~野口晴哉先生語録~
《野口晴哉語録より》
人間は死ぬ。人間がこの世に生じて七千万年、誰も死んだ。死ななかった人間は一人もいない。それ故これからも、誰も死ぬ。そのありふれた死ぬということを、人は何故恐れるのだろうか。疲れた者が眠る如く、安らかな楽な気持ちで死ねないものか。
人が誰も死ぬと決まっていれば、十年生きたということは、十年死んだということになる。生くるということと、死ぬということはくっついている。
生きている中には死に至る要素が半分を占めている。新陳代謝ということや体の中の問題だけではない。丁寧にしらべれば、誰のうちにも死に至る道筋がある。
だから半分以上の死の道があったとて当然なことで、病気視して騒ぎたてることはない。病気がなくとも死ぬのである。死ななかった人間はかつて一人もいなかったのである。
死につつある生きている現実を見つめて、体の生活法を考えることが人の智慧というものである。
精密検査をして何ともなくて死んだ人は沢山ある。しかも死に至る病をもって生きている人も沢山にある。
体の中に死に至る原因のあることは誰も同じだ。癌だけではない、脳溢血だけではない、肝硬変だけではない、その息している中にも死に近づいているはたらきがある。生死一如と言葉で判っても、実感として感じないのが生の魔術だ。
体が鈍れば少しのことに反応を示さない。体質反応が鈍ければ風邪もひかない。だから頑健のつもりでいる。死が近づけば鈍るのだ。だから死の間際まで自分が死ぬということは誰も考えないでいられるのだ。しかし、心を静めて感ずれば誰にも判る。
他の動物は皆感じているのに、人間は頭で考えるから感じられない。頭で生きているから体の鈍りに気がつかない。気がつかないだけではない。自らその鈍りを招いているのだ。
喘息の発作をとめるために、痛みを鎮めるために、発作を抑えるためにと、体を鈍くしているのである。
しかしこれらは死の道である。死というと可笑しいが、体を鈍くし、異常があるのに異常を感ぜず、異常に反応して体のはたらきをおこすことが出来ず、安楽であるべき死を苦しんでいるのである。
死の苦しみは無い。苦しいのは性能力があるのに死ななければならないからである。死は全体の麻痺である。快楽であるべきである。
だから死ぬのは楽だが、殺されるのは苦しいのである。苦しいというのは生きているからである。
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by Hitomi スマホ