『江戸のエコロジスト一茶』④
https://showahaiku.exblog.jp/27980689/ 【『江戸のエコロジスト一茶』】
(マブソン青眼著、角川書店、2010年)
フランスの生態学者J=M・ペルトは、近著『自然と精神性』(私訳)において、仏教の「縁」と“エコロジー的精神”の類似性を次のように論じています(Jean-MariePELT, Nature et spiritualité, Fayard, 2008, p. 74)。
原始的な信仰によるアニミズムでは無数の神が森羅万象に存在し、一方、一神教では神が万物の中心として存在するとされている。しかし仏教ではそれらとは異なる宗教観がみられる。生命体の全てが輪廻転生で密接に繫がっていて、「縁」こそが肝心であるとされている。この相互関係を重視した世界観は、換言すれば地球を一つの生態と見なしていて、生態学から発展した“エコロジー的精神”に類似しているともいえる。
一茶晩年の世界観はそんな「縁」を重視した仏教的思想の影響が認められます。それと同時に、世界中の農村文化にみられるアニミズム的な自然敬愛が根底にあり、後に民衆的なヒューマニズムと呼べるような性格も現れ、独自の精神が形成されたのです。やはり、様々な宗教や思想の知恵を合わせたような、一茶晩年の精神こそ、現代の環境問題解決のための示唆を与えてくれるといえるのではないでしょうか。さきほどのペルト氏いわく(同、p.284)、
精神的なエコロジー、いわば“メタ・エコロジー”と呼ばれる、新たな共通の価値観が必要になってきた。そこで、幾つかの宗教や哲学にみられる過去の知恵を取り入れつつ、最近の環境問題に対する意識を昇華させたような複合的な精神の構築が待たれるのである。
けし提てケン嘩の中を通りけり
文政八年四月(一八二五年五月後半~六月前半)の作(『文政句帖』)。
「けし」「ケン嘩」「通りけり」の頭韻は、けわしい雰囲気をそのまま、音韻のリズムで見事に伝えています。ひょろひょろとした罌粟の花を手に、恋人に裏切られて世間の物笑いになったピエロが逃げゆくような光景、そんなコメディアデラルテの寸劇が僕の脳裏を過ります。金子兜太氏(『日本の古典22』、河出書房新社、昭和四八年)はこの一茶の代表作について、蕪村の代表作「葱買て枯木の中を帰りけり」の意識的な反転の可能性があると指摘しています。氏いわく、蕪村の「洗練された心理風景に対して、荒い生臭い心理を演出した」とのことです。ところで両句において頭韻の多用が著しいですが、蕪村はカラッとした「カ」の音節を繰り返し、一茶は何となく汚らわしい感じの「ケ」を利用したのも偶然ではないでしょう。掲出句にみる、一茶特有の「生臭い心理」について、故阿部完市氏は次のように述べています(「『けし提て』の句」『一茶の総合研究』、信濃毎日新聞社、一九八八)。
人間の一生という生を、生のまま書き流して行った人、いわば、悔多い心のままの一生を作し終えた「人間」の姿を、私は一茶に思っている。
宗左近の一茶観も思い出されます(「美しやせうじの穴の天の川」『一茶と句碑』、里文出版、平成一五年)。
一色多い虹。それが、小林一茶の芸術の世界。(中略)普通の虹より、血の色が一色多いのである。それだけ人間臭い虹となった。
ただ、「人間臭さ」は決してマイナス的な要素ではないと付け足したい。芸術家はまず生の人間ですから。そして一茶のお陰で(民謡や東歌のような口承文学を除けば)初めて日本文学に人間を率直に詠んだ詩歌が生まれたのです。
