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『江戸のエコロジスト一茶』③

2022.11.18 13:25

https://showahaiku.exblog.jp/27980689/  【『江戸のエコロジスト一茶』】

(マブソン青眼著、角川書店、2010年)

現代の俳句雑誌の投句方法について、いつも不思議に思うことがあります。ほとんどの同人誌の場合、電子メールでの投句が不可能であり、毎月切手を貼って郵送に頼るしかありません。漢字の正字体を遣う作者以外は、電子メールで送った方が簡単で安く、そして環境に優しいのです。国内便の郵送は主に環境に優しい電車を利用しているとはいえ、電子メールよりもはるかに多くのエネルギーを使います。新聞・雑誌に関してもしかり。僕は本誌『俳句』なら隅から隅までゆっくりと読みたいので低価のインターネット版が発売されても、おそらく印刷版を買い続けます。しかし、多くの同人誌や総合雑誌の場合、有料インターネット版があれば、定期的に興味のある記事を購入し、もっと頻繁に読むようになるでしょう。

 むろん、恋文はいつまでも便箋の方がいいです。とはいえ、実用的もしくは断片的な情報を伝えるには、インターネットという素晴らしいテクノロジーを利用し、無駄な紙とエネルギーを節約した方が合理的でしょう?

筏士の箸にからまる蛍哉

 文政三年六月(西暦一八二〇年七月後半~八月前半)の作(『八番日記』)。

 六か月目に入って、菊の妊娠は順調のようです。さとの急逝からはや一年が経ちました。一茶はしばしば俳諧師の仕事が入り、寂しさを紛らわしつつぼんやりと生きています。夏の夕暮れ、川端を通ると蛍狩りの小船が模糊と現れ、また闇に消えます。筏士は暇そうに弁当を食い始め、箸の匂いに誘われた蛍が舞って来ます。「平和だな」とつぶやき、一茶は久しぶりに穏やかな気分です。そういえば昔諏訪で「ちぐはぐの芒の箸も祝哉」という句を詠んだことがありました。「そうか、最近は仏のこととか、難しいことを考えているけど、箸と食べ物さえありゃ、人間は文句なしだ!」という独り言が聞こえてきます。

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 昨年の夏、妻から木曾ヒノキの箸を貰いました。ケース付きで、いわゆる「マイ箸」という商品です。僕のセカンドバッグにぴったりと収まるサイズなので、最近はどこで食べても使うようになりました。たとえ使い回しの箸が置かれた店でも、妻から貰ったものの方が愛着があって好いのです。そこで調べたところ、日本の飲食店で使われている割り箸のほとんどは、外国産の安い木材で出来たものだといいます。木材は再生できる資源なのでそれほど気にする必要はないと思われがちですが、インドネシア、中国、ブラジル、コンゴ民主共和国などで伐採された森林の多くは再植林を行わず、そのため二酸化炭素が増えています。事実、二酸化炭素の増加の七十二%は化石燃料の使用が原因ではありますが、残りのほとんど(二十四%)は森林伐採が原因とされています。そんなこともあって、皆さんなるべく、好きな人へ「マイ箸」をプレゼントしましょう!

⑯ 人の油

子宝の多は在所や夕ぎぬた

 文政三年八月(西暦一八二〇年九月後半~十月前半)の作(『八番日記』)。

 秋の夕暮れ、稲刈りの仕事が終わるや否や、村の女性たちは夕餉もそこそこに、近くの川へ向かいます。赤子を背負う若妻もいれば、孫に洗濯の手伝いをさせる老婆もいます。一茶の愛妻・菊もそのなかに交じり、旦那の浴衣などを洗っています。彼女ははや妊娠八か月、お腹が丸々と膨らんできました。さあ、寒くなる前に、そして出産準備で忙しくなる前に、すべての衣服、布団、その他の布などをきれいに洗わなければなりません。信州の寒地では木綿が育たないため、麻、藤、楮、葛、科木といった粗くて丈夫な繊維に頼り、村人は自分たちで布を織っていたのです。石川英輔氏(『大江戸リサイクル事情』講談社文庫、一九九七、一二一頁)が述べているように、「衣食住の〈衣〉の部分も、すべて畑でできる農産物だった」といいます。ただ、そうした繊維は丈夫とはいえ、木綿と違って洗濯する度に硬さが戻り、布地を砧で打ち柔らげる必要があります。それが「砧打ち」。夜長のころの、女性たちの大切な仕事の一つでした。子供が多ければ多いほど様々な布が必要になり、砧打ちの時間が長くなります。ついに繊維がよじれてしまうと衣服が布団などに“リフォーム”されたり、雑巾になったりして、最後はオムツとして使われます。そして使用後のオムツをそのまま畑に埋めると有機肥料となり、また麻などが栽培され、新たな布が作れるわけです。苦労はかかりますが、江戸時代の村人はこのように自分たちの手で衣類のほぼすべてを土から得ていたということになります。

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今の時代ではむろん、そんな「直耕直織」の生活を人々に求めても無理です。しかし、衣類の扱い方に関して、われわれ現代人は近世村人から倹約を学ぶことができるでしょう。なるべく良質で丈夫な服を選び、それを大切に扱い、場合によって古くなったものを雑巾などにリサイクルすることも可能です。たとえば、一年でよれよれになってしまうような安いワイシャツを買ってすぐにそれをゴミに出すのは反エコロジー的な行為であると同時に、おしゃれな習慣とはいえませんね。それより、一生物になるような高級ワイシャツを求めた方が最終的には安上がりとなり、繰り返し買う面倒もなく、見栄えもよいのではないでしょうか。

いくばくの人の油よ稲の花

 文政三年九月(西暦一八二〇年十月後半~十一月前半)の作(『八番日記』)。

 稲の花は目立つものではありません。秋の昼ごろ、日当りのよい所でぽつぽつと咲き始め、一時間ほどで受精し、米粒と化します。江戸の俳人たちはそんな地味な稲の花には関心がなく、それより染井吉野の花吹雪などを好むでしょう。しかも稲の花は桜とは違い、何もしなくても咲いてくれるような花ではありません。稲は百姓たちの汗、いわゆる「人の油」の結晶なのです。晩年の一茶はこのように、百姓の苦労を称えるような句々を多く詠んでいます。時には俳諧師として楽な生活を送る自分を省みて、罪悪感を抱くこともありました。

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 江戸時代の日本列島は人口の約八割が百姓でした。今、テレビで時代劇などを見ていると武士と商人ばかりの国かと思われがちですが、事実社会の大半をなす百姓たちの努力と知恵のお陰で二百六十年間、全国の三千万人の食料が保証されていたわけです。天明以降の江戸後期には大規模の飢饉は起こらず、いわば食料自給率がほぼ百%になっていました。よくも機械、化学肥料、農薬を使わずに、近世日本の農民たちはこの狭い日本列島でこれほどの需要を賄い続けたと驚かずにいられません。その奇跡の理由は主に農民の勤勉さと、土地に合った「多毛作」という高度な知恵にあるといわれています。石川英輔氏(『大江戸えころじー事情』講談社文庫、二〇〇三、二四八頁)によると、

多毛作は、それぞれの土地の気候風土に合わせないと成功しないが、うまく合わせられれば、土地をほとんど休ませずに利用できるため、多様性の効果がよく現れた。(中略)たとえば、大豆→ソバ→ヒエのように一年で一巡する単純な組み合わせ、二年単位でヒエ→大麦→大豆の三種類を作る、麻→かぶ→大麦→大根というように二年単位で四種類を作る、

など、実に多毛作の種類がたくさんあったのです。

 一方、現代日本を含める先進国の“近代農業”といえば、ほとんどが集約農業であり、少ない農民が膨大なエネルギー量(トラクターや機械のガソリン、グリーンハウスを温めたり肥料・水を運んだりするためのエネルギーなど)を費やし、広い土地でずっと一毛作を続ける生産者が大半です。結果として次第に土地が瘦せ、化学肥料と農薬をさらに多く撒き散らすしか方法がありません。これが、いわゆる“近代農業”の悪循環というものです。その上、化学肥料一トンを作るには平均二・七トンの石油が必要とされています。結局“近代農業”は石油不足を悪化させるだけではなく、消費者の健康にも悪影響を与え、地下水を汚したりします。もはや土地の瘦せが限界まで進んでしまったと訴える農家が増えています。むしろ、伝統的な多毛作と有機栽培に戻った方が土地の栄養が再生され、生産性も上がり、無理なく健康的で良質な農産物が作れます。ただ、そのためには、日本の農家人口を大幅に増やしてゆかなければなりません。農薬と化学肥料の代わりに、「人の油」と昔からの知恵が必要になるわけです。

食料自給率が四十%、すなわち先進国のなかで最低になってしまった日本は、もう少し自国の伝統的農業に誇りをもち、教育機関においても「農家」という仕事の尊さを子供たちに伝えるべきでしょう。もし一茶が生きていれば、きっとそう呼びかけるに違いないと僕は思います。

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 そういえば、一茶の故郷・柏原辺りの農家たちは最近「チビッタ農園」という共同生産組織を立ち上げ、「黒姫高原の清らかな水と空気の中、無農薬・無化学肥料栽培によって作られた、元気一杯の野菜たちです」をモットーに直販を始めました。我が家の近くのスーパーにも販売されていますが、低価と高品質のため、いつも瞬く間に全商品が完売してしまいます。包装も簡素で、必ず生産者名と連絡先が記されているので安心です。

 やはり、政府が有機農業の発展をもっと支援して欲しいと、いつまでも嘆いていても何も始まりません。まずはわれわれ消費者一人一人が、このような取り組みを積極的に応援してゆく責任があるのではないでしょうか。

岩にはとくなれさゞれ石太郎

 文政三年十月(西暦一八二〇年十一月ごろ)の作(『八番日記』)。

 文政三年十月五日、ついに第三子で次男の「石太郎」が無事に生まれます。まだ頼りない「細石」ですが、早く巨石になってくれるに違いないと、一茶は胸を躍らせています。しかし同時に、一茶の胸中には過去のトラウマがじわじわと込み上げてきます。あの世へ逝った千太郎の誕生の時も、さとの誕生の時も、このように我が子へ激励の挨拶句を贈っていません。「今度こそ生きてくれ!」という思いがいつになく強くなっているのは、千太郎とさとの死があったからでしょう。速水融氏によると(『近世農村の歴史人口学的研究』昭和48年、東洋経済新報社)、信濃では、十七世紀末には出生登録児の三割が六歳になるまでに死亡していたのに対し、十八世紀末には一割以下に低下した村もあったといいます。つまり一茶のころの柏原でも、乳幼児の死亡率が三十%以下だったと推測できます。それならなぜ、長男も長女も続けて亡くなったのだと、一茶は理解に苦しんだに違いありません。妊娠とともに親にとって心配の日々が始まるといいますが、一茶にとってこのころから過去のトラウマとの葛藤が始まったといっても過言ではないでしょう。実は石太郎の誕生の十日後、彼は初めて中風(脳出血の後遺症)の激しい発作に襲われ、二か月近く寝たきりになってしまいます。病床で老いを実感するとともに、我が子に対してさらに強い思いを抱くようになったのでは?

