コロナ自粛を通じて見えてきたもの
Facebook・船木 威徳さん投稿記事 【 コロナ自粛を通じて見えてきたもの 】
新型コロナウイルス感染症拡大抑制を目的としたほとんどすべての社会活動における「自粛」の効果や意義がどれほどのものであったのかは正直、私には分かりません。
おそらく今後も、すべてが明らかになることはないだろうと思います。
いろいろと感じるところ、考えることはありますがそれは、その一部をFBでも話してきました。
私も各方面の情報を集めたり、基礎的な医学知識をあらためて学んだりしながら、個人的に、いろいろな方向から、この数ヶ月に起こったことの真実を知ろうと努力しています。
そこで、私自身、意外なことに気づいたというか、忘れかけていたことを想い出しました。
私は、小さな時(幼稚園卒園くらいまで)は非常に病弱で、幼稚園も、トータルすると
何ヶ月間も休むくらい、頻繁に熱を出していました。
家の近くには診療所もなく、薬を売っている店もなかったため(それはそれで結果的によかったのですが)ひたすら頭を冷やしては、時々吐いて、一日中寝ているしかありませんでした。
私は、弟と2段ベッドを使って、下の段に寝ていました。
寝ていて、見えるのは、しみがついた上段の板だけ。ぼんやりした頭で、ずっと、ベッドの板や、天井を見ていることがたくさんありました。
そこで、いまでも、忘れませんが、私が幼稚園の年長のときのこと、あることを強く考え、百科事典で調べてもさっぱり答えが分からないことを繰り返し悩むようになったのです。
それは、簡単に言えば、「何かを『見て』いる、『私』とは何か?」ということ。
よく分からないでしょう。
例えば、私が具合が悪くて、母親も自宅におらず、食事も摂れず、かといって、眠くもならず、ずっと、「天井のしみ」を見つめているとします。
その「天井のしみ」を見て、「ああ、そこに『新しいしみ』があるな。
そもそもなぜ、しみができるんだろう?」と考えている「自分」とはなんなのでしょう?
というのは、目を手でふさぐと、ものは見えなくなります。
だからと言って、「しみ」が消えたわけでも天井がなくなったわけでもない。
図鑑には、私たちの眼球(めだま)の網膜(スクリーン)に映し出された映像が、
神経(視神経)のなかを電気として流れて、脳みそ(視覚野と呼ばれる場所)で、
「これは、『天井のしみ』だ」と判断されると書いてありました。
聴く(聴覚)、熱い・冷たいを感じる、痛みを感じるなども、まあ、大して説明は変わらず
「脳みそで『感じる』」のだ、というもの。
私は、この説明に、納得がいくようでさっぱり分かりませんでした。
光や、音、温度や物理的な刺激が、神経を伝って脳みそに情報として伝わり、「これは、リンゴだ」「楽しい歌が聞こえる」「風呂のお湯が熱すぎる」「靴のなかの小石が痛い」
などと、人間が認識できる・・・。なんらかの情報を処理しその「認識」をしている場所は分からないことはないのですが、それを「認識」しているのはいったい何者なのか?それが「私」なのか?そもそも「私」とは、なんなのか?なにかを認識することができても、その認識する主体というか、何かを見たり、聴いたり、感じたりして何かを「思う、考える」実体はどこにあるのか?