(先週、娘凜が無事に生まれました。フランスの戸籍に届けたミドルネームは、一茶の娘と同じ「SATO」にしました。娘よ、いつかあなたもこの文を読むかもしれません。一言だけを伝えるなら、一茶の人生観にも通用する、フランスのルソーの名言がいい。Hommes,soyez humains, c, est votre premierdevoir!「人間よ、人間的であれ。それがあなた達の第一の義務である」)
第七章 エコロジーは次代との縁からはじまる(再婚、最後の子、文政八~十年)
26子なき父となりて
団扇の柄なめるを乳のかはり哉
文政八年六月(一八二五年七月後半~八月前半)の作(『文政句帖』)。
回想句です。それも一茶の心底に焼き付いた光景の回想。半年前に栄養失調で亡くなった第四子・金三郎の不幸を思い出し、老俳人は亡子に掲出句を捧げ、次の前書を記しています。「母に遅れたる子[の]哀は」と。金三郎は母親に先立たれた後、不誠実な乳母に預けられたため、常に空腹でした。ひ弱な赤子は何度も父親の団扇の柄を舐めようとしたのでしょう。一茶は愛息子に向かって、「舐めるなよ、金三郎! 父っちゃんの団扇からぱいぱいは出ないぞ…」とささやき、涙を呑みながら吾子を抱く光景が目に浮かびます。一茶はついに高名な地方俳人として“扇子の風だけで”食っていけるような地位に至りましたが、男一人ではどうしても乳幼児を養うことはできません。この上なくビビッドな境涯句というべきでしょう。
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実は江戸時代の庶民の間で、いわゆる“子連れの男やもめ”の切ない境遇がよく話題にされていたようです。たとえば、川柳に「南無女房(「亡き妻よ」の意)乳を飲ませに化けて来い」(誹風柳多留拾遺・九)という悲喜劇的な叫び声が伝わっています。現代の「子連れ狼」の物語にも同じ感性が受け継がれているといえましょう。大藤修氏(「『子宝』意識の成立」『近世村人のライフサイクル』、山川出版社、二〇〇三)が述べるように、江戸時代からは、子供を「少なく産んで大切に育てるという産育形態が基本」になりました。しかし一方では、平均寿命がまだ三十歳台に留まっていたため、子連れの男やもめ・女やもめが多く見られ、今でいう「父子家庭」の哀れさに人々は同情し、“母性愛に変わる父性愛”が文学の題材にもなったわけです。西洋でも同じ十九世紀頃、心理学者は育児における父性愛の大切さを説き、同時にフランスの小説家・バルザックは代表作『ゴリオ爺さん』のなかで父性愛という本能の深さを描いています。次の名セリフで、二女の父・ゴリオはすべての父親の代弁者となり、若者ラスティニャックに向けて、いわゆる近代的な父性愛を称えます。
わしらは自分自身の幸福以上に、子供たちの幸福から幸せを感じるものですな。それをうまく説明することはできませんが。何かこう心のなかがくつろいできて、身体じゅういい気持になってくるとでも言いますか。要するに、わしは三人分生きておるのですな。ひとつ奇妙なことをお話ししますかな? では、申上げるが、わしは父親になったとき、神さまというのがわかりましてな。神さまはどこにでも存在していらっしゃる。なにしろ森羅万象が神さまから出たものなのじゃから。ラスティニャックさん、わしも娘たちにたいしては同じなのですよ。ただわしは、神さまがこの世界を愛していらっしゃる以上に、わしの娘たちを愛しております。なぜって、世界は神さまほど美しくはないが、わしの娘たちはわし以上に美しいんですからなあ。あの子たちがわしの魂にしっかとつながっておるものじゃ。(平岡篤頼訳『ゴリオ爺さん』、新潮文庫、昭和四十七年、一七四頁)