(時代と情況こそ違いますが、実は数日前、妻と初めて体外受精に挑戦しました。成功確率は三十%程度です。しかしお互いの年齢を考え、今のうちに何回か挑んでみようと、二人で決心しました。悲惨な運命にもかかわらず粘り続けた一茶と菊に勇気付けられたのか、僕らも可能性が残される限り頑張り続けようと思っています)

⑰ もう一度若木を植えて

臭水の井[戸]の降より梅の花

 文政三年十二月(西暦一八二一年一月ごろ)の作(『八番日記』)。

 第三子・石太郎の誕生の直後、一茶は突如脳出血に襲われ、その後遺症(中風)のため二か月間脚の麻痺が続き、寝たきりの生活を余儀なくされました。これではわが子の成長を見届けることもできないという悔しさを覚え、十二月の初旬、脚試しに隣村の古間まで歩こうとします。しかし坂の途中で休まざるを得ません。全快していないことを痛感します(『一茶大事典』年譜・書簡による)。掲出句はそんな時の吟でしょう。

 道端に漆黒の臭水(石油の古称)がぷくぷくと湧き出ています。当時、越後や北信濃にある幾つかの小さな油田はいわゆる“自然の不思議”とみられていて、その石油を燃料としてほとんど使っていなかったそうです(石川英輔『大江戸えねるぎー事情』を参照)。草生水とも呼んだりして、主に塗り薬の原料として希少価値がありました。なにしろ、一茶のような近世の村人にとって、植物燃料(ナタネ油、木材など)の方が入手しやすく、清潔感のあるエネルギー源と思われたに違いありません。掲出句においても、一茶は石油の悪臭と梅花の芳香を対比しています。梅の花は清らかな命の誕生そのものです。つまり一茶にとってこの花は、二か月前に生まれてくれた小さな赤ちゃん・石太郎のようなものです。それに対して臭水は黒々として、どろどろとして、今までひたすらに死と闘ってきた自身の生涯を象徴するものだといえるでしょう。

 事実、現代地学によると石油はまさしく何百万年前の生物が腐り果てた結果として出来上がったものといわれています。一茶も掲出句で石油から湧き出る“死の臭い”を感じとっていたのではないでしょうか。

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 この句が詠まれた百五十年後、化石燃料というエネルギー源に対する不信感を抱き、いち早く環境問題を論じた別の日本人作家がいます。それは今から三十七年も前に、化石燃料の危険を指摘した有名評論家・立花隆氏なのです。

 化石燃料は、過去の自然が蓄えておいてくれたエネルギーの貯金のようなものである。それを引き出して使うということは、エネルギー収支の面では“赤字経済”であることを意味する。

また、その名著『エコロジー的思考のすすめ』(初版『思考の技術――エコロジー的発想のすすめ』日本経済新聞社、一九七一)のなかで立花氏はすでに地球温暖化のメカニズムを説明していました。

 化石燃料の使用によって空気中に炭酸ガスが増加したことによって地球が温められ、北極南極の氷が溶けだして海洋の水位が上昇すると予言する学者もいる。

といわれていますが、その学者たちは今、三千人にもなり、IPCCという国連の研究機関を形成し、二〇〇七年にはノーベル平和賞も受賞しました。それでもなぜか化石燃料の使用にいまだに歯止めがきかず、人類はかつての生物の死体で出来た石油を燃やし続けているのです。一茶のころから直感的に“怪しいもの”とみなされていた「臭水」の多用はなぜか、十九世紀の産業革命以降、死に神のように日に日に地球の生命を脅かし続けているのです。

母親を霜よけにして寝た子哉

 文政四年正月(西暦一八二一年二月ごろ)の作(『八番日記』)。

 前書に「橋上乞食」とあります。つまりここで一茶は妻菊と息子石太郎の寝姿を詠んでいるのではなく、たまたま路上で見かけた親子、今でいえば“ホームレス”の母性愛を描いているわけです。そしてその母親を「霜よけ」に喩えています。現在も北信濃の畑でよく見かける「霜除け」とは、小枝を骨組みにして作られた、小さな温室のようなものです。必死でわが子を寒さから守ろうとする母親は霜囲いに見え、赤子は苗のような弱い植物に見えました。“農民俳人・一茶”ならではの、具体的にして温かな秀句といえましょう。また、言語学の用語を用いていえば母と子を人間以外の物に喩えた「二重の擬物化」という鮮やかな比喩表現が著しいです。

 何より、一茶は掲出句で親子愛の偉大さを裕福な階級の生き様に見出したのではなく、社会の底辺に生きる乞食の女性からその美しい姿を教わったといえます。ここで、理想の教育を植物の育て方に喩え、都会や上流階級の偏見から離れて我が子を自由に育てるべきと唱えたフランス民主主義の父・ルソーの教育論が思い出されます。

私は、あなた、やさしく先見の明のある母親にうったえる。大きな道から離れて、生まれたばかりの灌木を人々の意見の打撃から守っておやりなさい! 若木が死ぬまえに養い、水をやりなさい。その果実はいつの日かあなたの無上の喜びとなるでしょう。(『ルソー全集』所収『エミール』第一篇、白水社、一九八〇)

(実は先日、僕が非常勤講師を勤める埼玉県の十文字学園女子大学の図書館で貴重な書物を発見しました。それはつまり、『ルソー全集』の初版本[一七八二年版]三十三冊悉くその図書館にあったのです。第七巻にある、ルソーの教育小説『エミール』をただちに借りました。

 その数日後、待ちに待った妻の体外受精の手術が行われました。手術中、僕は病室に籠り、手を震わせながら『エミール』に読み更けりました。その時、二百二十五年前のフランスの貴重本と日本で再会した奇跡に感謝し、一茶晩年の精神によく似たルソーの大らかな人間愛に勇気付けられました。そしてその一冊のお陰で、僕は初めて父親になる覚悟が持てたような気がします。[ブログhttp://www.myspace.com/mabesoone 「ルソーと不妊治療」を参照]。お陰様で、早苗のような弱い受精卵はめでたく着床しました。ところがこの一か月、妻は切迫流産の症状があり、家でずっと寝込んでいます。僕は家事を一手に担い、妻の胎内についに授かった小さな命を、「霜よけ」となって守ってゆきたいと思います)

最う一度せめて目を明け雑煮膳

 文政四年正月十一日(西暦一八二一年二月十三日)の作か(俳文「石太郎を悼む」)。

 悲劇が起こりました。年始早々、鏡開きで一家が賑わうはずだった正月十一日の早朝、最悪の事故が……。

 菊はいつものように早起きしてせっせと家事に励み、二か月児の石太郎を背負いながら雑煮の準備を始めました。一茶はまだ布団に入ったまま、いつものせりふを唱え続けました。「まだ首の据わらない子だから……背負わないでくれよ! 不便でも、胸に当てて緩めに縛ればいいのじゃ……」と。しばらくして、菊の不安げな声が聞こえました。「イシ、イシ、イシ坊!……」。そして、叫び声が。石太郎はもはや、墓石のように冷たくなっていました。窒息死でした。一茶の胸には激怒が込み上げ、老人は突如獣に変わったかのように暴れ始めました。

 思い起こせば、千太郎が発育不全で亡くなった時も、さとが痘瘡で倒れた時も、お互いに理解し合えない、男女の異なった苦しみ方がありました。それでも時間が経つに連れて、一茶は菊の“運命主義的な苦しみ方”を知り、菊は一茶の“老人ならではの思慮深さ”を理解するようになり、最終的には二児の死は夫婦の絆をさらに強いものにしました。しかし今度は、一茶にとって、程度を超える痛みでした。彼はただちに筆を握り、「石太郎を悼む」という文章で心の毒を吐き続けました。「老妻菊女といふもの、片葉の芦の片意地強く(中略)必よ背に負ふなかれと、日に千度いましけるを、いかゞしたりけん」と述べ、結びに掲出句を書き記しました。加藤楸邨は『一茶秀句』で「感情に溺れて素材に凭れただけの作である」と酷評しています。僕は異見を唱えたいです。まずは、一茶という人間の、計り知れないほどの絶望がそのまま作品になったことに、文芸の次元を超えた一茶の奇跡的な精神力を感じます。そして題材に関しても、実は上記の一茶句は隠し味として修辞的技法を巧みに駆使していたともいえるのです。この句の前書との照応を検証しましょう。「かゞみ開きの餅祝して居へたるが、いまだけぶりの立けるを、最う一度せめて目を明け雑煮膳」とあります。つまり傍点で示したように、一茶は鏡開きと、死体となったわが子の閉じた目を対比していたのです。鏡のような、清らかな眼をしていた石太郎は今、鏡の奥の世にいます。一茶の心は真二つに割れました。心の半分は菊から離れ、千太郎、さと、そして石太郎のいる浄土へ逝ってしまいました……。

 しかし一茶の放心状態は長く続きません。夫婦の愛はこの難関を乗り越え、春にはいつになく美しく甦るのです。

⑱ もう一度愛し合って

鳴猫に赤ン目をして手まり哉

 文政四年正月(西暦一八二一年二月ごろ)の作(『八番日記』)。

 共に育ってきた幼子と仔猫が、共に年を越します。二つの小さな生命の間を手鞠が走り、子供と小動物とのあどけない駆け引きが、正月の囲炉裏端を一層賑やかな座にします。手鞠は小さな地球儀のような、単純なおもちゃだからこそ、動物と人間が共に遊べるのです。現代の子供たちに人気の携帯型ゲームなどを手にしていたら、猫はおそらくやって来ないでしょう。

 ところでこの句では、「猫」が先に述べられ、人間はその後、「赤ン目」という顔の描写だけで言外に仄めかされています。つまり表現上も、人間は動物に勝っていません。人の子は猫の子と同じ視点から描かれていて、両者が同じ小宇宙の中で共生しているように見えます。一茶は、大人たちが忘れた何かを、この光景にみたと思います。それは、人間が言語を使わなくても他の動物と通じ合えるということ。言葉の話せない子供たちこそが、その能力をもっているということです。一茶はこの句で、小動物と共生する子供の「生き物感覚」を愛でたのです。