・・・という疑問。
何度も、熱を出しながら、同じことを考えていてもちろん答えなど分からないまま、親にも、何が分からないのか、伝えかたも分からないままでした。
医学部の生理学の講義を聴いたところで、知識の量は増えたかも知れませんが、私の知りたい「私」を理解するために、なんの手がかりも得ることはありませんでした。
ところが、このコロナ自粛で、私も時間に余裕ができて、たくさんの本を読み、考えることができました。
そして、今年度をかけて受けているセミナーで実に、40年ぶりに、ずっと前に悩み続けていたことに光が当てられたように感じるできごとがおきました。
セミナーで、「古代インド哲学」の概略を学んでいた時のこと。「ヤージュニャヴァルキア」(紀元前650年頃から紀元前550年頃)という人の話を聞きました。
インドの聖典「ヴェーダ」のなかで、バラモン(いわゆる司祭階級)たちの思索活動によって生まれた奥義とも言われる哲学書「ウパニシャッド」の最大の哲人で、ヨガ哲学の元祖とされる人です。
このヤージュニャヴァルキア先生が、教科書にも出てくる「梵我一如(ぼんがいちにょ)」
について話しているのですが、「梵=ブラフマン(世界を成り立たせている原理)」と
「我=アートマン(個人を成り立たせている原理)」は同一(一如である)だと言うのです。
よく分かりませんよね。
ですが、ここで聴いた「我=アートマン」についての説明で、私が、小さな時に悩んみつづけた疑問に文字通り、光が当てられたように感じました。
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アートマンについての解説
・・・アートマンはいかなるものかと問われ、ヤージュニャヴァルキアは、「あなたは見るという作用の主体たる『見る者』を見ることはできません。聞くという作用の主体たる『聞く者』を聞くことはできません。
思うという作用の主体たる『思う者』を思うことはできません。知るという作用の主体たる『知る者』を知ることはできません」と言う。
そして「万物を認識する認識主体を、どうして認識することができるのでしょうか。だからこれを、『あらず、あらず、のアートマン』というのです」と説く。
「ではない=あらず」をサンスクリット語では「ネーティ(neti)」という。真の自己、アートマンは純粋の認識主体である以上「~ではない、~ではない」(ネーティ、ネーティ)という方法でしか表現できない。
「~である」と表現すれば認識の対象へと下落してしまうからだ。この考えによれば、私の身体は真の自己ではない。
私は私の身体を知覚できるから。認識対象であって認識主体ではない。また私の思考も認識対象であって認識主体ではない。アートマンは捉えることができないものである、ということになる。
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ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)は「『認識するもの』が、担いうる唯一の性質づけは、まさに『それは、これこれの対象であらぬ』ということである」(「存在と無」1943年)と、2,500年ほどの時を経て同じように思える結論を導き出しています。
さらに、デーヴィッド・マーチャーズ(1966-、オーストラリアの哲学者で「意識のハードプロブレム」で世界的に知られる)が説明するように、車を運転していて、急に赤信号に気づき視覚情報としての入力が、脚の筋肉を収縮させる運動神経を興奮させ、結果としてブレーキをかける・・・という脳内の物理的、化学的、電気的な反応の問題は容易に説明がつく
(「イージープロブレム」)が、「赤信号の赤い感じ、突然訪れる恐怖、驚きの感覚が
そもそも何なのか、物理的、化学的、電気的反応からいかなる因果関係によって生じるのかについての研究は「意識のハードプロブレム(現象的意識の難しい問題)」に位置づけられていて、いまだに答えが出ていません。
つまり、想い、考えを持つ「主体」は科学的に、いまだまったく説明できていないということです。
幼少の頃、私が急におぼえた疑問と、それが、解決しない、親などほかの人たちと
共有さえできない不安が、一気に、消えてなくなったように感じました。
いまだ、分からない、分かっていない、ということを知ることができて、強い安堵を感じられることもあるのだと実感することができました。
私の尊敬する、清水康一郎先生(ラーニングエッジ株式会社・代表取締役社長)は、さらに、このインド哲学の土台をもとにこう説明しています。
映画上演、劇場の視点で言えば、本質的に私は「出演者」ではない(あらず)し、
「観客」でもない(あらず)。
本来、私は人生というドラマの出演者ではないので悩みも不安も、苦悩もないし、滅することもない。
逆に言えば、私は、自分自身のリーダーとして、ドラマの観客でありながら、脚本家でもあるので、自分のこれからの人生を自由に描くことができるのです。
とんでもなくすばらしいことではないですか!
話は戻りますが、すべてのひとにコロナの自粛に意味があったかどうかは
それを測る共通のものさしが存在しないのでわからないでしょう。
社会全体で、ということばも、経済面、人間関係、法律など、見る方向によって
違う答えが出てきてもおかしくありません。
ただ、私に関して言えば、私が思う、私が考える、私が決める・・・というそもそもの「私」をじっくり考える非常に貴重な時間を得ることができたという面は、確かにあったということです。
ひとり一人が、静まって、「『感じる、思う、考える』自分とはすなわち、何者なのか?」を思うことなしにみんなでこれからの社会のありかた、暮らし方、学び方を考えてゆく上で、常に、相手の存在を尊重することなどできないのではないかと私は、このコロナ自粛を通じて思うのです。
コロナがあったから、これまで気づけないことに気づけた、これまで考えもしなかったことを考えられた・・・落ち着いて考えると、実は、失うものばかりではなかったのかも知れません。
~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり