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『江戸のエコロジスト一茶』②

2022.11.18 13:25

https://showahaiku.exblog.jp/27980689/  【『江戸のエコロジスト一茶』】

(マブソン青眼著、角川書店、2010年)

 フランス語で大好きな言葉があります。それはFoyer(ホワイエ)といい、意味が二つあり、「家庭」と「炉」の両方を意味します。つまりフランス人にとって、家庭はまず暖炉があって、それを囲んで家族愛が育つ、というのが太古からの常識なのです。フランスのほとんどの一軒家は、当たり前のように石暖炉と煙突が付いています。隣の農家に薪を注文したり、それを地下で乾燥させたり、薪を割ったりするのは面倒だと思う人もいますが。僕が小学生のころ、石油が非常に安い時代だったので、クリスマス・イブ以外はほとんど暖炉を使わず、いつも中央暖房を焚きっぱなしにしていました。しかし中学生になったころから我が家の習慣が一変し、冬期は毎晩暖炉を使うようになりました。というのは、オイル・ショック以降、そして最近ではさらに暖炉の優良さがフランスで再認識されてきたからです。木材こそ、安くて環境に優しいエネルギー源だと見直されました。事実、薪の需要が増えると、森林の整備がすすみ、病んでいる木や朽ちた枝などが減り、雑木の発酵による二酸化炭素の排出が少なくなるのです。その上、木材は植物性燃料のため、バイオ・エタノールと同様、光合成で出来た酸素と燃焼で生じる二酸化炭素のバランスが取れており、地球環境を全く悪化させません。

 日本の江戸時代においてもフランスの現代においても、やはり木材を使った「炉」の温もりは家族を守り、そして地球を守ることができたのです。

又ことし死損じけり秋の暮

 文化十三年八月二十一日(西暦一八一六年九月十二日)の作(『七番日記』)。

 以前「寝返りをするぞそこのけ蛬」の句に触れた際書きましたが、七月上旬、一茶は「瘧」(マラリア)を患い、十日ほどで自然に回復しました。また、初夏には長男の突然死がありました。つまりこのころの一茶は、自分だけが生き延びたことが奇跡ではないかという気持を抱いていたのです。この日、日記の上の欄には「四交」と記されています。一日の間に四回も“夫婦の房事”を行ったのは、五十四歳の一茶にとって誇らしい精力だったといえるでしょう。金子兜太氏もそれに気付き、「おもしろいことに、この種の数字はこのときまでは全くといってよいほどになく、ここにきて熱心に記録された」(『一茶句集』、岩波書店、一九九六)と述べています。しかし金子氏は記録の理由について探っていません。僕が思うには、このころの一茶の“凄まじい性生活”は、掲出句にみるような「死に対する恐怖」で説明ができるのです。人間は必ず、身近に死と向き合った後、生命を伝えるという本能が強くなり、性欲が増大するからです。戦後のベビー・ブームも、同時多発テロ直後のニューヨークの出産率の上昇もそれを実証しています。

 一茶の場合は、長男が亡くなった直後、一旦は落ち込んで大病を患いましたが、その後はやはり猛烈な性欲をみせるようになります。八月八日は「夜五交合」、十二日は「夜三交」、十五日は「夫婦月見 三交」、十六日から二十日までは毎日「三交」と日記に記されています。そして掲出句が詠まれた二十一日は「四交」と書かれていて、それ以降この種の記録が途絶えるのです。事実、同日記には八月六日の項に妻の生理(「キク月水」)をも記録しているので、一茶はやはり生理から二週間後を“狙って”、意識的に性交を重ねたということが判明します。単に自慢のための記載ではありませんでした。死は突然やって来ます。この現実を突き付けられた一茶と菊は、いつになく我が子が欲しくなったのです。いつになく「命を伝えなければならない」という本能と、死に対する危機感を抱き、一日も早く第二子の顔を見たくなった、そんな切実な心境から掲出句が生まれたのではないでしょうか。

*     *

 ハーバード大学心理学教授のダニエル・ギルバート氏(DanielGilbert)によると、地球温暖化対策の遅れの主な理由として、人間の脳の特徴が挙げられるといいます。霊長類の脳は急速にやって来る危機に対する反応が優れていますが、少しずつやって来るものなら、どんな大事でも恐怖をほとんど感じないという欠点があるそうです。たとえばさきほどの一茶も、吾子の急死を目の当たりにしたからこそ、突如時間の経過や死に対する恐怖を強く覚え、その結果猛烈な性欲をみせるようになったといえます。「又ことし」この惑星で生きていられるだけでも奇跡だと、それぐらいの危機感を持たなければ、人間はいつまでも地球の生命を救おうとしないだろう、といえるかもしれません。長い目で地球温暖化の問題を考えるにあたって、人間はまず自分たちの脳の弱点を克服しなければならない、ということでしょうか。

 霜がれや米くれろ迚鳴雀

 文化十三年十二月二日(西暦一八一七年一月十八日)の作(『七番日記』)。

 前書に「随斎旧跡」とあります。「随斎」とは一茶の最大の庇護者・夏目成美の別号です。成美の「旧跡」(住宅)といえば江戸本所(現在の墨田区)にありました。実はこの句、成美が六十八歳で病死した直後の吟であり、追悼句として広く知られています。棺の前で、一茶は思い出したのでしょう。かつて江戸で俳諧師を目差していたころ、たびたび食料が底をつき、この成美宅を訪ね、米などを何度も貰ったことがありました。今こそ故郷信州で認められるようになりましたが、そもそも一茶は十四歳から江戸へ奉公に出された、いわゆる“御信濃”でしかありませんでした。「椋鳥」とも呼ばれたりして、今でいえば“出稼ぎに来た不法移民”のような身分でしたか。しかしなぜか、夏目成美という名の裕福な町人はこの椋鳥の悲痛な歌声に心を動かされました。そして、一茶が単なる椋鳥ではなく、実に賢い小雀だと判明しました。以来、“高級鳥”成美は惜しみなく“信濃の雀”一茶を守り続けたのです。しかし、とうとう成美は亡くなりました。もはや江戸の一流俳人で一茶の世話をしてもよいと言う人はいなくなりました。

 実はこの冬、一茶は信州の門人に頼まれた俳書『あとまつり』の出版に向けて、わずかな人脈と衰える体力をしぼって、下総と江戸を歩き回っている最中でした。前年もその前の年も、同じように冬の間は愛妻を信州に残し、門人のために江戸で出版企画を進めていました。そのため今年は成美の訃報に接した時、折りしも江戸にいたので葬儀に加わることができました。ただ、それにより一茶は疲れ切って、体中に疥癬ができ、予定通り年内に信州へ戻ることはできませんでした。足の痒みが酷くて北信濃まで歩けそうもなく、翌年三月三日、妻きくへ感傷的な手紙を送り、足止めになったことを嘆いています。

 ついに七月四日、十か月ぶりに我が家に辿り着き、一茶はきくと再会します。事実、その後彼は一生信州を離れることはありません。信州の門人に出版の手伝いを頼まれても、江戸の“成美グループ”の最後の仲間に誘われても、彼は二度と江戸の石畳を踏むことはありません。信濃の雀はもはや、石畳に投じられた米粒をあさりながら、江戸の高級鳥に頼って生きるのは真っ平御免です。山里で自生する草の実でも探し、家族を増やしたいだけです。

 この七月、一茶の帰宅直後、きくは再び妊娠します。後に生まれた女の子は“ものを悟って欲しい”という願いを込めてさとと命名されます。実はその子のお陰で一茶こそが命の尊さを悟り、独自の世界観を完成させるのです……。

第三章 風土性の深化(北信濃定着、文化十四年~文政元年)

⑨風土再発見

脊[中]から児が声かける茸哉

 文化十四年八月八日(西暦一八一七年九月十八日)の作(『七番日記』)。

 一茶はこの秋、ついに信州に帰り十か月ぶりに愛妻きくと再会します。前年の冬、門人の出版企画の世話をするために上京したら、道中で疥癬を患い、結局翌夏まで江戸で足止めになっていたのです。一茶はこれから信州に落ち着き、家庭を築こうと一心に願っているばかりです。前年は一か月足らずで長男を亡くしました。今度こそ長生きをする子を授かりたいという心境を抱いて、五十四歳の秋を迎えます。掲出句は他人の親子愛を詠んでいます。一茶にとって、うらやましいほど幸せそうな光景だったに違いありません。幼子はおんぶをして貰いながら、母親と茸狩りを楽しんでいる場面です。

