愉気のあり方 ~野口裕介先生(ロイ先生)講義録~
≪野口裕介(ロイ先生)講義録より≫
愉気のあり方
気を一つに統一し、集中していく。その気を相手に輸っていくことを「愉気」と呼んでいます。
元来、愉気は「輸気」という字を当てていました。気を輸(おく)るということなのですが、昭和四十年代から「輸」という字を、りっしんべんの「愉」に替えたのです。
輸というのは輸送とか運輸とか、他のところへ運ぶという意味で、例えば輸血というと、血が足りないから補うというような意味になってしまう。気が足りないから気を足すという感じに受け取られると嫌だということで、りっしんべんの愉に替えられたわけです。
愉というのは愉快とか愉悦という言葉があるように、愉快な気持ちを輸るというように解釈を変えていったわけです。
愉しい気というのは、ちょうど障子越しの日の光りのようなもので、何か光源がハッキリしない。それでいてボオッと周りを明るく優しく包み込むような感じがある。そういうものに包まれているような状態を愉気というのです。
愉気というのは或る意味では活元運動と同じように大変本能的な野性的なことです。文明の発達した今は、野性的だということは劣ることだったり、悪いことのような意味にとられていて、野性的なことを排除するような傾向にありますけれども、果たしてそうなのだろうか。
その野生がなくなってきて、却って今は変な世の中になってしまっているのではないだろうか。
私は最近のニュースなどを見ているとつくづくそう思ってしまうのです。そういうニュースをあえて囃し立てるように取り上げているのかもしれないのですが、親が子供を虐待し、挙げ句の果てに殺してしまうというニュースが毎日のように報道されています。
しかし、このことは、人間が野性的だからそういうことをするのだろうかというと、そうではないのです。
野生の感覚というのはその逆で、本能的な感覚がきちんと育っていれば、そういうことは決して起こらないのです。
動物園の中で育って野生を失っている動物にはそういうことがあるそうですが、野生の状態ではそれがないのです。
中略
最も野性的な、本能的な行為の一つである愉気という手を当てるということは、実にシンプルなものですね。
けれども不思議にこうやって手をジーッと当てられていると、何か自分の心の中で波立っていたり、ザワザワしたりしていたものが、自然に静まってきたり、落ちついてきたりするということは珍しいことではない。野性的な心の動きといぅものがちゃんとその中に働いているのです。
写真
by Hitomi デジカメ