

 哲学的な深みのある秀句だと思います。この日の句日記には「父十三忌 墓参」とあります。家族で唯一の頼りだ

った父親をチフスで突然亡くしたのは、十二年前(数え年では十三年前)の享和元年五月二十一日です。十三回忌の法要はすでに一月に済ませましたが、この日、一茶は独りで亡父を悼みます。彼はまだ実家に戻っていません。遺産交渉の契約に従って一茶のために部屋の半分が用意されることになっていますが、あと数か月かかりそうです。今は亡き母の実家・宮沢家から部屋を借りたり、俳友たちの家で居候したりして、に近い生活を続けています。そこで一茶は、蚊いぶしの煙を眺めながら、フロイトの精神分析論に匹敵するほどの深い人間洞察(人間探求?)の句を詠みます。人間は蚊を殺して快感を味わうことがあります。この快感は、他の動物にみられない「死の本能」、フロイトのいう「タナトス」によります。だからこそ人間はありのままの自然を受け入れないで、自分の環境の理法を否定し、快適な生活を求めるのです。それと同時に、人間は自分や他の動物に同情したり、思いやったりすることもできます。この「思いやり」も他の動物にはみられません。犬の群れの中でさえ、自分より弱い犬を救おうという、いわゆる

“福祉的”な発想は認められません。人間の「思いやり」はすなわち「生の本能」、フロイトのいう「エロス」なのです。人間はその「死の本能」と「生の本能」の釣り合いを保って生きています。年を重ねるにしたがって、ほとんどの人間は争う姿勢よりも調和的な生き方へ傾倒してゆきます。一茶もまた、不当な境遇に反発して風刺の句を多く吐いた時期がありました。しかしこの夏ごろから、少しずつ他の人間や弱い生き物に対して、そして蚊に対しても慈愛を覚えるようになります。彼の内心には「死の本能」よりも「生の本能」の方が強くなります。彼は「心のエコロジスト」になってゆきます。

うつくしやせうじの穴の天川

 文化十年七月四日(西暦一八一三年七月三十日)の作

(『七番日記』『志多良』など)。

 六月十八日から九月五日までの七十五日間、一茶は善光寺町の門人・上原文路宅「」で長らく病臥しています。が体中に広がり、痛みが日に日に激しくなる最中、彼は辞世のつもりで掲出句を詠みます。『志多良』

(三)にみる後書によると、同じ伝染病で辺りでは死者が相次ぎました。そこで一茶は、生きる望みを捨てて次のように書き記しています。

 桂好亭をのとたのみて、けふかかと鐘聞くのみ。さりながら今身まかりぬとも、跡に泣迷ふ妻子もあらねば、なか〳〵いまはの時はうしろやすからん

 一茶はどうしても、嫁を迎えて、そして子供を授かってからこの世を去りたかったのです。つまり一茶にとって、俳諧よりもさらに大切なものは唯一、命を伝えることにあったといっても過言ではないでしょう。一茶は家庭や生活を捨てるまでして風狂に興ずる俳諧が偽りの風雅であると、悟ったと思います。誠の美とは、懸命に生きる農民たちの破れ障子、そして信州の澄んだ夜空にあります。この句以降一茶は、「わび・さび」という蕉風の“日本的美学”に、「び」という“万国共通の美学”を足してゆくのです。

 三か月後、ついに病を逃れた一茶は、俳友に囲まれて芭蕉忌を迎えます。彼はその際、病床で仰いだ破れ障子の中の星空の美しさを思い出したに違いありません。蘇った自分の命に感謝し、謙虚に造化にしたがうことの大切さ、いわば「ひなびのエコロジー」と呼べるような革新的な人生観を創唱します。「あるがままの芭蕉会」(前田利治『一茶の俳風』「志多良別稿」を参照)には、その真髄が記されています。

 よひの集ひは、炉をかこみてくつろぎてこそ御心に叶ひ侍りなん。又、宗門にては、あながちに弟子と云はず、師といはず(中略)たゞ四時を友として、造化にしたがひ、言語の雅俗よりも心の誠をこそのぶべけれ。

第二章 鄙びからヒューマニズムへ(結婚、第一子の死、文化十~十三年)

④恋の予感

  庵の夜は餅一枚の明り哉

 文化十年十月十一日(西暦一八一三年十一月三日)の作か(『七番日記』)。

 このころの一茶はついに秋の大病が完治し、生まれ変わったかのような凄まじい創造力をみせます。『七番日記』のなかでも、この文化十年の作品数が最多で、一一七三句にのぼります。秋の病中の名吟「うつくしやせうじの穴の天川」以降、一茶はなぜか故郷に対して嫌みたっぷりの句をほとんど詠まなくなり、むしろ農民の質素な生活が「うつくし」いと感じるようになります。藤沢周平いわく「句柄が幾分丸味を帯びてきたようだった」(『一茶』、文春文庫、二七六頁)。僕が思うには、重病を乗り越えた一茶はともかく生きていることに感謝し、地方でこそ俳諧師を務めたいと、心を改めたからです。蕉風の「わび・さび」がうまく理解できなくても、自分には「ひなび」という新しい俳道が残されていると悟ったからでしょう。俳諧精神の支柱である「雅俗混交」を「雅鄙混交」に置き換えてこそ、新しい風雅が生まれるのだ、という使命感が一茶の内心に芽生えたのかもしれません。掲出句を詠んだ翌日、十月十二日には彼は「一茶社中」の連衆に囲まれて、芭蕉忌を修する席で次の名言を吐きます(前田利治『一茶の俳風』「あるがままの芭蕉会」を参照)。

