治療神
http://www.y-tohara.com/toruko-asklpios.html 【治療神・アスクレピオスと蛇】より
アジア側トルコの西端・地中海の近くにベルガマという町がある。この町に古代都市遺跡・ペルガモンがあることで多くの観光客が訪れる町だが、その西側に“古代の医療センター”といわれる『アスクレピオン遺跡』が残っている。ここに祀られている神・『アスクレピオス』は、ヘレニズム時代から活躍した治療神・病気治しの神で、紀元前5世紀末にギリシャのエピダウロスに起こり、ローマ皇帝のキリスト教公認にともなう異教抑圧によって消えていった神である。
ギリシャ神話のアスクレピオスは、音楽・医療の神アポロンと森の妖精(テッサリアの王女ともいう)コローニスの間に生まれ、賢者ケンローンに医術を学び、その術が、死者をも蘇らせるなど神技の域に達したため、人間が不死になることを心配したゼウスによって雷に打たれ殺されたというが、オリンポスの神々とは系譜を異にする民俗神だったのでは、ともいう。
その神が、4世紀中ごろのアテネに流行したペストの鎮圧に活躍したことからアテネに勧請され、その後ローマをはじめとする各都市へと広がり、形骸化しつつあったオリンポス祭儀に代わる新しい守護神として、民衆の間にもてはやされたという。
この神の存在は長いこと別れ去られていたが、発祥の地・エピダウロスの発掘によって、病を治してもらったことをアスクレピオスに感謝する沢山の碑文が発見された(1883)ことから再認識された神で、そこには難産・不妊・中風・失明・足萎え・腫れ物・胃潰瘍・不眠症・肺病・脱毛症などあらゆる万病奇病が記され、それらの碑文には、「聖所に籠もって眠っていると夢を見、神がやってきて、一緒にきた蛇に患部を嘗められて完治した」といった類が多いという。
“医”を象徴するものに『アスクレピオスの杖』というのがある。世界保健機関(WHO)や米国医師会などのシンポル(紋章)ともなっているもので、杖に一匹の蛇がからみついている。
これは、アスクレピオスが常に蛇をともなって病気治癒に従事したという伝承による。
キリスト教世界で蛇といえば、最初の女性・イブを誘惑したことから、呪われたる者、悪の化身あるいは悪魔そのものであり、この世から抹殺されるべき生き物とされてきた。
しかし、それ以前の世界での蛇は、その脱皮する生態あるいは春先になると何処ともなく地中から這い出してくるという習性によって、再生のシンボル、死からの復活を象徴するものとして畏怖され、その延々数時間にもおよぶ交合の姿から豊穣として崇敬されてきた。
今でも、蛇をモチーフとした古代遺物・彫刻・絵画・伝承などは東洋・西洋を問わず各地で見聞きすることができる。洋の東西を問わず、蛇という動物は、聖なるもの即ち神として崇拝され且つ畏れられてきた。そんな豊かな伝承・慣習を根絶やしにしたのがキリスト教に代表される一神教だったといえる。
ギリシャ発祥の神のペルガモン伝播について、伝承よれば、紀元前4世紀頃、ペルガモンのアルカイアスという青年が狩りで落馬して骨折、エピダウロスでの治療中に医術を学び、帰国後アスクレピオスを祀り、神殿を造って人々の治療にあたったのがはじまりという。
治療神・アスクレピオスの傍らには常に蛇がまとわりついている。
夢の中に蛇が顕れるのは、蛇に象徴される“死からの再生”を希求する古代人の祈りといえるのかもしれない。
それを表しているが、東北方の古代都市から当地に至る“聖なる路”が聖域・アスクレピオンに入る境界、俗界と聖域の境界に残る円柱残欠に彫られた“蛇の浮彫”である。
ここでの治療法は自然療法が主だったようで、まず神への信仰、ここにきた以上必ず治るという自己暗示、スポーツ・泥風呂・聖泉での水浴などを組み合わせながら、夢のなかでの神の顕現を待ち望んだらしい。
ただ、治癒不能とみられた患者は最初から入れなかったようで、ここからの出所者はすべて完治者だったというが、そこには、聖域の名声を守ろうとする絡繰りと、当時の医術の限界をみることができる。
蛇が浮き彫りされた円柱
東西130m×南北12mほどの聖域は、その南北西の三方をイオニア式柱頭飾りをもつ柱が並ぶ【回廊】で囲まれ、東側には、北から【正門】・【正門】・【円形神殿】・【円形病棟】と並んでいたというが、今、それとわかるのは、北側回廊に復元されている柱列の一部と、その背後西寄りの【円形劇場】だけで、神殿(2世紀中頃)跡には基石だけが散在し、病棟といわれる円形建物(半径約26m、2世紀後半)も上部のほとんどが落下し、かろうじて、円形の通路とそれに連なる病棟らしき部屋の一部が、その面影を残している。