 「かか、かか、あれよ!」と子が言うと、母親は「あー、よくみえたねぇ」と褒めてあげて、立派な松茸を手にします(もちろんビニール袋ではなく、穴だらけの古びた笊で運ぶので、胞子が地面に散り、翌年の松茸の種が自然に蒔かれてゆきます)。近世信濃では、このように子供たちはおんぶをされるころから、茸の形や香を知っていたということが分かるのです。常に季節の物を、そして身近で採れた物を食べていたから、子供たちは自然の周期に合った食習慣、そして鋭い五感をもっていたといえるでしょう。

        *     *

 現代では、初秋の早松茸の繊細な香と、仲秋の松茸の濃い香の相違を知る子は、信州でも一人もいないでしょう。なににせよ今日の日本では、販売されている「松茸入り」の食品のほとんどは外国産の松茸のひと欠片を上に載せ、安い「松茸エッセンス」をふんだんに撒き散らしているのです。天然の松茸の香に比べれば、人工香料の方がはるかにインパクトがあって分かりやすいからです。たしかに天然の松茸の、あの控え目な香味を理解するには、長年の“食の教養”が要ります。そういえば、日本で販売されているジュースについても、いわゆる「無香料」のものが入手困難になっています。通常の缶コーヒーもしかり。天然のコーヒー豆の香ではなく、標準的な「コーヒー香料」の味が定着してしまいました。

 僕は比較文化論の授業で毎年、学生にバニラ香料と天然バニラ・ビーンズの入った小瓶を嗅がせますが、ほとんどの学生は本物のバニラよりも香料の方が「バニラらしい」と言います。その子供たちに「どんな味噌汁が好きですか」と訊くと、大半は「家の味噌汁よりも、コンビニの味噌汁の方が好きだ」と自認します。つまり今の日本の子供たちは、何百年も前から信州の農民たちが作ってきた合わせ味噌の複雑な味わいよりも、人工香料で復元された「標準的な味噌味」を好んでいるということになります。化学産業による人工香料の普及は、こっそりとそして日に日に、われわれの食文化を破壊しているのです。また、人工香料を含めた様々な化学物質は、ここ数十年、先進国の子供たちの健康にも多大な影響を与えているという事実が明らかになってきました。アレルギー、アトピーの急増やその他の免疫低下などは、野菜果物の農薬、加工食品の添加物、包装や洗剤に含まれた環境ホルモンの影響が原因として指摘されています。

 しかし、化学産業と農産物加工業のロビー活動もあり、日本や米国のみならず、欧州連合においても本格的な調査が行われているとはいえません。事実、先進国では男性の精子濃度は通常の値より半減しているという研究結果があります。このままの食生活では、僕らは豊かな食文化を失うだけではなく、健康も失い、命を伝えるための体の機能さえ失ってゆくのかもしれません……。

        *     *

 ところで、精子濃度については一茶は至って健康だったようです。というのは、彼が掲出句を詠んだころ、実は妻きくが再び妊娠していたのです。翌年の五月四日、長女さとが生まれます。陰暦の十か月と十日を引けば、懐妊が文化十四年七月上旬、つまり一茶が帰郷した直後であったと判明します。一茶が掲出句を詠んだ八月八日は、きくの月経がもはや二週間以上遅れていたはず。「来年の秋、われもこうして子供と一緒に茸狩りに出かけよう!」、そんな新たな希望が一茶の胸中に芽生えていたのでしょう。

そば咲やその白さゝへぞつとする

 文化十四年八月三十日(西暦一八一七年十月十日)の作(『七番日記』)。

 掲出句の成立過程を探ってみると、三句にわたる推敲が浮かび上がります。文化元年の作に「しなのぢやそば咲けりと小幅綿」の句があり、その十三年後(文化十四年八月四日)の作に「しなのぢやそばの白さもぞつとする」という類句が見つかります。そして数日後には、この「そば咲やその白さゝへぞつとする」に辿り着くわけです。

 つまり一茶は、十三年前の作品を改案するにあたって、題材を少し変えながら、主に音韻的な工夫(頭韻)を加えていったということになります。まずは中七下五で「そ」「ぞ」という頭韻を整え、その数日後は「そ」「そ」「ぞ」と、さらに頭韻を意識して推敲を重ねたといえるでしょう。事実、このころの句日記に、このように句の頭に位置する頭韻をもって五七五のリズムを浮かび上がらせようという推敲の跡が度々見当たります。もともとは「句頭韻」と呼ばれるこの手法は、民謡に著しく多いといわれています。やはり、晩年一茶の俳風は農事唄や盆踊唄などのリズム感を借りていたのです。掲出句では「そ」「ぞ」の繰り返しが寒々とした呪文的民謡のように響き、信州の冷え冷えとした秋風、いわば山の呼吸が聞こえるようです。

        *     *

 信州の山間では、夏蒔きの蕎麦の花が咲くころ、凄まじいほど急速に昼夜の寒暖の差が激しくなってゆきます。その三か月後、北信五岳(飯綱、戸隠、黒姫、妙高、斑尾)山麓のやせた土地で採れる蕎麦の実はなぜか格別に凝縮された風味が出ます。とりわけ、やや未熟な蕎麦の実を一か月早めに刈ると、青みを帯びた蕎麦粉が抜群のコシをもち、小麦粉などの繫ぎを使わなくても、腕がよければ十割蕎麦が打てるのです。いにしえから人間は北信濃の土地や気候の厳しさを理解し、それを高度な食文化に昇華させてきました。しかし最近、秋の冷え込みが不十分で新蕎麦のコシが減ったり、収穫不可になったりすることもあるそうです。

 「地球が温暖化するのであれば、その分、有名な農産物の栽培を北へ移動させればよいのだ」と時々聞きますが、残念ながら、人間が何百年もかけて自然と共に作ってきた「風土の味」というものは、そう簡単に動かせません。土や水の特徴、土地の日当たりやそこに存在する微生物、人間の知恵などが一つになってはじめて「風土の味」が生まれるからです。たとえばフランスのシャンパーニュ地方では最近、猛暑頻発のため、すっきりした味が作りづらくなったといいます。そろそろ南イギリスの気候の方が辛口のスパークリング・ワインに向くのではと言う人もいますが、南イギリスには残念ながら南東向きの石灰岩の崖もなく、ワイン職人の知恵もなく、シャンパーニュ特有の「ミネラル的な味」は絶対に現れないでしょう。もしいつか世界中の「風土の味」が消えたら、さぞつまらない地球になると思えてなりません……。

御仏と天窓くらべや菊の花

 文化十四年八月三十日(西暦一八一七年十月十日)の作(『七番日記』)。

 北信濃の里山にところどころ頭を出す野仏たちは、菊花ほどの高さしかなく、奈良や鎌倉の大仏の迫力に敵いませんね。しかし本当は、仏像なんか野花のようなかわいらしいもので充分なのではないでしょうか。世界中の人間はよく熱狂的な信仰に酔いしれて、巨大な聖堂を建てたりしますが、巨像よりも花一輪の方が仏性をもっているのでは?