 吹く松風の音もあるがまゝ、灯火のかげもしづかにて心ゆくばかり興じけり。実に仏法は出家より俗家の法、風雅も三五隠者のせまき遊興の道にあらず。諸人が心のやり所となすべきなん。

 質素な生き方を知る地方の俗人こそ、心を共にすれば風雅に達することができるという“雅鄙混交”のクレドです。

 掲出句に戻りましょう。庵には村人が搗いてくれた餅一枚しかありません。餅はのちに腹ごしらえとなるばかりではなく、囲炉裏の薄明かりを反射し、わずかに部屋の照明の足しにもなっています。この句は、翌朝一茶が俳諧仲間の前で勧める美学を具現しているといえましょう。「吹く松風の音もあるがまゝ、灯火のかげもしづかに」して生きること、その静謐で薄暗い鄙びの生活が詠われています。

        *     *

 谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』のなかで日本文化における“翳り”の美学(床の間、蒔絵、囲炉裏、厠など)を讃え、西洋化によって明るくなり過ぎた近代日本の生活を批判しています。一つだけ、異見があります。「西洋化」といわず「アメリカナイズ」と述べた方が谷崎文豪の分析が的を射たと僕は思います。ヨーロッパでは現在も明るすぎた照明が“下品”あるいは“成金的”とよくいわれたりします。また、十七世紀フランスの画家、ラ・トゥールやオランダのレンブラントなどの静謐な明暗の描き方を鑑賞さえすれば、ヨーロッパにおける「翳りの文化」の深さをうかがうことができるでしょう。事実、ヨーロッパの古都は夜間、今も大変暗いです。シャンゼリゼ大通りのクリスマス電飾も、近年は品格と省エネルギーに配慮して段々と質素になって来ています(二〇〇七年からは発光管電球が使用されています)。

 いうまでもなく、現代では一茶の庵ほど薄暗い環境で生活するべきだと主張しても非現実的です。ただ、ほどよく「灯火のかげもしづかに」して、たとえば古き良きだるまストーブを囲み、その天板で餅などを焼いたりするのは味わい深い“鄙びのライフスタイル”ではないでしょうか。実は僕も今、この書斎にだるまストーブを置いていますが、冬の間は毎日のように様々な料理をストーブのやわらかな炎で温めています。今日はレンズ豆と骨付き豚肉の煮込みで、明後日までストーブの端っこに乗せて極小の火力で煮込む予定です。コンロでは、安全装置があるため、本格的な出汁作りに必要不可欠な“超弱火”の設定ができません。ストーブなら、ポトフーもシチューもスープも、無駄なガスを使わずに美味しく作れます。ぜひお試しあれ!

  むまさうな雪がふうはりふはり哉

 文化十年閏十一月十五日(西暦一八一四年一月六日)の作(『七番日記』『句稿消息』など)。

 「むまさう」は「うまさう」(旨そう)の音便的な変化による口語表現です。江戸時代では語頭の「う」の発音があまり好まれませんでした。芭蕉も「むめがゝにのつと日の出る山路かな」という名句を詠んでいます。事実、掲出句は従来一茶の“口語調の名句”として鑑賞されて来ました。そして、二回も繰り返される「ふうはりふはり」の擬態語が饒舌なあまり、批判の的にもなりました。一茶は、この句を江戸の俳友・成美へ送ったところ、強く叱られたことがあります。「惟然坊が洒落におち入らんことおそるゝ也」、すなわち“極端な口語調に走った芭蕉の最後の十哲・惟然のように駄洒落くさい俳風に陥るな”という酷評が返って来たわけです。加藤楸邨も『一茶秀句』のなかでこの句について「一茶独自の軽妙な口語的・俗語的発想」や「農村的性格」が表れていると認める反面、一茶が農民であるがゆえ「この惟然坊的なもの」から脱出できず、結局その後一茶句のこの特徴が「俳句性を弱めたことも見のがせない」と評しています。

 ここも僕は異見があります。なぜ日本の近代文学者は音韻的な工夫を詩作の長所の一つとして評価できないものでしょうか。素直に掲出句を何遍も繰り返して音読すれば、体で韻きの素晴らしさが実感できるはずですが…‥。

