宇都宮城
https://kojodan.jp/castle/285/#section-visitor-comments 【宇都宮城】 より
紹介文
宇都宮城は関東七名城のひとつに数えられる城です。江戸時代は宇都宮藩の藩庁でした。また、徳川将軍の日光東照宮参拝の際には将軍の宿泊施設として利用されてきました。明治初頭の戊辰戦争の際に焼失し、第2次世界大戦後に都市開発が行われたため、遺構はほとんど残っていませんが、本丸の一部の土塁が現存しています。また本丸の土塁と堀が外観復元、建物(清明台、富士見櫓、土塀)が木造で復元され、宇都宮城址公園として一般に公開されています。今後も本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門を復元する計画があります。
宇都宮城を攻城した団員が残してくださったクチコミ(レビュー)です。じっさいに訪問した方の生の声なのでぜひ参考に。
現状では本丸のごく一部が復元されたに過ぎませんが、西から見ると重厚な土塁に2つの櫓が並び、風格を感じます。土塁はエレベーター付きの最新式!なお、埼玉県川口市の錫杖寺<35.799061, 139.726032>に移築門が現存しており、戊辰戦争の際のものと思われる傷も残っています。遠く離れた宇都宮城か……(2020/02/11訪問)
バリアフリーなので、とても見学しやすい公園になっています。復元されているのは本丸の一部で、当時の規模の大きさが伺えます。(2020/01/25訪問)
駐車場無料はありがたい。(2020/01/18訪問)
宇都宮駅から20分くらい歩いて訪問。川を超えたあたりから坂があり、城址公園は一段高い場所にあります。在りし日を想像しながら城のまわりを歩くのも楽しいかも。(2019/01/16訪問)
土塁の下に資料館があり、ボランティアガイドさんが親切に教えてくれました。土塁の下がコンクリートとはびっくりしましたが、災害時に物資を貯蔵するところだそうで、市民の役に立っているところが素晴らしいと思いました。(2019/11/16訪問)
この土塁はフェイク?とは思われるが、地元の方の愛着は感じられました。(2019/11/09訪問)
資料館で丁寧に説明していただきました。(2019/11/04訪問)
今回は、宇都宮の街中にあるエレベーター付きのトコではなく、北に5kmほどの民家にある、宇都宮城の今小路口門と伝わる薬医門を見てきました。真偽の程は不明ですが、本物であってもおかしくはない立派な年期モノの門でした。(2019/05/05訪問)
櫓の中に入れます。 清明館も合わせて見学(無料)し、宇都宮城の勉強をしました。(2019/09/09訪問)
宇都宮城址公園清明館、宇都宮城ものしり館、再建の宇都宮城(堀、富士見櫓、土塀、清明台)を攻城。草刈りの真っ最中でした(2019/09/07訪問)
宇都宮城の見所や歴史などを紹介します。
見所
宇都宮城ものしり館は復元された本丸土塁の内部にある展示室です。
内部には、宇都宮城の復元模型など宇都宮城の歴史にまつわる資料が展示されています。
本丸の復元模型です。左側の赤線で囲われた部分が現在の城址公園の敷地です。
「宇都宮城本丸将軍家御泊城ノ節建物ノ図(うつのみやじょうほんまるしょうぐんけごはくじょうのせつたてもののず)」をもとに制作されています。
城下町も含む広域の復元模型です。
城下町宇都宮
宇都宮に城がつくられたのは、平安時代の終わりごろといわれています。しかし、周囲に水をたたえた堀や石垣・土塁を廻らした本格的な城になったのは、江戸時代に入ってからです。特に、計画的に城と周囲の町を整備したのは、1619年(元和5)城主になった本多正純(ほんだまさずみ)であり、南北900m、東西850mに及ぶ巨大な城郭になりました。
これが、市街地のもとになっています。
釣天井伝説は城主・本多正純が将軍暗殺を図り、それにより改易された事件です。
これは江戸時代初期、当時の宇都宮城主で江戸幕府年寄の本多正純が、3代将軍・徳川家光を暗殺するために、宇都宮城に釣天井(吊り天井)を仕掛けたことにより、本多家は改易、正純が流罪となったというものです。
じっさいには宇都宮城に釣天井の仕掛けは存在せず、改易は別の原因によるもので、この伝説は創作されたものだと考えられています。
宇都宮城ものしり館にパネルが展示されています。
宇都宮城釣天井事件
この釣天井伝説のもとになったと考えられるのが、宇都宮城釣天井事件(本多正純改易事件)です。
これは幕府内で絶対的な権力者となった本多正純が、その存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略により、2代将軍・徳川秀忠暗殺の嫌疑をかけられ改易、正純が流罪となった事件です。
なおこの事件の背景、黒幕には複数の説があります。
秀忠の姉で奥平忠昌の祖母・加納御前の恨みによるという説、秀忠自身が父である家康の代から幕閣の中で影響力を大きく持ち、自らの意に沿わない正純を疎ましく思っていたという説など、いずれも正純にとってはぬれぎぬを着せられる形となっています。
本多正信・正純父子自身も政敵である大久保忠隣を謀略によって失脚させているため、因果応報ではあるんですよね。
再建建造物
清明台櫓は江戸時代には天守として使われた2層2階の櫓です。
清明台櫓は江戸時代、宇都宮城改修に際して築かれた2重2階の櫓です。正純は幕府の意向に順じて天守は設けずこの櫓を天守の代わりとして使用しました。
現在の清明台櫓は2007年(平成19年)3月25日に復元されたものです。
宇都宮城本丸の土塁北西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺きで描かれており、広さ三間(5.9メートル)×三間半(6.9メートル)と記録されています。清明台のあった部分の土塁は、ほかの部分よりも高く、天守閣の役割を果たしていたのではないかといわれています。
内部を見学することもできます。
富士見櫓は2重2階の櫓で、2007年3月25日に復元されました。 つづきを読む
石碑・案内板
宇都宮城址公園に設置されている案内板の内容を紹介します。 宇都宮城址公園
ここは、近世宇都宮城の本丸があったところです。
宇都宮城址公園は、歴史資料や発掘調査結果に基づいた本丸の一部復元、中心市街地の活性化の拠点づくり、防災の拠点づくりを3つの柱として整備したもので、復元した土塁(どるい)や堀、櫓、土塀(どべい)は、江戸時代中期の姿を現代によみがえらせたものです。
宇都宮城のはじまりは、平安時代の後期に築かれた館(やかた)だといわれています。中世には宇都宮氏が500年にわたって城主をつとめ、戦乱の世を乗り切っていきます。江戸時代には譜代大名(ふだいだいみょう)の居城として威容(いよう)を誇りました。また、釣天井伝説の舞台、関東七名城の一つとしても有名です。
この城址公園は、宇都宮の新しいシンボルであり、次代を担う子どもたちに宇都宮の歴史を伝えるとともに、市民や多くの来訪者の憩いの場です。