        *     *

 そういえばその昔、南太平洋に浮かぶ孤島・イースター島の人々は神のために多くの巨像を作り続けました。島民は、いわゆる「モアイ像」の原石を丸木で転がして運んでいましたが、石像建立に夢中になったあげく、いつの間にか島の森林の木材が底をついたそうです。結局、鮪釣りのための丸木舟も作れなくなり、飢饉に襲われ、全島民が亡くなってしまったといわれています。この地球もまたイースター島のような孤島です。われわれにとって、逃げ場はありません。人間たちが「物欲」という名の偶像的盲信に酔いしれて、そのまま資源を無謀に使い続ければ、われわれもまた滅びてしまうかもしれません。『星の王子様』の著者・サンテグジュペリの言葉を思い出しましょう。「地球は先祖から頂いたものではありません。これから生まれてくるわれわれの子供から借りているものです」。

⑩民衆性と民主性

木がらしや木[の]葉にくるむ塩肴

 文化十四年十二月二十一日(西暦一八一八年一月二十七日)の作(『七番日記』)。

 加藤楸邨が『一茶秀句』で書いた通り「物の乏しい辺鄙な土地では、草の葉や木の葉などに物をつつんだり、乗せたりする」という句意になっています。しかしこの句における一茶の姿勢は明らかに「辺鄙な土地」の生活をみくだしたのではなく、むしろ肯定的なものでしょう。北信濃では、凩が運んでくれる椿などの葉っぱをそのまま包装として使えるのです。塩魚のような保存食に頼る山国ではありますが、木の葉は(現代でいう)殺菌効果もあるし、江戸の優雅な笥や破籠よりも気楽でよし、と一茶が詠っているように聞えます。そして、使った葉っぱを畑に捨てれば、いい肥料にもなります、と……。

        *     *

 昨年のクリスマス前、友人からいわゆる“エコ・バッグ”を頂きました。きれいに畳むと僕のセカンド・バッグの財布の横にすっぽりと入り、広げるとワインを四本も運べるほどの優れものなのです。模様は緑色の葉っぱが描かれているので、我が家では“エコ・バッグ”と言わず、(一茶の掲出句に因んで)“木の葉ちゃん”と呼んでいます。とにかく、木の葉ちゃんのお陰でこの一年、僕は店で一枚もビニール袋を貰ったことはありません。ビニールの原料である石油をどのくらい節約できたか分りませんが、平均的なレジ袋一枚が石油十八・五mlから作られているというので、そこそこの量でしょう。何より、プラスティックのゴミの量が減って良かったです。レジ袋一枚が分解して土に返るには、四百年もかかるといわれています。また、もし「可燃ゴミ」として処分した場合、焼却施設からダイオキシンという猛毒が排煙されるのです。プラスティック包装は安くて便利なものですが、最終的には厄介な廃棄物となってしまいます。ここも、問題の解決の一部は、江戸時代の農民のように簡単な包み方で間に合わせるという“鄙びの文化”にあるでしょう。商品を選ぶ時も、なるべく簡素な包装の品物、あるいは(再生可資源である)紙や木材などに包まれた品を選べばよいでしょう。そうはいえ、今さら完全にプラスティックと縁を切るのは非現実的です。もう一つの解決法として、逆に最先端のテクノロジーを駆使した、プラスティックを再び石油に戻すという新しい技術の開発が進められているそうです。つまり、二十一世紀のエコロジーの鍵はおそらく、一茶晩年の作品にみるような「鄙びの文化」の再評価と同時に、最先端の科学の適切な利用にあるといえましょう。換言すれば、「エコロジーテクノロジー」。 + ひなび = 

正月やヱタの玄関も梅の花

 文政元年正月十日(西暦一八一八年二月十四日)の作(『七番日記』)。

 この日の日記には「吹雪 観国エド立 古間迠送」とあります。俳号・中村観国といえば、当時の柏原本陣の総領、四年前に兄・桂国の後を継いだ幕府役人です。この正月、彼は幕命に従い江戸へ赴き、隣村・古間まで一茶に見送られます。観国は一茶より一歳年下の五十五歳です。以前から家族ぐるみで俳諧を嗜み、故に百姓である一茶との親密な付き合いが続いています。そして実は、二人の“友情関係”にはもっと複雑な要因があります。そもそも一茶の妻「菊」は婚前、長らく中村本家で働いていました。その時、菊と観国との間には“ただならぬ関係”があったのではと、柏原で噂が流れていたのです。結婚一年後の夏、その噂を聞いた一茶は妻の過去を恨み、数日間激しい夫婦喧嘩が続きました。婚前のことを問い詰められた菊は逆に怒り、夕暮れの強風や雨にもかかわらず隣の川まで洗濯へ出かけたり、庭のボケの木を引き抜いたりしたと、『七番日記』で細かく記されています。結婚したばかりの一茶は五十一歳とはいえ、女心というものを理解していませんでした。たしかに、田辺聖子氏が小説『ひねくれ一茶』で描いたように、菊女は「きゃんきゃら」(おてんば)なところがありました。そうはいえ、一茶には妻の婚前の恋を妬む権利などはありません。二十四歳年下の、働き者の美女を嫁に貰えたのは奇跡のような幸運でした。彼女が本陣の旦那様と“何か”があって、そのせいで婚期が二十八歳まで遅れたからこそ、一茶のような老人のところへ来てくれたともいえます。ただ、一茶が許せなかったのは、むしろ観国の態度だったのではないでしょうか。高い身分を利用してお手伝いに来た乙女と関係をもち、その後は黙って一茶に“妾を譲る”ような行動が許せなかったのでしょう。

事実このころから一茶は堂々と侍や大名、すなわち高い身分の人物を諷刺するような句を多く吐くようになります。「武士に蠅を追する御馬哉」(文化十三年)、「づぶ濡[れ]の大名を見る巨燵哉」(文政三年)がその例です。同時に、(今まで何度も述べたように)一茶は農民の生き方を再発見し、次第にその鄙びた生活を称えるようになります。そして、掲出句のように「エタ」という身分を負う人々を励ますかのような句も、晩年には二十句ほどみられます。例えば「エタ寺の桜まじ〳〵咲にけり」(文化七年)がその類でしょう。つまり掲出句は社会的な意味があり、「自然に咲く花々は世の中の差別を知らないぞ」という、百姓俳人ならではの切実な思いに導かれた吟なのです。一茶は本陣の旦那様を送りながら、「エタ」の庭先に咲き誇る梅花を発見し、その時、愛妻「菊」に対する過去の侮辱を思い出したのではないでしょうか。

        *     *

 江戸時代に、一茶と同様、身分制度が無意味であるという真理を高らかに告げた思想家がいます。それは、『人間不平等起源論』で知られるフランス革命の父・ルソーでもなく、実は日本にも、そしてルソーよりも早くから独自の“近代民主主義的思想”を唱えた天才がいます。一茶が生まれた一七六三年(宝暦十三年)の前年に他界し、終生幕府の反感を買ったという思想家・安藤昌益です。しかも昌益はフランス十八世紀の思想家と違って、町人(ブルジョアジー)に民主主義の夢を託したのではなく、農民を中心とした平等社会への改革を考えたのです。昌益いわく、

「自然の人間は直耕、直織する。(中略)士を上に立てたのは乱の用、農を下にしたのは天の責めを蒙る誤り」(野口武彦現代語訳『安藤昌益 統道真伝』、日本の名著十九、中央公論社、二七七~二七八頁による)。

 近年「江戸のエコロジスト」とも呼ばれた安藤昌益は、『自然真営道』のなかで一切の人の農耕による生き方を説き、地方ごとの自然環境に合った農業を進め、身分や男女の差別を廃止するという哲学を書き留めました。昌益の書が一茶の目に止まった可能性は極めて低いですが、一茶晩年の世界観との類似は明らかです。もし、江戸時代の日本において、昌益や一茶にみるような思想が主流となり、農業を重視した日本独自の近代社会が誕生していれば、明治以降の過剰な産業革命と西洋化を逃れ、日本は世界に向けて“もう一つの自由社会”の仕組みを提唱することができたのかもしれません。いや、そんな夢を抱くにはまだ遅くはないでしょう。心して一茶の句を読みさえすれば……。

どんど焼どんどゝ雪の降りにけり

 文政元年二月三十日(西暦一八一八年四月五日)の作(『七番日記』)。

 「どんど焼」という火祭りは現在も毎年の正月十五日ごろ、北信濃の多くの神社仏閣などで行われています。子供たちが持って来た書き初めや達磨、それに前年のすべての縁起物が焚き上げの炎に消え、白煙となり、天へと昇って行くのです。天からは牡丹雪が「どんど」と降って来て、「火」と「水」という自然の大元素が交わるような、神秘的な「春の祭典」が繰り広げられます。この作の二年前、一茶は「御祝義に雪も降也どんどやき」という初案を詠んでいます。しかし音韻的な面では満足がいかなかったようです。民謡のように、句頭韻を踏んで調子を良くしようと改めました。春の到来を祝う子供たちの祭りですから、童謡のような、朗らかな句を作曲したくなったのでは?

 ヨーロッパにも、太古から春の到来を祝う、古式ゆかしい火祭りがあります。「カーニバル」といい、今も多くの村で子供たちは「カーニバル小父さん」の巨大人形を木や紙で作り、それを冬の象徴として燃やしてしまうのです。しかし近年では暖冬早春が続き、カーニバルはあまり盛り上がらなくなったとよく聞きます。たしかに信州のどんど焼も最近、雪の降る年が少なくなり、かつての趣が薄れてきたと言う人がいます。地球温暖化は伝統文化を支えてきた様々な「祭り」にも悪影響を与えているのです。季節なくして伝統文化はなし、伝統文化なくして生きる楽しみはなし、といえるのではないでしょうか?

