大和神社(大和坐大国魂神社)
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大和(大倭)とはどこか?
●大和大国魂神
磯城瑞籬宮→市磯邑(桜井市穴師・箸中付近か)→現,大和神社鎮座地(天理市)
『日本書紀』の崇神天皇条と垂仁天皇25年3月10日条に倭大国魂神に関する記事が掲載されています。それによれば、穴磯邑(あなしのむら)に定めて大市の長岡岬に渟名城(ぬなき)稚姫(わかひめ)命(みこと)に祀らせたとあります。千田さんの話では穴磯とは今では穴師という地名が残っていますが、巻向山を源流とする纏向川のほとりを指します。長岡岬とは現在の長岳寺が存在するあたりは昔、長岡村とよばれていたそうです。岬とは ミ+サキ=神のとりつく先という意味。
大市は城上郡(しきの かみぐん)大市郷ですから現在の箸墓のある場所付近を指します。ですから穴磯邑とは邑=都 随分と大きな地域を指していた事になります。長岳寺と穴師の距離は南北3㌔、そして箸墓も含みますから桜井市穴師から天理市柳本町の長岳寺を含み尚且つ、大都市を示す大市の箸墓付近も含む広大な地域を指していたと考えられる。
・穴磯こそ「おおやまと」
穴磯に倭大国魂神が祭祀されたという事はこの場所が巻向山から流れ出る纏向川により形成された扇状地というか、幾筋も流れる纏向川の川に挟まれた聖なる場所です。
大倭 (おおやまと)とは三輪山とは関係が薄く、その北側に連なる山々、とりわけ巻向山と纒向遺跡を中心とするエリアか
当然、市磯長尾市(大和大国魂命を祭った倭氏)も、この辺りに住んでいたのではないかと
巻向遺跡は、やはり倭氏の一族が造ったか。
倭氏の初代(神武の頃)は椎根津彦です。
大和坐大国魂神社 (通称:大和神社)
奈良県天理市新泉町星山
日本大国魂大神・八千戈大神・御年大神
名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社。
淡路の大和大国魂神社のほうは、これに素盞嗚尊、大己貴命、土御祖神の三神が加わる。大己貴命は出雲神だし、土御祖神は聞きなれない神名だが、豊受大神宮(伊勢の外宮)の別宮として知られている。(土宮の祭神:大土乃御祖神)
古事記に見る淡路島
古事記中巻二安寧天皇
師木津日子の命の御子二王ます。一の子孫は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置が祖なり。 一の子の和知都美の命は、淡道の御井の宮にましき。かれこの王、女二ましき。兄の名は蠅伊呂泥。またの名は意富夜麻登久邇阿礼比売の命、弟の名は蠅伊呂杼なり。
大和神社(オオヤマト)。
※創建由緒
「当神社の主神は、日本の全国土の大地主大神(オオトコヌシ)で、第5代孝昭天皇の年、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第10代崇神天皇6年、天照大神を皇女豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)につけて倭の笠縫邑に移されたとき、皇女渟名城入姫命(ヌナキイリヒメ)に勅して、市磯邑(イチシノムラ-大和郷)に移されたのが当神社の創建である」
崇神以前から宮中にアマテラス・ヤマトオオクニタマ両神を一緒に祀っていたとはいうものの、それが孝昭天皇の時に始まるとは記されていない(孝昭天皇時とするのは、大倭神社注進状・1162-江戸期の偽書ともいう)。
古代の神は、その子孫の祭祀はうけるが他氏からの祭祀は拒否したという。ヌナキイリヒメがヤマトオオクニタマを祀ることができなかったのは、大和国の地主神であるヤマトオオクニタマが、外来者である大王家の祭祀を嫌ったともいえる。