        *     *

 近代教育の父・フランスのルソーもかつて、子供がもって生まれる本能を称え、矯正せずに自然の能力を伸ばすべきだと主張しました。

 子どもを愛しなさい。子どもの遊びを、喜びを、その愛すべき本能を助けなさい。(『ルソー全集』所収『エミール』第一篇、白水社)

 また、ルソーは、一茶が何度も経験した子供の夭折という悲劇に関しては、子供がはかない生き物だからこそ、悔いが残らないように、まずは親子が共に遊び、心を通わせ、無駄な早期教育を慎むべきだと記しています。

 快活であるべき年齢が涙と罰と威嚇と隷従のうちに過ぎ去る。父か教師の不条理な知恵の犠牲になって死んだ子どもがどれだけあるか。(中略)くちびるにはつねに笑いがあり、魂がつねに平安であるあの年ごろに対して、ときに哀惜の念をいだかないものがあろうか。父親たちよ、死があなたがたの子どもを待ちかまえている瞬間を、あなたがたは知っているのか。

        *     *

 実は、一茶の掲出句が詠まれたのは、次男・石太郎が生後三か月で窒息死した直後のことです(日記に、この句の数行前には「石太良没」とあります)。ということで、「鳴猫に」の句は哀惜の吟だったのです。しかも石太郎のような三か月の嬰児を詠んでいるとは思えないので、やはり二年前に亡くなった長女・さととの正月を顧みたものとみるべきでしょう。さとは、小動物が大好きでした。『おらが春』(十二)で、ほのぼのとした描写が残っています。

人の来りて、「わん〳〵はどこに。」といへば、犬に指し、「かあ〳〵は。」と問へば、烏にゆびさすさま、口もとより爪先迄、愛教こぼれてあひらしく、いはゞ春の初草に胡蝶の戯るゝよりもやさしくなん

 同文で、さとがおもちゃの風車や障子を破ったりしても、一茶は一切怒らず、逆に「よくした〳〵」と褒めてあげて、老父の寛大さ(溺愛ぶり?)をうかがうことができます。やはり一茶翁の子供の育て方は、小動物と共にのびのびと遊ばせるような“自由教育”だったといえます。一茶を「近世信濃のルソー」と呼ぶのは無理があるかもしれませんが、「アニマルセラピーを利用した自由教育の先駆者」とみてもよいのではないでしょうか。

鬼茨に添ふて咲けり女郎花

 文政四年四月(西暦一八二一年五月)の作(『八番日記』)。

 陽暦の五月です。どう考えても、信州の山里ではまだオミナエシの花を見かけることはないでしょう。茨に囲まれて、哀れな小花に見えたのは、実はオミナエシならぬ、一茶の妻・菊だったに違いありません。

 この四月の二十二日、一茶は善光寺界隈の門人・文路を訪れている際、突如菊が痛風の発作に襲われたという報を受け、門人巡りの旅を繰り上げ、帰宅を急ぎました。飲酒飽食の習慣がないにもかかわらず、三十五歳の女性が痛風の症状をみせるのは、極めてめずらしいことです。不治の病(現代医学でいうと、偽痛風か癌か)と考えられます。一茶は、薬種屋だった文路からこの一報を聞き、身が凍りつくような恐怖と罪悪感を覚えたのでしょう。

 三か月前の石太郎の事故死以降、たしかに彼は菊に対して優しくふるまうことができなくなっていたのです。我が子を思い出して回想の句を多作したり、越後の新しい門人獲得のために駕籠を借りて旅に明け暮れたりして、ほとんど菊に見向きもしなくなっていました。彼が門人の邸宅で酒と俳諧に酔いしれている間は、菊はひとりで農作業をこなし、隣に住む義弟と義母の手伝いもさせられていたのです。二年後の文章「金三郎を憐れむ」の前半で、一茶は次のように妻の病気の原因を見とどめています。

此わづらひ、鬼茨のいらいら敷とげつき合にもみにもまれて、かよはき若木のいたく心をいためる病葉

と、今の言葉でいえばストレスによる病因を認めています。とにかく八月上旬まで、菊は寝たきりの生活を余儀なくされます。それで一茶はその八月まで家を離れず、献身的な看病に専念します。たとえば、五月十五日に越後の門人・雉塘から誘いの手紙が届きますが、ただちに返事を送り、風邪を言い訳にして外出しない旨を伝えています。少し前まで「老妻」と貶めていた菊女のことが、今は俳諧興行や世の中の何事よりもいとおしい花に見えてきました。突然の難病という現実に接した瞬間、一茶は妻に対する深い愛情を再発見しました。「妻の命を守ろう」という「生の本能」がついに、心中に甦りました。そして翌年の三月十日、二人の間に、再び尊い命が生まれるのです。三男「金三郎」の誕生から遡って計算すると、菊の排卵日は文化四年七月九日ごろと判明します。そう、菊が痛風で寝込んでいた最中、病室で二人は愛し合っていたのです。二人の愛は、子供三人の夭死を乗り越えて、不死鳥のように復活していたのです。

蜂の巣の隣をかりる雀哉

 文政四年九月(西暦一八二一年十月後半~十一月前半)の作(『八番日記』)。

 一茶の愛妻・菊の痛風はついに治った様子です。八月上旬、妊娠二か月目に入ったころから、ホルモンのバランスなど体に様々な変化が起きた結果でしょうか、再び歩けるようになり、九月には体調が通常に戻りました。

 そして一茶はこの秋から、なぜか蜂に関心をもつようになります。たとえば「子もち蜂あくせく蜜を[か]せぐ也」のような吟が目立ちます。やはり「子もち蜂」という題材には妻への思いが託されているのでしょう。悪阻にもかかわらず、働き蜂のように頑張る菊の姿をひそかに称えていたのです。掲出句でも同じく一茶の感謝の意が託されているといえましょう。以前、「我と来て遊べや親のない雀」の鑑賞(本年三月号)の際述べたように、「雀」といえば一茶自身を象徴するキーワードとして使われることが多いものです。掲出句では、雀よりもさらに小さな動物である蜂が勤勉で賢く、雀(一茶)を守っている、そんな句意こそ愛の告白に聞こえるのではないでしょうか。

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 蜂を称えた偉人といえば、一茶ばかりではありません。天才物理学者・アインシュタインも次のような名言を残したそうです。「もし蜂が地球上からいなくなれば、人間は四年以上は生きられない。蜂がいなくなると受粉ができなくなり、植物がなくなり、そしてついに人間もいなくなるのだ」とのこと。事実、この名言が予言に、そして現実に変わりつつあります。ここ数年、世界中で蜜蜂の集団失踪が報告されているのです。原因はまだ不明ですが、農薬、遺伝子操作作物あるいは電磁波の影響が疑われています。

 そういえば、南米の先住民文明では蜂鳥が聖なる動物とされていました。長老曰く、ある日、森に火事が起こり、蜂鳥は川まで行き来して小さな嘴で水を運び始めました。すると、何もしないアリクイやアルマジロなど、つまり大きな動物たちは蜂鳥に向かって、「その小さな嘴では、火事なんか消せるわけないだろう!」とからかいました。そこで蜂鳥は、「たしかにそうです。だけど、私は私にできることをやっているだけです」と返しました……。

 僕ら一般庶民も蜂や蜂鳥のような小さな存在です。それでも周りの悪行や事態の深刻化を気にせず、環境を思いやる気持で自分にできることを為し続け、いずれは蜂の巣のような大きな力になれると信じることが肝心でしょう。

⑲ 木は木、金は金

はつ雪や御駕[籠]へはこぶ二八そば

 文政四年十二月(西暦一八二一年十二月下旬~一八二二年上中旬)の作(『八番日記』)。

 この句の「二八そば」とは安価なかけ蕎麦という意味になります。江戸後期ではもっとも安いかけ蕎麦一杯の値が十六文(2×8文)に定められていたからこの表現が使われていたそうです。

 信州の十二月、越後からもくもくとした雪雲が迫って来ます。参勤交代で江戸へ赴く武士は、吹雪が始まる前に、慌てて北国街道沿いの屋台から新蕎麦一杯を注文します。「こら、駕籠まで持って来い」と、強引に押し通す声が帳から漏れたのか、街道沿いに住む一茶も耳をそばだてます。「偉そうなさぶらいじゃ、おいら百姓なんかいくら頼んでも、十六文で出前をやってくんねぇぞ」と、愚痴をこぼしながら一句を記します。「御駕籠」は金糸や蒔絵をふんだんに施した、高い身分の乗物を想像しますが、もちろん「御」は嫌みたっぷりの敬語なのです。とにかくどんな豪華な駕籠に腰をかけても、北信濃の雪雲が迫って来るころは、江戸まで吹雪を逃れることはできないでしょう。十六世紀フランスのモンテーニュが書き記した通り、「世界で最も高い玉座に昇っても、われわれが座るのはやはり自分の尻の上である」と。

 ところでこの冬の正月、一茶は還暦を迎え、菊は妊娠七か月目に入ります。そこで妻子の将来を心配して、一茶翁は十一月から柏原の「無尽」に加入します。現在も北信濃の村で時々組まれる相互扶助の金融システム「頼母子講」や「無尽」は、鎌倉時代から日本の農村でみられます。お互いに掛け金を決め、会員それぞれの必要に応じて貸付を行うという制度です。一茶の場合、一年に約三分(一両の四分の三)を、五年間、つまり亡くなるまで掛け続けたそうです。一両を現在の二十万円という平均的な金額に換算すれば、今の言葉でいう「生命保険」に百万円弱を投資したということになります。小額とはいえ、現代の金融システムに比べれば「無尽」の方が柔軟な制度で、地域社会の連帯感を強めるといえるのです。

        *     *

 バングラデシュでは近年、日本の「無尽」によく似た制度が拡大して、「グラミン銀行」(GrameenBank)という全国的な組織となり、貧困層のための小額無担保融資制度(マイクロクレジット)が一国の経済を、草の根のレベルで支えています。グラミン銀行の創立者ムハマド・ユヌス氏は二〇〇六年にノーベル平和賞を受賞し、以降その活動がますます注目されるようになりました。というのは、バングラデシュは地球温暖化による海水位の上昇や大型台風の増加でもっとも悩まされている国の一つであり、今後の経済発展にマイクロクレジットがさらに必要になると予想されているからです。大手金融機関はむろん気候変動で真っ先に苦しむはずの貧しい国々に手を貸すわけがないので、今やマイクロクレジットが第三世界の庶民の最後の頼りになったといわれています。

