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二百十日

2020.07.18 15:05

https://blog.goo.ne.jp/mitunori_n/e/f072db8b4c7d553552c5c94ea74e24c3  【第二回「二百十日」俳句大会レポート】 より

平成30年9月1日(土)、漱石の阿蘇を舞台とした小説『』を記念した第二回「二百十日」俳句大会が阿蘇内牧の山王閣において開催された。主催は「二百十日」俳句大会実行員会。昨年をこえる74名、計262句の投句があった。台湾からの投句もあり、俳句の国際化も身近に感じることとなった。俳句大会では講話と表彰式が行われた。

まず俳人協会幹事・俳句大学学長の永田満徳氏(「未来図」同人)が「漱石俳句のレトリック」と題して講話を行った。漱石が熊本時代に詠んだ千句あまりの俳句は「写生」「季語」「取合せ」「省略」「比喩」「擬人化」はもとより、「連想」「空想」「デフォルメ」「同化」などのあらゆるレトリックを使い、幅広い俳句世界を自分のものとしている。近年、熊本の小天を舞台にした小説『草枕』が注目を浴びているのは自由な小説の世界を構築しているからである。レトリックを駆使した漱石俳句も技巧的と否定することなく、現代の俳人もレトリックを多彩に使って、もっと自由に詠んでいいのではないか。私自身、漱石が言った「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」に倣って詠んでいきたいし、漱石俳句の特色を取り入れて、自由に作句してもらいたいものだと語った。

 表彰に続いて選者の永田満徳氏が講評を行った。大会大賞の「源流は阿蘇の山々田代掻く 朝倉一敬」については阿蘇の伏流水を引いて行う田代掻くという表現に阿蘇の豊かな恵みへの感謝が表明されている。阿蘇市長賞の「カルデラにころがり落ちしはたたがみ 古荘浩子」はカルデラだからこそころがり落ちるという擬人化が成功している。阿蘇ジオパークガイド協会賞の「行けど萩京大火山研究所 若松節子」は上五が「行けど萩行けど薄の原広し」という漱石の俳句を下敷きにしていて、阿蘇の建物との意外な取り合わせに心惹かれる。熊本県俳句協会賞は「ひと心地ついて宇奈利の阿蘇訛 藤井蘭西」は阿蘇の御田祭になくてはならぬ白装束の女性の宇奈利を地元ならではの季語として取り上げ、行事を終えた後の安堵感を阿蘇訛に表現している。月刊「俳句界」文學の森賞の「余生なる阿蘇は相棒雲の峰 牛村蘇山」は残りの人生を阿蘇とともに豊かに送ろうとする人とその希望が雲の峰に象徴されている。

[選者賞]永田満徳 選

特選

源流は阿蘇の山々田代掻く

          朝倉 一敬

〔秀逸〕

余生なる阿蘇は相棒雲の峰

          牛村 蘇山

カルデラにころがり落ちしはたたがみ       

古荘 浩子

行けど萩京大火山研究所

若松 節子

ひと心地ついて宇奈利の阿蘇訛       

藤井 蘭西

〔佳作〕

阿蘇を背に一歩も退かぬ兜虫       

山田 節子

鮎を焼く父の荒塩化粧塩

中上ひろし

阿蘇の子の笑みころころと猫じやらし       

菅野 隆明

雨垂れがバケツ打ちゐる震災忌       

岡山 裕美

阿蘇谷の青田のそよぎ身ぬちまで       

松下美奈子

中・高・根子・烏帽子・杵島の岳淑気       

和田 信裕

夕映を畳む山襞阿蘇は秋

西田 典子

天涯に二百十日の二人旅

坂本 節子

帆のごとくわが白シャツや草千里       

加藤いろは

きちきちを飛ばして進む草千里       

洪  郁芬

漱石は熊本にいた4年3ヶ月の間に実に多くの体験をした。私的には結婚し長女をもうけたこと、五高教師としての仕事のかたわら俳句を千句あまりも詠んだこと、そして熊本や九州の各地を旅してまわったことなど。

明治32年の夏、第五高等学校の同僚の山川信次郎とともに内牧に泊まり、阿蘇神社に参拝し、阿蘇中岳登山を試みた。その旅そのままを詠んだ俳句が残っている。

朝寒み白木の宮に詣でけり

鳥も飛ばず二百十日の鳴子かな

灰に濡れて立つや薄と萩の中

漱石が日本文学に残した足跡は言うまでもないが、熊本での体験を俳句や小説に書いたことに地元の者として感謝と誇りをおぼえる。


https://ameblo.jp/sadamood-374/entry-12514704950.html  

【夏目漱石の『二百十日』を読む】  より

明治39年(1906)10月の「中央公論」に発表した『二百十日』は『草枕』と『虞美人草』の間に書かれた中編小説です。いま私が読んでいる新潮文庫には翌年の1月に「ホトトギス」に掲載された『野分』も入っていて、漱石の世の中に対する批評精神がふんだんに含まれた作品です。