ヌナキイリヒメに代わる祭祀者として神の意に叶ったのが市磯長尾市(イチシノナガオチ)で、崇神紀7年条には、
・8月7日 倭迹速神浅茅原目妙姫他二人に、「イチシノナガオチをヤマトオオクニタマ神を祀る祭主とすれは、天下は平らぐであろう」との夢告があった(大意)
・11月13日 ナガオチを祭主としてヤマトオオクニタマ神を祀ったところ、疫病が収まり、国内は鎮まった(大意)
とある。
なお垂仁紀25年条には、アマテラス大神の伊勢遷座ののち、ヤマトオオクニタマ神が祭祀に不満を述べたので、改めて長尾市宿禰に命じて、穴磯邑を神地とし、大市の長岡崎(岬)に祀らせた、とある(大意)。
『古事記』では大物主神の独壇場となっているのに対し、『日本書紀』ではその前フリとして、天照大神と倭大国魂神の二神の確執の物語があること。
市磯長尾市とは、神武東征のとき水先案内を勤め、即位後、大倭国造に任ぜられた椎根津彦(シイネツヒコ・神知津彦-カミシリツヒコ・宇豆彦-ウズヒコともいう)の子孫で、大倭直氏(大和連・大和宿禰)の祖とされ、新撰姓氏禄には、「大和国神別(地祇) 大和宿禰 神知津彦命より出ず(神武の水先案内を務めたとの記事の後に)天皇之を嘉し、大倭国造に任ず。是大倭直の始祖也」
「摂津国神別(地祇)大和連 神知津彦命十一世孫御物足尼之後也」が見える。
大倭直氏は奈良時代を通じて当社の祭祀を司ったが、平安時代には衰微し、中世になると史上から消えたという。
鎮座地
当社創建時の鎮座地は、垂仁紀にいう大市の長岡岬の比定地如何によるが、一般には現在地東方の何処にあったというが、その具体の位置については諸説がある。
主な説として
・穴師坐兵主神社の地(桜井市穴師)に比定し、垂仁期に現在地に移ったとする説
・現在地の東南約1.5kmの釜口山長岳寺(天理市柳本町)の地とする説
・大市を城上郡大市郷とし、長岡岬を①狭井神社(桜井市三輪)西の丘陵突出部、②桧原神社(桜井市三輪)西の丘陵突出部、③巻向山山崎とする説
・現在地の南東約1.1kmの大和若宮神社(御旅所坐神社・天理市中山町、現御旅所)とする説
・中山町の高槻山にあったが、奉弊使の便宜のために現在地に遷座したとする説
他などがあるが確証はなく、鎮座地移動の有無を含めて、いずれとも決めがたいという(日本の神々4所載・大和神社・2000)。
※祭神
・中央に倭大国魂神-ご神体:八尺瓊(玉)
・左に八千戈神--ご神体:広矛→現在:剣
・右に御年神(御歳神)--ご神体:八握厳稲→現在:鏡
が祀られているが(大倭神社注進状による祭神という)、元々のご神体は、永久6年(1118)に神殿とともに焼失、新たに造ったご神体も天正(室町末期)の兵火で焼損、焼け焦げた石をご神体としていたが、明治7年(1874)に朝廷より奉納されたのが、今のご神体という。
延喜式には一座とあることから、本来の祭神は、市磯長尾市を祖とする大倭直氏が祀ったヤマトオオクニタマ神であり、他の二座は後の合祀であろうが、その合祀由緒は不明。
そこから、ヤマトオオクニタマ神とは、大和国を造り治める国つ神・地主神を意味するが、大倭神社注進状には“大己貴神(オオナムチ)の荒魂で大地主神”と記している。オオナムチが倭国全体の大地主神である大国主神の別名とすれば(書紀一書2)、オオクニタマとオオナムチは異名同神ともいえる。
御歳神(御年神)は、穀物神・大年神(オオトシカミ、スサノヲの御子神)の御子神という(古事記のみ)。御子神は父神の一面を引き継ぐという意味では大年神と同神ともいえる。古く、“年”は“稲の実り”を意味し、大年神・御歳神いずれも穀物神。