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 二〇〇六年十一月二十六日、フランス・ハイク協会主催

の「第二回フランス語圏ハイク・フェスティバル」に招かれ、パリで一茶についてお話をして来ました(http://www.manteaudetoiles.net/categorie-881842.html を参照)。講演中、フランスのハイク詩人の皆さんと「むまさうな」の句などを日本語で音読したり、上五・中七・下五の頭に置かれた「ウ」段の頭韻のやわらかなリズムや、擬態語の反復による“牡丹雪的なうなり”の印象を説明したりしました。講演終了後、「一茶の俳句による現代歌曲」のリサイタルが開かれました。若手作曲家シャルロット・ペレー女史(CharlottePerrey)による「一茶の水織音」という組曲の第一曲はやはり「むまさうな」の句に乗せられた、優美にして官能的ともいえる調べでした。その時、ソプラノの美声に揺られながら、僕は初めてこの句の深意を理解したような気がしました。

 雪を詠んだ一茶句のほとんどは、雪国での生活の辛さを描いているものです(五月号の「これがまあ死所かよ雪五尺」を参照)。しかし「むまさうな」の句だけ、まるで綿菓子をむさぼり食うような、至福の心境を詠っています。では、なぜ北信濃での生活の大変さを象徴する「雪」が突如、一茶にとって「旨そう」なものに変わってしまったのですか。このパラドックスは、一茶の内心に芽生えた“恋のようなもの”でしか説明できないと僕は思います。事実一茶はそのころ亡き母の親戚の知り合いである「菊」という女性との結婚を勧められたのです。一茶は五十二歳にして初婚、菊は二十八歳の美女。換言すれば、その時の一茶は「むまさうな菊がふうはりふはり哉」とでも唱えたかったに違いないでしょう。ともかく僕は、パリの「一茶の夕べ」で聴いたソプラノの美声のお陰で、この十七音のリフレインが恋の歌だと確信したのです。

  雪とけて村一ぱいの子ども哉

 文化十一年正月十一日(西暦一八一四年三月二日)の作(『七番日記』など)。

 前述の「むまさうな」の句と同様、ついに嫁を迎えることになった一茶の喜びの歌でしょう。この見解を裏付けるには、今回は一茶の日記、書簡、文学研究などに頼らず、大小説家・藤沢周平の直感を信じたいと思います。『一茶』のなかで、文化十一年晩冬のある夕方のこと、二之倉の村で縁談が進められた後の一茶の心境は次のように描かれています。

二之倉から遠ざかるにつれて、だんだんに嫁を迎える喜びがこみあげてくるようだった。

――人なみじゃな。これで人なみじゃ。(中略)

柏原に近くなって、村はずれの原っぱで子供たちが雪を投げて遊んでいるのを見ると一茶はさらに眼をほそめて、心の中で呼びかけた。

 掲出句を詠んだのは、そんな瞬間だったのではないでしょうか。一茶は、早春の息吹にふれて、長年心を蓋っていた氷雪がついに解けたような思いでした。子宝に恵まれるはずの、新たな人生の出発点に立っていたのです。山尾三省氏も『カミを詠んだ一茶の俳句』のなかで同様の解釈をしています。

あるべき一茶が、まさしく雪どけの奔流のように流れ出したのは、まことに自然の事柄であった。

 一茶にとって「雪」という恐ろしい神の代わりに、「子供」すなわち命の神が現れた瞬間であります。

⑤鄙びの女

  雛棚や雇たやうに飛ぶ小蝶

 文化十一年二月二十一日(西暦一八一四年四月十一日)の作(『七番日記』)。

 この日、句日記に「家取立合」とあります。一年前に決着した相続交渉に従って、一茶はついに義理の弟と実家の間取りを半分ずつに分けて貰います。一茶の生母の親戚、後見役をつとめる宮沢徳左衛門などが立ち会っています。 実家は間口九間余、奥行二十三間と、二つに分けてもそれぞれに家族が住めるほどの面積はあります。

 その日の一茶作は二句、なぜか両句とも「雛」を詠んでいます。もしかすると、家の押入れの中を調べてみたら、懐かしい雛人形が出て来たのでは? 一茶は義弟と二人兄弟、男ばかりの家ですから、その雛は一茶の産みの母の形見だったりして?……彼は雛棚の小宇宙に引き込まれ、一瞬この男の世界の争い事を忘れます。おりしも人形たちの間に胡蝶が現れると、まるで人形の魂が蝶々のわずかな意思と通じ合っているように見えます。ああ、世の中もこのように軽やかにして、そして優しく人間たちが生きていれば、と一茶がつぶやいたのでは?

 一茶晩年の小動物詠の多さは有名です。なかでも「蝶」と「蛙」を詠んだ句は約三百句ずつ残っており、最多数を占めています。蝶の方はやはり女性的なイメージとして詠まれ、のちに幼いころの一茶の長女「さと」とよく取り合わせられる題材となってゆきます。掲出句に登場する「雛」も、一茶にとって幼い女の子のような、“小さな命”を象徴しているといえましょう。そして実は、そんな“小さな命”に対する一茶の眼差は、二十一世紀のわれわれが自然に対して持つべき姿勢を教えてくれるのです。

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 地球温暖化を初めて実証した研究者は、テキサス大学のカミーユ・パルメサン(CamilleParmesan)氏といわれています。彼女は、まだ学部生だった一九八三年の夏、チョウ類・ガ類研究家のマイク・シンガー氏という先輩に誘われ、カリフォルニアまで蝶の収集へ出かけたそうです。パルメサン女史いわく「あの夏、私は蝶と恋に堕ちて、彼とも恋に陥ちたのです」。一九九二年に二人はめでたく結婚し、九五年には彼女の博士論文が受理されました。

