Okinawa 沖縄 #2 Day 32 (18/07/20) 豊見城市 (17) Tera Hamlet 平良集落
平良集落 (たいら、テーラ)
- 平良グスク (タイラグスク、テーラグスク) (2019年10月1日に訪問)
- 未生の縁上演記念碑
- 平良グスク之御嶽
- ユダマグスク (2019年10月1日に訪問)
- デークガー (2019年10月1日に訪問)
- ウチヌカー (産川) (2019年10月1日に訪問)
- ノロ火之神、地頭火之神
- 赤嶺之根神井 (アカンミヌニーガンガー)
- 村屋 (ムラヤー)
- 中之御嶽 (殿)
- 拝所
- ヌル御墓
- ムラシーサー(2019年10月1日に訪問)
- トウドウルチガー (轟泉)(2019年10月1日に訪問)
- 金武之御井 (チンヌウカー)
- 金武御墓 (チンウハカ)
2019年10月1日に続いて、2020年7月14日と18日に、もう一度この平良集落を訪れる。前回見れなかった文化財を巡る。18日は途中で大雨になり、暫く雨宿りをするもの一向に止む気配は無い。少し雨足が弱った際に帰宅する事にした。全員ずぶ濡れ状態。
平良集落 (たいら、テーラ)
2019年10月1日は饒波集落を見学した後に字平良 (たいら、沖縄ではテーラ) に向かう。高安と饒波は標高60mにありここから一度下り、また上りとなる。今度は標高100mまで登った。目当ての平良グスク跡がある。
2019年末の人口は2,998人、世帯数は1,194。沖縄戦当時は小さな字であったが、戦後の人口増加は著しく、現在では中堅の字になっている。
殆ど丘陵のてっぺんまで登った所には隣接する様に二つのグスク跡がある。東の方に平良グスク (写真下) と西の方にユダマグスク (写真上)
平良グスク (タイラグスク、テーラグスク) (2019年10月1日に訪問)
平良グスクは、字平良集落の背後の標高109mの丘陵にある。西側は絶壁で、東側と南側は緩やかな斜面になっている。築城時期については不明だが、三山時代には平良按司 (たいらあじ) が居城したとされており、保栄茂城 (ビングスク) と同様に南山の出城的位置付で監視所や連絡所の機能で南山王国の第一防衛線であった豊見城や長嶺城との連絡中継をしたと考えられている。
未生の縁上演記念碑
保栄茂グスクとこの平良グスクの案内板に記載があるのだが、この二つのグスクは、田里朝直の作とされている組踊の「未生の縁」の舞台として知られている。この未生の縁がいつ頃作られたのかは不明だが、1756年に尚穆王の冊封式典余興「中秋の宴」として首里城内において上演されたとされていた。台本などは残っていなかったのだが、1988年に発見され、1997年に、241年ぶりに当地で再演された。この記念碑が平良グスクの麓にある豊見城総合公園が立っている。あらすじは
保栄茂按司と平良按司は、幼い頃からの友人で、お互いに子どもが生まれたら結婚させようと約束していた。やがて念願が叶い、保栄茂家には娘の玉の乙鶴、平良家には息子の鶴千代が誕生した。 しかし平良按司の妻は数年後に亡くなり、後妻との間に次男が誕生する。やがて成長した平良の若按司 (鶴千代) を疎ましく思った後妻は、平良の若按司に毒を盛り、失明寸前にし、八重瀬嶽の洞穴に捨てさせてしまう。その夜、玉の乙鶴は夢の中で信仰している観音様のお告げを聞き、八重瀬嶽の洞窟から平良の若按司を救い出し、保栄茂家で介抱し、全快の後、平良按司に再度婚姻を頼みに行き、平良按司は全てを知り、毒を持った後妻を追い出そうとするが、鶴千代と家臣の懇願で後妻を許し、鶴千代と玉の乙鶴の婚姻を祝う。
平良グスク之御嶽
前回このグスクを訪れた際にはこの御嶽は見当たらなかった。今回、たまたまアカンミヌニーガンガーを探したときに、グスクへの方向に伸びる山道があり、そこを登ると終点に広場があり、自然石が幾つも積まれていた。ここが平良グスク之御嶽だった。平良グスクと通じる道は現在ではなさそうだった。以前はあったのだろう。アカンミヌニーガンガーは見つからなかったのだが...