 そしてこの問題、日本在住の僕らにとっても、他人事ではありません。いずれは地球温暖化が北の先進国にも悪影響を及ぼすようになれば、われわれも「台風保険」や「洪水保険」などに加入したくなるでしょう。ただ、そんな特別な保険が商品として成り立つかどうか、未確定のままです。近年、ロイズ(Lloyd,s)など、いくつかの大手保険会社は危機を先取りして、アメリカ政府の環境担当者に圧力をかけたり、気候変動による被害の予測研究に乗り出したり、保険の新商品を検討したりしています。しかし、予想を超えた趨勢となれば、大手保険会社もお手上げになるでしょう。むしろ日本の伝統的なマイクロクレジット「無尽」のようなローカルな助け合い制度の方が、柔軟に被害に対応できるのではないでしょうか。

つき合の涼しや木は木金は金

 文政五年閏正月二十七日(西暦一八二二年三月二十日)の作か(『文政句帖』)。

 初春に詠まれた句にしては、「涼しや」という夏の季題が読者の意表を突くでしょう。一茶はこの日、長沼(現在の長野市東北部)の門人、吉村雲士宅に泊まります。地主である吉村氏に手厚いもてなしを受けたのか、このような“季節外れの挨拶句”が生まれました。掲出句は雲士宅で巻いた歌仙の発句として詠まれたという可能性もあります。座の「つき合」の爽やかさを称えると同時に、連句の「付合」、すなわち“共同詩作による余情的な交感”に感謝したかったのではないでしょうか。事実一茶はこのごろ、公私とも再び希望がもてるようになります。妊娠八か月の愛妻・菊は柏原で家を守り、安定期特有の満悦な気分を味わっているようです。おそらく妊娠のお陰で痛風が治り、正月だけで六回も日記に「夜交」「旦交」などと、夫婦の房事を語る記載が残っています。

 掲出句に戻りましょう。社交的な挨拶「つき合の涼しや」に対して、一茶は「木は木金は金」という、かなり概念的な格言で一句を締めくくっています。一茶の作意を理解するには、彼が長らく在住した房総地方の文化史に留意すべきでしょう。上総には儒学の伝統が著しく、たとえば稲葉黙斎(一七三二~一七九九)に代表される「上総道学」が一般庶民に多大な影響を与えていたのです。その黙斎の講義録(『講学鞭策録講義録』六二〈黙斎を語る会〉ホームページより)には次の格言がみられます。「金は金、木は木と知たこと。その上はないはづ」と。説明すると、黙斎はその講義で、揉め事を内済で済ます百姓たちを批判し、きちんと公訴で金銭的な便宜をはかるべきだと主張しています。

 一方一茶は、この句で格言を逆さにして「(われわれ百姓俳人に涼しい陰を落としてくれる)木は木、(しかし残念ながら世の中は相変わらず)金は金」と、逆説的なパロディーを吐露しています。ここも近世日本の儒学に対して、つまり武士と商人を支えてきたイデオロギーに対して批判を仄めかし、「百姓は木々や草の実しか持っていないかもしれないが、そんな百姓こそ、爽やかな付き合いを愉しむことができるのだ」と投げ掛けていたのです。

        *     *

 江戸後期の日本は、不思議な構造をした社会でした。封建社会でもなく、近代社会でもないような“過渡的な仕組み”をしていたといえます。当時のいくつかの西欧諸国とは異なり、まだ身分制度が廃止されることもなく、いわゆる「士農工商」の区別がしっかりと受け継がれていました。しかしその傍らに、優れた交通網と流通手段を利用して、商人たちは低い身分にもかかわらず「前・資本主義的社会」を推し進め、実際、武士よりも影響力をもつようになっていました。西暦の一八〇〇年(寛政期)ごろを境に、「士農工商」は事実上「商士工農」という順に変わり、金銭を司る商人たちは次第に武士の生活を操り、それによってその武士たちは農民にさらなる圧力を掛けるしかなかったのです。換言すれば、交通と流通の発展によって投機的な売買が可能になり、世の中で「自然物」よりも「金銭」の方が重要になったわけです。したがって農民や農作税に頼る武士階級よりも、金融業(問屋、札差など)の方が影響力をもつようになりました。西ヨーロッパでも、同じ十九世紀初頭に文化の転換点があり、金銭の力とその恐ろしさを描いたフランスの文学者がいます。バルザックは一茶と同時代に小説『ウジェニー・グランデ』のなかで純情な娘と妻の尊い命を構わず利益を追い続ける商人を諷刺し、次のように述べています。

他のいかなる時代よりも金銭が法律や政治や風俗を支配している現代の本体は、こういうふうに考えるとはじめて恐ろしいほどはっきり浮かび上がる。(中略)この教理が中産階級から庶民の間にもひろまって行ったとしたら、この国はどうなるだろう。

(水野亮訳『バルザック全集』第五巻、東京創元社、昭和四八年)

 二百年後の現在、日本も欧米も、化石燃料をふんだんに使った交通手段と通信技術の“お陰で”、経済の金融化とグローバリゼーションがさらに進み、中産階級のみならず、あらゆる人間にとって「木」よりも「金」の方が尊いものに見えてきました。たとえば、もし一茶が今、長野市にある門人の旧宅を訪ねたとしたら、裕福な暮らしを垣間見ることができても、庭に涼しげな陰を落とす老木を仰ぐことはないでしょう……。(私事ですが先日、庭に苗木を植えました。我が家にとって三本目の木となります。一本目は桜の木で、八年前に僕がこの家に引っ越した直後に植えました。二本目は妻が一年前に引っ越して来た時の記念樹で、杏子の若木です。そして今回は桜と杏子の間に梅の苗木を植えました。というのは、お陰様で妻の妊娠がついに安定期に入ったからです。七月に、梅の実が生るころ、僕らの初めての子が生まれる予定です!)

第六章 独立自尊(妻の死、第四子の死、文政五~八年)

20里山と里川

菜畠やたばこ吹く間の雪げ川

 文政五年二月(西暦一八二二年三月下旬~四月上中旬)の作(『文政句帖』)。

 幸せな一服です。では、この長閑なひと時を小説のひとコマのように心に描いてみましょう。一茶翁と妻・菊は朝から畑を耕しています。すると老俳人はひと休みしようと、川沿いの岩に腰を掛け、酒の竹筒とお気に入りの刻みタバコを取り出します。「菊女、ちょっとお願い! 焚火まで行って、火を付けてくれんかな」と、キセルを差し出します。菊は「また、もぉー」と、溜息と微笑みの混じった表情で近づいて来ます。キセルを咥えて焚火から戻る妻を眺めながら、一茶は得意芸の“団十郎物真似”を始め、伊達男・助六の名せりふを朗らかに唱えます。「~キセルの雨、キセルの雨ぇ~」。菊は吸い付けのキセルを色っぽく渡し、「助六殿、お酒はほどほどにね、この子のために長生きせんと……」と、妊娠八か月のお腹を撫でながら旦那の隣に座ります。もちろん、当時はタバコが(特に妊婦にとって)危険であるという認識はありませんでした。堀切実氏の研究(「俳文の題材・煙草」『俳文史研究序説』、早稲田大学出版部、平成二年)によると、江戸時代では、

たばこ有益論――その精神的効用と社会上の役割を評価する点が支配的である。したがって、当今話題になっている嫌煙権の問題などは、どこを探しても出てこないのである。

 たしかに、アメリカ大陸で発見されたばかりのタバコの葉は、十六世紀からポルトガルやオランダの船乗りを通じて世界中で普及し、日本でもパイプや葉巻から始まり、その後は東南アジアで考案されたキセルでの使用が瞬く間に広まりました。十七世紀初頭にはすでに武士、町人、男女といわず長寿草を愛好するようになったといわれています。幕府は主に火事防止のために一六〇九年には喫煙禁令を出しましたが、それも有名無実、喫煙の習慣は庶民まで伝わりました。

 そうはいえ近世日本の喫煙習慣は、現代の紙巻タバコ大量消費とそれに伴うニコチン中毒に比べれば、さほど有害な吸い方ではなかったといえます。刻みタバコを少しずつ味わっていたのです。そして、現在発売されている大手メーカーの紙巻タバコのように、依存症を悪化させるような無数の添加物が含まれていませんでした。農民の喫煙については、たいてい自分の畑で採れた葉っぱを使用していました。たとえば掲出句の二年後、一茶は「二葉三葉たばこの上に若な哉」という句を詠んでいます。秋から干してあったタバコの葉の上に、新年の若菜を重ねたという句意に、むしろ穏やかな農村生活をうかがうことができます。春が来れば、妻と二人で畑を耕し、タバコの種を蒔いた後、雪解川を眺めながら一服を楽しむのもいい気分ですね……。つまり一茶は、アメリカ大陸の先住民の伝統的なタバコの吸い方に近い喫煙を嗜んでいたといえます。もともとはアメリカ・インディアンにとって、喫煙の時間は“大自然のよろずの精霊と交わるための儀式”であったと、コロンブスの旅日記にも記されています。掲出句にみるような、一茶の野外喫煙もまさに“アニミズム的な儀式”の趣があったのではないでしょうか。

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 さて、実のところこの句の中心的題材は「たばこ」ではなく、一句を締めくくる「雪げ川」になっているのを忘れてはなりません。雪解けのころ、信州の山川はどろどろとした雪代に染まり、轟きをあげながら渓谷を走り、凄まじい激流となって春の到来を告げます。その雪解け水は種蒔きのための大切な水源として欠かせないものです。冬の積雪は信州人にとって辛いものではありますが、その雪が春の豊かな水に変わってくれるから植物の成長が捗ると、皆が分かっています。そこで最近、地球温暖化による雪不足は、良質な米や野菜果物を育てようとする信州の農民たちにとって、大きな悩みの種になってきたとよく聞きます。

 アジア大陸全体をみても、ヒマラヤ山脈の雪解け水がなければ、多くの地下水が涸れ、大河(ガンジス川、メコン川、長江、黄河など)の泥土が不足し、稲作などに深刻な影響が及びかねないといわれています。実はIPCCの第四次レポートによると、「二〇三五年までにヒマラヤ山脈の氷河が全滅するという可能性が非常に高い」とされています。山の積雪量が激減し、もし氷河がなくなれば、その雪解け水も激減して十三億人もの人間が水不足に悩まされることになるそうです。やはりアジアの村々では、水の豊富な〝里川〟は生活に欠かせない環境だったのです。

寝ころぶや手まり程でも春の山

 文政五年三月十日(西暦一八二二年五月一日)の作か(『文政句帖』『まん六の春』)。

 ここでは一茶の句日記『文政句帖』に拠ります。句の上の日付が「三月十日」となっています。この日の早朝、一茶の三男・金三郎が生まれたのです。もちろん「立会出産」が考えられない時代なので、一茶は前夜から早朝まで居間の畳の上でごろごろして、親戚などと酒を飲みながら出産の知らせを待っていたのでしょう。

 もう一つの出典として『まん六の春』(『一茶全集』第六巻に逸文所収)という俳文集があります。ここでは興味深い前書が残っています。「旧友誰かれ」が集まり、朝まで大酒を飲んだと語っています。ただ、日付が不明です。