 その後、ヨーロッパの蝶の棲息地を調査し始めたパルメサン博士は大発見に至ります。二十世紀最後の二十年の間、ヨーロッパのチョウ類の約六十五%が北へ移動し続けて来たという結果が出るのです(Climatechange and biodiversity, Yale University Press,2005を参照)。つまり、蝶は気温の変化に大変敏感な動物であるため、他の生き物よりも一足早く地球温暖化を感じ取っていたということになります。のちにIPCC(気候変動に関する政府間パネル)レポートの執筆者となったパルメサン教授は、蝶のみならず、多くの両生類、渡り鳥、ペンギンなどの絶滅の可能性を指摘しました。

 気候変動に敏感な動物の場合、たとえ〇・一度の平均気温の上昇でも、すぐ北の地方へ移動しなければなりませんが、都会や海や山があったりして、新しい環境に対応できないことが多いといいます。そのため、気温変動に最も弱い生き物が先に滅び始め、そのうちに地球全体の生態が乱れ、人間(農業、漁業、日常生活など)にも多大な影響が出るとパルメサン教授が警鐘を鳴らしています。

 いずれは日本でも蝶や蛙がほぼ全滅し、たとえば小動物を哀れんだ一茶の名句の数々を読んでも、僕らの子供たちは何の実感もわかないと言うようになるかもしれません。 IPCCのレポート(http://www.ipcc.ch/pub/nonun/TAR_

SYR_SPMJP.PDFを参照)によると、二〇五〇年まで、地球の平均気温は少なくとも一九九〇年よりもセ氏〇・八度、多くて二・六度ほど上昇すると予測されています。後者の場合は人類の生存にも非常に深刻な影響が出るそうです。僕はその時、もし生きていれば八十二歳です。自分の子供たちに恨まれるような将来を残しながら人生の幕を閉じたくありません。

 白水が畑へ流て春の月

 文化十一年早春(西暦一八一四年春)の作か(『七番日記』)。

 句日記では掲出句の上に「正月二日」と記されています。ただ、二月の章と三月の章の間に挟まれているので、確実に創作時期を断定することが難しいです。おそらく、一茶が引越しの準備などで忙しかったころの作でしょう。まだ亡き母の実家で部屋を借りていたので、そこで平和な家族光景を覗いたりして、掲出句を詠んだのかもしれません。「白水」とは米の研ぎ汁のことを指します。しっとりした、ある朧夜のことです。信濃の月は畑や水田に映されて、厨から流れ行く研ぎ汁を照らしています。こうやって毎晩、お米の糠の一部が土に還り、栄養となり、翌年の農作を培ってくれるのです。近世村人の生活はまさに循環型のライフサイクルに支えられていました。家から出る廃棄物はもちろんオーガニックなものばかりで、ほとんどは肥料に使われていました。洗濯の洗剤も、灰や土や木の実で間に合っていました。

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 先日、パリ郊外にある兄の家を訪れた折、洗濯機の中に不思議な木の実を見つけました。義姉のマリ=ピエールに訊くと、「これは、今フランスの若い女性の間で流行っている、昔風の洗剤なの。noixde lavageなんです!」と返って来ました(http://www.azimuts-art-nepal.com/を参照)。

 物はナツメッグほどの大きさの木の実で、四個から六個を洗濯機に入れると合成洗剤と同じようにシミがきれいに落ちて、値段もずいぶん安いとのことです。義姉の使う物は原産国がインドですが、インターネットで買うとフェア・トレード(原産国の通常の給料水準の一・五倍を農家に支払い、運送も環境に配慮した)という基準が保障されているといいます。それまで僕はマリ=ピエール姉に対して、のんきに生きる“若きマダム”というイメージがありましたが、その時の彼女の一言はなかなかパンチが効いていました。「そうよ、グローバリゼーションだって、かならずしも環境と矛盾しないわ。やり方次第よ!」

  時鳥俗な庵とさみするな

 文化十一年四月十日(西暦一八一四年五月二十九日)の作(『七番日記』)。

 「さみするな」(褊するな)はここで「あなどるな、けなすな」を意味します。優雅な鳴き声を放つ野鳥の代表格「ホトトギス」が飛んで来ても、一茶のみすぼらしい庵ではあまり絵にならないが、それでも嫌な顔をしないでね、という意味の自嘲的な句として解釈できるでしょう。たしかに信州では春が来れば、市街地でも様々な鳴き声が響き渡ります。僕が借りている長野市内の古民家の庭にも、毎年同じカッコウがやって来て朝から晩まで朗らかに縄張りを守り続けています。しかしここ二、三年、地球温暖化のせいでしょうか、そのカッコウは涼しさを求めて二週間も経たないうちにさっさと飯綱山へ飛んで行くのです。

