天心ということ ~野口晴哉著「健康生活の原理」~
《野口晴哉著 健康生活の原理より》
天心ということ
活元運動も相互運動も、行うときに一番大切なことは、やり方ではありません。
「天心(てんしん)」であること、が根本です。
天心で欲のない、相手に何ら求めることもなく、恩を着せることもなく、ただ自然の動きに動く。そういう心の状態でやらなくてはならない。親切にしてやろうとか、やってあげる、受けているというような心があったり、自分の技術を誇るとかいう心でしてはならない。
活元運動も相互運動も自然の方法ですから、そのような雑念があっては出来ないのです。無心で、全くうまれたてのような天心でやらなくてはならない。
ちょっと油断すると、違ったものになってしまう怖れがある。みんなこれを二、三回やって、悪いところへピタッと手か行って、苦しみが急にとれた、などとお礼でも言われると、「俺がやれば何でも治せる」などと思ってしまうのてす。
けれども、そういう自信をもってしまうこともいけないのです。どこまでも謙虚に、ただ本能の働きだけに任せて行なう。知識ではない、生命の知恵に任せきった無心だけが、相互運動を成し得るのです。「苦しそうだ。親切にしてあげよう」と思うことさえ、余分で邪魔になるのです。受けるとか、やるとかの区別もなくなった同じ立場でなければいけないのです。
「心を空っぽにすることは難しい、無心になろうとすると、あとからあとから雑念が湧いてくるのですが…」と質問した人がありました。けれども雑念があとからあとから湧いてくるときは無心なのです。
心が澄んできたから、雑念があとからあとから出ては消えるのがわかるようになったといえる。雑念が心から離れないで、次の雑念を生み出すようだといけないのです。だから浮かんでは消える雑念のまま、手を当てていれば動き出してくるし、動き出せばひとりでに雑念がなくなって、統一状態になります。
そうやって心が統一すると普段できないことも出来るようになります。愉気というのはそういう心を統一することなのです。気を集めて心を一つにすることが出来れば、愉気は出来ます。
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「月刊 全生」より
野口晴哉先生の書。