「さと」から授かった「悟り」(第二子の死、その後、文政元年~三年)

⑪母性愛、父性愛

蚤の迹かぞへながらに添乳哉

 文政元年五月(西暦一八一八年六月)ごろの作か(『七番日記』『おらが春』)。

 五月四日、長女「さと」が生まれました。『七番日記』によると、一茶は数日前の四月二十五日と二十七日、妻の安産を夢見たと記しています。発育不全で瞬く間に亡くなった長男・千太郎の思い出でしょうか、一茶の夢路では男子が誕生していたのです。実はこの女の子の誕生こそ、一茶にとって生涯で最も幸せな日々をもたらします。そしてこの先のおよそ一年の出来事を綴った俳文集『おらが春』は、一茶の最高傑作として歴史に残ることになります。

 すべての始まりはこの一句、つまり母性愛の再発見にあります。一茶は『おらが春』(十二)のなかで掲出句の前書として「さと」の愛らしさと、再び母親となった「きく」の懸命な姿を繊細に描いています。我が子に胸を叩かれながら乳を与えたり、妊娠出産の疲れを忘れて日々におむつを変えたり、まめに蚤の跡を拭いたりするきくの母性本能を目の当たりにして、一茶は次の美文を残します。

 乳房あてがえば、すハ〳〵吸ひながら、むな板のあたりを打たゝきて、にこ〳〵笑ひ顔を作るに、母ハ長〳〵胎内のくるしびも、日ゞ襁褓の穢らしきもほと〳〵忘れて、衣のうらの玉を得たるやうに、なでさすりて、一入よろこぶありさまなりけらし。

 育児にどんな苦労が伴っても、母親にとってはその苦労こそが無償の愛の源となるのです。一茶は母性愛という神秘的な力を目前にして、さらに父性愛を抱くようになったのでしょう。彼は三歳のころ実母を亡くし、以来継母との仲が悪く、母親に可愛がられた覚えさえありませんでした。そういえば昔、江戸で奉公の生活に馴染まないころ、独りで海の無限さを眺め、見覚えのない母親の愛情があの世から届いて来たような気がしました。「亡母や海見る度に見る度に」(『七番日記』文化九年)という不思議な無季の句が、見知らぬ母への永遠の愛の証として生まれました。しかし一茶の心の傷は俳諧の浄化だけでは完治していたとはいえません。これからは自分が父親となり、かつて貰えなかった愛情を我が子に与えることで、この古傷がついに癒されるのだと、一茶は予感しました。母性愛という、人間の最も美しい“愛のかたち”を見習ってこそ、自分は大人になれるのだと感じたのではないでしょうか。

        *     *

 ここで、いきなりサッカーの雑談をしてもよいでしょうか。僕はサッカーファンではありませんが、二〇〇六年のワールドカップ決勝戦については特別な思いがあります。母親のことを相手選手にののしられた直後、ジダン選手はかの有名な頭突き事件を起しました。僕はその瞬間、古代ギリシアの悲劇を思わせるほどの深い人間性が見えたような気がしたのです。ジダン選手はのちにインタビューに答え、「人生において、サッカーよりも大事なものがあります」と、子供のような恥ずかしそうな声で語りました。その時、ジダン氏と同じアルジェリア生まれの大作家・カミュの名言を思い出しました。「法律か母親か、どちらかを選べと言われたら、俺は母親を選ぶ」と。やはり、母の顔を一度仰いだことがあれば、子供はその眼差から頂いた無償の愛をいつまでも忘れることはないでしょう。

 一茶の場合、母代わりとして祖母「かな」の存在が大きかったものの、ある意味できくと結婚して子供が生まれるまでは、母性愛の神秘的な力を感じることはほとんどありませんでした。この体験のお陰で、彼の世界観は一層大らかなものになってゆきます。

 「命を守ろう」という本能は、やはり男性が女性から教わるべきものでしょう。現代社会をみても、日常生活において環境問題を考えようとするのは、ほとんどが女性です。国際政治においても、ドイツの女性首相メルケル氏が最も積極的にポスト京都議定書の目標を立てているのも、偶然ではないような気がします。

 今の地球は、蚤の跡だらけの赤ちゃん以上に哀れな姿になってしまいそうです。男も女も、母性愛のような大らかな気持でこの地球を可愛がりましょう!

目出度さもちう位也おらが春

 文政二年正月(西暦一八一九年二月)ごろの作か(『おらが春』)。

 俳文集『おらが春』に所収された、最初の一句です。句意はただの自嘲的な俗談平話と思われがちですが、実は標準語ではなかなか伝えられない微細なニュアンスが句興の中心になっているのです……。まずは伝記的な背景を考えましょう。長女「さと」が生まれて半年後の正月、我が子はすくすくと育っています。一茶の、信州での生活はついに落ち着きました。つまりこの文政二年の正月、一茶は四十年ぶりに故郷に再び根を張り、一家の主となり、いわゆる「信濃人」というアイデンティティーを取り戻したといえるのです。そしてこのころから、“真の母国語”である北信濃の方言を俳諧においても多く使うようになります。だからこそ、掲出句の中七を「ちゅうくらい」と標準語で読むのではなく、「ちゅっくれ」という方言の読みと意味を採るべきでしょう。標準語の「ちゅうくらい」は「たいしたことない」の意ですが、「ちゅっくれ」は「ちょうどいいぐらい」という肯定的な意味合いになります。金子兜太氏もやはり『一茶句集』(岩波書店)で「この句を読むと、一茶のなんとない自足の心情を覚える」と述べています。間違いなく「ちゅっくれ」の方が、この時期の一茶の心境に合ったお国言葉なのです。「江戸のやつらのように、優雅に新年を祝うことはできないが、信州の初春はおいらにとって丁度いいのさ!」と。

        *     *

 ところで、一茶は方言に潜められた“未知なる言葉の力”に対して、絶えざる関心を抱いていました。彼が晩年書き継いだ「方言雑集」(『一茶全集』第七巻所収)は、日本語学の貴重な資料として今も広く知られています。そのなかで特に、農村生活と密着した単語や四季の移ろいを標準語以上に詳しく描いた表現が書き溜められています。たとえば、近世信濃ではまだ食べられるごろの葉っぱなら、すいばを「すいこ」と呼び、たんぽぽの葉を「くじな」と呼んでいました。他に、「山ノ下ノ平」らなところを「こば」と言ったり、大きめの氷柱を「金氷」と、小さめの鼠を「子ねり」と呼んだりしていたそうです。信州の近世村人が豊富な語彙をもって大自然と向き合っていたことが判るのです。実は現在の信州人もいまだに雪に関する語彙が大変豊かであり、たとえば千曲川上流にある長野県中南部からやって来る湿っぽい雪を「上雪」と言ったり、一旦溶けてまた春の朝夕に凍った雪の表面を「堅雪」と呼んだりします。動植物や天候を詳しく描いた様々な風土の温かな言葉を守ることが、地球環境を守るための第一歩だといえるのではないでしょうか。「ヨハネによる福音書」の冒頭に「初めに言葉ありき」とありますが、たしかに人間の世界においても適切な言葉がなければ、森羅万象の営みを深く理解することが困難となり、自然を敬愛する心も育たなくなるでしょう。一茶のように、農村のお国言葉を研究すればするほど、他の生き物への親近感が湧き、“心のエコロジスト”となってゆけるのではないでしょうか。

這へ笑へ二ツになるぞけさからハ

 文政二年正月(西暦一八一九年二月)ごろの作か(『おらが春』『七番日記』『八番日記』)。

 今朝の春、この目出度い元旦から我が子「さと」は早くも数え年で二歳になるのだと、自慢げに詠う一茶の肉声が聞こえるようです。同時に、一茶は長男の夭折を思い出し、あちらこちらと常に這い回る長女の育児について、ずいぶん神経質でした。田辺聖子氏は『ひねくれ一茶』(講談社)で次のように述べています。

 一茶はお菊の子育てが心配でならなかった。お菊はかなり放胆なところがあって、どこへでも這ってゆき、なんでも口へ入れる子供には目が放せないのに、時折抛ったらかしにしてどこかへ行っていることがある。

 真実の通りでしょう。そうはいえ、近世の農村では案外、育児の責任がもっぱら女性にあるという認識はありませんでした。大藤修氏が『近世村人のライフサイクル』(山川出版社)で述べているように、むしろ「子育ては父親が責任をもってあたらなければならない、とされていた」。また、「近世には『良妻』という概念があっても、『賢母』なる概念はなかった。賢母論が登場するのは、明治」からだと指摘し、江戸時代の村では農作業も子育ても男女が協力して対等に担っていたということが分ります。現代日本の少子化問題を考えるうえで、積極的に育児に携わる近世農村の父親たちが参考になるのではないでしょうか?