 さて、掲出句がもつ、もう一つの意味に触れましょう。この句の翌日の欄に「妻来」とあります。そう、このホトトギスは実は、一茶の新妻「菊」のことを指すのです。このころの句日記は一週間ぐらいもっぱら「時鳥」や「閑古鳥」という題材が続きます。西暦では五月末に当たるので、実際にその鳥たちの声が聞こえてもおかしくありません。しかし鳥たち以上に、一茶の目に焼きついていたのは、二十四歳年下の、美しすぎるほどの花嫁・菊だったのです。

 彼女は隣村・赤川の常田家の娘で、米穀取引を兼ねた大きな農家で育っていました。そうはいえ、彼女も一茶と同じ、北信濃の百姓でした。一茶の生活ぶりを軽蔑するわけはありません。彼女の自然の振る舞いと気取りのなさに、一茶は惚れてしまいました。彼は、十四歳から五十歳過ぎの帰郷まで、江戸の下級女郎と遊んだりはしましたが、同郷の純情な娘と付き合うのは初めてだったでしょう。江戸の女にとって、田舎の生活は卑俗なもので、軽蔑すべきものであります。しかし菊にとっては、それが当たり前の、謙虚な生き方なのです。そんな新妻の優しさに触れて、一茶はきっと「鄙びの女」の魅力を見直したに違いありません。手の届かない「雅な姫」でもなく、田舎者をあなどる「下町の遊女」でもなく、「鄙びの女」という未知の女性のタイプがありました。一茶にとって、信州の花嫁は珍しい野鳥以上に麗しく、そして初々しく見えたのです。(実は僕も、昨年暮れ、北信濃・須坂出身の女性「とよ」と結婚致しました。彼女は「菊」と同じように、四月に、鳥たちと共に、僕の家に引っ越して来たところです。僕も、一茶のように妻から穏やかな信州の“鄙びた生活”を学んでゆきたいと思います……。)

⑥五十の恋

我星は年寄組や天の川

 文化十一年七月六日(西暦一八一四年八月二十日)の作(『七番日記』)。

 一茶が二十四歳年下の新妻と結ばれてから初めての七夕祭、いわば“恋の祭”(今でいえばバレンタイン・デーのような日?)を迎えています。結婚した当初から彼は自分の高齢(五十一歳)についてコンプレックスを抱いていました。当時の真蹟に「五十聟天窓をかくす扇かな」というビビッドな自嘲句も残っています。掲出句はもう少し軽く興じた詠みっぷりが朗らかです。我は、青く輝く彦星のような若々しい夫ではありませんが、「年寄組」の星、たとえば銀河の端っこで瞬くような、赤みを帯びたような古い星でも結構だ、という句意が一茶らしいですね。

 大気汚染もなく、街灯などの無駄な明かりもない近世信濃の村では、空が晴れてさえいれば毎日のように天の川を眺めることができたでしょう。そして一茶のように、星の様々な色や輝き方を観察すれば、星が年を取ってゆくという科学的事実を直感的に解ることもできたはずです。澄んだ空の下で生活していた近世の日本人、とりわけ村人たちはわれわれ現代人よりもはるかに広い視野で世界を見ていたのではないか、という気がします。芭蕉も信濃の隣にある越後で「荒海や佐渡によこたふ天川」を詠みましたが、これほど壮大な景を包括した句作は近・現代俳句ではほとんど見られなくなったといえるでしょう。客観写生、それも細かい花鳥諷詠重視の時代に入ってからは、日本の俳人の視野がずいぶん狭くなったといえるのではないでしょうか。

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 たびたび思うことがあります。それは、たとえ地球温暖化を抑えることが不可能だったとしても、あるいは手遅れだったと判明したとしても、万国が一緒になって地球全体の将来を考え始めたのは決して間違いではなかったということです。というのは(洒落た言い方をすれば)「エコロジーはえこひいきの逆」ですから。国籍、人種、宗教など、従来の狭い価値観で人類の歩みを考えるのではなく、同じ惑星の仲間として“地球的意識”をもつことこそが、環境保護の絶対条件であります。

 初めて人間の手によって地球は危機に直面していますが、一方ではわれわれ人間は素晴らしい教訓を引き出すことができました。初めて「地球は一つだ」と実感できたのです。いや、初めてではないかもしれません。一茶や芭蕉のような、産業革命以前の人々は、清澄な星空を仰いでいた時など、おのずと地球的な、大らかな物の見方をもっていたのではないでしょうか。

江戸〳〵とエドへ出れば秋の暮

 文化十一年八月下旬(西暦一八一四年十月中旬)の作(『七番日記』)。

 帰郷永住を決意し信州に住み着いてから二年、一茶は再び江戸へ向かい、挨拶回りの旅に出ます。八月二日に善光寺を出て、戸倉、小諸、碓氷峠、大宮などを経由し、ついに十六日の夜には下総の流山に到着します。二年前の時は、一茶は吹雪にもかかわらず、逆の道程をわずか七日間で歩いていました。今回はその倍以上かかります。一日平均四十キロという歩調はなぜか一日二十キロ以下に落ちてしまいました。四十九歳と五十一歳の体調の違いでしょうか。それとも、後ろ髪を引かれる思いで愛妻を里に残し、江戸の面倒な人付合いに巻き込まれるのを恐れているからでしょうか。後者でしょう。

