サーミとアイヌ(や)
今朝(13日の月曜日)、外から静かに雨音がするのでまどろみの中でゴロゴロしていて、そのうち寝返りをうって携帯電話をボーッと見始めた。すると、華々しくオープンし、知人も何人も「行きたい」と言っていて私もそう思っていた北海道の「ウポポイ」について反対運動があることを知った。そして施設の正式名称は「民族共生象徴施設」だということも。なんてグロテスクなんだ。朝の爽やかな気持ち(そりゃ雨は降っていたしそれほど爽やかでなかったにしても、それでも)は台無しになった。それに、リンクを辿って調べていくと、「ウポポイ」という名称自体が、北海道大学のアイヌ語の専門家から「アイヌ語じゃない」と指摘されていることがわかった。(北海道大学のアイヌ語の専門家というのは、もちろん普段から緻密かつ貴重なご研究をなさっているとは言え、北海道にアイヌの追悼・記念施設ができる際のネーミングにアドバイスをするのがいちばんの仕事であるように思うけれど、その人の異和表明が結果選定に影響を及ばさなかったのはどういうことなのだろうか。)
先住民を痛めつけて、その代償に作った施設の名称が、実はその先住民の言語っぽく作られた造語である。そのことは、1日中私に痛みとして付いて回って、珍しく真面目に仕事をしてしまった。トイレにすらほとんど立たなかったほどだったので、帰りはヘトヘトとなって、ただ家に向かって歩いている最中に、私の脳裏には鮮やかに去年のドイツのことが蘇ったのである。
出版社の版権担当、特に版権を取り扱うエージェントや、ヨーロッパやアメリカの少し大きな出版社であるのなら、世界中のブックフェアに参加するのが当たり前だ。年明けのロンドン、ボローニャ、ニューヨーク(ブックエキスポ)、北京、フランクフルト……。朝から夜まで15〜30分間隔のミーティングをこなし、夜は朝まで(!)飲み明かす。しかし、それも去年までの話だ。新型コロナによって大きなブックフェアは次々と中止になり、オンラインへと移行している。そう、新刊情報は普段からメールでやりとりしているし(特にフェアに来るような普段から翻訳書を出しているようなところは会社同士のつながりもあるし)、オンラインで済ませることができるのだ。でも、私はギリギリで、あの素晴らしい空間に身をおけたことを幸運だと思っている。たった1日だけだったけれども、去年、奨学金をもらってベルリンの語学学校に通っていた4週間の間に、私はICE(ドイツの「新幹線」)でフランクフルトに向かい、到着早々夜は踊り通し、朝は早くから様々な出版社や文化機関とミーティングをして、足が棒になるくらい会場内を歩き回り、いろんな人と喋って、いろんな本やカタログを手に取って、いろんな作家のトークを聞いた(憧れのラフィク・シャミが、目の前で新作の結論部を読み上げたところで感動のあまり卒倒しそうだった)。フランクフルト国際ブックフェア(ちなみに、自分でインターネットでチケットを買って個人で行ったのだ)。私の目の前には文化が広がっていた。こんなに楽しい場所が世界にあるなんて、と思った。夢みたいだった。
ブックフェアは、巨大なメッセを貸し切っているために、移動にはバスが運行されているほどなのだが、去年のホスト国はノルウェーだったのでメイン会場ではノルウェーの本の展示やイベントが行われていた。私はノルウェー文化普及財団とのミーティングがあったので、パビリオンへと向かった。
その場で目にしたことが、ちょうど今日(2020年7月13日)、突然に道を歩きながら蘇ってきたことである。
つまり、広い会場ではノルウェーの書籍や文化を紹介するイベントが絶えず複数箇所で行われていたのだけれども、その一部は「サーミ」の人々についての書籍の紹介だった。最初、会場内でよく見かける、青い、少しごわごわとした、襟元がカラフルな服を着た人々が、どこから来たのか分からず、あとで「ああ、サーミだ!」と思った。サーミの人々は、スカンディナビア半島北部に住む先住民でありながら差別され、圧政を敷かれていた歴史をもつ。映画「サーミの血」を見なきゃ見なきゃと思ってまだ見ていない(見なきゃ)。
そう、ノルウェーの文化や書籍を紹介するイベントで、その大きな部分はサーミの人たちが主役のものであった。そうしたステージが見えないような会場の隅っこで、私はノルウェー文化普及財団の担当者と「はじめまして」なんて挨拶をして、具体的な本の話をしていたのだけれども、ある時、はっとして、もう会話に集中できなくなった。
それは、ステージの方から聞こえてくる音、音楽、聞いたことのある音楽。
「……すみません、聞いたことのある音楽だったので。」
「ああ、気にしないで。伝統的な音楽ですよ。」
それは、一度聞いたことのあるアイヌのムックリの音、そのものだった。
その瞬間、私はまるで「ふるさとのなまり懐かし……」と言ってしまえば文化盗用になるけれども、自分がどこにいるのかわからなくなった。さらに、その音の中に、自分の帰属、というか、何か知っているもの、懐かしいものを感じたのである。
でも、私は、アイヌについて何も知らないので、「ウポポイ」と聞けば「アイヌ語だなあ」と思い、「オシャレだし行ってみたい」と思ってしまう。本当は、そこには、大学に埃をかぶって放置されていた、尊厳を踏みにじられたアイヌの方々の遺骨1574体と、ばらばらになった遺骨の入った346箱がおさめられている。
こんな目に遭ったのに、そして現在も差別があるのに、オリンピックの開会式で「はまらない」なんて理由でアイヌ舞踏は演出から外された。
ノルウェーが、フランクフルト国際ブックフェアのホスト国としてのイベントで、つまり自国の文化を紹介するオリンピックと並ぶほどの大きな機会において、重点を入れて紹介したのはサーミの文化だった。それは、必ずしも、例えばオスロの民族構成の比率そのものを反映しようとしたものではない。サーミの文化は、ノルウェーの文化の一部を占めている。サーミの文化はノルウェー文化の貴重な一部である。もちろんそれが全てではない。けれども、そこには価値がある。しかも一度は踏みにじってしまった文化を、ノルウェーはきちんと反省し、保護し、評価して、世界へと発信する。誇らしい自国の文化の一つとして。
それを、貴重な文化の一部を、「はまらない」なんて言って、「国」を体現するようなパフォーマンスから外してしまうなんていうことが、どうしてまかりとおるのだろう。しかも圧政をしてきた側がそんなことを言って。そこでまとまる日本なんて、欺瞞の共同体である。そんなものは、本当は存在しない。フランクフルト国際ブックフェア、いちばんのメイン会場で堂々と座って、かつ、文化について誇らしくプレゼンをしていたサーミの方々や、そのお話に耳を傾ける大勢の人々、そして、手が止まるほどにムックリと似ていたあの音楽を思い出して、おかしいことをおかしいと思える能力を身につけたいと思った。