終日呑みくらしける程に、門には皓々として月さしかゝり、興つきざる物から、我を忘れて過しけるほどに、三升ばかりも呑みほして、大蛇のごとくのた打ちまわりて、夜の更る迄眠りけり。

 これが本当に出産前夜の光景を描いたものであれば、恐ろしい呑みっぷりといわざるを得ません。が、このごろの一茶の緊張感を考えて、豪飲も許したくなります。というのは、最近まで痛風を患っていた妻はもう直ぐ三十七歳になり、子供三人を幼少で亡くした二人にとって、今回の子が“最後のチャンス”だと分かっていたのです。

 一茶はあれこれを思い出しながら、曙まで陶酔境に明け暮れます。すると、そこの縁側の先、丸々とした春の山がほのぼのと現れます。老俳人は手を伸ばし、子供が手毬を転がすような仕草で、里山の天辺を撫で続けます。「女子かな、男の子かな」とささやきながら……。

        *     *

 縁側、借景庭園など、日本建築には外の自然を室内の生活に取り込もうとする工夫が著しいと思います。宇多喜代子氏も『里山歳時記』(NHK出版、平成十六年、五十頁)で次のように述べています。

瀬音や虫の音を聞きながら眠りにつくというようなことを好ましく思うのは、もしかしたら日本人独特の自然観なのかもしれないと思うのですが、どうでしょうか。(中略)こうした自然観を育んできた場所の一つに「縁側」というものがあった、いま私はそんなことを考えます。(中略)室内なのか室外なのか、どちらともいえないあの縁側というところは、家の内外を繫ぐ不思議な場所です。

 僕も同感です。しかし現代の大都会では、家の近くに里山もなければ、“里川”の瀬音を耳にすることもありえません。そうなれば縁側が無意味になります。過疎地帯で生活する必要はないでしょうが、たとえば中小都市の静かな環境の方が、周りの自然と共に暮らす住まいが可能になるでしょう。僕は今、長野市内の古民家を借りていますが、書斎の窓から常に飯縄山を眺めることができます。エネルギー消費の面からいっても、公共交通機関のある中小都市が二十一世紀の理想的な生活環境になるといわれています。過疎地ほど買い物などの交通が必要ではなく、大都会ほど混雑と渋滞がみられません。これからは、地方都市が二十一世紀の標準的な「里」になればよいのでは?

鳴ながら虫の乗行浮木かな

 文政五年七月十一日(西暦一八二二年八月二十七日)の作(『文政句帖』)。

 前書に「洪水」とあります。台風の時の吟でしょう。水に浮かんだ木片に乗ったまま、コオロギは無残にも鳴き続けています。この光景に一茶がみた“無常観”を理解するには、伝記的な背景をみる必要があるでしょう。この二日前、妻・菊の父親が中風のため亡くなってしまいました。一茶も同じ持病を抱えています。そして、さらなる心配事が老俳人の胸に宿っています。一か月前からなぜか菊の痛風が一年ぶりに再発しました。妊娠が終わって、腎不全だった元の体に戻ったからでしょうか。一茶は、この浮木の虫のように、また運命の波と向き合うことになります。この虫は、五七五で泣き続ける一茶自身の姿だったのです。

21猫の墓

イロハニホヘイトヲ習ふいろり哉

 文政五年十一月十一日(一八二二年十二月二十三日)の作か(『文政句帖』)。

 この日、金三郎が生まれて丁度八か月です。首も据わり“這い這い”が出来るようになりました。もちろん言葉を話すのはまだですが、それでも一茶は“教育パパ”になりきって、様々な単語を教えようとします。「これは囲炉裏、イーローリ」と、炭火を指差すと、我が子はただ呆然としています。「うん、じゃ、囲炉裏の次はいーろーはーの歌」と告げると、金三郎は眼を瞠って父親へ「イ、イー」と笑い声を上げるのです。「そうだ、そうだ! イロハニホヘイ」と、一茶は朗らかに唱えます。宮川洋一氏(『北信濃遊行――小林一茶「九番日記」を読む』、オフィスエム、二〇〇五)が述べたように、

イロハニホヘトでなくて……ホヘイトというのが、いかにも田舎風でいい。家族が囲炉裏を囲んでいた頃は、子どもが知りたいと思うことを自然に教えていた。今の家庭は囲炉裏がテレビに変わり家族の会話がないため、親子断絶、家族崩壊の要因にまでなっている。文明は人間性を破壊するものだろうか。

 たしかに、江戸時代の農村、とりわけ豪雪地では冬籠の時期となると、子供たちが囲炉裏端で終日勉強に励むのは普通の光景だったようです。近世信濃の子供たちの学問水準について、土屋弼太郎氏(『近世信濃文化史』、信濃教育会出版部、昭和三十七年、一六五~一七〇頁)は、寛政期に全国の寺子屋の六分の一が信州にあり、最も教育施設の多い地方だったと指摘しています。一茶の出身地・上水内郡では、寺子屋師匠の半分以上が農民の出であり、宗教家や武士が非常に少なかったといいます。信州はのちに「教育県」とも呼ばれましたが、江戸末期からその伝統があったわけですね。

 一茶の文才も、そんな教育熱心な北信濃の環境によるものかと思われがちですが、彼は逆に思うように勉強をさせて貰えなかった子でした。読み書きを習いたかったのに、継母に農作業の手伝いを押し付けられていたことを、『父の終焉日記・別記』で書き記しています。

春さり来れば、はた農作の介と成て、昼は終日、菜つみ草かり、馬の口とりて、夜は夜すがら、窓の下の月明りに沓打、わらじ作りて、文まなぶのいとまもなかりけり。

 だからこそ一茶は、絶対に我が子には同じ思いをさせたくないと、熱心に幼児教育に携わろうとしていたのではないでしょうか。

        *     *

 近年、小学校における「環境教育」の必要性が問われるようになりました。もちろん、ドキュメンタリー映画を見せたり専門家を招いたりして、環境問題について児童の意識を高めるのは良いことです。しかし何より、学校全体が模範的な“エコロジカル空間”であれば、自然と子供たちの習慣が変わり、次世代から世の中が変わるでしょう。たとえばフランスの小学校では、ボールペンではなく、万年筆で字を書くことが義務付けられています。僕の姪たちも、長く使えるような立派な万年筆を親に買って貰い、それを大切に扱っています。ポンプ式ですから、インクの瓶を分別してゴミに出せば、一切ゴミを増やさない筆記用具といえるのです。

馬の屁に吹きとばさるゝほたる哉

 文政六年三月十四日(一八二三年四月二十四日)の作か(『文政句帖』)。

 金子兜太氏(『小林一茶』、小沢書店、一九八七)が述べたように、晩年一茶の句は「いささかゲテものがかってくる。おもしろいが、好句とはいえない」と評することができるかもしれません。一茶俳諧は、優雅な視覚的描写(写生)に終わらず、実感をもって様々な生活の匂いを積極的に詠んでいます。最も多い「嗅覚的題材」といえば一応伝統的な「梅が香」が上位ですが、次位には「屁」「煙草」「煙」「汗」という順になっています(拙著『一茶とワイン』「匂」、角川学芸出版、平成十八年)。ただ、晩年には人間の屁が増えゆくものの、動物の屁に関しては初期から一茶がごく自然に題材にしていたと認めざるを得ません。たとえば掲出句の類句「馬の屁に目覚て見れば飛ほたる」が寛政四年の句帖ですでにみられます。つまり近世日本の農村では、人間、馬、牛が雑居する家が多く、曲屋という建築様式の場合、馬屋と民家が繫がっていて、動物の体温が暖房代りに利用されていたのです。その代償として草食動物に多い屁や噯、排泄物などの匂いを我慢するしかありませんでした。芭蕉も『おくのほそ道』の旅で陸奥の僻地を訪れ、「蚤虱馬の尿する枕もと」という奇句を詠んでいます。一茶の掲出句と同様、それほど通俗的な諧謔を狙ったものではなく、単に農村の実生活に即した吟とみてもよいでしょう。

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 温室効果ガスのなかで、二酸化炭素(CO2)だけではなく、メタンガス(CH4)も大変な脅威になっていることを忘れてはなりません。現在、温室効果の原因の約二割がメタンガスによるとされています。主に牧畜動物のゲップ、ガス、排泄物と、稲作の湿地や可燃ゴミの発酵によって排出されているそうです。しかも二酸化炭素に比べれば、百年後には二十一倍、五十年後なら百倍以上の温室効果があるといわれています。つまり大気に急激な影響を与えますが、その分、減らせば早く結果がみられるので、真っ先にメタンガスの問題に取り組むべきと主張する学者が多いです。解決案として、草食動物のゲップとガスを減らすような飼料の開発、排泄物と可燃ゴミの燃料化(バイオガス)など、比較的、二酸化炭素排出量削減よりも簡単な措置が取れるといわれています。

 たとえば草食動物に関しては、スポーツウェア・メーカーTimberlandは、靴の生産に当たって牛革を使っていますが、その牛の飼料を変えただけで、温室効果ガス排出量の十七%を減らすことに成功しました。そのメーカーの靴はやや割高ですが、僕も昨年一足購入しました。屁をしない牛の“エコ靴”なんて、ちょっとオシャレでしょう?