ユダマグスク (2019年10月1日に訪問)
ユダマは世玉 (よはから) 勾玉や宝や黄金に由来すると言われている。このグスクは居城ではなく、聖域として墓所であったと考えられている。自然岩の空洞に墓所らしきものがあった。
デークガー (2019年10月1日に訪問)
ウチヌカー (産川) (2019年10月1日に訪問)
ノロ火之神、地頭火之神
赤嶺之根神井 (アカンミヌニーガンガー)
村屋 (ムラヤー)
以前の村屋 (ムラヤー) は現在は公民館になっている。
中之御嶽 (殿)
公民館の敷地内に祠があり、火の神 (ヒヌカン) が祀られている。御嶽なのか殿なのかは不明だそうだ。
拝所
案内書のどこにも出てきていないのだが、公民館の向かいに拝所があった。
ヌル御墓 (2019年10月1日に訪問)
この場所は石垣で囲まれており、屋敷があった様にも見える。ノロ殿内 (ドゥンチ) であったかもしれない。平良のノロは新屋の女性が世襲しており 平良、高嶺、宜保の三つの集落の祭事を受け持っていた。平良ノロは琉球王朝から広いノロ地を拝領していたとあるのでやはりここではないかと思う。
敷地内には拝所がある。ノロを祀っているのだろうか?
ノロの御墓の近くにムラシーサーがある。石灰岩の岩の上に、穴だらけの石灰岩の石獅子がある。よく見ると、だんだんと輪郭がわかってくる。これが石獅子と言われないと、ただの岩にしか見えないだろう。岩山の下部は拝所になっていた。岩山の側面を石垣で覆っているようなので、中は墓になっているのかもしれない。実はこのシーサーは他の石獅子と異なり、全く加工されておらず、シーサーに見える自然石を据え付けてある。高安方面を向いているのだが、何故高安方面なのかは書かれていなかった。これは気になる。
トウドウルチガー (轟泉)(2019年10月1日に訪問)
琉球国由来記に平良泉となっている湧水の井戸で綺麗に整備されている。以前は水量が豊富でここから、公共施設に給水していた。高嶺集落にも簡易水道がひかれていたそうだ。
この轟井からの湧水が流れているのが轟川だ。現在は暗渠になっており、その上は遊歩道が整備されている。散歩には気持ちのいい所。結構長いのだがこの遊歩道を往復した。
金武之御井 (チンヌウカー)
集落がある丘陵から、豊見城を経て真玉橋経由で帰るのだが、もう二つ文化財がある。丘陵を下る坂に金武之御井 (チンヌウカー) があると金武御墓 (チンウハカ) だ。金武御墓グサイとしてこの二つはセットとして見ていたとも考えられる。
金武御墓 (チンウハカ)
金武之御井 (チンヌウカー) のすぐ近くに金武御墓 (チンウハカ)がある。 この金武 (チン) とはテーラシカマグチという人物で、沖縄では比較的知られている人だ。
琉球王国の尚寧王 (1564-1620年) の時代に、 浄土宗僧侶の袋中上人 (たいちゅうしょうにん 1552-1639年)が琉球に流れ着き、仏教に帰依した尚寧王の許可のもと、念仏を広めようとした。袋中上人の念仏を、琉球の言葉にして歌をつけたのが、ここに埋葬されていると伝わる平良の豪族のテーラシカマグチ (平良シカマロ) だ。この念仏が時宗の念仏踊りとなり、それを京都から来たといわれる京太郎 (チョンダラー) の集団が琉球各地を巡っているうちに、沖縄の芸能や習慣と結びつきエイサーになったという。それで、テーラシカマグチのエイサーへの貢献を記念して、字平良のテーラシカマグチの墓前で「しかまぐち祭り」として、エイサーを奉納をしているそうだ。
この平良グスクがある丘陵の斜面には、平良集落の有力門中の墓が多くある。そのなかに門 (ジョー) 門中、勝連 (カッチン) 門中の墓と書かれている。
質問事項
- 赤嶺之根神井 (アカンミヌニーガンガー) の場所
- 公民館の向かいにある拝所は?
- ノロ墓の場所はノロ殿内 (ドゥンチ) だったのか?
- 金武之御井 (チンヌウカー) と金武御墓 (チンウハカ) が金武御墓グサイと言われている理由は? ただ場所が近いだけか?この近くにテーラシカマグチの住居があったのか?