⑫小動物と少欲

我と来て遊べや親のない雀

 初案は文化十一年正月(西暦一八一四年三月ごろ)の作(『七番日記』など)。掲出句は『おらが春』に拠る。

 一茶はまだ江戸に住んでいたころ、およそ文化六年の春から、なぜか「雀の子」という珍しい季題に興味をもつようになり、以降最晩年まで約百句を小雀に捧げることになります。小動物詠のなかでは、以前に取り上げた「蛙」と「蝶」の句(それぞれに約三百句)の次に多い題材なのです(猫と並んで)。一茶にとって、「蛙」には亡くなった長男「千太郎」の面影があり、「蝶」には愛娘「さと」を思わせる可憐さが宿っていたといえます。では、「雀の子」はどんな“キーワード”として使われたのでしょうか? それはやはり、一茶自身の子供のころの姿、すなわち「弥太郎」を象徴するものでした。上の掲出句は最終案となった『おらが春』所収の句形に拠りますが、その『おらが春』(十)をよく見ると句の下に「六才弥太郎」とあります。もちろん実際は一茶の子供時代の作ではなく、いくら遡っても作品成立が文化十一年正月ごろと思われます。しかしその五年後、一茶は『おらが春』の執筆に当たって自己の子供時代を振り返り、この句こそが孤児だった「弥太郎」の心境を象徴するものと考えたのです。前書に次の名俳文があります。

「親のない子はどこでも知れる、爪を咥へて門に立」と子どもらに唄はるゝも心細く、大かたの人交りもせずして、うらの畠に木・萱など積たる片陰に跼りて、長の日をくらしぬ。我身ながらも哀也けり。

 実はここで、子供のころの一茶が他の子供達に聞かされて淋しい想いをしたという“唄”は、寺子屋などでよく教えられていた近世民謡であり、小野恭靖氏(『近世歌謡の諸相と環境』、笠間書院)によると『絵本倭詩経』(明和四年刊行)の二番歌などにみる「孤は 目かけて遣れ 爪を咬て 門にたつ」の類歌なのです。小野氏はこの民謡について次のように述べています。

幼児に向けた教訓的民謡である。親のない子の惨めな様子を強調することによって、親の大切さを説き、この時代の身分制度の維持を目指した儒教道徳の暗い一面を示していよう。

 「親のない子は……」の歌謡は、まさに近世日本の社会が生んだ申し子とも言うべきものであるが、これが一茶の句作の一契機となったことはきわめて注意に価する事実であろう。

 やはり「我と来て」の句は、単なる“子供俳句”ではなく、一茶晩年の“民主的思想”が表れた秀句だとみるべきでしょう。近世日本の為政者のイデオロギーであった「儒教道徳」は「身分制度の維持」を目差して「親のない子」や社会の弱者に対する差別的な扱いを正当化するものでした。そこで一茶は、そんな差別への批判を仄めかしつつ、弱い生き物の象徴である「親のない雀」を哀れみ、為政者と正反対の「弱者重視の思想」を唱えたのです。

        *     *

 ここで、人間と自然の共鳴を詩作で詠い、謙遜と清貧の生き方を徹底して、最後は雀にも福音を説いたとされるイタリアの聖フランチェスコ(一一八二?~一二二六)の思想が思い出されるのではないでしょうか。その思想はキリスト教の一流派となりましたが、仏教用語でいえば「少欲知足」という表現に当てはまるといえましょう。小さな生き物、そして“小さく生きる人々”こそ尊い道を歩んでいるとするこの思想は、実はフランチェスコ修道会や仏教のみならず、世界中で様々な文化やライフスタイルでみられると、フランスの哲学者Y・パカレ氏(YvesPACCALET, Sortie de secours, Arthaud,2007)が書いています。氏はこの類の思想を「少欲の哲学」(philosophiedupeu)と名付け、地球温暖化の問題を解決するにはテクノロジーが追い着かないだろうと想定したうえで、物質的な消費量の半減が唯一の突破口であると主張しているのです。つまり、かの3R(Reduce,Reuse,Recycle)のうち、リデュースが最優先だとしています。たしかに現代アメリカの二酸化炭素排出量は一年に一人当り二十トンとなっていて、世界の全人口が同じ生活ぶりを続けるのであれば、地球五個分が必要になるといわれています。日本や欧州諸国ではたいてい一人当り十トンの二酸化炭素が排出されますが、先進国の平均がその半分ならこの地球で全人類が生活できるとされています。パカレ氏の調べによると、一年に一人当り五トンの二酸化炭素排出といえば、丁度フランスの一九六〇年代半ばの資源消費量に相当するといいます。したがって、十九世紀のような不便な生活に戻らなくても、もし先進国の人々が四十年前の西ヨーロッパの生活水準に帰れば、地球温暖化が止められるという単純計算が成り立ちます。

時鳥なけや頭痛の抜る程

 文政二年二月(西暦一八一九年三月ごろ)の作(『八番日記』―この日記は一茶の自筆本が現存しない。以降『一茶全集』所収の「風間新蔵写本」に拠る)。

 日本文化において、自然界の様々な音からイメージを膨らませ、単なる「音」ではなく、意義ある「声」としてそれらに耳を傾けるという「音響的感性」が優れていると思います。たとえば「虫の声」「雪の声」「霜の声」「荻の声」などは、西洋人の“ものの聞こえ方”からすると不思議で仕方ありません。さらに日本人は絶妙な音響的装置を考案し、「風鈴」「鹿威し」「水琴窟」などをもって「涼しさ」や「静けさ」や「さび」を音響的に表現し、音で人の心を癒すという妙技まで発展させました。一茶の掲出句もそんな日本の音響的感性が表れたものといえましょう。延々とホトトギスの美声を聴くことで頭痛を治そうとする一茶は、現代医学の用語でいえば「自然音による音楽療法(Musicotherapy)」を利用していたのです。まさに、副作用のない「自然療法」であります。逆に、現代日本の都会では、道路や商店街などの騒音によって精神不安定に陥る人々が少なくないという事実が思い出されます……。

蟻の道雲の峰よりつゞきけん

 文政二年六月(西暦一八一九年八月上旬ごろ)の作(『おらが春』『八番日記』など)。

 蟻たちはこつこつと夏雲の頂上から歩いて来たのか、と詠む一茶の大胆な想像力と壮大な遠近法の描き方が鮮やかです。大と小のコントラストを生かして笑いをつかもうとする姿勢に関しては、またも民謡からの影響がうかがえるかもしれません。たとえば、『日本歌謡類聚』(博文社、明治三十一年刊行)に所収された山城の国の馬子唄「富士の山をば 鳶がさらふ 奈良の大佛 蟻が曳く」などが思い出されます。

 しかしここでも一茶は素朴な“笑いの俳人”という仮面を被りつつ、実は深遠な世界観を表現しているといえます。

 この句は『おらが春』の第四話を締めくくる作品として有名ですが、そこにみる句と文の軽妙なズレが一茶の作為について多く教えてくれるような気がします。文章は「しなのゝ国墨坂」(現在の長野県須坂市)に伝わる民話を語るものです。今は昔、「中村何がし」という医家があり、その父親はある日、交尾中の蛇をいたずらで殺したといいます。するとその晩、家に帰った名医は「かくれ所」(陰部)の痛みを訴え、いよいよ辺りが腐り、ついに「ころりとおちて死ける」とのこと。しかもその息子も「並ミ〳〵より優れて、ふとくたくましき松茸のやうな」男根を誇っていたにもかかわらず、結婚した途端「たゞちニめそ〳〵と小さく」なり、「百人ばかり」妻や妾を替えても結局インポテンツが治らず、名家の血筋が絶えたと伝えられています。そこで一茶の結論が殊勝です。

