対話の要求 ~野口晴哉先生講義録~
《野口晴哉講義録より》
対話の要求
前文略
お腹の中にいる赤ちゃんに、「お前は男か」と訊くのです。そして、「イエスならトントン、ノーならトンとやりなさい」と言っておくと、本当にそうやって返事をするのです。
非常に明確で、私にとってはこれくらい素直な返事はないと思うのです。
私の息子が結婚しまして、子供ができた時に男が欲しかったそうなのですが「お前は男か」と訊いたら、トンとやったそうなのです。要するにノーと言ったわけです。しかし男でなくてはならないと思っていましたから、トンと言っても不承知なのですね。だから、きっと聞き間違いだなどと言って、子供の方がとっくに答えてるのにまた訊くのです。
そして今度は「お前は女か」と訊くと、トントンとやる。そうするといよいよ女だということになって、余計に不満なのです。だからまた訊くのです。五、六回やったらとうとう子供が答えなくなったそうです。
それで今度はお嫁さんの方がやったら、三つやったり四つやったり、トントントン、トントンなどとやるのでわけがわからない。それは赤ちゃんがもう親に呆れてしまって、大人というのは惑い多きものだ、だから言っても無駄だ。というわけでトントントントンになってしまって、答えを言わなくなったのだろうと思うのです。
私が触った時には女だと言ったのです。それで女が生まれているのです。私は二度は訊かなかった。ひどいのは毎日訊いている親がいるのです。そうすると答えなくなってしまうのです。
大人だって相手が何を言ってもわからない人だったら、途中で見捨てちゃって、しまいにはウンウン、ウン、というような、否定でも肯定でもないような頷きをして、心のなかではお前はバカだと思い込んでいる場合があるように、お腹にいる赤ちゃんだって同じなのです。
要するに、言っている方が、ともかく自分の意思を通すこと以外に相手の意向を聞こういう考えがなければ、そのうち相手の方が答えなくなってくるし、返事が明瞭でなくなってしまう。しかし、明瞭でないということは明瞭でないという意思表示なのです。
ですから、人間の答えの中には、イエスとノーしかないのではなくて、イエスにもノーにもならない途中があるということなのです。
そのどちらともつかないことを、イエスとかノーという言葉で表現するものがあるのです。だからその人の言葉の背後にある心を知るにはやはり体の動きで観ないことにはわからないのです。
人間は心が集中すれば体が緊まるし、心が離れれば弛むのです。そういうように呼吸と体の緊張弛緩とは揃っているのです。だから相手の言った言葉だけを訊くのではなくて、その言葉の速度であったり、呼吸であったり、体の緊張状態を観ていくことが対話ということにおいては大変大事なのです。
中略
そのように、見えないものを見ていくというのは非常に難しいけれども、本当はみんな見えるのです。見えるからあの人は急に女らしくなったとかいうことが分かるのです。
みんな人形と人間とでは大抵区分がつきますね。マネキン人形を見て、あっ女性店員かと思ったという人は少ないのです。やはり生きているものには生きている気があるものです。
暗闇の中で、誰かがスッと入ってきても分かるものなのです。誰かが隠れていても、物が置いてあるのとでは違った気配を感じるのです。
自分の心がいろんな雑念でゴタゴタしていては分からないけれども、そうでなければスッと感じるはずなのです。そういう気配を感じる心でスーッと人に会わないと、相手のことは分からないのです。
写真
by Hitomi スマホ