- 見つからなかった文化財の場所: 大島の殿、土帝君
参考文献
- 豊見城村史
- 豊見城村史 第二巻 民俗編
- 豊見城村史 第六巻 戦争編
豊見城村史
第18節 字平良
位置
平良は七号線道路の沿線にあって南東は道路をへだてて高嶺部落に接している。北には饒波高安があり、東は東風平村と接し、西は平良城をへだてて上田渡嘉敷がある。南は平良城に登れば深底原の盆地をへだて、保栄茂川をこして保栄茂城の後方に至る。
小波鮫村 (こはざめむら)
平良は昔平良村と小波鮫村とが合併してできたもので、小波鮫村については部落の変遷の所でのべたとおり、現在の轟井泉 (とどろきがー) の東方クンザ原 (カンザ原) にあって、平良部落では古島と称し、そこには上の殿 (又は古島の殿)、大烏の殿 (大島への遥拝所ともいう) があり、現在でも尊崇している。両部落の合併の時代は不明であるが、おそらく平良村に小波鮫村の人々が移動して来たものであろう。平良村の古い家は現在の平良部落の上村渠 (ういーんだかり) にあるので、現在の下村渠 (しちゃんだかり) の方にある旧家と称せられる家々、すなわち勝連、辻の前、宜保、上門、大城等は小波鮫から移った家々だと考えられる。
諸拝所
御嶽 現在尊崇している御嶽には平良城の御嶽 (城の東下にあり) と今の公民館の隣りの中の御嶽がある。由来記中平良村の御嶽にセジアラ獄と潮花嶽があるが、右の城の御獄と中の御嶽ではないかと考えられる。なお、中の御獄は小波鮫古島から移置したものが、部落全体に尊崇されたものだと思う。由来記中のフカソコ嶽は現在も平良城南西の深底原にあり崇拝されている。平良の嶽と平良巫火神があるが、現在大屋の上に地頭火の神とノ口火の神は並んで拝所ができている。平良の殿と中の御嶽は併置されているだろうと思われる。
拝所としての井泉に
大屋の根神井: 高頃吸小の後方にある。
内 (うち)の井: 内間世の井戸といわれ、新屋の側にある。
赤嶺の根神井: 赤横屋敷の近く、井戸の形がある。
デーク井: 七号線道路の側、タンク設備されている。
チンの井: 屋号新仲筋の下方にある。チン御墓(テーランカマグチ)との関連があるという。
轟井泉: この井泉は琉球国旧記にも平良井 (平良書) と記録されている。これは新屋が仕立てたものだといわれ、赤嶺と新屋小門中では旧四月に御拝がある。この泉から高嶺部落に簡易水道が敷かれていて、村役所、中学校、上田小学校にも水道が引かれている。
世立ち、地組、祖先
平良村の世立、地組については千草之巻に平良村出立初「平良世主の孫平良大主在所は平良大屋と云う」「百名世主の六男船越按司在所宜保と云う」としてある。地組始「豊見城按司の三男高江洲雲上在所座安と云う」「浦添按司の御子西平按司在所座神」としてある。
右平良世主とその孫平良大主については祖先宝鑑にもないようであるので現在のところ不明である。現在屋号大屋は廃家になり、その門中である川端が管理している。大屋は祖先宝鑑によれば昔玉城按司の裔孫とされている。
右百名世主の六男船越按司については祖先宝鑑にはない。
西平按司等について祖先宝鑑より系統図を示すと (為朝公系統図参照)
右の浦添按司については、
「在所は浦添牧港村根所平良という家なり。此の按司は牧港大主が家に留まって世を終る云々」とある。浦添按司の子西平按司については「豊見城饒波村に隠居す。後は同平良村の地組始められて、その村に住す」 とある。すなわち平良村の地組をした人である。
右高嶺按司については字高嶺の項を参照のこと。
祝女
祝女は昔は屋号門であり、若ノ口 (脇のろ) は屋号新屋であった。現在新屋がノ口家である。平良祝女の管轄は平良、高嶺、宜保である。
移民
平良部落は地形が高地にあるため農耕上不便であり、確かに東方轟井泉 (とどろき) の東クンザ原附近が坂がないだけである。それで明治年間から大正にかけてハワイ移民が多く出て、戦前は耕地の狭い割に移民送金によって経済的に思まれていた。本村では一番ハワイ移民の多い部落であった。
平良について
平良という部落についてはあるいは日本の平家の落武者の子孫ではないかと言う人もいる。これは研究すべき事項だと思われるので附記しておく。
平良ンカマグチについては第八章口碑伝説の項にあります。
参考として、千草之巻によれば「大里間切 (村) 平良村 (字) 地組始めは豊見城平良より来る平良主 (子) 在所」とされていることを記しておきます。