梅さくやごまめちらばふ猫の墓

 文政六年四月(一八二三年五月上中旬~六月上旬)の作(『文政句帖』)。

 古女すなわち小魚の田作りは、江戸期の農村でもお節料理に使われる保存食でした。保存食とはいえ、春先になると余ったものがあれば食べられなくなります。一茶はきっと早春のころ、厨にあった田作りを集め、庭奥の猫の墓に供えたのでしょう。野良猫が食べるかと思いましたが、そのまま腐り、隣に咲く梅の肥料になりました。ある四月の朝、ふと猫の墓を見ると、なぜか涙が止まらなくなりました。そして口ごもりながら独り言を吐きました。

 「ああ、花が散るころ、菊女はもう死んでるかや……」

 愛妻・菊の痛風の症状は、金三郎の出産後に再発し、のちに小康がみられたものの、この前の二月十七日から癪(腹部の激痛)がいつになく酷くなりました。一茶はその日、善光寺町から駆けつけ、家事手伝いを雇い、以降数か月間菊に付き添って治療に専念します。門人のなかには医学の専門家がいて、善光寺町、野尻、妙高などから訪問診察や見舞いが相次ぎ、菊にニンジン湯、ヤマトリカブト、甘遂などを呑ませますが、薬を吐いたり、新たにめまいを訴えたりして、ついに体中に水腫が現れます。四月には絶食状態となり、一茶は隣村の古間から金三郎のための母乳を買いに行きます。数日後、菊の乳がまったく出なくなったため、息子を乳母に預けることにします。一茶の門人で薬種屋の上原文路との文通のなかで、菊の便の分析を試みる「一茶の医学的知識の豊富なのに驚かされるが、妻に対する献身的な愛情にも胸を打たれる」(矢羽勝幸『一茶大事典』、大修館書店、一九九三、一五六頁)といえます。三か月間、句日記のほとんどの記載が菊の治療に関するものです。たしかに一茶は菊の発病にあたって罪悪感を抱いていたかもしれません。俳諧師の仕事のため頻繁に家の留守を妻に預け、その度、隣に住む義母のうるさい注文が菊の精神状態を損なっていたのです。また、一茶が菊に性病(梅毒)をうつしていたという説もあります(小林雅文『一茶と女性たち』、三和書籍、二〇〇四)。

 とにかく一茶は妻のことをだれより愛していたに違いありません。五月十二日の暁、春の花々とともに、小林菊はこの世を去ります。一人の赤ちゃんを残して、亡くなった三人の子供の元へ旅立ちました。享年三十七。一茶が最も愛した女性でした。

22“心の癌”

藪菊や親にならふてべたり寝る

 文政六年五月二十八日(一八二三年七月六日)の作か(『文政句帖』)。

 一茶の妻・菊が亡くなったのは、この吟の十数日前、五月十二日の早朝です。葬儀のために多くの親戚が訪れ、赤渋という隣村の乳母に預けられていた三男・金三郎も呼び寄せられます。そこで、一か月ぶりに我が子と再会する一茶は、さらなる衝撃を受けます。五月十三日付の文章「金三郎を憐れむ」(『一茶全集』第五巻所収)のなかで、一歳児の病弱な姿をビビッドに描いています。

赤渋にやらぬ前、けら〳〵笑ひて這ならひたる体とはくはらりと変ひ、おとろへたるありさま、腹は背にひつゝいて、其間うす板のごとく、骨はによき〳〵高く、角石山に薄霜降たるに似たり。声はかれて蚊の鳴に等しく、手足は細りて鉄釘のやうに、目は瞳なく明たる儘にて、瞬ちからぬけて、半眼して空をにらみ、軽ろきこと空蟬の風に飛び、水を放れたる魚の片息つくばかり也。

 病児を空蟬や窒息寸前の魚に喩えたりして、いわば十九世紀フランスのレアリズム文学、バルザックなどでも稀にしかみないような、臨場感溢れる描写といえます。よほど金三郎の哀れな姿が目に焼き付いていたものでしょう。

 そしてその晩、菊の火葬が終わり皆で同じ部屋に並んで寝付いたころ、一茶は乳母の余所余所しい態度が気に掛かり、その寝姿を盗み見ることにします。なんと「乳を呑する真似して、やがて口に水あてがふ」ところを目撃します。ただちに「灯かき立て」、親戚全員に乳母のふるまいを見せると、「生あるものをかくむごく、情なく、つれなくふるまひしもの哉と、しるもしらぬも皆〳〵涙ほろ〳〵なでさすりぬ」とのこと。事実この乳母は、乳が出ないのに一か月間一茶から育児費を貰い、金三郎を死なせようとしていたのです。一茶は即日別の乳母を探し、中島という村に子宝を託すことにします。

 掲出句の「藪菊」はもちろん、菊の遺児・金三郎を指します。病弱なところまで母親に似ていたのです。一茶はこれから毎日、庭の藪菊を見る度、亡き妻のことと、辛うじて生き残ってくれた金三郎のことを思い出すのでしょう。

        *     *

 今までも何度か書きましたが、一茶句の多くは人間が他の自然物に“象徴”されるような、いわゆる“二重写し”の句意になっているといえます。たとえば一茶自身は「雀」、菊は初婚のころなら「時鳥」、その後は「菊花」、そして最後は「蜂」に代表されています。また、長男・千太郎は「蛙(瘦せ蛙)」、長女・さとは「蝶(死後はその他の昆虫も)」、次男・石太郎は「さざれ石」、三男・金三郎は「藪菊」の姿を借りたことを確認できました。しかもほとんどの吟の場合、自然物が単に“キーワード”として詠まれているのではなく、実際に動植物を描いたような臨場感も伴っています。つまり一茶は自然界を眺めていても、動植物が人間に見えていたということです。

 二十一世紀にも、この“一茶の眼差”に近い世界観は、アメリカン・インディアンの文化において根強く残っているといえます。フランスの生態学者J=M・ペルトが述べるように(Jean-MariePELT, Nature et spiritualité, Fayard, 2008,

p.32、私訳)、コギ族にとって、

風土全体が人間のような生命体に見えている。川は血液、風は呼吸、森林は体毛、岩は骸骨といわれている。その物の見方によって、すべての要素が全体のバランスに不可欠であるという世界観が成り立つ。

 およそ一万二千年前、氷河期のころ、アメリカン・インディアンの多くの先祖は凍りついたベーリング海を経由して、極東からアメリカ大陸へ移住したといわれています。彼らは自然環境のバランスを壊さないように主に漁撈、狩猟、採集で生活し、アニミズムに基づいた平和的な社会を持続させてきました。その文明の源流が縄文時代の極東にあったと思うと、近世日本の地方にみる自然観は特別な意味をもつようになります。ある意味で、一茶のような地方俳人は、アメリカン・インディアンやシベリア諸族のシャーマンたちと同じような眼差で自然を仰いでいたといえるのではないでしょうか。

涼風に正札つきの茶店哉

 文政六年六月(一八二三年七月ごろ)の作(『文政句帖』)。

 「正札つき」とは、値札のとおり料金を取る、すなわち安心できる店を意味します。掲出句は柔らかいサ行の音節が続き、音韻的にも爽やかな印象を受けます。一茶はこのころ、少しばかり心の平穏を取り戻していたようです。六月上旬、妻の喪の悲しみを癒そうと、妙高高原の蔵々という村まで旅に出ます。妙高の脇往還に宿を営む門人・後藤甫外は思いやりのある人格者で、わざわざ「一茶先生女房追善句会」を設けてくれました。柳沢清士氏(『一茶全集』月報、昭和五十三年、第五巻付録)が述べたように、「晩年の一茶と越後門弟(妙高俳壇)とは、いわゆる句友関係だけではなく、深い人間的なきずなで結ばれていた」のです。仲間の中心的人物・甫外は一茶より二歳年少で、様々な事業に成功した裕福な地主とはいえ、心から学問と俳諧を愛し、金銭を惜しまない商人でした。一茶はきっと甫外の宿で夕涼みのお茶を啜りながら、ありがたく思ったのでしょう……「そうか、商人でも、この甫外のような、気前のいい人もいるんだなぁ。そして百姓には、ぼろ儲けして赤子を死なせる乳母だっているさ。やれやれ、金三郎のためにもう少し生きていこう!」と。

        *     *

 日本では江戸時代から、交通と流通の目覚ましい発展が市場経済の基盤を作り、一種の「前・資本主義社会」が築かれたといえます。鬼頭宏氏(『環境先進国・江戸』、PHP新書、二〇〇二、一四三頁)が指摘するように、

江戸時代は静態的な社会ではなかった。農業社会の枠内ではあったが、市場経済が社会の隅々まで浸透し(中略)、それが刺激となって生産も人口も成長した。

 つまり江戸の商人たちにとって、生産の継続的な成長がすでに当たり前となり、それによって毎年利益が増えるのが常識になっていたといえましょう。当時から物質的な豊かさの拡大、すなわち「経済成長」がいつまでも続くだろうという概念が芽生えていたのです。たとえば江戸の店主たちは、一茶のいう“正札”を守らないで“掛け値”を決めたりして、ずる賢い手法で利益を上げようとすることもありました。いわゆるモラルの伴わない経済成長が早くも問題になっていたと、一茶は教えてくれるのです。

 現在資本主義の国々では、“経済成長優位主義”が一層深刻な問題を起していることは、言うまでもありません。たとえばイラク戦争は八千億ドルという膨大な資金を費やして二〇〇八年まではアメリカ経済の成長を支えてきたといわれていますが、モラルの観点からみれば「悪成長」と呼ぶべきでしょう。現行のGNP計算法では、物・人間・環境を傷付ける活動も、それらを修復するための活動も同じ「成長」として加算され、不条理な経済観が基準になっています。さらに、明らかに「悪成長」ではなくても、「地球」という限られた環境においては(とりわけ世界人口が増え続けた場合)、「永遠に続く経済成長」そのものが不可能であるという当たり前の法則を認めざるを得ないでしょう。

 「永遠に続く経済成長」という妄想はいわば「現代社会の癌」のようなものといえるのではないでしょうか。医学によると、成長が留まらずいつまでも細胞が増え続けるという病気は総称して「癌」と呼ばれます。癌腫瘍の成長が進むに連れて、体の様々な機能のバランスが損われ、最終的には死に至るのです。健康な生命体なら、植物であろうと動物であろうと、あるところまで成長を成し遂げたらそのまま止まり、内面的な機能や特技の改善に力を入れるようになります。この生物学の原理は、人間社会にも当てはまるのではないでしょうか。

 つまり資本主義社会の人間は日に日にさらなる物質的な豊かさ(経済成長)を欲しがりますが、本当のところ、ある程度裕福になったら物質的な発展をやめ、文化的・精神的な発展に切り換えた方が健全であるという原理です。ドイツの哲学者・ショーペンハウアー(『意志と表象としての世界』第一巻、私訳)いわく、

唯物主義の掟が真実の掟であるというなら、世の中すべてが明解になる筈だ。表象の謎もなく、方法論だけが問題になる。

 簡単にいえば、人間はやはり物だけでは生きていられません。それを承知してもわれわれ現代人はなぜか「唯物主義」という〝心の癌〟に、日に日に蝕まれてゆくのです。

23独り者の知恵

小言いふ相手もあらばけふの月

 文政六年九月十一日(一八二三年十月十四日)の作か(『文政句帖』)。

 この夏まで九年間連れ添った妻・菊は、時々小うるさいところがありました。しかし今思えば、相手をほっておけないという性格には、彼女の優しさが表れていました……。毎日目の前にいる人が亡くなって初めてその心を理解するということ、人生の耐え難い皮肉ですね。一茶は八月には〈小言いふ相手のほしや秋の暮〉〈小言いふ相手のことし秋の暮〉、九月には〈小言いふ相手は壁ぞ秋の暮〉など、類句を多く書き並べています。この秋、夫婦の思い出を延々と嚙みしめていたようです。加藤楸邨(『一茶秀句』)が述べたように、「この情はまことに人を惹きつけるものがある」と。楸邨は一方、掲出句の類句の多さに関して「いろいろ工夫されているようであるが、どれも、同じもの足りなさを感じさせる」と批判しています。ところが、一茶句の鑑賞に当たって、忘れてはいけない事実があると思います。それは、(『おらが春』のような俳文集を除けば)出典のほとんどが日記であるということです。

