魂の俳人 村越化石
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【魂の俳人 村越化石】
村越化石 (俳人) 〈1922-2014〉
「望郷に目覚む八十八夜かな」玉露の里にある村越化石句碑(藤枝市岡部町新舟)
村越化石(本名・村越英彦)は、大正11年(1922)12月17日、静岡県志太郡朝比奈村(現・藤枝市)新舟(にゅうぶね)に生まれました。16歳の時、ハンセン病罹患が発覚し、旧制志太中(現・藤枝東高校)を中退、離郷します。昭和16年、群馬県草津町の国立療養所栗生楽泉園(くりゅうらくせんえん)に妻と共に入園。死と隣り合わせの時期を過ごし、戦後、特効薬プロミンにより病が完治した後も、後遺症を抱えることになった化石の心のよりどころとなったのが俳句でした。
昭和18年、ホトトギス同人の本田一杉(ほんだいっさん)に指導を仰ぎ、俳誌『鴫野(しぎの)』に入会、「栗の花句会」(現・高原俳句会)の浅香甲陽(あさかこうよう)の影響を受けます。昭和24年、大野林火(おおのりんか)の『冬雁』に感銘を受け、林火に手紙を送り「濱」に入会。以降、林火の教えを自身の魂に刻み続け、光を失った眼、自由のきかない身体にもかかわらず、魂の俳句を詠み続けました。その句作からいつしか「魂の俳人」と呼ばれるようになりました。平成14年、60年ぶりに故郷岡部町新舟に帰郷。実家に近い「玉露の里」に建てられた村越化石句碑除幕式に立ち会いました。
化石の師・林火は、ハンセン病文学の三本柱として、「小説の北条民雄(ほうじょうたみお)、短歌の明石海人(あかしかいじん)、俳句の村越化石」をあげました。
「北条民雄や明石海人がハンセン氏病の悲惨さ、怖しさの中に命を終わったのに対し、化石にはその後の長い歳月があった。化石の特色はそこにある。いえば、民雄・海人の知らなかった無菌になってからの生きざまである」(大野林火「松虫草」より)
群馬県草津の大自然の中で己の生を見つめながら句作に努めた化石は、蛇笏(だこつ)賞、詩歌文学館賞、山本健吉賞、紫綬褒章など多くの栄誉を受けました。
特集「魂の俳人村越化石」広報ふじえだ2010年7月5日号 (PDFファイル: 2.1MB)
「松虫草今生や師と吹かれゆく」群馬県草津町の光泉寺にある村越化石句碑
https://blog.goo.ne.jp/maki45mami429/e/602aaf372d13e2361feb70af816b21ba
【"ハンセン病~魂の俳句”】 より
一つ見つからなかった良縁地蔵は、竹林に鎮座していた。
長谷寺にある三つの良縁地蔵はすべて見つけることが出来た。
さて、今日、ハンセン病訴訟の勝訴が確定した。
これは、元ハンセン病患者の家族への賠償である。
患者自身は既に、ハンセン病補償法が成立している。
家族にとっても長い戦いだっただろう…
ハンセン病と俳句はかかわりが深い。俳句を作ることにより、生かされた来たという、一人の俳人を紹介したい。
村越化石さん
昭和13年(16歳)の時に ハンセン病の宣告を受ける。
治療のため郷里を 離れ上京。東京で治療に専念するが、その療養施設の国立療養所 栗生楽泉園で俳句と出会う。
≪生い立ちは誰も健やか龍の玉≫ 平成 12 年作
生い立ちは誰もみな健やかであったのだ。生きることのいとしさ、ありがたさ、
命の尊さを改めて思い起こしての句。
≪除夜の湯に肌触れあへり生くるべし≫ 昭和 25 年作
新年への希望。ハンセン病の特効薬プロミンの開発により、療友と共に奇跡的な
薬効に浴して一年。生命感を初めて見いだし、決意を詠んだ句。
≪生きねばや鳥とて雪を払ひ立つ≫ 昭和 46 年作
この年、両目を失明する。日常はぼつかなかった。
≪寒餅や最後の癩の詩つよかれ≫ 昭和 31 年作
最後のハンセン病患者になるのを願い、その覚悟で作った句。
村越化石さんの俳句の師匠は俳人「大野林火」である。
心の 俳句を作りなさい」という、その師の教えを胸に刻んで
、あるがままを受け入れる境地に至る。
ここに至るまでには、どんなにか、嘆きや苦しだことだろう。
世の中を恨んだことだろう。
しかし、その苦しみを超越した生命の尊厳、力強さを詠み、
いつしか「魂の俳人」と呼ばれるようになった。
生涯に、91歳で亡くなるまで10冊の句集を編んでいる。
umeさんは全部の句集を読んではいないが、角川俳句賞や
俳人協会賞などを受賞し、なんと蛇笏賞も受賞している。
その魂の俳句を、読んでみたいと思う。