自分以上に他人のことが大切に思えるという“他愛の極致”、その心境は母親になった人にしか分からないとよく聞きます。しかし、多くの父親の胸にも同じような無償の愛が宿っている筈です。また、次世代のことを心から思う人なら、だれしも自分の命に代えて子供達の命を救いたいと感じるのではないでしょうか。環境問題を解決しようという意欲も所詮、ここからわいてくるものでしょう。“自分と次代との縁”の再認識からすべてが始まるでしょう。
小さい子も内から来るや田植飯
文政八年六月(一八二五年七月後半~八月前半)の作(『文政句帖』)。
一茶の家から善光寺平の方へと坂を降れば、北信五岳に臨む小谷があります。初夏のころ、早苗の間に黒姫山の稜線が清水に映り、朝夕早乙女の唄が響き合います。一茶の句日記では掲出句の直前、同じ景を詠んだ句「負ふた子も拍子を泣や田植唄」が記されています。村の赤子たちはおんぶをされながら田植唄のリズムに合わせて最初の喃語を唱え、民謡の七七七五調から母語を覚えていたということでしょうね。歩けるぐらいの子供たちは、掲出句に描かれている通り、朝は家で待機し、食事の時間となれば田圃まで駆けつけて大人たちと一緒に「田植飯」を食べることになっていました。なるべく早く田植えを終わらせるために、家で食べる時間が取れません。皆で外で食べた方が合理的で、なおかつ楽しいのです。妻子を失ったばかりの一茶にとって、農村社会の共同体、「村の絆」がいつになく懐かしく感じられたのでしょう。事実、このころから犬猿の仲だった義理の弟とも普通に付き合えるようになります。弟・仙六はもはや五十三歳、結婚していますが子宝に恵まれず、一茶と一緒に朝食を取ったりして、胸中を語り合えるようになったようです(文政八年七月の日記に二度「隣旦飯」の記載がある)。一茶は俳諧師の仕事のため家を空けることが多く、隣に住む弟に頼みごともあったのかもしれません。とにかく過去は過去のこととなり、同じく父親になれなかった男同士、兄弟はお互いの傷を理解し合えるようになっていたのでしょう。
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一般的に共同生活は一人当たりの食費、光熱費などを抑えることに繫がり、一人住まいよりも環境に優しいのは一目瞭然です。江戸時代の村人たちもやはり、無駄を避けるために極力皆で食べたり、皆で働いたり、同室で寝たりしていたのです。ひいては祭りや農作業の時は皆で唄ったり、夜となれば囲炉裏を囲んで連句や前句付を巻いたり、語りを愉しんだりしていました。しかもそんな共同生活にはもう一つの利点があります。それは人々のコミュニケーション能力が高められるということです。健康な精神の条件として「生のコミュニケーション能力」が最も肝心であると、フランスの精神科医B・シリュルニック氏が述べています。氏によれば、擬似的なコミュニケーションを可能にするIT技術の普及によって、次第に生活から生の人間が抹消されることが多く、現代の最大の精神病が広まってきていると指摘しています(BorisCyrulnik, Autobiographie d,un épouvantail, Odile Jacob, 2008, p.120 私訳)。
IT技術が進歩するに連れて使用者の感情が麻痺させられ、感情移入が困難となり、ナルシス的傾向が強まる。この精神状態が生み出す孤独感は、現代の西洋人にとって最も悪性な病になっていると認めざるを得ない。東洋でも所謂テクノ文化が普及してから同じくナルシス的・自己中心的な習癖の症状が現れている。
この時代にあって、一茶の農村詠は我々に“生の人間の絆”を再認識させてくれるといえましょう。生態学は生命体の関係性を対象にする学問だとすれば、それを支えるべく「エコロジー的人生観」はやはり、人間関係を重視する生き方から成り立つものといえるのではないでしょうか。