 されば生とし活るもの、蚤、虱にいたる迄、命おしきハ人に同じならん。まして、つるみたる[交尾する]を殺すハ、罪深きワざなるべし。

 今の言葉でいえば、地球の生態においては人間も昆虫も同じく生きる意義があり、あらゆる生き物が自由に生殖できるようにしなければ、いずれ全体のバランスが崩れてしまう、という生物多様性(biodiversity)の概念に非常に近い直感的知覚なのです。そしてこの結論の後、一茶は掲出句を載せ、壮大な雲の峰と小さな蟻が同じ宇宙のなかで繫がっているような、大胆な発想を披露します。一茶の句の真意、つまりその“生態学的な広がり”が文章のお陰でさらに引き立ったといえるのではないでしょうか。

 (余談ですが、我が妻もかの医師と同じ須坂の出身です。結婚してまだ一年足らずですが、早く子供を授かりたいと思い、半年前から不妊治療の専門医に通うようになりました。日本人とフランス人の間で生まれて欲しい僕らの子供は、まさに「生物多様性」、そして「文化多様性」の象徴となってくれればと願うばかりです……。)

⑬露の世ながら

露の世ハ露の世ながらさりながら

 文政二年夏(西暦一八一九年晩夏)の作か(『おらが春』)。

 正直なところ、今回の鑑賞は僕にとっても書くのが辛いです。一茶が最愛の娘さとを亡くしたことを思い出したくないような、複雑な心境なのです。

 『八番日記』文政二年六月十二日の項に「サト女[ノ]薬[ヲ]取[リニ]野尻[ヘ]行[ク]」とあります。翌日、痘瘡を患ったさとに薬が効いたようで、「サト笹湯の祝」と記されています。酒をまぜたお湯を笹の葉に載せて子供に飲ませるという快復後の祝儀です。しかしその直後、さとは「益〳〵よはりて」(『おらが春』に拠る)、一茶は民間療法の全手段(熊胆、甘草、桔梗、そしてまた熊胆)を尽くしたものの、「終に六月廿一日の蕣の花と共に此世をしぼミぬ」とのこと。当日の『八番日記』には「サト女此世ニ居[ル]事四百日 一茶見新百七十五日 命ナル哉」とあり、一茶が実際愛娘と親しく過ごした日々を改めて数えるほどの悔しさを覚えたのが分かります。

 掲出句は『おらが春』第十四話(さとの死)の中心句として置かれ、他界直後に詠まれた発句とされています。しかし本当に「発句」と呼べるかどうか、定かではありません。季題は一応秋の「露」ですが、六月にしては季節外れの句となり、やはり「露の世」(儚い世の中)という慣用句を引用している程度です。しかも題材を一つしか扱わない“一物仕立て”であるうえ、「露の世」を繰り返し、「ながら」をも繰り返し、まさに“空洞な句”になっています。喪失感のため、一茶は同じ単語を繰り返すことしかできなかったのでしょう。そうはいえ最後に「さりながら」で読者に問います。「分かっていながら、やはり辛い」と同時に「さりながら我は生き続け、もう一度命を伝えるようにしようか」という前向きな解釈も許されます。

 この句は「発句」「俳句」「秀句」などと呼んでもよいか分かりませんが、間違いなくその後、無数の父親に勇気を与えた“ことば”なのです。加藤楸邨(『一茶秀句』、春秋社、三一六頁)は「私など子供をさとぐらいでなくしているので(中略)目頭が熱くなるような感じがする」と述べています。また、「露の世ハ」の句は初めてフランス語に翻訳された一茶句でもあります。訳者のP=L・クーシューは「さりながら」を前向きな解釈で訳し、次のように評しました(Paul-LouisCOUCHOUD, Les Haïkaï :

Épigrammespoétiques du Japon, in Les Lettres, Paris,

4-8/1906・日本語訳、『明治日本の詩と戦争』、みすず書房、一九九九)。

俳人は実体のない現世のはかない姿をじっと見つめる、しかもその姿を眺めることを不快とは思わない。

そして現在に至って一茶はフランスで最も多く翻訳された日本の俳人となり、最近では名作家のP・フォレスト氏は小説「SARINAGARA」(PhilippeFOREST,

SARINAGARA,Gallimard,2004)のなかで、さとを失った一茶の悲哀を繊細に描いています。その小説家は実は、六歳の娘に先立たれた父親でもあります。

 僕は数年前、六歳の甥のティボー君を亡くしました。そしてなぜかこの連載を書き始める前に、まずはフランスに一時帰国し、ティボーの父親であった兄に会いに行きたくなりました。そこで兄に一茶の生涯を語り、二人とも涙を流しました。すると兄は、「それなら、その一茶という日本の詩人の評伝を、君なら書けるよ」と励ましてくれました。僕はその時、兄に誓いました。「もし僕と妻の間に男の子が生まれたら、ミドルネームを『ティボー』にするよ。そしてもし女の子だったら『さと』にする」と。

 一茶にとってさとの薄命はひどく空しいものに感じられたでしょう。しかし、その苦しみがバネとなり、一茶は掲出句を詠み、のちに『おらが春』という日本の俳文の最高傑作を書き上げることができたといえます。結局さとほど国際的に知られ、世界中の人々に勇気を与えた一歳児は他にいないといってもよいでしょう。空しいどころか、さとの短い人生は加藤楸邨、P=L・クーシュー、P・フォレスト、僕の兄などの人生を変えるほどの素晴らしいものとして残りました。さとは世界中で「命の儚さ」を象徴する“永生の子”となりました。

 文学が文学であり、作品が技術的に優れていれば作者の生き方や世界観などを考える必要はないと言う読者がいます。そのような方にとっては、この連載の趣旨が解りづらいでしょう。しかし、歴史に名を刻んだ芸術家たちはみな才能だけではなく、新しい時代に向けたビジョンをもっていたといえるのではないでしょうか。現在、環境問題の規模をみていると、芸術家たちにも“人間と自然の新たな関係”あるいは“命の儚さ”というテーマにふれて貰う必要があると思わざるを得ません。その助けとして、一茶晩年の世界観が用を成すに違いありません。特にさとの死後、一茶の眼差はさらに深くなってゆきます……。

        *     *

 米国元副大統領でノーベル平和賞受賞者のアル・ゴア氏のドキュメンタリー映画「不都合な真実」で最も感銘を受けたところは、息子の交通事故を語る部分です。一時、四十歳の若さで次期大統領候補と予想されていたころ、ゴア氏は六歳の息子を交通事故で失いそうになったのです。九死に一生を得た息子のリハビリを手伝うために、彼は数年間政治活動をほぼ休止しました。本人いわく、そのころからもっと長い目で人生を考えるようになり、環境問題に関心をもち、最初の著作『地球の掟』(EarthinBalance)の執筆を始めたそうです。結局、息子の交通事故がなければ、今ごろ、地球環境保護の最も著名な運動家が出現していなかったということになります。ぜひいつかアル・ゴア先生に『おらが春』の英訳を読んで頂きたいですね。

蟷螂や五分の魄見よ〳〵と

 文政二年九月(西暦一八一九年十月後半~十一月前半)の作(『八番日記』)。

 カマキリは、前肢を振り回しながら大きな目玉で人間を仰いで、何かを訴えているように見えました。一茶の目には「ほら、生きているよ、死なないうちに私の小さな魂を見てくださいよ!」と切望しているように見えたのです。なぜ一茶の眼差はたかがカマキリに対してこれほど深い慈愛をもつようになったのでしょうか。

 愛娘さとが亡くなったのは、この前の六月二十一日です。その直後、一茶は再び瘧(マラリア)の発作に苦しみました。そういえば、長男千太郎が亡くなった後も、同じようにマラリアを患いました。一日おきに高熱期と解熱期が繰り返される大病です。鎮静したある日、一茶は希望を取り戻して「けさ秋や瘧の落ちたやうな空」を詠みます。運良く二週間ほどで完治し、さとが他界した一か月後の七月二十一日には「名月や膝を枕の子があらば」という句を吐露します。このころから、越後・新井の俳人たちから俳諧指導の申し入れがあり、一茶はまた旅に出ますが、八月の日記はやはり暗い句が続き、まださとの膝枕を偲ぶような「膝抱て寝漢顔して秋の暮」など、哀吟が相次ぎます。