 ただ、一茶は、信州の俳諧師として箔が付くためにも、きちんとした江戸俳壇引退記念集の刊行が必要不可欠だと知っています。江戸俳壇の大家で、彼の最後の庇護者である夏目成美はもはや六十六歳、最近は体調が衰えてきました。帰郷以降、一茶が成美に文通でお願いしてきた自作の添削も、このごろはほとんど指導をしてくれなくなりました。とにかく成美が生きているうちに、序文を賜り、引退記念句集『三韓人』を江戸で上梓した方がよいのです。つまり一茶は、面倒な出張で上京した“営業マン”、そんな気分で八月十六日、下総地方の夕暮れを眺めています。加藤楸邨(『一茶秀句』)いわく「この『秋の暮』は心の風景でもある」。たしかに。しかし、日本詩歌では本来どちらかといえば都人が僻地を訪れ、寒村で「秋の暮」の寂しさを堪能することになっています。芭蕉は「此道や行人なしに秋の暮」を詠んだり、『おくのほそ道』で敦賀湾の「浜の秋」の夕暮れを味わいながら源氏の流謫地「須磨」へ思いを馳せたりしました。やはり一茶はここも中央文化の伝統的美意識を覆しています。「江戸だって冷たい町だ。頼れる人もいなければ、江戸の秋の暮こそ、寂寞とした風景だ。ここまで歩いて来た意味があったのか?」と、一茶は都会人たちへ“田舎者の意地”を投げ掛けているようです。

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 江戸時代、陸上の交通手段といえば歩行、乗馬あるいは駕籠しかなかったため、人々は無駄な移動を慎み、あらかじめ道程の効率を確認してから出かけていたのです。一里という単位はたいてい人間が準備もなく直ぐ歩いて来られる程度の距離という意味で考えられていたそうです。今、自転車でしたら、六キロぐらいは楽に走って来られる範囲でしょう。実は、先進国では道路交通の三分の二が六キロ以下の移動からなるといいます。そのすべてを自転車、あるいは歩行で行えば、二酸化炭素排出の十五%を減らすことができるという単純計算が成り立ちます(二酸化炭素排出の約二十五%は道路交通が原因ですから)。

 ところで僕も、毎週金曜日、リュックサックを背負って自転車で一週間分の買い物をしに行きます。僕は学生時代をパリで過ごしたためか、若いころは自分の車を持つ必要性を感じないで、結局運転免許を持たないまま日本に引っ越して来ました。今は長野市内のほとんどの移動は自転車に頼っています。しかし、現代日本社会で気に入らないことがあります。それは、自転車使用者に対する冷たい眼差です。オランダなど西欧の国々では自転車で通う人々は環境を守ってくれているということで、皆から誉められ、その公民道徳が称えられます。一方日本では、二輪駐車場が不足し、自転車専用レーンもほとんど存在しません。また、これは日本に限らないでしょうが、車社会であるアメリカの文化的影響が原因か、それともコマーシャルの洗脳効果によるものか、多くの現代人は高級車を持つ人間に対して異様な敬意を払うのです。特に女性は……。やはり、二酸化炭素排出を減らすには、まず女性が抱く男性像を変えなければならない、といっても過言ではないでしょう!

我菊や形にもふりにもかまはずに

 文化十二年九月十三日(西暦一八一五年十月十四日)の作(『七番日記』)。

 普通に読めば、この句は単に信濃で咲く菊花の素朴な美しさを軽く称えたものと思えるでしょう。派手に咲く江戸菊などの珍種よりも、形振りも構わず里山で開く花の方が可愛い、という句意が成り立ちますね。しかしこの句は見事な“二重写し”の構造をもっています。実はこの日、一茶は信州におらず、江戸に着いたばかりなのです。翌日の日記には「おきく赤川ニ文通」とあります。一茶は赤川の実家にいる妻・菊へ手紙を送り、きっとこの句を添えたものでしょう。「おきく」は田舎娘らしく大変な働き者で、明るくて、いつも自然体でいて、一茶にとって世界で最も可愛い存在だったに違いありません。一茶は前年も八月から十二月まで、江戸俳壇引退記念句集『三韓人』の出版のために上京し、愛妻に秋の農作を任せました。そして今年もまた九月から十二月まで上京し、江戸の名俳人・鈴木道彦などに別の刊行物のための寄稿を依頼しなければなりません。今度は自分の句集のための依頼ではなく、長沼(現在の長野市)の門人・佐藤魚淵に頼まれた“営業出張”なのです。裕福な門人である魚淵はどうしても江戸で俳書を出版したいと言い、一茶に代編と企画を任せました。

 本当はそのころの一茶は、「おきく」のことで頭がいっぱいです。そう、彼女はついにお腹に子供を宿したからです。実は一茶は数か月前から日記に妻の月経の日をまめに記しています。最後の記述は七月十日の「妻月水」で、その一か月半後、妻の悪阻を匂わせるような記載があります。八月十六日の日記に「妻ニ用弓黄散」という記述が目立ちます。「芎黄散」は頭痛によく効く薬として知られています。つまり、一茶が江戸へ出かけたころには、妻の月経はもはや一か月遅れていて、菊の悪阻が始まっていたのです。一茶は、江戸で掲出句を詠んだ時、愛妻・菊への感謝の気持をいつになく感じていたのでしょう。形振りも構わないでいつも穏やかに振舞う“田舎娘・菊”のお陰で、一茶は初めて父になり、五十二歳にして「命を伝える」という人間の最も深い本能を満たすことになります。

