「全生」の生活 ~野口晴哉先生語録~
《野口晴哉語録より》
「全生」の生活
前文略
「全生」の生活は裡(うち)の要求や感じを感ずることの出来る心に、いつも生きていることである。
それ故「全生」の生活に入るためには、裡の感じを乱し要求を見失わせる一切のものを捨て去るということが先ず重要である。
どんなものがその捨てねばならぬものかといえば、老病死の不安、楽苦好き嫌いの囚われ、それよりもっと人間の心の自由を粘着させる物欲名誉欲、又その対象に対する価値観、これらを捨てて心が静かになれば、自ずと裡の要求が心に映る。
これが欲しいとか、もっと偉く見られたいとか、心が騒いでいては、裡に動く自然の要求は判らない。しかし判らないから無いのではない。
その息が調い、その心が静かになれば、誰でも感ずる。この裡の要求を感ずるということから「全生」の生活は出発する。これを本能の衝動を実行することだと解することは間違いである。
しかし心を静かにするとか、老病死の不安を無くすとか、楽苦好嫌を捨てるとか、又価値観を打破するとかいうことは、口でいうほど易しいものではない。
何故かというと、心の奥底に迄こびりついて、頭の中で捨てたつもりでも、心の底では活き活き生きているからである。それ故心にこびりついているこれらのものを精算することがまず必要となる。
人間は始めからこういうものをこびりつかせていたのではないが、一旦こびりつくとこれを捨てることは難しい。昔から大勢の人がこのために悩み苦しんだが、それに成功した人は稀だった。
何故稀だったのかというと、昔の人は心と体を二つのものに分け、心のうちでも手と足にしか支配力の及ばぬ意思という働きで、こういうことの処理をしようとしていたからである。
恥ずかしくて赤くなったその顔すら、意思でその赤さを静めることは出来ない。然るに意思の鍛練によって為すつもりになって、意思で感情を制御しようとしたが、感情というものは抑えるほど高まる。
怒りを抑えていると、他人の笑い声に迄腹が立ちイライラする。悲しさを抑えていれば、月を見ても花が散っても泪が出てくる。
感情を抑制すれは消滅するつもりでいたことが、昔の人が感情に悩まされた理由だ。しかも感情というものは高まりのあとは執着に変じ易く、執着に変ずる背後には性欲の昇華という生理的問題がある。
心と体は二つではない。生きているというはたらきの現れであって、半分ずつが寄り合って一つになるものでもない。
空腹が怒りっぽくしたり、物が欲しくなるようにしたり、不安を誘ったりすることなど珍しいことではない。
人間の構造とでもいうか、生命とでもいうか、そういうことに無理解のまま、ただ心のことは心によってと考えていたことが、心のこびりつきを捨てることに成功した人が稀だった理由と思われる。
昔の人は苦しみ努めて尚難しかったが、それは苦しみ努めたために他ならない。苦しさに耐え又努力することより、楽々歩む道を見つけ出すことの方がより良い。
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by Hitomi スマホ