朝顔とおつゝかつゝや開帳がね
文政八年七月二十三日(一八二五年九月五日)の作か(『文政句帖』)。上段に「善光寺」とある。
数え年で七年に一度、日本の最も古い秘仏とされる「善光寺如来」の前立ち本尊が公開されます。現在は信州の桜が咲き誇る四月に行われますが、この文政八年は朝顔が咲く初秋のご開帳となったようです。数日間、全国から参拝者が集い、日本有数の門前町はお朝事から賑わっています。天台宗の宿坊、浄土宗の宿坊、仲見世などが所狭しと並ぶ元善町の角ごとに、お花が咲き、立ち話が盛り上がります。掲出句の「おつゝかつゝ」とは、方言で「同時に」という意味です。つまり、朝一番、ご上人の到来を告げる鉦と同時に、(花にもそれが聞こえたかのように)街角の朝顔が次々と開くという朗らかな句意になっています。一茶の、善光寺に対する親近感が伝わります。なにしろ善光寺信仰は、日本でも最も古くから伝わる仏教信仰の一つですが、庶民的かつ開放的なのです。古代から女性も内陣に入ることが許され、複数の宗派で運営されてきた唯一の「無宗派のお寺」なのです。中央から入って来た仏教とは一味違います。国家の宗教にあらず、山奥の庶民による、庶民のための信仰ともいえるでしょう。二〇〇八年四月、チベットの民衆に対する抑圧が問題になった時、善光寺事務局は北京オリンピックの聖火リレー通過を断りました。やはり、善光寺のお坊さん達はチベットやビルマの僧侶達と同じく、庶民のことを第一に考えているのだ、と感心した覚えがあります。一茶が生きていれば、きっと「善光寺さん」を誇りに思ったのではないでしょうか。
27衣食住から始めよう
猫のとり残しや人のくふ螽
文政八年九月(一八二五年十月後半~十一月前半)の作(『文政句帖』)。
今も信州ではイナゴの佃煮などが頻繁に食卓に上がります。たんぱく質とカルシウムが豊富で、食感がよく、食べ始めると癖になります。イナゴの他、ザザムシ、蜂の子、蚕などの昆虫を食する習慣が昔からあります。なかでもイナゴが最も捕まえづらい虫でしょう。一茶が述べているように、“いなご狩り”となると人間より猫の方が運動神経が優れているので、猫が先に食べ、人間がその食べ残しで我慢するわけです。つまり昆虫摂食に関しては、人間よりも猫の方が食物連鎖の上位に立つということになります。近世村人の食生活をみると、やはり人間が食物連鎖のなかで謙虚な立場を守っていたといえるのではないでしょうか。
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現在砂漠化が進むアフリカ諸国では、食用昆虫というたんぱく質源の卓抜さが見直されています。牛肉など、エネルギー効率の悪い家畜肉をわざわざ輸入するのではなく、旱魃で増えてきたバッタ科の昆虫を摂食した方が経済的で、環境にも体にもよいと注目されています。事実、いわゆる“先進国”で牛肉を一キロ生産するには、少なくとも八キロの穀類(トウモロコシを中心とした飼料)が使われているそうです。そのトウモロコシを育てるには、膨大な水量とエネルギーがかかり、飼料と肉そのものの運送にも相当なエネルギーが費やされています。では、(昆虫を除けば)エネルギー効率のよい食肉とは? まずは豚肉があり、さらに鶏肉が優れているそうです。それでも鶏肉一キロを生産するには穀類三キロもかかるといいます。そこで、食物連鎖のなかでさらに一段下がってみると、植物性たんぱく質を食べるのが最も地球環境の負担にならないということが判明します。大豆、キノコならほとんどエネルギーのかからないたんぱく質となるのです。そのうえ、植物を中心とした食生活が健康によいのは言うまでもありません。