⑦ヒューマニズム

  瘦蛙まけるな一茶是に有

 文化十三年四月二十日(西暦一八一六年五月十六日)ごろの作(『七番日記』『句稿消息』『一茶句集・希杖本』)。

 名句中の名句です。日本の一般国民の間ではもっとも人気のある一茶句といえましょう。現在全国で建てられている一茶句碑約三百六基のうち、十四基もにこの句が刻まれていて、最多数を占めています(里文出版『一茶と句碑』を参照)。次位は、四基に刻まれた「ゆうぜんとして山を見る蛙哉」などが見られますが、なぜかこの「瘦蛙」は絶大な人気を集めています。金子兜太氏が書いているように、「有名な句だが、内容は、軽い呼びかけ、いささか戯れ気味の呼びかけととるべきものだ」と、俳人の間ではやや軽視されている句ですが……。本当のところ、一茶はここも“二重写し”の句作を嗜み、蛙と同時に人間を詠んでいるのだと僕は思います。そして日本の一般国民がこの句を庭の碑に刻みたくなったのも、単純そうな句意の奥に潜む深い人間愛を感じ取っていたからでしょう。

 『七番日記』の前書によると、時は四月二十日、「蛙たゝかひ」を見た後の作です。『一茶句集・希杖本』では、一茶が信州ではなく、はるか「むさしの国」で「蛙たゝかひ」を観察して詠んだものという説も記されています。ちなみに「蛙戦い」とは、金銭をかける遊びもありましたが、ここでは単に蛙が群集して生殖行為を営んでいる光景を意味するのでしょう。普段は数匹の雄が一匹の雌に挑みかかるので、弱い雄は子孫を残すことが許されません。掲出句の深意はそこにあります。一茶は子孫を残せない病弱な蛙を哀れみつつ、実は自分の姿、そして自分の息子の姿を哀れんでいたのです。

 事実、少し前の四月十四日、愛妻・菊は最初の子を産んだところでした。『七番日記』をみると「瘦蛙」の句の直後、「小児の成長」を喜ぶ前書や幼子を描いた句々が並びます。たとえば、「千太郎」と名付けられた長男に一茶が初めて子供服を着せようとしたら、意外と我が子の成長が早く、つんつるてんに見えたというエピソードが詠われています。

  たのもしやてんつるてんの初袷

 しかし、本当は千太郎は決して「たのもしい」といえるような、元気な赤ちゃんではありませんでした。親心というものは、どの時代でも、どの国でも同じです。我が子が病弱でも、その現実を見たくありません。そして、五月十一日の早朝、一か月足らずで千太郎は発育不全で亡くなります。「瘦蛙」は不運にも負けてしまいました。一茶が初めて愛した子供でした。

 一茶の場合、蛙などの小動物に対する慈愛は、現代にみるような単なる動物愛護的なセンチメンタリズムによるものではないといわざるを得ません。一茶はもちろん小動物を可愛く思ってはいましたが、それ以上に自分の子という人間を愛していたのです。彼は、猛烈な父性本能を持っていたからこそ、胡蝶を見ては少女的な可憐さを愛でたり、蛙を見ては男子的な腕白を称えたりしました。一茶は蝶や蛙などを擬人化しましたが、その小動物を通じてあくまでも人間的なものを詠もうとしていたのです。人間の中の最も素朴で無我無心の美しい部分を、小動物という題材に託して詠っていたといえます。換言すれば、一茶のエコロジー精神はまず、人間愛にしっかりと根付いていたのです。

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 一九八〇年代以降、イギリスやアメリカを中心に、なんと人間よりも動物の生命を尊重すべきと掲げる“エコロジー的原理主義”が現れて来ました。イギリスで発祥したA・L・F(AnimalLiberation Front=動物解放戦線)やE・L・F(EarthLiberation Front=地球解放戦線)あるいはアメリカのEARTHFIRST!という組織がその究極の説と「戦闘方法」をすすめています。たとえば、A・L・Fの会員はたびたび覆面のまま病院や研究室に侵入し、実験用の小動物をケージから放し、施設に火を付けたりしています。「エコ・テロリズム」と名付けられたその様々な行為は次第に拡大し、今、欧米の情報機関は「エコ・テロリズムの9・11」を真剣に恐れているといわれています(Jean-ChristopheRufin, Le parfum d,Adam, Flammarion, 2007を参照)。

 まるで、二十一世紀まで産業革命の先進国として自然を虐げて来た国々の人間が懺悔し、極端に逆の方向へ走っているという感じがします。しかし、あるべき「エコロジー」とは、人間が快適に、しかも末長く地球環境と調和して生きていられるための運動ではないでしょうか。そもそも人間の存在も、いや、人間の存在こそが地球の発展における偉大な達成であると考えるべきでしょう。

