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松浦信孝の読書帳

無能力仕事論。

2020.07.18 00:21

社会人になって3年になる。


基本的に僕は、仕事が得意ではない。気も利かなければ、些細なミスも繰り返す。


何かしようと思い立つ反面、余計なことをしてと叱られた記憶が蘇り、動きが止まる。


マニュアルで育っているせいか、何をするにも教科書的なものがあった方が安心する。


明文化されていない仕事は苦手である。そういう所がある。


働き始めて、一番やっておけば良かったと思った経験は、実はアルバイトであった。


学生時代の実習から、バイト経験のある同級生は見事に仕事を覚え、学生の身ながら素晴らしい活躍をしていた。点数ではどうにもならない、仕事人としての価値があることを、ひたすら思い知った。


反面自分はその経験がないから、教科書や授業で習ったことをベースに、理屈で状況を分析し、理論の上で処置の流れをイメージして、準備をする。しかしアドリブには弱い。劣等感の塊のような日々を送っていた。


勉強が得意、というよりも物事の解決策をそれしか持っていないから、知らないことは出来ない。

一通り地雷を踏んでようやく学んでから出来るようになっていく。不器用極まりないが、それが自分である。


一つ一つの手技も、自分できちんと言語化できないと、出来るようにはならない。自分が料理を好きなのは、レシピという歴とした工程表が存在するからだろう。


先日、岡山から東京に最近引っ越してきた哲学の先生で、美作大学元准教授の岡村健太先生と知り合った。


岡村先生から、彼独自の「百聞は一見に如かず理論」という話を聞いて、合点がいった。


百聞は一見に如かず、という言葉を残せるのは、その一見に出会ったときに、百聞を知っている人間だけである。


すなわち、物事を見る人間に豊富な知識がなくては、その体験の価値は判定できないというものだった。


そうか、これが自分の戦い方だったか。

恥ずかしいことではあるが、卒業してからというもの、国家資格を得るためだけに勉強していたのがなんだか馬鹿馬鹿しく感じられてしまって、卒後の勉強にどこか身が入らない日々を送っていた。


学生時代は、臨床の現場を見据えた勉強じゃないと意味がない、と豪語していたのにもかかわらず、である。


専門書や論文を読んでも、自分の血肉になっていかない感覚が続いた。自分の中で机上の空論を積み上げることと、臨床での課題を解決することが繋がる感覚が腑に落ちていなかったからだ。


現場で膨大な経験を積んでも、とりあえず仕事は出来るようになる。では学問の意味とはどこにあるのか。


その疑問が、「百聞は一見に如かず理論」を聞いて氷解した。


自分みたいな人間は、ひたすら知ることでしかこの悩みは解決し得ないのだ、ということを。




この課題、自分の中でまだまだ深まる余地みたいなものを感じている。


まだ仕事が出来るようには全然なっていないからだ。


頭でっかち人間が仕事の場で結果を出すために足掻く爪痕を、今後も残していきたい。