 『七番日記』だけ一茶自筆の題名が残っていますが、それまで同じ分量の句日記が六編もあったかと考えると、気が遠くなるほどの句数が推測されます。つまり多くの資料が紛失したのに、現在は二万句以上が知られ、一茶は世界文学史上最も作品数の多い詩人であるということになります。しかも先ほどの日記の番号の付け方によれば、少なくともその倍の四万句を実際に作っていたと考えられます。やはり、一茶は四万句のすべてを後世に残そうと思って日記に書き留めたわけではないと認めざるを得ません。彼は、芭蕉のように推敲を重ねて約千句まで作品数をしぼろうとは思わなかったし、蕪村のように自選の個人句集を編んだこともありません。秀句と類句と駄作(完成度の低い作品)を同じ日記に並べ、ある意味で選句の作業を後世の読者に任せていたといえます。その“ありのままの創作姿勢”はのちに一茶の名声を低めたという半面もあります。もし現存する二万句を厳選して芭蕉全句と同じ千句にしぼったら、秀句ばかりが並ぶのではと思えてなりません。

 日常の一瞬一瞬を記録する「句日記」は、一茶俳諧に多い「生涯句」というジャンルに相応しい“創作工房”だったともいえます。一茶はどの近世俳人よりも「私生活」、とりわけ「家族」という題材を迫真に、そして生々しく描こうとしました。当時、俳諧という「座の文学」は、一種の“ブルジョア的趣味”や“遠慮がちな社交性”に支配されていたといえましょう。それを取っ払い、「家族を中心とした世界観」を発句や俳文の題材にしたのは、一茶が最初です。そしてその「家族を中心とした世界観」こそ、現代の一般読者を惹きつけるものであります。フランスの哲学者L・フェリーが指摘したように(LucFerry, Familles, je vous aime : Politique et vie privée à l,âge dela mondialisation, XO,2007)、グローバリゼーション以降の現代社会では祖国、階級、企業などといった大きな共同体の求心力が薄れ、核家族の縁(夫婦愛、親子愛など)が主な価値観の基盤になりつつあるといいます。結果的に伝統的な「男社会」にみるような国境や社会的地位のための争い事が減り、世の中が「女性的」ともいえる「家族を中心とした世情」に変わってきていると述べています。ある意味で、掲出句にみるような晩年一茶の家族愛の吟は、現代社会の本質的な変化を先取りしていたといえます。そして、現代における一茶句の人気も説明できます。とにかく一茶は、小言をいう“女性的な人情”を偲び、失われた家族の温もりを思い出しながら、男社会の冷たさを痛感していたのです。

(昨日、超音波検査で初めて我が子の性別が判りました。願っていた通り、女の子です。彼女のミドルネームは、一茶の愛娘にあやかり「Sato」と名付けることにしました。今、妻の妊娠が判明した日に植えた梅の木は、庭で見事な花を咲かせています)

小便も玉と成りけり芋畠

 文政六年九月十四日(一八二三年十月十七日)の作か(『文政句帖』)。

 通俗の極まりと言われるかもしれませんが、用を足す時の“快楽”は、実に深遠な文学的題材にもなります。一茶のみならず、風流人・谷崎潤一郎も「便」について名文を遺し、『陰翳礼讃』で次のように書き記しています。

 漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それは寧ろ生理的快感であるといわれたそうだが、その快感を味わう上にも、閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることの出来る日本の厠ほど、格好な場所はあるまい。

 増して一茶句にみるように厠の小屋もなく、ただ大自然のなかで用を足す時、言語に絶するほどの原始的な感興を堪能することもあるでしょう。排泄物は畑の天然肥料となり、芋は大きな玉に成長し、再び人間のための栄養になってゆきます。そして自分の土地を“マーキング”したような、自然環境との深い一体感も味わえるでしょう。この通俗的なひと時を軽快に表現する文学者こそ上品な作家だと、僕は思います。「通俗」と「下品」はまったく異なるものですから。「便」という自然のものを独創的に描くことは、通俗的ながら、決して下品な創作ではありません。他人の真似をして優雅な名作をなぞって句を詠んだ方がよほど下品な文芸といえるのではないでしょうか。

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 江戸時代までは排泄物に対して、僕ら現代人のように嫌悪感を抱くことはありませんでした。むしろそれが大切な肥料とみなされ、「農民は排泄物をただ持っていくのではなく、買い取ってくれた」のです(石川英輔『大江戸リサイクル事情』、三二七頁)。しかし明治以降の日本は、欧米の下水処理施設を真似て、大切な肥料とバイオマスの原料となり得る下肥を単に“処分”するようになりました。そもそも欧米でも十九世紀までは排泄物の再利用が一般的でした。産業革命以降、公衆衛生を理由に膨大な水源とエネルギーを必要とする下水処理施設が考えられたのです。石川英輔氏(同、一七四頁)が述べるように、

 ビクトル・ユーゴーは、『レ・ミゼラブル』の第五部二編のすべてを、パリの下水道の批判に費やしているが、肥料価格にして五億フラン分の屎尿を川に流す結果として、土はやせ、川が病気を運ぶため、「下水道は誤った考えである」と結論を下している。

 そういえば、今日の日本では、一般家庭の水道水消費の約三割がトイレからくるといわれています。トイレのタンクにペットボトルを入れたりして、水道代を減らそうとする人もいますが、徹底的な解決策として「バイオトイレ」という最新のテクノロジーが世界的に注目されるようになりました。かつての汲取式のトイレとは大きく異なり、無臭の可燃ゴミが少々出るだけとのことです。いつか僕も、ログハウスタイプのバイオトイレを庭に建て、風流にしてエコロジカルな“ハイテク厠”で寛いでみたいですね!

湯上りや裸足でもどる雪の上

 文政六年十月(一八二三年十一月)の作(『文政句帖』)。

 妻・菊が亡くなり、遺児・金三郎が乳母に預けられ、一茶はこの秋から再び独り者の生活になります。十月中旬、志賀高原の温泉郷・湯田中に十三泊します。心ある門人・湯本希杖は旅館の主人であり、一茶のために別荘を用意してくれました。山の熱を、そのエネルギーを思い思いに吸収し、老俳人は“心身の充電”を果します。湯田中は初冬から雪が積もる山地ですが、湯上りなら素足でも雪の冷たさを感じることはないと、素朴な驚きを詠んでいます。サウナの後の冷水浴のような快感でしょうか。一茶は前年も冬の湯田中を訪れ、俳文「田中川原の記」(『一茶全集』第五巻所収)で「湯が福〳〵と出て」里人が貧しいながら幸せそうに生活していると書き記しています。特に、村の子供たちの生き生きとした描写が鮮やかです。

 貧しきものゝ子をやしなふには、湯のわく所にしくはあらじ。(中略)兄は弟を負ひ、姉は妹を抱きつゝ、素足にて門を出れば、それに引つゞきて迹からも其迹からも走り〳〵て、湯桁にとび入りつゝ、今玄冬素雪(冬)のころさへ丸裸にて狂ひ育ちにそだつ物から、おのづから病なく、ふとくたくましく見ゆ。

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 現代においても、環境に優しい暖房と電力源として地熱を利用したヒートポンプが注目されています。アイスランドでは今や住宅暖房の七割が地熱で賄われています。日本も温泉大国です。しかしなぜか、信州のホテルや北海道のレストランなど幾つかの先駆的な施設を除けば、膨大な地熱の恵みが置き去りにされているのではないでしょうか?

24老人の独立自尊

蠅よけの羽折かぶつて泣子哉

 文政六年夏(一八二三年夏~秋)の作か(『文政句帖』)。

 還暦を迎え、妻・菊を失った文政六年、一茶は急に老け込んだ様子です。このころから句日記の記載は次第に乱れていきます。上段に見る私生活に関する記載と、下段に見る発句の制作時期がほとんど合わず、たとえば掲出句は夏の作でも上段には文政六年冬の出来事が併記されています。私見によればこの句は、一茶が乳母を訪ねて、遺児・金三郎を見舞った時の吟でしょうが、定かなことはいえません。

 金三郎はいよいよ一歳半になります。しかし甚だしくひ弱な姿をしていて新生児にしか見えません。今の乳母は乳がよく出て懇ろにオムツを変えたりしますが、この季節は蠅が赤ちゃんの周りに群がり、伝染病などが心配です。一茶は俳諧師の羽織を脱いで、わが子に被らせてみます。「金三郎、泣くな。ほら、父っちゃんと同じ“羽織貴族”になったぞ……父っちゃんは五七五でいっぱい稼いでくるから、元気になれよ!」とささやき、老俳人は涙をこらえて乳母の家を後にします……。

 しかし掲出句の真上、日記の欄にはその次の冬の出来事が記されています。「[十二月二十]一[日] 晴 幸三郎没」。一茶にとって、わが子の死は連続で四人目です。母親の死後、初めは不誠実な乳母に預けたせいで、金三郎の栄養失調は治らないと言われてきましたが、それでも一茶にしてみれば諦めがたいものがありました。彼はこれ以上、わが子の誕生を目にすることはありません。そしてこれからの日々のほとんどは不機嫌な老人という仮面を被って、人生最後の五年を過ごすことになります。

慈悲すれば糞をする也雀の子

 文政七年四月十八日(一八二四年五月十六日)の作か(『文政句帖』)。

 加藤楸邨(『一茶秀句』)が述べたように、

巣から落ちた雀の子を掌の上に乗せ、頭や背を撫でていたわってやる。すると雀の子は糞をしてしまったのだ。(中略)こちらの気持があだになった、やりきれない気持を詠んでいるのである。

 たしかに、語意に沿って読めば、それだけでも心に残る句です。一方、一茶の深層心理において「雀の子」が自己の子供時代の哀れな姿を意味するものでもあるのを忘れてはならないでしょう(第十二回「我と来て遊べや親のない雀」の鑑賞を参照)。ところで掲出句の真上、私生活に関する日記の欄には「一茶夜尿」とあります。このころ、中風、豪飲、高齢が相俟って、一茶の夜尿症が酷くなっています。もてなしてくれた俳友の高級布団に寝小便を垂らしたりして、何度も恥ずかしい思いをしたようです。つまり、友人が「慈悲すれば尿をする也一茶翁」という句意も行間に詠まれているのでしょう。老俳人は再び子供のように寝小便をするようになり、〈雀の子〉すなわちひ弱な孤児だったころと同じ心境に戻りました。かつて親の愛情に飢えていた雀の子は今、日本中の俳人に称えられても、「オシッコしか出ないぞ」と、捨てゼリフを吐いているような気がします。