 そして、さとの死から三か月が経った九月下旬から、掲出句にみるような、“昆虫に同情する吟”が日記で目立つようになります。たとえば発句でいえば「蜻蛉もおがむ手つきや稲の花」(九月)、あるいは俳諧歌では「生る者殺すな五分の魄の蟻の思や天に通ぜん」(十月)がその好例でしょう。両作とも二年後の名句「やれ打な蠅が手をすり足をする」(『八番日記』)とも類似性が明らかです。金子兜太氏(『一茶句集』、岩波書店)は「やれ打な」の句について次のように述べています。

 いま眼の前に小休止している蠅を客観的にそのままに見て、そのありのままの生態の嬉しさを書き写した、いわば描写の句と読む。そして、その陰には一茶と蠅との親しげな交感があり、それがアニミズムというものなりと見るのである。

 結局金子氏は上五の「やれ打な」をあまり重視せず、それを「ごく軽い言い方」あるいは中七下五の「枕詞」程度のものとみています。たしかに、前記の蟷螂と蜻蛉の句と同様、蠅の句も見事な描写が読者の意表を突くところがあります。しかし同時に、「魂を見よ」「殺すな」「打な」といった強い呼び掛け表現の頻度にも留意すべきでしょう。

 以前に述べたように、一茶はそれまで「胡蝶の可憐さ」と「愛娘の可愛らしさ」を重ねて多くの句を詠んでいます。さとの死後は、昆虫たちは単なる「可愛い生き物」ではなく、むしろ「可哀そうな生き物」に見えるようになります。一茶の小動物詠は「憧れ」から、もっと深い「慈愛」に変わってゆきます。浄土真宗の用語でいえば、虫たちは一茶に向かって他力本願を唱えているものに見えるのです。この秋以降、一茶は昆虫を見ながら、実はあの世へ逝ったさとの声を聴こうとしているのです。

⑭モラリスト一茶

さと女して夢に見へけるまゝを

  頬べたにあてなどしたる真瓜哉

 文政二年秋(西暦一八一九年秋)の作か(『おらが春』)。

 真桑瓜という自然の恵みから涼を得て、のびのびと育ってゆく我が子のあどけない姿を回想した追悼句です。『八番日記』文政二年「別紙夏」の項には、この句の初案と思われる作「頬べたにあてなどするや赤い柿」が載っています。そもそも一茶は亡き娘を夢で見ただけで、柿か真桑瓜か、記憶が朦朧としていたに違いありません。いずれも秋の季題ですが、ここでは“夢のなかの季節感”、いわば“あの世から来た秋”を詠んでいるといえます。のちに、さとに捧げた俳文集『おらが春』にこの句を収めるに当って、一茶は冷静に適切な推敲を行いました。涼を取るために様々な果物を頬っぺたに当てる娘の仕草は夢のなかの回想なので「するや」を「したる」に変えて過去の出来事と分かるように改めたのです。そして、柿よりも真桑瓜の方が涼しそうと判断し、作品を完成させました。さとの死後、一茶は頻繁にこのように潜在意識から蘇った回想や辛い思い出を句材にし、句作と推敲によって(精神分析でいう)浄化法を行っていたともいえます。たとえば、そばに子供がいない時期でも、さとのような少女を思わせる回想句を度々詠んでいます(以降第18回「鳴猫に」の句を参照)。回想句はセラピーとなると同時に、初中期一茶調にみる日常性に、老いから得た精神性を足してゆくための作法でもありました。晩年一茶の秀作はこのように、通俗的にみえながらも、深い精神性の滲むものが多いのです。

 そういえば、一茶研究の第一人者・矢羽勝幸氏は『俳句研究』(二〇〇七年九月号)で、感銘句一句として一茶の晩年作と思われる「ひとはひと我はわが家の涼しさよ」を挙げています。この句においても、一茶は生活のなかの「涼しさ」を詠むと同時に、実は精神的なものを仄めかしているといえます。自然体で自分らしく生活を送ってこそ“誠の涼しさ”を味わうことができるという深意が伝わります。さとのように頬に瓜などを当てたり、我が家独自の涼しさを愉しんだりして、のんびりとした生活を送れば、人間はのびのびとこの世で共存できるのだ、という「独立自尊」のモラルが現代読者にもよく通じるでしょう。

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 現代生活のなかでも、冷房を使わなくても様々な“納涼装置”が考えられます。家の南側には簾や夕顔で作ったグリーンカーテンなどを設置し、北窓からの風を送り出すように扇風機を置けば、ずいぶん温度を抑えることができます。扇風機の前に氷水のペットボトルを置くのもおススメです。さらに、子供や小動物の行動を観察することで“納涼研究”がグレードアップします。さとのように触感の涼しいもの(瓜、竹、石など)を求めたり、時間帯によって昼寝をしたり、部屋や姿勢を変えたりすることが大変有効的なのです。僕はいつも愛犬・キャラメルの行動を観察して共に涼しい場所へ転々と移動しますが、最近はお陰様で我が家は冷房が不要、リモコンも行方不明のままです!

  能なしは罪も又なし冬籠

 文政二年冬(西暦一八一九年冬)の作か(梅塵写本『八番日記』)。

 この冬は前年と違って一茶は我が家で愛娘と一緒に目出度い年末年始を過ごすことはできません。そこで、上京して江戸で寂しさを紛らわそうかと考えたようです。このころの日記に、前書「江戸道中」に続き、「椋鳥と人に呼るゝ寒哉」という句が記されています。当時は信州の貧しい小作農は小鳥のように秋に南へ渡り、食べ物を貰い、春には山へ戻ることが多かったため「椋鳥」という差別語で呼ばれていました。たしかに一茶はただの地方俳諧師だったので、吹雪の北国街道を踏んでいても「先生」と呼んでくれる人は一人もいなかったはずです。実際に道中で「椋鳥」と罵られたかもしれません。結局上京を断念し、柏原の庵へ戻ることにします。そして数日後掲出句を吐露します。「おいらは能なし(信州方言で怠け者の意)、江戸まで歩く勇気もなかった。だけど、罪を犯して身を隠しているわけでもない。一百姓として、家で寒さを凌いでいる、それでいいのだ!」という句意になります。フランスのモラリスト・パスカルの名言が思い出されますね。

 すべての人間の不幸はただ一つのことから来る。それは部屋で静かに休んでいることができないということである。(『パンセ』「気晴らし」より)

*     *

 僕は毎週水曜日、長野市から東京まで新幹線で蜻蛉返りをして首都圏の大学へ比較文学を教えに行きます。気晴らしで通っているわけではありませんが、環境問題を考える者と自負しているのに、毎週の新幹線でずいぶん電力を使っているのではと、以前から罪悪感を抱いています。しかし調べてみると、新幹線の移動に必要な電力の一部が化石燃料で作られているにもかかわらず、電車は実にエネルギー効率の良い交通手段であり、二酸化炭素をほとんど増やさないという事実を知りました。一人を一キロメートル運ぶ時の二酸化炭素排出は平均で、新幹線の場合は十四グラム、普通電車の場合は十九グラム、飛行機の場合は百十一グラム、自動車の場合は百七十五グラムが必要になります(『運輸・交通と環境』二〇〇六年、交通エコロジー・モビリティ財団を参照)。つまり、往復六キロメートルの自動車での日常通勤の方が、僕の東京までの新幹線通勤よりも多くの二酸化炭素を排出するということになります。

 もうひとつ罪悪感がありました。それは、僕がフランスまで家族訪問する時の飛行機の多用に関するものです。先ほどの数字で計算すると、東京―パリの往復便は一人につきなんと二トンの二酸化炭素が排出されるという恐ろしい数字が判明します。ただ、僕の場合は苦しい問題です……。これからはなるべく二年に一度だけの帰省で我慢しようかと思っています。何より、軽々と気晴らしのための飛行機の旅を繰り返さないことが、これからの時代では必要なモラルになってゆくのではないでしょうか。二十世紀初頭で使われたような飛行船の定期便も考えられますが、多くのリゾート地の場合は高速客船という交通手段も魅力的で、飛行機ほど環境に害を与えません。時間に余裕のある方にとっては、ハワイまで二日がかかっても楽しい“エコ・ツーリズム”の旅となるでしょう。いうまでもなくパスカルや晩年の一茶のように「部屋で静かに休んで」読書に打ち込むのも、賢い休暇の過ごし方ですが……。