では、「魚介類」主流の食生活はいかがでしょうか。天然のものであれ養殖のものであれ、近くで獲れたものなら、エネルギー効率が非常によいといえます。ただ、天然物に関しては世界人口の増加に伴い、漁獲資源の減少が問題になります。特に食物連鎖の上位にある大きな海洋生物(マグロ、カジキ、鮫など)の資源再生が困難といわれます。ここもやはり、人間が食物連鎖の下に位置する小さな生物を優先的に食べた方が環境に優しいということになります。僕と同じ外国生まれの俳人で海洋学者のドゥーグル・J・リンズィー氏は句集『出航』(文學の森、平成二十年)のあとがきのなかで次のように述べています。
我々俳人は絶滅の危機に直面している南マグロやフカヒレの材料となる鮫などを食べないようにする直接的な運動とは別に、俳句を通じて海に関する知識や関心を高めることもできるのであろう。
そして、海ならぬ“山の食文化”に関しては、一茶の作品を通じて、日本の古き良き生活習慣を再発見することもできるでしょう。
貝殻で家根ふく茶屋や梅の花
文政八年十一月上旬(一八二五年十二月中旬)の作(『文政句帖』)。
妻子を失った一茶はここ二年、門人宅を転々としながら善光寺平と湯田中温泉郷の間の寒村をうろつき、少しずつ失語症から立ち直ります。越後の門人宅まで足を運んだという形跡がないので、掲出句が海辺の吟とは思えません。きっと、山里にも小洒落た茶屋があり、女将が貝殻で屋根を飾っていたのでしょう。海の物を屋根に飾れば「水の神」が宿り、火災避け、厄除けの御利益があるというアニミズム的信仰は世界中でみられます。とにかく鄙びた花見茶屋には立派な瓦屋根が不要です。近くの海から運んで来た貝殻を瓦代りに使えば華やかに見え、断熱材としても役に立ちます。春の到来を待ちわびる一茶は、庶民のささやかな洒落心と知恵に感心したのでしょう。
先日、インターネットで断熱住宅や無暖房住宅(パッシブハウスpassivehouse)の最新情報を調べていたら、食用ホタテの貝殻を再利用した断熱材が注目されているのを知りました(http://www.ecopro.jp/eco/shell.htmlを参照)。ここでも、江戸時代の村人が未来のライフスタイルを先取りしていましたね。
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先進国では、一般市民の二酸化炭素排出の原因を分析すると、住宅(冷暖房)が約四分の一、交通が約四分の一、そして食事も約四分の一という明解な割合になっているのです(残りの四分の一はその他の物質的消費などが原因)。さきほど取り上げた「猫のとり残しや人のくふ螽」という句を通して、食と環境について書いてみました。外国産の牛肉より国産の鶏肉や小さな魚など、または季節外れの果物より地元の野菜を選ぶという様々な工夫が比較的容易に考えられます。交通に関しては、電車、自転車、歩きを優先すれば地球に与える自己のインパクトを簡単に減らすことができるでしょう。しかし、住宅の問題となると、この不況の時世にあって、「断熱住宅を早く購入しなさい」と、一般庶民には求められませんね。そんな時、公共の「断熱住宅助成金」を増やせば、国のエネルギー効率を高めると同時に若い家族や新産業を助け、日本のエコ・ビジネスを促進するチャンスが潜んでいるのではないでしょうか。
(実は僕も、八か月になる娘がいて、そろそろ子供部屋が欲しくなり、マイホームを夢見て様々な建設会社を訪れてみました。断熱住宅の一軒家を建てようと考えていましたが、資金不足のため断念せざるを得ませんでした。結局、長野駅に近い、善光寺界隈の中古マンションを買うことにし、先月、借りていた古民家を引き払いました。庭がなくなるのが寂しかったのですが、娘のために植えてあった梅の木を大きな鉢に入れ、マンションまで運んで来ました。お陰様でベランダでも無数の梅花が開きました。そしてベランダの見晴らしが良く、古い小学校のグラウンドに並ぶ大木を眺めることもできます。ここでもきっと、娘に「木を愛する心」を伝えることができそうです。)
