文学散歩 夏目漱石『二百十日』を歩く
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夏目漱石『二百十日』を歩く】
明治32年(1899)8月29日~9月2日、夏目漱石は、第一高等学校へ転任する同僚の山川信次郎の送別を兼ねて二人で阿蘇をおとずれた。
8月29日戸下温泉、8月30~31日内牧温泉に宿泊する。
9月1日、阿蘇神社に詣で、阿蘇山へ登ったが二百十日の嵐に遭い道に迷って登山は失敗する。その夜は、立野の馬車宿に泊まっている。
この時の体験をもとに、『二百十日』を明治39年(1906)10月に発表している。
ぶらりと両手を垂さげたまま、圭けいさんがどこからか帰って来る。
「どこへ行ったね」
「ちょっと、町を歩行あるいて来た」
「何か観みるものがあるかい」
「寺が一軒あった」
「それから」
「銀杏いちょうの樹きが一本、門前もんぜんにあった」
「それから」
「銀杏いちょうの樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常に細長い寺だった」
「這入はいって見たかい」
「やめて来た」
「そのほかに何もないかね」
「別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」
「そうさ、人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか」
これは、小説『二百十日』の書き出しである。
内牧にあるこの寺は明行寺(みょうこうじ)をモデルにしたものであるが、今の明行寺は門からすぐに本堂で、細長い寺ではない。
明行寺の門前には二百十日文学碑と句碑。
白萩の露をこぼすや温泉の流(ゆのながれ)
境内のイチョウは樹齢300年以上、阿蘇市指定天然記念物。
漱石が内牧で泊まったのは養神亭、現在はホテル山王閣となっている。山王閣から明行寺までは800mくらいだろうか。
山王閣には、漱石が泊まった部屋が漱石記念館として保存されている。
ホテルの受付で許可を得て庭に出ると、漱石の胸像があり台座に句が刻まれている。その向こうに2階建ての記念館がある。
ホテル山王閣。
夏目漱石胸像。行けど萩ゆけどすすきの原広し
漱石が停まったとされる2階の部屋。
1階の茶室。
内牧付近から見た阿蘇山。
「噴火口は実際猛烈なものだろうな。何でも、沢庵石たくあんいしのような岩が真赤になって、空の中へ吹き出すそうだぜ。
それが三四町四方一面に吹き出すのだから壮さかんに違ない。――あしたは早く起きなくっちゃ、いけないよ」
「うん、起きる事は起きるが山へかかってから、あんなに早く歩行あるいちゃ、御免だ」と碌さんはすぐ予防線を張った。
「ともかくも六時に起きて……」
「六時に起きる?」
「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に阿蘇神社あそじんじゃへ参詣さんけいして、
十二時から登るのだ」
「へえ、誰が」
「僕と君がさ」
「何だか君一人ひとりで登るようだぜ」
「なに構わない」
「ありがたい仕合せだ。まるで御供おとものようだね」
きのうの澄み切った空に引き易かえて、今朝宿を立つ時からの霧模様きりもようには少し掛念けねんもあったが、晴れさえすればと、好い加減な事を頼みにして、とうとう阿蘇あその社やしろまでは漕こぎつけた。白木しらきの宮に禰宜ねぎの鳴らす柏手かしわでが、森閑しんかんと立つ杉の梢こずえに響いた時、見上げる空から、ぽつりと何やら額ひたいに落ちた。饂飩うどんを煮る湯気が障子の破れから、吹いて、白く右へ靡なびいた頃から、午過ひるすぎは雨かなとも思われた。
阿蘇神社。
「おいこれから曲がっていよいよ登るんだろう」と圭けいさんが振り返る。
「ここを曲がるかね」
「何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を這入はいらずに左へ廻れと教えたぜ」
「饂飩屋うどんやの爺じいさんがか」と碌ろくさんはしきりに胸を撫なで廻す。
「そうさ」
「あの爺さんが、何を云うか分ったもんじゃない」
「なぜ」
「なぜって、世の中に商売もあろうに、饂飩屋になるなんて、第一それからが不了簡ふりょうけんだ」
「饂飩屋だって正業だ。金を積んで、貧乏人を圧迫するのを道楽にするような人間より遥はるかに尊たっといさ」
「尊といかも知れないが、どうも饂飩屋は性しょうに合わない。――しかし、とうとう饂飩を食わせられた今となって見ると、
いくら饂飩屋の亭主を恨うらんでも後あとの祭まつりだから、まあ、我慢して、ここから曲がってやろう」
「石段は見えるが、あれが寺かなあ、本堂も何もないぜ」
「阿蘇あその火で焼けちまったんだろう。だから云わない事じゃない。――おい天気が少々剣呑けんのんになって来たぜ」
ここに出て来る寺は、東登山道(坊中線)の登り口付近にある西厳殿寺(さいがんぜんじ)とされている。
内牧から阿蘇山を目ざすと、阿蘇神社、西厳殿寺の順になるはずであるが、『二百十日』では、阿蘇神社の前にこの記述がる。
この当時も本堂がないと記述されているが、2001年までは本堂があり、2001年の火災で焼失した。
『二百十日』はあくまでも小説であり事実とは異なる点があるとは思うが、どうもすっきりしない。
西厳殿寺中小路門。門のむこうに石段が見える。
西厳殿寺のイチョウは、樹齢300年、阿蘇市指定天然記念物。
西厳殿寺の北西300mくらいのところにある長善坊のイチョウ。
樹齢400年以上、阿蘇市指定天然記念物。
薄の高さは、腰を没するほどに延びて、左右から、幅、尺足らずの路を蔽おおうている。身を横にしても、草に触れずに進む訳わけには行かぬ。触れれば雨に濡ぬれた灰がつく。圭さんも碌さんも、白地の浴衣ゆかたに、白の股引ももひきに、足袋たびと脚絆きゃはんだけを紺こんにして、濡れた薄をがさつかせて行く。腰から下はどぶ鼠ねずみのように染まった。腰から上といえども、降る雨に誘われて着く、よなを、一面に浴びたから、ほとんど下水へ落ち込んだと同様の始末である。
たださえ、うねり、くねっている路だから、草がなくっても、どこへどう続いているか見極みきわめのつくものではない。草をかぶればなおさらである。地に残る馬の足跡さえ、ようやく見つけたくらいだから、あとの始末は無論天に任せて、あるいていると云わねばならぬ。
漱石たちは、二百十日の嵐に遭い、阿蘇山3合目で道に迷う。上の文章は、その時の体験をもとに書かれたものであろう。
迷ったとされる地点は坊中キャンプ場の入口付近で、東登山道に夏目漱石「二百十日」記念碑という標識が出ている。
小説二百十日道跡案内という石碑があり、細い草道を150mほど
行くと文学碑があり、途中に歌碑がある。
草道の途中、右手の藪の中にある歌碑。
赤き烟 黒き烟の二柱 真直に立つ 秋の大空
句碑と小説二百十日文学碑。
灰に濡れて立つや薄と萩の中 行けど萩ゆけどすすきの原広し
道の尽きるところに、もうひとつ大きな文学碑。
東登山道から見た火口原と外輪山。正面が内牧温泉あたり。外輪山の後方の山は、上津江町の尾ノ岳(1041m)だろうか。