祭神については、上記以外に次の諸説がある。
大国魂神・大歳神・須沼比神(スヌマヒ)とする説--神社覈録(1870)
先代旧事本紀(9世紀後半)・「大年神は、まずスヌマヒ神の娘・伊怒姫(イヌヒメ)を妻とし、五柱の神を生んだ。子の大国御魂神は大和(オオヤマト)の神である」によるという。
*大倭大明神(中央)・三輪大明神(左)・天照大神(右)とする説--元要記・神社社家
*一宮:大年神・二宮:大国魂神・三宮:稲倉魂神(ウカノミタマ)--元要記一説
*大国魂神(中央)・大己貴神(左)・大年神(右)--大和神社より神社奉行への提出文書(1759)
現祭神の八千戈神が大己貴神に替わっているが、この両神は異名同神ともいうことから、今の祭神と同じともいえる。
◎摂社(境内摂社)
*増御子神社(マスミコ)
祭神--猿田彦大神・天鈿女命
二の鳥居すぐの参道南側に鎮座する摂社。
社頭の案内には、
当社由緒誌には「サルタヒコ・アメノウズメ・市磯長尾市命を祀る(知恵の神)」とある。古伝によれば、古くはサルタヒコを祭神として成願寺村(本社の東方・現成願寺町)にあったという。
サルタヒコとアメノウズメは塞の神・道祖神として祀られる場合が多く(今も、中山大塚古墳へ至る農道脇に双体道祖神が残っている)
*高龗神社(タカオカミ)
祭神--高龗神
社頭の案内には、
「祭神は雨師大神(アマシ)、即ち水神で、崇神天皇のときヌナキイリヒメをして穂積長柄岬(現新泉星山)に創設せらる」とあり、祈雨を祈る水神社の総本社という(古伝によれば、祈雨の神である吉野の丹生川上神社は、当社の祭神を勧請した別宮という)。
タカオカミ神とは、イザナミ逝去の因となった火の神・カグツチを、怒ったイザナギが三段に斬ったとき、イカヅチの神・オオヤマツミ神とともに生まれた水神(書紀・第7の一書)。
龗(オカミ・雨カンムリの下に口3ッ個、その下に龍)とは、“水を司る龍”を意味する
*朝日神社
祭神-朝日豊明神(アサヒトヨノアカリ)
社頭の案内には、
「殖産を興し、交易を奨めさせ給う。・・・」とあり、由緒誌には、「朝日豊明神(天照坐皇大祖)を祀る」とある。
朝日豊明神は日神に関係がありそうだが、その出自・神格は不詳。また天照坐皇大祖も意味不明。
(境外摂社)
境外摂社として、次の2社がある。由緒誌には“摂社”とあるが、諸資料では“末社”という。
*渟名城入姫神社--祭神:ヌナキイリヒメ
大和神社の南約900m、岸田町(字サカイ)に鎮座する摂社。
江戸前期の古書・神社啓蒙(寛文7年・1667)に、「大和所摂宮姫大神一座」とあるのか当社といわれ、斎侍御前・斎女御前、通称サネゴゼンと呼ばれたというが、詳細不詳。
式内社調査報告(1982)には、「明治41年(1908)大和神社の境外末社に加わった」とある。
*御旅所坐神社--祭神:本社三神に同じ(明治末期からの祭神という)
大和神社の南東約1.1km、中山町字大塚に鎮座する摂社(現地の社名標には末社とある)。大和稚(若)宮神社ともいう。
道路脇に立つ“大和神社御旅所の由来”には、
「中山大塚古墳(130m)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫命の塚。約二千年前、煌々と輝き現れる神々は、大歳大神(五穀豊穣)・主神日本大国魂大神(大地主神・オオトノヌシ)・須治比売大神(スジヒメ・天照大神)」
とある。
ここでいうスジヒメとの神は記紀等の古史料には見えず、先代旧事本紀にいう“オオクニタマの祖父・須沼比神(スヌマヒ)”の誤記かともいう。とすれば、神社覈録にいう祭神三座(上記)と同じとなる。