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 フランス最高のシャンソン歌手エディット・ピアフ(一九一五~一九六三)も、「小雀」(パリの俗語で「Piaf」)という芸名を選び、情感をこめて悲惨な運命を歌ったことで知られています。彼女の人生は実に、一茶の一生を思わせるものがあります。

 パリの貧しいベルヴィル地区に生まれ、幼少のころ母親に捨てられ、ノルマンディー地方の僻地に住む祖母に預けられます。十五のころパリへ行き、街角のシャンソン歌手となり、二年後愛人から娘を授かります。しかしその子は小児性髄膜炎を患い、わずか二歳で急逝します。その年、悲しみから立ち直るために、彼女はシャンソンに打ち込み、キャバレーでプロデビューを果たし、芸名をエディット・小雀と改めます。三十歳代からは名声が高まり、ボクシングのワールドチャンピオン、マルセル・セルダンと大恋愛をします。そこで、二人が出逢って一年後、セルダン選手は彼女に頼まれて飛行機でアメリカまで会いに行きますが、墜落事故で不帰の客となります。のちにピアフは「一生の男」に名曲「愛の讃歌」を捧げ、以降癌とモルヒネ中毒と戦いながら最晩年まで愛の歌を発表し続けました。

 ピアフも一茶も、幼少から愛情に飢えた小雀でした。だからこそ二人とも、晩年には慈愛に満ちた歌を聞かせてくれたのだ、と僕は思います。事実、二人が唱えた「愛」というヒューマニズム的原理は、地球温暖化時代の子供たちにとっても大切な示唆を与えてくれているのではないでしょうか。フランスの生態学者・J=M・ペルトは、近著『自然と精神性』の結論において次の説を唱えています(Jean-MariePELT, Nature et spiritualité, Fayard, 2008, p.283、私訳)。

現代の若者はマクドナルドなどで腹を満たしているかもしれないが、精神的には栄養不足なのである。そうはいえ若者たちは何か別のものを求めている。たとえば、エコロジーの問題に対して格別に関心を示している。現代社会は常に多くのハイテク商品で彼らの時間を奪い、物事を考える暇さえ残さないのは事実だが、それでも彼らは若者らしく、必死で心配しながら、世界中でもっと明るい将来を夢に描いている。結局われわれに必要なのは、新しい文明そのものである。「愛の文明」とでも呼べばよいのか。

目出度さや膝垢光るころもがえ

 文政七年五月二十八日(一八二四年六月二十四日)の作か(『文政句帖』)。

 五月十二日、一茶は二番目の妻、飯山藩士の娘・田中雪(三十七歳)を迎えます。前妻菊の他界からはや一年が経ちました。向かいに住む本家の親戚が心配してくれて、いつの間にか縁談がまとまりましたが、一茶は気乗り薄な感じです。最近、門人宅でだらだらと居候しながら毎日のように夜尿で恥ずかしい思いをする老俳人にしてみれば、今さら武家の箱入り娘を貰うのはさぞ勇気が要るでしょう。

 とにかく五月十二日の朝、一茶は慌てて顔の汗を拭き、一番お気に入りの甚兵衛羽織と短ズボンを身にまといます。草庵の玄関で正座して、“お雪”が現れるのを待ちます。ふかぶかと頭を下げると、困った! 膝の垢が見えてしまいました。雪は一瞥を投げます。一瞬で身分の差を互いに実感し、二人はぎこちない空気に包まれます。そもそも雪は、初婚に破れ苦い失恋から立ち直ったばかりで、百姓出身の俳諧師と結婚を押し付けられたとはいえ、薄汚い老人の世話をみるつもりはありません。一方の一茶は、この年まできて、良家の子女の優雅な振舞いに生活を合わせようとは思いません。そのころの作品に「貧乏蔓にとり巻かれてもぼたん哉」があり、幻滅の念がうかがえます。結局二人の新婚生活は五月十二日から二十三日までの、正味十二日間で終わります。一茶の“お漏らし”の面倒や隣家に住む義母の注文に耐えられなくなった雪は数日間実家に帰ったり、その後は一茶が彼女の帰宅を避けるかのように一か月以上旅に出たりして、すれ違いの生活が続いたあげく、七月十二日には離縁が正式に決まります。矢羽勝幸氏(『一茶新攷』、若草書房、一九九五、一八三頁)が指摘した通り、「自分の生活がすでに確立していて新婚といってもその生活ペースを壊すわけにはいかなかったであろう」。

        *     *

 農民の服装のまま武士の娘を迎え、泰然として自分の生活を変えようとしない一茶翁の姿は、僕の眼にはなぜかインドの独立運動家M・ガンディーの姿勢と重なります。ガンディーはイギリス製の綿製品を一切着用せず、自織によるインドの伝統的な服装を着るように呼びかけ、生涯「非暴力」と「不服従」の精神を貫きました。たとえばロンドンの国会議事堂を訪ねた時も、彼は腰巻と草履で表敬訪問に臨みました。晩年の一茶もしかり。武士や江戸の俳人たちに対して、堂々と信州の百姓の姿を披露し、自作においてその質素な世界観を称えました。晩年のころは風刺の句で他人を説教しようと思わなくなり、実に作品と生活そのものが「独立自尊」のお手本だったといえましょう。ガンディーいわく「Youmust be the change you want to see in theworld」すなわち「世界に変化を望むのであれば、あなた自身がその変化になればよい」と。たとえば、よりバランスの取れた人間と自然の関係を望むのであれば、ひたすらにエコロジー談義で他人を説教するのではなく、日常生活において自分を変えてゆけばよいということでしょう。

25人間よ、人間的であれ!

もどかしや雁は自由に友をよぶ

 文政七年閏八月九日(一八二四年十月一日)の作か(『文政句帖』、掲出句は俳文「舌廻らぬ病」に拠る)。

 妻と子供四人の死、再婚の失敗などを経て、一茶はこの秋、自棄酒に溺れようと思ったのか、毎晩の酒量が増え続けます。豪飲のあげく、閏八月一日には中風が再発し、言語障害に陥ります。句日記に、震える手で「不言病起」と記し、九日には掲出句を書き付けます。数日後、門人・雲里に宛てた手紙(俳文「舌廻らぬ病」『一茶全集』第五巻所収)のなかで、次のように悔しさを吐露します。

八月一日、ふと舌廻らぬやまひの起こりて、皆、手まねして、湯水を乞ひつゝ、さながら啞のありさま也。(中略)本の通りにならんことを希ふ。

 人間は健康を損なって初めてそのありがたみを実感します。えいと鳴き声を交わし北方から優雅に飛んで来る雁たちを目にして、老俳人は叫びたくなったのでしょう。「俺も生きている。友よ、俺を見捨てないで!」と。そして「体の不自由」を知ったからこそ、「表現(心)の自由」を得ることができました。つまり「自由」という、当時大変珍しかった単語を独創的に使えたのです。宗左近(『小林一茶』、集英社新書、二〇〇〇)が指摘したように、

自由、これはむろん中国から伝来した言葉です。しかし、堅苦しくて、日常の場ではほとんど使われなかったようです。江戸の俳人にも、あまり好まれませんでした。これを使ったのは、逆に、一茶がそこに新しみを見たためではないでしょうか。

 一茶はいわゆる身体障害者となり、生きる喜びの根源が「心の自由」にあると悟りました。この概念はのちに近代民主主義や実存主義の支柱となりましたが、病と闘った多くの芸術家の人生観と重なるものもあります。たとえば一茶と同時代を生きたドイツのベートーヴェンは、晩年には聴力を失い、そのころから非常に自由な発想をもつようになり、大合唱「歓喜の歌」を作曲したのです。また、現代ではフランス版『ELLE』誌の元編集長による『潜水服は蝶の夢を見る』(Jean-DominiqueBauby, Le scaphandre et le papillon, Robert Laffont,1997.日本語訳:河野万里子訳、講談社、一九九八)という「奇跡の手記」が思い出されます。四十歳代で脳梗塞による難病「ロックトイン症候群」に襲われ、身体的自由を失った著者ジャン=ドミニック・ボービーは、二十万回の瞬きで文字を伝え、人間愛とエスプリに満ちた傑作を綴りました。そのなかで、掲出の一茶句にみるような「雁」ならぬ「蝶々」へ思いを馳せて、著者は身体的自由を超越した「心の自由」を称えました。

 僕は、自分の頭の中を飛んでいく蝶々の羽音が、聞こえるようになった。もちろん非常にかすかな音だから、よく耳を澄ましていなければならないし、集中力もいる。少し強く息をしただけで、もう聞こえなくなってしまうのだ。不思議なことだと思う。聴力自体は少しも良くなっていないのに、この羽音だけは、ますますくっきりと聞こえるようになってきた。

  僕は、蝶々の信頼を、得ているのだろうか。

 この「手記」の出版二日後、ジャン=ドミニック・ボービーは他界しました。しかし彼の本は世界的なベストセラーとなり、二〇〇七年には映画化され、カンヌ映画祭で監督賞を受賞しました。実はその映画で主人公の長女を演じる子役には、パリに住む僕の姪が選ばれました。いつか彼女に、一茶の生涯を語らなければなりませんね。

木の陰や蝶と休むも他生の縁

 文政八年二月(一八二五年三月後半~四月前半)の作(『文政句帖』)。

 一茶は半年前から脳出血による下半身不随と言語障害を患っています。転々と門人の家を駕籠で廻り、湯田中温泉などで療養生活を送っています。早春のある日、老俳人は駕籠かきに誤った指示を出したのか、山路に迷ってしまいます。落葉松と杉の日陰に蝶々を追いかけている、隣村の少女に道案内を頼みます。するとさっと春時雨が通り、皆で老木の下を借りて雨上りを待つことにします。掲出句の前書に「小娘の山路の案内しける、一むら雨のさと降りければ」とあります。「さと降り」とはもちろん「さっと降り」の音便ですが、ここで一茶はさり気なく、六年前にこの世を去った愛娘「さと」の名前を踏まえていたのではないでしょうか……。「さと女が生きていれば、今はちょうどこの小娘と同じぐらい、七、八歳になるのか」と物思いに更けると、少女は驚いて「お爺ちゃん、お爺ちゃんはなんで泣いているの」と、無邪気に問いかけます。一茶は廻らない舌を動かそうとしますが、野獣のようなうなり声しか出ません。すると少女をじっと見つめ、心のなかで言葉を綴ります。「他生の縁、他生の縁さ。蝶々もね、君もね、お爺さんもね、もともと皆同じ魂さ。形が違っても、いつかはまた生まれ変わって、また会えるからね……」。