 晩年の一茶のように、まずは人間を、とりわけ子供を好きになればよいのです。人間の中の最も美しい部分、それは子供がもつような素朴な感性を目差せばよいのです。そうすればおのずと、動物を思いやったり、植物を大切にしたりする心がわれわれの胸に再び芽生えるに違いありません。エコロジーは人間を忘れたような原理主義的な戦闘になってはいけません。エコロジーはまず、人間愛なのです。

  寝返りをするぞそこのけ蛬

 文化十三年七月八日(西暦一八一六年八月一日)の作(『七番日記』)。

 七夕の翌日、西暦では八月一日、つまり一年でもっとも暑く、様々な昆虫が伝染病を運んだりする時期です。一茶は前々日の日記に「夜大熱 度々雨ニヌレタル故ナラン」と記しています。本当は、一茶がかかった病気はただ雨に濡れたための風邪ではなく、羽斑蚊が運ぶ「瘧」、今でいうマラリアという重病なのです。十六日まで高熱が続き、一茶は門人の家や自宅を転々として、何とかして少しずつ病を治しました。そのころの日記に、病人のうわ言を思わせるような不思議な記述があり、死にかけた幼児が息を吹き返したという噂話などが乱筆されています。やはり、千太郎の死の悲しみはまだ心の奥底に残っていたようです。そんな時、寝たきりの一茶は、同床のキリギリス(コオロギの古称)に気遣って一句をつぶやきます。高熱にもかかわらず、彼は寝返りでコオロギをつぶすまいと、丁寧に呼びかけています。

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 地球に共生するすべての生き物を総括的に考えれば、地球そのものが独立した生命体であるとみてもよいでしょう。そう考えると、地球温暖化の恐ろしさが明らかになります。事実、あらゆる生命体にとって、たとえ一度の体温上昇でも内臓の機能に多大な影響が出るのです。人間の場合、三十七度が三十八度になっただけでも仕事を休まざるを得ません。地球という複雑な生命体の場合は、全体の年間気温の平均がわずか十五度ぐらいです。もし今世紀末に最大予想の六・四度も上昇したら、マラリアどころの高熱ではありません。致命的な大熱というべきでしょう。

  ふしぎ也生た家でけふの月

 文化十三年八月五日(西暦一八一六年八月二十七日)の作(『七番日記』)。

 江戸時代の農民にとって、生まれた家で月見を楽しむのはむしろ当たり前のことでした。しかし一茶にとって「当たり前」が「ふしぎ」であり、この上なくありがたい出来事に感じたとのことです。母の死、父の死、相続争い、最近では長男・千太郎の死にもかかわらず、今、妻と共に我が家で満月を仰いでいます。そして、千太郎の死を乗り越えて、ふたりの絆はさらに強くなりました。

 江戸時代は乳幼児の死亡率が高かったからといって、我が子に先立たれる苦しみが低かったわけではないと僕は思います。どの時代も、どんな環境におかれても、我が子ほど可愛いものはありません。ただ、様々な不幸(病気、災害、身分差別など)を頻繁に体験していた近世の村人は、とりわけ一茶のような不運な人は、不幸の合間に訪れる小さな幸せを心から味わっていたのでしょう。物欲が叶った時よりも、人と人の縁、または人と自然(動植物や自然の原理である“神”など)との縁を実感した時の方が本当の幸せを味わうことができると、彼らは知っていたのです。 この句を読むと、アウシュヴィッツで両親を亡くしたフランスの精神科医B・シリュルニック氏の言葉を思い出します(BorisCyrulnick, De chair et d’âme, Odile Jacob, 2006)。

幸せを見つけるために、不幸になる危険を冒さなければなりません。幸せになりたいのであれば、どんなことがあっても不幸から逃げようという姿勢をとるべきではありません。むしろ、どうやって、そして誰のお世話になって、不幸を乗り越えることができるかを探るべきでしょう。

⑧生命(いのち)の尊さ

一尺の子があぐらかくいろり哉

 文化十三年八月十九日(西暦一八一六年九月十日)の作(『七番日記』)。

 掲出句について、まずは素朴な疑問がわきます。身長が一尺に見えるほど小さな赤子は本当にあぐらをかくことができるでしょうか。また、そのころの一茶宅には、もはや赤ん坊はいなかったはずです。三か月も前、一茶の最初の子が生後一か月たらずでこの世を去りました……。やはり、この句は幻視的なものを詠んでいるといわざるを得ません。一瞬、亡き長男・千太郎の姿が一茶の目な裏を過りました。「いた! 春のころと同じところに、いろり端にいた!」と、一茶は妻につぶやいたのでは? すると菊は「まぼろしや、まぼろしや、父っちゃん」と、優しく返したのでは? 秋になって、再びいろりが、そして人肌が恋しくなるこのころ、幻でもいいから、一茶は息子の姿を見たかったのでしょう。今生きていたら、きっとあぐらをかくことができたのです……。一茶は妻の横で身を暖めながら、「家族」の夢をみたかった、そんな切なくて、温かな一句です。

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