またスヌマヒ神の娘で、オオクニタマの母神・伊怒媛(イドヒメ)が祭神で、“例祭(チャンチャン祭の神輿渡御)は母神の許への渡御を表す”とする伝承もあるという(式内社調査報告)。
資料によれば、「維新前は古墳の前方部にあり、現御旅所の神輿が安置される所に観音堂があったが、神仏分離で本尊が長谷寺小池坊に移され、当社が現在地に遷座した」とある。古く、大塚古墳の前方部の上にあったのかもしれない。
ヌナキイリヒメ神社/境内
渟名城入姫神社・境内 ヌナキイリヒメ神社/本殿
同・本殿 御旅所坐神社
御旅所坐神社
末社
境内左手に、境内末社2祠が並ぶ。
*事代主神社--福の神・恵比須と習合したコトシロヌシ(本来は託宣の神)を祀る。
元、当社の北方にあったが、明治17年星山の上に遷座、昭和5年現在地に遷座という。
*厳島神社--市杵島姫命(イチキシマヒメ)-航海の神・海の守護神
古称・弁才天、吉野天川(天川弁才天社)より勧請という(元要記)。
*祖霊社--氏子の霊を祀るために明治7年創建。
大和神社・末社/事代主神社・厳島神社
左・厳島社、右・事代主社
*境外末社・歯定神社(ハジョウ)
祭神--大己貴神・少彦名神
御旅所坐神社の左に鎮座する小社。
※中山大塚古墳
天理市中山町字大塚
前方後円墳--全長120m・後円部径64m・前方部幅56m(諸説あり)
南北方向に立地するが、北側(後円部)をやや東に振っている。
埋葬施設--竪穴式石室(内法長7.5m・幅1.4m・深1.8m)、盗掘により出土遺物微少。
前方部が撥形に開いていること、宮山型の特殊器台(片)が出土したことなどから、大和古墳群の中でも西殿塚古墳と並ぶ発生期の古墳と認められている。
渟名城入姫命の墓との伝承があるが、当地に居た古代氏族の墳墓であろう
日本古代遺跡事典・1995
丹生川上神社
奈良県吉野郡東吉野村にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
本殿:罔象女神
相殿に伊邪奈岐命・伊邪奈美命
東殿:大日孁貴命・八意思兼命・誉田別命
西殿:開化天皇・上筒男神・大国主命・事代主命・綿津見神・菅原道真公
六国史では、「丹生川(河)上神」と地名を以て記され、具体的な神名を表すものはないが、古来朝野の祈止雨祈願がしばしば行われ、雨を司る水神であったので、これを記紀神話に見える罔象女神(みずはのめのかみ)や龗神(おかみのかみ)に充てるようになった。
吉田兼倶撰といわれる『二十二社注式』には、天武天皇の白鳳乙亥年(4年)に垂迹し、大和神社の別宮になったと記されているので、吉野と浅からぬ関係にあった同天皇によって創祀されたものとされている[7]。古来大和神社(天理市鎮座)の別社とされ、祈止雨の霊験著しい雨師神として、朝廷から重んじられ、宝亀4年 (773年)には神戸4烟が充てられている(『続日本紀』)。律令制時代を通じて祈雨神祭祭神に預かり、祈止雨祈願のために貴布禰社とともに奉幣がなされた例は枚挙に遑がないが、その折には奉幣使に大和神社の神主が従う定めとされていた。『延喜式神名帳』では官幣大社(名神大社)に列格し、律令制の弛緩に際しても、二十二社の1社にもなるなど朝廷からの厚い崇敬は変わらなかったが、次第に奉幣も減少するなど衰微していき、応仁の乱以降は、ついにその所在すら不明となるに至った。なお、社伝では中世以降たびたび造改築されたことが伝えられており、当神社所蔵の慶安3年(1650年)の造営の上梁文には、当初の鎮座地に丹生神社を新造するとともに、本社を金剛峯寺の鎮守神に倣って「蟻通明神」と改称した旨が記されている。
垂仁紀二六年条、市磯長尾市を大国魂神の祭司とした由緒