かぶら菜や一霜ヅゝに味のつく
文政八年十一月二十九日(一八二六年一月七日)の作か(『文政句帖』)。
一年で最も寒い時期です。句日記をみると、この句が記載されるまでの六日間、「雪」「吹雪」「吹雪」「吹雪」「雪」「小雪 寒也」と続きます。一茶はこのころ、ほとんどの句で北信濃の冬の辛さを訴えています。「霜がれや貧乏村のばか長き」「雪の日や堂にぎつしり鳩雀」などがあり、掲出句ではほんのり前向きな気持がみえてきます。「そうだ、寒いからこそ土の中の蕪が甘くなるのだ。蕪だって、俺みたいにじっとして寒さに耐えている。しかもある日突然、人間に引っ張られて食われてしまう……蕪は偉いなぁ」という一茶の独り言が聞こえるようです。
ところで、この連載で最初に取り上げた作品を思い出しましょう。十三年前の同じ時期に、一茶は信州へ帰郷する道中、峠の寒風に晒されながら俳諧歌を吐露しました。「ねがはくば松に生てぬく〳〵とかぶつて寝たき峰の白雲」。その時、俗塵を離れた松の梢に憧れ、「木を愛する心」を切実に詠いました。今度はさらに、木に対する感情移入を超えて、老俳人はいわゆる「蕪を称える心」に至ったのではないでしょうか。
風雨、降雪に耐えて、ゆっくりと成長を続ける“植物たちの生き方”に、人間は感銘を受けざるを得ません。言葉遊びでいえば、「松は待つことを知っている」。一方われわれ現代人は「待つこと」の大切さを忘れ、焦ってばかりの人生を送っています。たとえば、蕪がすぐに大きく育って欲しい、手間もなく安く作りたいという“焦り”から、集約農業で瘦せた土地に化学肥料を蒔き散らし、結局毎日味のない無機野菜を食べることになります。そして人間の健康が損なわれ、土の腐食質が減り、大地が瘦せてゆく一方です。われわれ人間は植物、そして土からもっと辛抱強い生き方を学んだ方がよいでしょう。なにしろ、ラテン語のHUMANUS(人間的)の語源はHUMUS(腐葉土、土)と同じなのです。「人間」はそもそも、腐った葉っぱで再生する土のように、休む時は休み、自然のリズムを守って生きるべし、という深意がその語源にあるでしょう。「一霜ヅゝ」甘くなる蕪を愛する一茶のように、いわゆるスローライフに帰るべし。
28明るく謙虚に生きる
筆の先ちよこ〳〵なめる小てふ哉
文政九年春(一八二六年晩春)の作か(『文政句帖』)。
硯に向かいひぐらし門人の句を添削していると、いつの間にか集中力が切れ、現実の世界に戻り、身辺の小さな出来事にいたく感動することがあります。石寒太氏によれば、加藤楸邨の名句「百代の過客しんがりに猫の子も」も、そんな時に生まれたといいます。晩年の楸邨はある日、ひたむきに句作について考察しながら墨を摺っていたら、颯爽と猫が硯の側を通り、その姿が芭蕉や李白のような崇高な旅人に見えたとのこと。つまり老俳人は突然、“弱き存在の愛すべき姿”に立ち止まり、文芸以前の大切なもの、「命の尊さ」、そしてその命を愛でる「人情」の大切さを会得した瞬間です。芭蕉の言葉でいえば「俳諧はなくてもありぬべし。ただ世情に和せず、人情に達せざる人は、是を無風雅第一の人といふべし」(『続五論』)。
一茶も掲出句で、硯に置いた筆を嘗めている胡蝶を発見し、俳諧の根源が命を愛でる心にあると悟ったのではないでしょうか。フランスの現代小説家フィリップ・フォレスト氏は、一茶の評伝(PhilippeFOREST, SARINAGARA, Gallimard,2004.『さりながら』、澤田直訳、白水社、二〇〇八、六六頁)のなかで、次のように書いています。