アスクレピオス信仰の最盛期は紀元前2世紀から紀元3世紀前半頃までという。
何故消えたのか。それが、アスクレピオス以上に強力な治癒神として登場したイエス・キリストであり、キリスト教という新しい宗教である。
ほとんどの宗教がそうであったように、イエス・キリストも、最初は“病を癒す治癒神”として登場し、特に“悪魔つき”とよばれる一種の心の病に顕著な力を発揮したといわれ、聖書にも、イエスあるいはその弟子たちがおこなった奇跡というかたちで、数多くの病気治しあるいは死者の蘇りが記されている。
ペルガモンのアスクレピオンの聖域は、紀元3世紀中頃に襲った大地震によって崩壊したというが、癒しの神としてのアスクレピオス信仰は、キリスト教のそれとの葛藤の末、キリスト教公認(313)後、コンスタンティヌス帝の勅令によって、その神殿とともに徹底的に弾圧・破壊されて消滅していった。その有様を語るのが、カイザリオンのオイセビゥスが延べたという次の言葉である。
『キリキア人の神(アスクレピオス)については、賢そうな人々さえも欺かれ、大勢の人が興奮して騒いでいる。彼は眠っている者に顕現し、身体で苦しんでいる者の病気を癒したという。けれども魂に関しては全くのところ破壊者であって、人々を神の救い主から引き離し、詐欺にかかりやすい人々を誘惑しているのである。だから、皇帝・コンスタンティヌスは、神の救い主が嫉妬深い神であるが故に、この神殿が徹底的に破壊されるよう勅令を降した』
異教徒であるわれわれにとって、聖書に記す奇跡は不可思議なものであり、荒唐無稽なものである。しかし、キリスト教の急速な教勢拡大の裏には、民衆に受け入れられた驚異的な癒しの神としてのイエスがあり、それが時代が下がるとともに、単なる癒しの神から魂の救済者としての神へと替わっていった歴史が隠されているともいえる。
https://www.kodjeng.com/hygiene.html【医神の娘】 より
今回はギリシャ神話の続きです。
前回紹介したアスクレピオスはアポロンの息子です。
アポロンは詩歌、音楽、予言、弓術、医術を司り、オリンポス12神のうちの一人です。アポロンは時代を経ると太陽神と崇められたり、ローマ神話ではアポロと呼ばれたりするようになっています。
そのアポロンの父は有名なゼウスです。
アスクレピオスは由緒正しき家系の医神と言えますが、実は神であるアポロンと人間との娘との間に出来た子です。純血な神の子ではないため天界に住むことは出来ず、ケンタウロス族(半人半馬)の賢者の元で育てられます。ここで医術を学んだとされています。アスクレピオスの医術は人間界で最高のものとなりました。しかしながら死者までも蘇生できるようになると、人間と神との違いがなくなることをおそれた神々は彼の処罰を決議しました。アスクレピオスは祖父に当たるゼウスの雷に打たれ亡くなりました。
アスクレピオスの二人の息子は内科・外科の神となり、二人の娘は治癒・健康の女神となっています。
現代医療の礎とも言えるヒポクラテスは、有名な宣誓文「ヒポクラテスの誓い」の中で、アポロン、アスクレピオス、そして二人の娘女神の名前をまず挙げた後宣誓を行っています。ヒポクラテスは紀元前400~300年頃の医者ですが、既にこの時代から医療者が肝にすべき規範や行動が示されています。実際に医療関係者を律する組織も作られていたようです。
さてここでアスクレピオスの娘である健康の女神の名前はヒュギエイア(Hygeia)と呼ばれています。ギリシア語の"Hygiene"は「健康(の技術)」という意味があります。英語では転じて「衛生」という意味になります。ちなみに歯科衛生士を英語では「dental hygienist」とよびます。
折しもシンガポールはSARS騒ぎで、手洗いやうがいなどの衛生教育が盛んになってきました。疫病の蔓延阻止にはやはり衛生的な生活が一番であることを、シンガポール政府はいち早く受け止め、衛生教育の啓蒙を各新聞上で毎日のように行っています。SARSの制圧宣言も間近になってきました。ただ制圧宣言後もシンガポールにも他国にも患者はいるわけで、もう衛生的にしなくてもいいというわけではありません。衛生的な環境こそが、いわゆる伝染病の伝播防止には一番であることは、今も昔も変わりません。