  ともかくもあなた任せのとしの暮

 『おらが春』に、「文政二年十二月廿九日」(西暦一八二〇年二月十三日)の日付がある(『おらが春』初出)。

 『おらが春』を締め括る句です。その『おらが春』の最初の句といえば以前に取り上げた「目出度さもちう位也おらが春」ですが、両句が一年の両端を指し、見事に照応しています。また、この句の中心的感興である「あなた任せ」という表現は、実は冒頭の文でもみられます。

 から風の吹けばとぶ屑家ハ、くづ屋のあるべきやうに、門松立てず煤はかず、雪の山路の曲り形りに、ことしの春もあなた任せになんむかへける。

 やはり、『おらが春』という作品全体の真髄はこの「あなた任せ」の精神にありそうです。むろん、近世では「あなた」とは人称の意味がなく、「あちらにあるもの」または「あの世」を指します。そうはいえ、一茶は単に阿弥陀仏だけに向かって一句を唱えているのでしょうか。山尾三省氏(『カミを詠んだ一茶の俳句』二五四頁)は、先ほどの『おらが春』の冒頭について次のように指摘します。

 この文章において一茶が〈あなた〉と呼んでいるのは、正確に言えば、浄土門の伝統における阿弥陀仏であると同時に、一茶およびその屑家を深く大きく包みこんでいる信濃の大自然そのものであり、その自然を貫いて在る摂理そのものでもあった。

 『おらが春』にみる一茶の精神は「浄土真宗的他力信仰」に限定されることが多いですが、少なくとも専ら阿弥陀仏に頼るような精神ではないというべきでしょう。『おらが春』の最後の文でも、一茶は盲目的な他力信仰の「縄に縛れ」た人々を批判し、空念仏よりも日常の行ないが肝心であるという“自力的なモラル”も強調しています。

我田へ水を引く盗ミ心をゆめゆめ持べからず。しかる時ハ、あながち作り声して念仏申ニ不レ及。

 一茶の「あなた任せ」の精神はまず、自と他の共生を尊重するモラル、つまり自力思想を含む他力思想なのです。

そしてこれが、現代の環境問題を考えるに当って参考となる思想でしょう。つまり人類は今まで地球という他力に頼る一方でした。そろそろ限度ある資源に対する「盗ミ心」をやめ、自力と他力のバランスを取り戻し、自然に恩返しする時代が来ているのではないでしょうか?

謙虚に生き続ける(発病、第三子の死、文政三~五年)

⑮「日常」という哲学

 今回は、文政三年春夏の評伝を書くことにします。ところで計算すると、一茶が信州に帰郷した文化九年の冬から七年半が経っていて、故郷で息を引き取るのも七年半先となります。つまり一茶は今、帰郷で始まった第二の人生の真ん中に立っているのです。ここまで、いろいろな出来事がありました。様々な衝撃を受け、一茶は俳人のみならず思想家、そして人間として大きく成長しました。帰郷の翌年は大病を患い、その直後「あるがままの芭蕉会」で民衆的思想と鄙びた生活の尊さを唱えました。次の春は若々しい信州の“田舎娘”菊と結婚し、俳風が“女性的な丸味”を帯びるようになりました。第一子「千太郎」の夭折後、子供や小動物、つまり儚い命に対する慈愛が心にさらに深く根付きました。それに続き、一歳で他界した愛娘「さと」の死後、俳文集『おらが春』で“自力と他力のバランス”の大切さを主張するような思想、モラリスト的とも宗教的ともいえる境地を世に示しました。一茶は若きころの荒々しさを離れ、生きとし生けるものの共存を願うようになり、新しい人間に生まれ変わったのです。ある意味で、皮肉にも子供二人の死という悲劇は、一茶の大らかな“エコロジー的精神”の肥やしになったともいえます。やはり、フランスの環境保護運動家ニコラ・ユロー氏がいうように、「生まれ付きのエコロジストはいません。人生の難所を歩むに連れてエコロジストになってゆくのです」。

起〳〵やおがむ手に降春の雨

 文政三年一月十二日(西暦一八二〇年二月二十六日)の作(『八番日記』)。

 信心深い北信濃の百姓の懸命な日常を描いた佳句です。起床して間もなく近くの菩提寺まで駆けつけ、拝む手に春雨を受ける、そんなひとコマが目に浮かびます。実は、この句が描いているのは一茶の愛妻「菊」であり、彼女の熱心な祈りには特別な理由があったと思われます。四日前の日記に「赤川久右衛門中風再発ス」とあります。「久右衛門」とは菊の父親です。「中風」といえば、いわゆる脳出血後の様々な後遺症を指します。菊の父親の場合、高齢と飲酒が病因だったと考えられます。菊はすぐに赤川村にある実家へ赴き、一茶の忠告により大根汁を父に飲ませたそうです。すると三日で病状が治まり、やがて旦那の元に戻ることができました。その翌朝、一茶は妻の祈る姿を見て掲出句を詠んだと推測できます。彼もそのころから毎晩の酒量が増え、血液の流れを良くする大根汁の効用を門人の薬剤師などから聞いていたのかもしれません。実は十か月後、一茶も中風の発作に襲われることになります。この吟の時、妻の祈る姿を前に、自分の健康を心配し始めていたのでは? 二人の年齢差は二十四歳、父と娘のようです。もし菊の父親が亡くなり、そして自分も中風で亡くなれば、彼女は子供をもたない、哀れな未亡人になってしまいます。早く第三子を授かり、今度こそ成人まで育つようにしなくてはと、一茶は内心で祈ったのでしょう。運良くこのころ菊の生理に遅れがありました。そう、彼女はこの秋、めでたく第三子・石太郎を出産します。祈りは通じました。死神に負けず、二人は再び命を伝えることになります。

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 江戸時代の村人は、常に死と隣合せの生活を送っていたといえます。だからこそ、いざとなると死の恐怖を乗り越えるための勇気が持てたのではないでしょうか。現代のいわゆる“先進国”では、快適で安全な生活が当たり前となり、「死」という単語さえタブーになってしまいました。そのためか環境破壊による“人類没滅の可能性”を考えたくない、そして考えられないという頑迷が続いているような気がします。われわれは、沈没までシャンパーニュを片手にバイオリンの音に合わせて優雅に踊るタイタニック号の旅客のような生き方をしているのではないでしょうか。もう少し「死」というものを意識しながら生きていた方が賢いのでは? フランス十六世紀のモラリスト・モンテーニュいわく「哲学とは死に方を学ぶことだ」と……。

江戸住や二階の窓の初のぼり

 文政三年五月(西暦一八二〇年六月後半~七月前半)の作(『八番日記』)。

 回想句です。その時一茶はもちろん、信州の自宅すなわち農民の平屋で生活していました。なぜか、江戸でかつて訪れた立派な館を思い出したのです。一茶はかつて両国など、庶民的な長屋の町で生活していました。時折、浅草の成美宅など、裕福なパトロンを訪問し、その優雅な暮しぶりを覗くことがありました。五月上旬、屋敷の二階から見渡せば、延々と続く町並みの奥、富士の高嶺が聳え、最初の幟を発見することがありました。まるで、二十五年後に描かれた広重の傑作『名所江戸百景』の一つ「水道橋駿河台」の鯉幟を眺めているような絶景です。

 さて、なぜ一茶はこれほど鮮明に江戸の風景を思い出すことができたのでしょうか。それは、江戸時代の通信機関が優れていたからだといえます。一茶の文通記録『随斎筆記』によると、最晩年も毎月のように江戸の俳人と手紙のやりとりをしていたことが分ります(矢羽勝幸『信濃の一茶』一五〇頁を参照)。そのため、旧友との思い出が蘇り、掲出句のような“江戸回想”の発句が生まれたのでしょう。たとえば、この句が詠まれる直前、江戸の俳人で下総の俳諧仲間だった太筇から手紙が届いたところでした。二か月後一茶は返事を送ったことを記していますが、挨拶として掲出句を文中に添えた可能性があります。一茶は、飛脚だけではなく、複数の個人ルートの通信を巧みに利用していました。なかでも、善光寺町の忠実な門人で薬種商を営んでいた上原文路が頼りになったようです。薬の流通と同じ便で、一茶の書簡を運んでいました。商人と俳人が協力し、合理的な通信網が出来上がっていたのです。