大田田根子のそれと同一の観念によるものと思われるが、文脈ははっきり異なる。すなわち「倭大神」が「穂積臣の遠祖大水口宿禰に著って」こういったという。
「太初之時、期(ちぎ)りて曰く『天照大神は悉に天原を治さむ。皇御孫尊(大王)は葦原中国の八十魂神を治さむ。我は親(みずか)ら大地司を治さむ』とのたまふ。言すでに訖(おわ)りぬ。然るに先皇御間城天皇、神祇を祭祀りたまふと雖も、微細しくは未だ其の源根を探りたまはずして、粗に枝葉に留めたまへり。故、其の天皇命短し。ここを以って、今汝御孫尊、先皇の不及を悔いて慎み祭ひまつりたまはば、汝尊の寿命延長く、また天下太平がむ」
「葦原中国」は大国主が天孫に譲った国である。大和にあっては当然、大国主の幸魂・奇魂という大物主の主宰地をいうであろう。磯城の地である。その支配地があればそれをもいうかも知れない。一方「大地(おおつち)」はその範疇以外の国をいうのであるから、磯城と磯城の版図はこれを除くのである。「司」はむろん「八十魂神」と同義であろう。
実に意味深長である。誰かが大王氏と最初にある種の契約を行なったかのように読める。契約の内容も領有地についての相互の約束事であるらしい。そして崇神はその約束を破棄してその土地を奪い、そのために命を縮めるにいたった。垂仁はこれをもって改めて契約の施行を求められている。さもないと垂仁の命も永くはないと脅されている。」
大国魂命は、大地(大土)を治めている。が、オオクニヌシは葦原中国を治めていて、そこを天孫に国譲りした。
葦原中国は、上では磯城とその周辺としているが、三輪か葛城であったかもしれない。だから三輪氏というのではないのか?ちなみに三輪山にイワクラがあって登れるはあれがオオクニヌシの墓とされているが、、。
巻向は朝鮮渡来人の痕跡があるので、この辺りをどう解釈すればいいのか。
大地は、当然、大和神社のあたり、という事になる。
倭吾子籠(あごこ) – 古墳時代の伝説上の人物。仁徳朝から雄略朝の国造。皇位継承争いに絡んで履中天皇に殺されかけたが、妹の日之媛を釆女として献上したことによって助命された。以後、倭氏は大王家に釆女を献上することが恒例になった。
倭手彦(てひこ) – 古墳時代の将軍。欽明朝の国造。対新羅戦で活躍した。
大倭五百足 – 大倭竜麻呂の子とする系図がある(鈴木真年『百家系図稿』巻21)。
大和長岡 – 奈良時代の法律家。大倭五百足(いおたり)の子。『養老律令』選定に関与した。
椎根津彦(しいつねひこ)
①父:武位起命(異説あり) ②母:不明(異説あり)
異説:海部氏勘注系図
父:天村雲 母:丹波伊加里姫
②子供:志麻津見 妻:不明
異説(海部氏勘注系図)子供:笠水彦 妻:豊水富(井比鹿)
別名:珍彦・宇豆彦・倭宿禰(勘注系図)・槁根津彦・神知津彦
③出自:皇孫本紀:彦火々出見尊の御子武位起命は大和国造等の祖。椎根津彦は武位起の子または孫、とある。
新撰姓氏録:地祇
④古事記神武段:東征伝で備前国高嶋宮で神武に会い道案内する。
亀の甲に乗りて釣りしつつ打ち羽ふり来る人、速吸門に遇ひき。爾れ喚びよせて汝は誰ぞと問はしければ、僕は国神と答え申しきーーー名を賜いて槁根津彦と号す。
⑤日本書紀神武紀:珍彦は、豊予海峡とされる速水乃門で東征中の神武を迎える。ーーー因って問ひて宣す、汝は誰ぞやと、応えて申さく、臣は是国神なり、名を珍彦と白ふ。ーー水先案内人になる。神武から椎根津彦の名を賜る。倭直部の始祖。
また、倭(ヤマト)での兄磯城との戦いでも功を挙げた。
この功により神武天皇が即位後に初めて倭国造に任じられた。
⑥国造本紀:橿原朝の御世、椎根津彦を以て初めて大倭国造と為す。