私は読みかけて放っておいた山積された本のなかから見つけ出しました。書き出しは『虞美人草』に似てふたりの男の漫才のような会話から始まります。いや全篇会話文といって良いのかもしれません。

圭さんという豆腐屋の息子に碌さんという友人の掛け合い漫才です。圭さんは華族や金持ちが鼻もちならないと不満です。入道のような坊主頭で体格の良い圭さんに比べ碌さんは小柄で余り体力もなさそうな男でした。このふたりが阿蘇山に登る設定になっています。憤煙たなびく阿蘇へ登るという無謀さは当時は許されていたのでしょうか。

いままさに箱根山の火山性地震が騒がれている最中です。御岳山の事もあり警戒が厳重です。夏の行楽シーズンを懸念して箱根町や温泉街は風評被害を訴えていますが人命には変えられません。しかし圭さん碌さんの登ろうとしている阿蘇はそれ以上です。火山灰が麓の「馬車宿」(粗末な旅館)まで届いています。それもふたりが山に登ろうとしている時期が二百十日で(9月1日は1年で1番台風来る頃と言われていて)最悪の事態に想定されています。きっと今でしたら登山禁止になっているでしょう。

やはりふたりは雨に降られます。風も出てきて大降りになりました。碌さんは足に豆ができて歩けません。「よな」(火山灰の事で熊本弁でしょうか?)でふたりの着ているものが真っ黒になってきました。噴火口真近に来て道に迷います。圭さんは碌さんを待たせて道を探し始めるのですが谷間に落ちてしまいます。今度は碌さんが着物の兵児帯をといて圭さんを助け出そうとします。滑稽ですがこの部分なかなかスリルがあります。講談好きの漱石ならではの描写です。

無事ふたりは宿に戻りますが圭さんは翌日また阿蘇へ登ろうというのです。

圭さんが言います。「我々が世の中に生活している第一の目的は、こういう文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるにあるだろう」

すると碌さんは「ある。うん、あるよ」と答えます。

「あると思うなら、僕と一所にやれ」

「うん。やる」

「きっとやるだろうね。いいか」

「きっとやる」

「それでともかくも阿蘇へ登ろう」

「うん、ともかくも阿蘇へ登るのがよかろう」

二人の頭の上では二百十日の阿蘇が轟々と百年の不平を限りなき碧空に吐きだしている。

とこの小説は結んでいます。当時マルクス主義も騒がれ始めていまいた。阿蘇を「文明の怪獣」に見立て漱石はブルジョワを「華族や金持ち」と評しています。そして滑稽と揶揄で世の中を批判しています。『吾輩は猫である』をより進ませた小説といえるでしょう。まるで落語仕立ての文明批評です。

この作品を読んでいて不思議に思ったのはまだ世の中が大らかだったことです。このふたりが二百十日の最悪と思われる日に阿蘇に登ろうといっていても宿の女中さんは止めることをしません。

「御山が少し荒れておりますたい」

「荒れると烈しく鳴るのかね」

「ねえ、そうしてよなが沢山に降って参りますたい」

「よなた何だい」

「灰で御座りまっす」

下女は障子をあけて、椽側へ人指しゆびを擦りつけながら、

「御覧なりまっせ」と黒い指先を出す。

「成程、始終降っているんだ。きのうは、こんなんじゃなかったね」と圭さんが感心する。

「ねえ。少し御山が荒れておりますたい」

この無謀なふたりの話を聞きながらも女中さんは止めようともしません。

彼女の盛んに口にする「ねえ」という言葉は「はい」という返答です。熊本の高等学校で教鞭をとっていた漱石は熟知していたのです。さらに大らかな熊本のひとたちの性格も知っていたのでしょう。

私は「ねえ」という女中さんを気に入りました。彼女にしてみたら東京から来た奇妙な男ふたりに戸惑いはしたものの気まぐれなお客としてしか見ていません。ビールを所望されると「恵比寿」ならあると言います。「半熟玉子」を頼まれれば「生卵」と「うで卵」を持ってきます。「半熟玉子」の作り方も知らないのです。でもそこには擦れていない田舎の大らかさがあって圭さん碌さんも少しも不快な思いはしていません。

もちろんこれは漱石の創作です。リアルに世評を語るのではなくユーモアを織り交ぜながらシニカルに語ります。いま文学に不足しているものを現代の作家は見落としています。政治批判はしていてもその本質を語り得ないひとばかりです。ペンを持ちながらも自分のことしか考えていないからです。

この『二百十日』を書いていた当時の漱石は教職を棄て、「朝日新聞」に入り、文筆活動にはいる寸前であったと思います。落語や講談が持て囃された時代でもありました。そこには庶民が求めた健全な娯楽があります。そして漱石もまたこうしたテンターテイメントを目指して書き始めたことが分かります。現代の文学はいまこうしたエンターテイメントを理解できずに困惑しています。