一茶が見てとったように、宇宙が表現しているのは、そこに存在しているという恩寵のみである。地に這う蟻、わけもなく飛ぶ蝶や蜻蛉、蟬たちの大きな鳴き声、もっとも弱き存在たちの愛すべき姿、野に咲く花たちが野趣あふれた色にそまり花開く、そう言った事が言祝ぐのに十分だった。
斯う活て 居るも不思議ぞ 花の陰
生まれてきたということのほかに恩寵などないのだ。
本連載の十三回目、「露の世ハ露の世ながらさりながら」の鑑賞の際、すでにこの小説家にふれました。フィリップ・フォレスト氏は数年前六歳になる娘を失い、『永遠の子ども』というベストセラーを発表し、その後日本の小林一茶に対して絶えざる関心を持つようになったといいます。彼は、亡くなった娘の存在の大きさは、生きた年数にあらず、単に「生まれてくれたという恩寵」にあるというのです。一茶にとっても、愛娘「さと」は一歳半でこの世を去ったとはいえ、内心では“永生の子”だったに違いありません。そして、掲出句で一茶が見た「筆先の胡蝶」とは、まさにさと自身の魂の面影だったのではないでしょうか。
(先週、フランスから兄が長野まで来てくれました。九か月前に生まれた娘に会うための旅でした。そこで、かつて六歳の息子を失った兄と共に、一茶の墓を訪れたいと思いました。娘を連れて、柏原の小丸山を登り、一茶の墓に辿り着きました。一茶の墓碑の奥、「幼の墓」と刻まれた古碑が建っています。さとはおそらくその下で眠っています。その石の前で、娘に梅の小枝を持たせました。彼女の誕生を記念して植えた梅の木から摘んであった花です。娘は真剣な表情になり、両手で丁寧にお花を手向けました。すると、小さな林の奥から清らかな陽光が差し込みました。その時、娘は兄の方を振り向き、「長生きをするよ」と誓うような、力強い笑顔を見せてくれました。)
先祖代々と貧乏はだか哉
文政九年夏(一八二六年晩夏)の作か(『文政九・十年句帖写』)。
上五中七の句跨りが絶妙で、その散文的な韻律によってあるがままの庶民の意地が伝わります。一茶は過去に、武士が「家は先祖代々」どうのこうのと自慢するような話を何度も聞かされ、むくれて押し黙ることがあったのでしょう。自分なんか百代遡っても先祖全員が百姓、半身裸で夏の農作業に励んできただけだ、と言い返したい気持が分かりますね。フォレスト氏がいうように(同書、七三頁)、
一茶は自ら一歩前に出て、自分の名で表現する。彼が発するのは万人に向けられた共感の言葉だが、自分に固有のものでもある。その言葉はいう。この世で人は愛し、苦しみ、死ぬ、と。
実はこのころ、六十四歳になる一茶は再び一人の女性を愛するようになります。相手は三十二歳で、宮下ヤヲといいます。柏原の旅館でお手伝いをやっていて、本陣の三男坊・中村倉次郎と関係をもったあげく子を宿し、二歳になる男の子を一人で育てている、いわゆるシングル・マザーなのです。幕府役人に騙された貧しい女性を哀れに思ったのか、その連れ子・倉吉を養子に迎えたかったのか、とにかく一茶はこの夏、ヤヲの家族に結納金を支払い、倉吉を善吉と改名させ、妻子を引き取ります。最初の妻・菊に「父っちゃん」と呼ばれていた彼は、三番目の妻・ヤヲからは「爺ちゃん」と親しまれたようです。しかし気取った侍の娘だった二番目の妻とは異なり、ヤヲは百姓の生活を嫌がることはありませんでした。彼女は一茶と同様、「先祖代々貧乏」で、謙虚な人間であり、「爺ちゃん」に対していつも思いやりを示します。この秋、ヤヲと共についに家族を築いた一茶は、世を去るまで僅か一年しか残っていません。ささやかな幸せをやっと手に入れたのでした。